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12 微風

 先日は「ヴィクリーヌ様」と呼びかけてきたセリーヌだが、夫のテオドールがいない今は優しげな女を演じることはやめたようだ。しかし、表面では穏やかな表情を崩さない王太子妃の手元を見れば、彼女の動揺が現れていた。膝の上で重ねた白い手が固く握り込まれている。ロクサーヌは薄笑いを浮かべたままセリーヌを見た。


「セリーヌ殿下。わたしは当時のことなど、もうどうでも良いのです。ですから尊い御身をこのような所にお運びいただかずとも、わたしは身の程を弁えてバーメイドとして生きますわ」


 ただし、周囲の人間が何もしないとは限らないが。内心でそう付け加えると、まるで聞こえていたかのようにセリーヌがぴくりと眉を動かした。こちらの言葉を微塵も信用していない。ロクサーヌはこの王太子妃が多少なりとも心を乱している様を見られて、このところの退屈を忘れて満足した。


(守らなければならないものが多い立場だから、わたくしを警戒して慎重になっていたのかしら)


 セリーヌは、テオドールの前では常に美しくたおやかだった。〝ヴィクトリーヌ〟を押しのけてテオドールの隣に立つ時だって、いつも申し訳なさそうな、本意ではないような顔をしながらこちらを追い詰めた。では、清らかな淑女に加えて賢妃の顔を持つ今はどうなのだろう。


「――やめてちょうだい。わたくしは王太子妃よ。馴れ馴れしく呼ぶことを許した覚えはないわ」


「あら、失礼をいたしました。王太子妃殿下への親愛の情から、つい無作法をしてしまいましたわ」


 当て擦るようなロクサーヌの謝罪を、セリーヌは苛立った声で突き放した。今ここにテオドールが現れたら愉快なのだが、二人は足並みが揃っていないようだったので、今後も一緒には来ない気がする。そもそもテオドールは妻をこの劇場に関わらせたくないし、セリーヌもここでの話は夫に聞かれたくないのだろう。

 そしてセリーヌの再訪が遅かったのは、テオドールの妨害だけでなく〝ヴィクトリーヌ〟の噂の源を調べている最中だとすれば、うかつに動けなかったはずだ。ロクサーヌの周辺に現れる人間は商人から貴族まで様々だから、調べるには時が必要だろう。


「本日お前を訪ねたのは、お前に用があるからではありません。……先日と同じです」


 セリーヌは再び丁寧な口調に戻って目を伏せた。深酒の後に青臭いハッカ茶を飲んだ人間がするような表情が、王太子妃の白い面に浮かんでいる。何事かと思えば、「アルベール王子よ」と目の据わった顔で告げられてロクサーヌは脱力した。彼女はロクサーヌではなく、アルベールに煩わされていたのか。


「アルベール殿下、ですか。あのお方については、わたしなどよりもあなたの方がよくご存知なのではありませんか?」


 ロクサーヌが知るのはかわいい幼児だった彼と、女性の柔らかな胸が大好きな今の彼だけだ。その間にいたはずのアルベールについては、王家の一員たるセリーヌの領分なのではないか。そう問うたロクサーヌに、セリーヌは諦めたように「それほど親しい間柄ではないわ」と言う。

 さて、近頃のアルベールは問題のある行動をとっていただろうか。思い返してみても、彼は数日おきにロクサーヌを訪ねて来て、その後に必ずマリアンヌが押しかけて来ることくらいしか分からない。つまり、いつもどおりの「甘やかされた王子サマ」だ。特に変わった言動もなかったように思う。

 セリーヌが何を知りたがっているのか見当もつかないので、とりあえず彼を使って遊んでみることにした。


「……アルベール殿下は、母親を求めているのだと感じることがありました。もともと寂しがりなお子様でしたが、それは今も変わらないのでは? わたしはもう何度もお慰めしましたわ」


 最後に余計な一言を加えてみたが、セリーヌはそれも咎めず何やら考え込んでいる。それではつまらないロクサーヌは、もっと引っ掻き回してみる。「そういえば」と思わせぶりに声を上げると、セリーヌがはっとしたようにロクサーヌを見た。


「アルベール殿下は言葉になさいませんが、あなた方ご夫妻に甘えたいのではないかとも感じました」


「何を言うのです、彼はもう幼子ではないのよ。いつも後を追われていたお前と一緒にしないで……」


 言いながらも、セリーヌは何か思い当たる節でもあるのか、その声には怒りがない。ロクサーヌはそんな王太子妃をほほ笑みながら見守った。少しずつまいた種が、ようやく芽を出したのだろうか。アルベールが通って来る度に、ロクサーヌは耳許でささやいていたのだ。


『あなた方は王家である前に、ひとつの家族であるべきではないでしょうか。王太子殿下も王太子妃殿下も、弟君のアルベール様のことを随分と案じておられましたよ』


 少しずつ言葉を変え、兄夫婦は愛情深く弟のことを見守っているのだと説き続けた。実際の二人は自由な弟の行状に頭を痛めているのだが、ロクサーヌによってアルベールは良いように受け取り、元々あったテオドール達への憧憬を親愛の情へと変化させつつあるのかも知れない。そろそろセリーヌに接近するよう彼をそそのかしてみようかと思っていたのだが、アルベールはロクサーヌが言うまでもなく、義姉に付きまとっているとしたら……。


「……お前、何か知っているの?」


 警戒半分、期待半分といった声で尋ねられて、ロクサーヌは「さあ」ととぼけた。


「お前と接触してからなのよ、彼の行動が変わったのは」


「わたしなどには、高貴な方のお心を推し量ることしかできません。男性がバーメイドに語る言葉に、真実があるとは限らないでしょう?」


 セリーヌはロクサーヌの答えに苛立ちながら、アルベールがどう変わったのかは明かさない。王太子妃としてのその彼女は、アルベールを案ずるというよりも要らぬことを外に漏らしていないかを気にしているのだろう。


(でも、わたくしに会いに来たのは悪手だわ)


 過去の〝ヴィクトリーヌ〟のように、ロクサーヌのことも簡単に片付けられると思っているのなら好都合だ。そこで、悩めるセリーヌに一つ教えてやることにした。結果、セリーヌはアルベールが元の婚約者を愛人に望んでいることを把握済みで、それを外部に知られるのを何とか水際で防いでいたことが分かった。そこにロクサーヌがアルベールからの例の頼みを明かしたものだから、セリーヌは湖面のような瞳を怒りに燃やしている。


「……ヴィクトリーヌ、お前があの子をそそのかしたのならば許さない」


 セリーヌの許さない、というのが言葉だけでないことは既に学んだ。彼女は過去に〝ヴィクトリーヌ〟からテオドールを奪うと宣言し、見事成し遂げたのだから。

 ロクサーヌは胸の内の炎がぬらりと揺れるのを感じながら、にいっと唇を引き上げた。淑女であれば絶対にしない、獰猛な笑みだ。


「わたくしも、再びいわれのない罪を着せられることを許すつもりはないわ。もしもそのようなことになったなら、手に届く限りのものを道連れにしてやろうかしら。あなたにとっては、虫に刺されるよりもささやかな抵抗にしかならないのだろうけど」


 それでも無傷では済まさない。必ず、見る度に不快になるような醜い痕を残してやろう。


「わたくしには守りたいものはないけれど、壊したいものならばあるの」


「ようやく馬脚を現したわね……。やはりお前は信用ならないわ。テオもアルベール様も、過去の哀れで愚かなお前の姿ばかりを追って、この薄汚れた女の本性を見誤っている」


 セリーヌの言葉を鼻で笑うと、ロクサーヌは脚を組んで椅子に背中を預けた。礼儀も何も知らない、ただの娼婦ロクサーヌとして向き合う。


「ひどいですわ。こちらはただお客様を受け入れているだけですのに、公娼であるわたしが悪事を働いているように言うなんて」


 ロクサーヌは、国が認めた公娼だ。それを知りながらセリーヌはロクサーヌを「薄汚れた女」と言う。妻となり母となった彼女のような女からすれば、娼婦とは自分の夫を誘惑して汚す毒のようなものなのかも知れない。この劇場にいると、似たような女をよく目撃する。男が自ら娼婦のもとに出向いているという現実を見ずに相手の女を責める女の何と多いことかと、笑い出したくなったものだ。


「お忘れのようですが、殿下は自ら望んでわたしを訪ねて来るのですよ。それを王太子妃殿下が止められぬのならば、娼婦ごときには無理というもの」


「……そんなことは分かっている。ヴィクトリーヌ、あの子――アルベール王子と共に監視されていることを知らぬお前ではないでしょう。お前一人など、王家の意向次第では簡単に消されることを、もう忘れたのかしら」


 セリーヌは簡単にロクサーヌの言葉をあしらい、脅しをかけてきた。その事実こそを忘れないでいてほしいものだ。ロクサーヌが言った〝殿下〟とは、アルベールだけとは限らないのだと、この女は分かっているのだろうか。このままアルベールがセリーヌに構い続ければ、弟と妻の間で悩まされるテオドールがどこに、誰に助けを求めるのかを――。

 ロクサーヌは記憶よりも精悍になっていた王太子の顔を思い浮かべて、唇を歪める。


「ええ、肝に銘じますわ。――ところで王太子妃殿下、マリアンヌ嬢にもテオドール殿下についてお尋ねになったのですか?」


 〝ヴィクトリーヌ〟が娼婦だと言いふらした娘をふと思い出したロクサーヌの問いに、セリーヌは二日酔いになったような顔で目を逸らした。アルベールとマリアンヌは、良い働きをしているようだ。

4月になったら私の好きなBSチャンネルが消滅していて、愕然としました。Dlife終了したら、どこで料理番組見ればいいの……! アナウンス見逃してた!

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