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11 風聞

サブタイトルの頭に通し番号を入れました。

 ロクサーヌが思わぬ再会を果たしてから、早くも一月が過ぎた。

 しかし、意外にもアルベールやマリアンヌが交互に訪ねてくるのを除いて、特に動きはない。てっきり王太后やセリーヌあたりが躍起になってロクサーヌの存在を揉み消そうとすると思っていたら、肩透かしを食らった形だ。

 だが、親切な人々のおかげでロクサーヌの――いや、過去の遺物だった〝ヴィクトリーヌ〟の名が再びささやかれるようになった。それも、当人がこの劇場から一歩も出ることなく、だ。


(セリーヌ達は、このような気持ちになったのかしら……?)


 今のロクサーヌは、夜の河の対岸に見える家々の明かりを眺めているような――いや、その家々の明かりがもれる窓辺から、家族の団らんの様子を垣間見てしまったような……要するに、何だかもの寂しい気分だった。自分一人が闇の中に取り残されているのは一向に構わないのだが、やはり、熱が足りない。


「……ちょっと、何をいじけてるんだよ」


 呆れた声と共に肩をぐいと引かれ、ロクサーヌは寝椅子の上でごろりと転がって振り向いた。


「あらリリアーヌ、ご機嫌よう」


「こっちはちっとも〝ゴキゲン〟じゃないよ! さっきから何なのさ、酒臭いうえに辛気臭い!」


 さっきからということは、彼女はロクサーヌの居間にいつの間にか入ってきていたらしい。まあリリアーヌであれば構わないが。ロクサーヌはリリアーヌが差し出したゴブレットを受け取り、中身を一息に飲み干した。


「あら、お酒ではないの?」


 中身は水だった。不満顔のロクサーヌに、リリアーヌは目を三角にして空の酒瓶を突き出す。貼られたラベルを見るに、昨夜封を切ったもののような……。


「あんた、ほんっとうに性質が悪いね! 昨日のことをなんにも覚えてないの!? やれ暇だの物足りないだの、好き勝手にグチグチ言って飲みまくってさ……」


「まあ。わたしがそんなことを? これはいけないわねぇ……」


 思わず額に手を当てたのは、悩んでいるからではない。酒のせいで頭が重いのだ。それを見越していたらしいリリアーヌは、今度はロクサーヌに温かい何かを差し出した。湯気に混じるその香りに、うっと小さくうめいてしまったのは仕方がないと思う。


「飲みなよ。あんたのぼやけた頭もしっかり覚める、ハッカ茶だよ」


 鼻に抜けるスッとした香りは確かに爽やかだが、これはいただけない。ロクサーヌは頭に響かないようにゆっくりと首を振った。しかしリリアーヌは一切甘い顔をせず、飲まなければ頭から水を浴びせると宣言したので、ロクサーヌはごく淡く色づいたお茶にそろそろと口をつける……。


「…………もういいわ」


 一口で逃げようとしたロクサーヌだが、重そうな桶を構えたリリアーヌと目が合い、慌ててカップを持ち直す。何とか飲み切ったのだが、生の葉を使ったのだろうか。新鮮なハッカの清涼感と甘い香りが同居するこのお茶は、深酒をした翌日の身にはなかなか堪えた。普段の体調であれば喜んで飲むのだが、青臭くて甘ったるい香りが響いて思わず手で口を押さえる。

 リリアーヌはこの一連の報復で気が済んだのか、それ以上は追い討ちをかけずにロクサーヌの部屋を片付け始めた。


「リリアーヌ、あなたがそんなことをする必要はないのよ? あなたは内向きのメイドではないのだから」


 黙々と酒瓶とグラスを桶に突っ込むリリアーヌの背中に声をかけるが、彼女は鼻を鳴らしてロクサーヌの言葉を無視した。桶の中は空だったのかなどと、いらぬことを指摘するのはやめておこう。ロクサーヌはおとなしく寝椅子の上で丸まっていることにした――途端に、「ちょっと、あんたはさっさと身繕いをしなよ!」と叱責が飛んできた。リリアーヌの背中には、目がついている。


「……また馬鹿なことを考えてるだろ? あんたのやりそうなことなんて、もう大体分かるんだよ。酔っ払いのおやじとそんなに変わらないんだから」


 しどけないというよりはだらしない寝巻き姿のロクサーヌを、振り向いたリリアーヌがにらみつけた。


「ご主人様の命令じゃなきゃ、あたしだってこんな酒臭い部屋に来るもんか。いいからさっさとそれで顔を拭きな」


 濡らした手巾を指し示され、ロクサーヌは素直にそれを手に取る。何か急な用件でもできたのだろう。思いながら手巾を顔に近づけると、ロクサーヌはえづいた。


「リリアーヌ、これは……」


「それで顔を拭けば目が覚めるよ。ほら、早くしてよ。あんたの髪を整えて化粧もするんだから」


 ロクサーヌはハッカ茶の染み込んだ手巾で何とか顔を拭うと、へなへなと寝椅子に倒れ込んだ。しかしすぐに叩き起こされ、半刻後には昼間にふさわしいドレスと薄化粧で仕上げられていた。明らかに来客のための支度だが、リリアーヌは何も言わない。

 しばらくするとリリアーヌは心得顔でさっさと部屋から出て行ってしまい、ロクサーヌは入れ違いに訪れた使いによって()()()貴賓室に通された。前回よりも慎重に人目に触れず娼婦を招くこの部屋に通されたのなら、その意図は明らかだ。再び王族の誰かが忍んで来るのかと期待に胸をふくらませていると、心なしかげっそりした顔の支配人がそっと部屋に入ってきた。


「ロクサーヌ、王太子妃殿下が面会を希望している。しかし、あくまでもお忍びということだから、お前はここで待て」


 無表情ながら、その口元や眉を見れば苦々しく思っているだろう彼の内心が透けて見えるようだ。しかし、ロクサーヌはオリオールの命に満面の笑みを浮かべる。


「かしこまりました。ご主人様、もしかしてそれは急遽決まったことなのですか? あなたは、私を驚かせようなどと考えるお方ではありませんし」


「……一体何がそんなに楽しいのだ。私はあのお方を前にしたあなたが何をしでかすのか、心配でならないというのに」


 今度ははっきりと渋面を作るオリオールに、ロクサーヌは形ばかりの謝罪をした。彼に迷惑をかけているのは王族達であって、ロクサーヌ自身の行いによるものではない。そしてそれをオリオールも分かっているから、この程度の苦言でとどめているのだろう。そんなことを思って油断していたら、オリオールが「酔いは覚めているようですね」とちくりと刺してきた。


「オリオール様、あの方に危害を加えるようなことはしませんから、安心してください。わたくしはただ、この退屈が紛れればそれで良いの」


 〝ヴィクトリーヌ〟としてのこの言葉を、オリオールはハッカ茶を口にした二日酔いの娼婦よりも苦しそうな顔で受け取った。「あなたが人生を取り戻すためにこそ手を尽くしたかった」という彼の呟きはロクサーヌの耳に届いていたが、それに応ずることなく目を伏せる。オリオールの気持ちはありがたいが、良識や守るもののある彼とそれを捨てている自分では、決して思いが交わることはないだろう。

 その後、散々待たされたロクサーヌがセリーヌとの対面を果たしたのは、正午を過ぎてからだった。


「――あなたは、本当に変わりましたわね」


 高貴で清らかな美貌を誇る王太子妃から、うめくような声が飛び出した。ロクサーヌは行儀悪く寝そべっていた体を起こすと、今さらのように淑女の礼をとって挨拶をする。しかしセリーヌは頭痛を堪えるような顔のままだ。


「わたしは今も昔も娼婦ですから、特に何も変わっておりません。セリーヌ殿下こそお変わりになられましたわ。以前はとても素早く事にあたられていたように記憶しておりましたが、この度は随分とのんびりなさっておられるので、わたしは首を長くして待っておりましたのよ」


 いたずらっぽく笑ってみせるが、セリーヌの表情は晴れない。それどころか、その白い額に青筋が浮かんだ。


「ヴィクトリーヌ。わたくしが――いえ、過去に起きたことについて、今さらとやかく言うことはお前のためになりませんよ。リベ家の罪は既に裁かれ、それが覆ることは決してありません」


 ロクサーヌの挑発に乗らなかったつもりのようだが、セリーヌは最初に「わたくしが」と言った。やはり、リベ家や〝ヴィクトリーヌ〟の断罪にこの女が関わっていたようだ。ならば、王太后ファビエンヌはどうだろう。両親の死後に兄がたった一度だけ呟いた「王宮の奥」とは、彼女を示しているはずだ。


「ええ、もちろん承知しておりますわ、殿下」


 当時の動きを王宮の外にいる〝ヴィクトリーヌ〟ではとても把握しきれなかったが、今だからできることがある。あの時リベ家を追い詰めた者達を遠い記憶から引っ張り出し、現在の状況をロクサーヌの客達にそれとなく尋ねたところ、要職に就いていたりリベ家の所領だった地を治めていたりと、分かりやすいことになっていた。それらが王太后派なのだろう。

 客はロクサーヌの正体を知って同情を示したり、面白がっていたりと様々だったが、その多くがリベ家の仇をロクサーヌに教えることをためらわなかった。娼婦に身を落とした女ごときには、セリーヌが言ったように今さら何もできはしないと思っているからだろう。王妃派が弱体化しリベ家の者はとうに離散した今、誰憚ることなく栄華を謳歌している者達にとって、ロクサーヌなど目の前をちらつく鬱陶しい羽虫程度の存在なのだ。


 しかし、そんな羽虫のために、こんなところに再び足を運んだ女が目の前にいる。ロクサーヌは自分の顔に笑みが浮かぶのを止められなかった。

昨日は驚きました。子供の頃から知っているおじさんをなくしたような気持ちです。

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