10 陽炎
「――それで、マリアンヌは怒って口を聞いてくれなくて。でも、いつだって結局は数日で終わるのだから可愛いものなんだ」
恋人以外の女の胸に顔を埋めてそんなことを言うアルベールに、ロクサーヌは胸中では呆れながらほほ笑む。マリアンヌが来たと思ったら、昨日の今日でアルベールが押しかけてきたのには笑ってしまった。マリアンヌは彼の行いにご立腹で、その鬱憤を晴らしにロクサーヌを訪ね、アルベールの方は癒しを求めに来たというところか。そんなことをぼんやりと考えながらアルベールの髪をなでていると、先ほどから気のない返事をしていることに気づかれてしまったようで、美しい眉目をくもらせた〝王子サマ〟が顔を上げた。
「ロクサーヌ、気を悪くした?」
思わぬ言葉をかけられて、否定するのが少し遅れてしまった。アルベールはその一拍の間を図星と解釈したようだ。
「あなたといるのに、マリアンヌのことを話してしまったのは悪かったよ。優しく話を聞いてくれるところがシモーヌのようで、つい甘えてしまったんだ」
「いいえ、どうぞお気になさらず。ここではあなたのお好きなようにお過ごしください」
結局二人の女の名前を出していることに気付いているのかいないのか、アルベールは悪びれずにありがとうと言って口付けてきた。幼い頃は妖精のようだと言われた子供が、どうしてこうなったのだろう。彼が子供から大人になる過程を知らないロクサーヌには、大いなる神秘としか思えない。
「ですが、よろしいのですか? わたしの正体が世間で噂になっているそうなので、アルベール様にまで累が及ぶのではないかと心配になります」
心にもないことを――むしろ、飛び火して騒ぎが大きくなってもよいとロクサーヌは思っている――口にして、アルベールをまたなでた。さらさらと指の間を抜ける褐色の髪は、記憶にある幼い彼のものよりもしっかりとした腰がある。最後に会ったのは彼が六歳になる前だったので、小さな子供特有の柔らかな髪の印象ばかりが残っていたが、こんなことにも時の移ろいを感じてしまう。今や十七のアルベールに、まさか娼婦となった身で関わりあうことになるとは思わなかった。
彼がマリアンヌと出会わなければ、そしてそのマリアンヌに不思議な能力がなければ、ロクサーヌは彼らの視界の端にすら映ることなくその生を終えただろう。その恩とまでは言わないが、二人には一応感謝しているので、ロクサーヌはこの不実な〝王子サマ〟をつい甘やかしてしまうのだ。そして、アルベールにはまだまだ彼の周辺をひっかき回してもらいたいという下心もあったりする。花々の間をふらふらと行き来する蝶のような彼の在り様は、王家もさぞ頭を痛めていることだろう。
そしてアルベールは、ロクサーヌの内心など知る由もなく目を細めて寛いでいる。
「ああ、私の耳にも入っているよ。誰が気づいたのか――いや、私とマリアンヌがあなたを訪ねたせいかも知れないから、詫びようもないね……」
しおらしく反省の色を見せる〝王子サマ〟だが、その手は相変わらずロクサーヌの太腿をまさぐっている。
「アルベール様、やはりシモーヌ様の件はお考えを改められてはいかがでしょう。わたしの近くに真っ当なご令嬢を置くのは、かの方の名誉を傷つけますわ」
子守唄のように優しくささやくと、アルベールは拒否するように顔を背けた。その反応に満足したロクサーヌが「どんなに隠しても、わたしのようにいつか暴かれるのが世の常ですし」と続けると、アルベールはとうとう体を離してロクサーヌを見つめた。
「ヴィクトリーヌ、あなたは私の頼みをきいてくれるだろう?」
その言葉とは裏腹に、アルベールの深い緑の目に不安の色はない。それどころか、ロクサーヌが拒絶などするはずがないとでもいうように、真っ直ぐに見つめてくる。思えば彼は、最初からロクサーヌに好意的だった。まるで――。
『ヴィクトリーヌ、はやくぼくのあねうえになって』
まるで母親に向けるような、こちらを頼りきった視線。幼いその声を思い出した途端に、目の前の〝王子サマ〟と、〝ヴィクトリーヌ〟の知る幼児が初めて重なった。
(そうだったわ。小さなかわいいアルベール様は、出会った時からわたくしに懐いてくれたのだった)
上の兄達と歳の離れた寂しい子供は、〝ヴィクトリーヌ〟の丸い体に自分の乳母を重ねていたのかも知れない。当時はそんなほほ笑ましい光景すら、陰口の材料になったものだ。肥え太った体は幼子を手懐けるのには役に立つのだと、いつの頃からか嘲笑の的になった。
考えてみれば、以前の姿しか知らないアルベールが今のロクサーヌを見て〝ヴィクトリーヌ〟と気づかなかったのは当然だ。かつての〝ヴィクトリーヌ〟は、娘に甘い両親の庇護下で贅沢な暮らしを――甘い菓子から乳やバターを使ったこってりとした料理まで惜しみなく与えられた――続けていたため、今よりもかなり肉付きが良かった。それに引け目を感じることなく生きてこられたのは、ひとえに〝ヴィクトリーヌ〟が名門リベ家の娘だったからだ。十三歳でテオドールの婚約者となり、その翌年に社交界入りを果たした時に、初めて周囲からの容赦のない視線に晒されたのだ。
リベ家の娘として最高の教育を施され、それに矜恃を持って生きてきた〝ヴィクトリーヌ〟は、己の容姿について殊更に貶められることに戸惑った。侮られることに慣れておらず、幾重にも守られて育った深窓の令嬢。そんな〝ヴィクトリーヌ〟が自信を失うのに時間はかからず、せめて立ち居振る舞いには文句は言わせまいと細心の注意を払って夜会や茶会に臨んだ。そして己を律して節制したつもりだったが、今思えば無意味なことをしていた。贅沢な食事を満足するまで食べていた当時の認識における「節制」は、甘いパイをやめてパンを食べる程度でしかなかったのだ。それでは当然痩せられず、没落後に質素な食事を目の当たりにして、やっとで自分の間違いに気づいたのだった。その後は、痩せるというよりやつれてしまった。
「アルベール様、もちろんわたしはあなたのお力になりますわ」
ゆったりと頷きかけながら答えると、アルベールはほっとした顔で笑う。そんな彼の態度は、二人の間に――過去と現在に隔たりなどないのだと言っているようだ。空白の十一年を物ともせず飛び越えてくるアルベールは、やはり軽やかな蝶のようだとロクサーヌは思う。
「ただ、シモーヌ様の実家のご意向はいかがなのですか? それに、当劇場の支配人への伺いも立てておられないのでしょう。差し出たことを申しますが……」
言い淀むロクサーヌの髪に、アルベールが手を伸ばした。
「あなたの手を煩わせはしないよ。私が話をつけるし、いざとなれば私にはお祖母様がいるから。シモーヌを迎えた時には、どうか親しくしてやってほしいんだ」
この信じられない申し出にも抵抗なく諾と答える自分は、あの頃から大きく変わってしまった。それに痛みを感じることはなく、過去とはロクサーヌの胸に宿る熱が高まる時だけ立ち昇る、陽炎のようなものだ。
(アルベール様は、王太后――ファビエンヌ様に可愛がられていたかしら……?)
十一年前の記憶では、アルベールは優秀な男子に恵まれた王家の末子として、あまり優遇されていなかったはずだ。それに烈女と呼ばれた王太后に評価される資質を、この〝王子サマ〟が備えているとも思えない。内心で首を傾げながらも、ロクサーヌはほくそ笑む。リベ家がなす術もなく没落したのは、王宮の奥の意思が働いたのだと、一度だけ兄が漏らしたことがあった。もはや手の届かない相手を恨むなとも。
「ありがとう、ロクサーヌ。やっぱりあなたは私に優しいね」
全幅の信頼を寄せるアルベールを、ロクサーヌは慈母のように抱きしめる。その裏で、耳の早い王太后は孫の逢瀬の相手を知って、今どんな顔をしているのか想像した。
手作りハンカチマスクに挑戦しました。
ただ折りたたんでゴムを通すだけなので、私でもできました!花粉は防げなくても、自分のくしゃみを飛ばさなければいい……はず。