9 薄煙
午睡を楽しんでいたロクサーヌが叩き起こされたのは、傾いてきた日射しが窓から差し込む頃だった。一体何事かと目を開けると、舞台衣装も顔負けの派手な装いの女が寝室に入り込んでいた。
「さっさと起きなさいよ! 私がお前如きに会うために骨を折ったっていうのに、この売女!」
部屋着のまま寝ぼけ眼で罵倒されたロクサーヌはしかし、この甲高い声の主を認めると再び目を閉じる。この不躾な侵入者――マリアンヌは、ロクサーヌが取った客ではない。従って彼女を迎える理由はないので寝直そう。はっきりとそう考えたわけではないが、体がそう判断した。するとマリアンヌがロクサーヌの髪をつかんで「寝るな!」と怒鳴るので、その騒々しさにロクサーヌは思わず顔をしかめる。うるさい上に、髪を引っ張られたままだと痛い。
「……まさか、女性がわたしをお望みとは思いませんでした」
とりあえず体を起こしてそう言うと、マリアンヌが顔を真っ赤にして否定した。それならやはり客ではないので寝ようとしたら妨害され、ロクサーヌは仕方なくマリアンヌの頬を両手で挟み、顔を寄せる。あと少しで唇が重なるところで、マリアンヌがロクサーヌを突き飛ばした。
「あ、あんた一体何考えてるのよっ! 気持ち悪い!」
「何を、と言われましても……。寝室を訪ねて来たのなら、することは一つでしょう? でも、違うかも知れないなあとも思ったので、よかったです」
「違うと思ったなら実行しないでよ! 大体、アル様の婚約者である私が、あんたなんかといかがわしいことをするはずがないでしょ!」
ぷりぷり怒りながら勝手に座るマリアンヌを前にして、ロクサーヌは目を瞬かせる。
放置していた面倒事が、向こうからやってきた。ここに乗り込んできたのなら、そして今のやり取りからすると、彼女はロクサーヌが娼婦であると知ったのだろう。しばらく音沙汰がなかったので忘れかけていたが、マリアンヌはアルベールと同衾したことを恨んでいるに違いない。しかし、彼女にはぜひ聞いてみたいことがあった。
「野暮なことを言いますが、移り気なアルベール殿下を生涯の伴侶とすることに不安はないのですか?」
どう考えても、彼が一人の女に縛られることはない。既に関係を持った自分がそう思うのだから間違いないだろう。しかし、そんなロクサーヌの問いを、マリアンヌは一笑した。
「負け犬のあんたと一緒にしないで。アル様は、必ず私だけと結ばれる運命なんだから!」
虚勢ではない自信に満ちたその態度に、ロクサーヌは目を丸くする。これが愛の力というものか。感心しながらも、「負け犬」と聞いてアルベールが子犬のように胸にすり寄る様子を思い出したのがいけなかった。堪えきれずに吹き出すと、
「こ、この女! 私を馬鹿にしてるのっ!」
せっかく出向いて来てくれたマリアンヌの機嫌を損ねてしまい、ここで帰られてはつまらないロクサーヌは十回くらい謝って何とか許された。
「……お前は本当にあのヴィクトリーヌ・リベなの? ただ真面目なだけで美しくもない女が、娼婦ですって? アル様達はお前が本物だと確信しているようだけど、私が知っているヴィクトリーヌと全く違うじゃない……」
疲れた声のマリアンヌは、アルベールと同じく能力を隠すつもりはないらしい。彼女は夢で過去を見て知ったのだと簡単に明かした。ロクサーヌが彼女の異能に驚かないことに疑問を持っていないようなので、彼女に気付かれる前に話を聞くことにする。
「あなたが見たのは、どんなわたしだったのですか? 劇場で働く女ならば女優からバーメイドまで、娼婦としての顔を持っている者が多いのですが……」
純粋な疑問を投げかけると、マリアンヌはまた赤面した。態度は高圧的だが、随分と初心なようだ。
「だ、だって、働くっていったら使用人とか女中だと思うじゃない! あんたは切羽詰まって髪まで売った後、劇場のメイドになったって……。全年齢向けだからぼかされてたなんて、知らなかったの!」
「ぜん……? 何のことでしょうか?」
不可解な言葉に首を傾げると、マリアンヌははっと口をつぐんだ。言動がいちいち怪しくなってきた彼女は、ロクサーヌの正体とその居場所を夢で知ったが、娼婦となったことは知らなかった。長かった髪を売ったことまで言い当てたのに、彼女はロクサーヌが劇場に入ったその後は見ていないのか。答えは得られないだろうと期待せずにそう問いかけると、マリアンヌは取り繕うように「私だって全てを知ってるわけじゃないわよ」と言った。
「私が知ってるのは、あんたの家が没落して婚約も破棄されて、メイドに身を落としたことだけ。だって、ヴィクトリーヌは主役じゃないもの」
「……では、わたしが身を落とした経緯もご存知ではないと?」
このロクサーヌの言葉に、マリアンヌは心底どうでも良さそうに扇を振った。彼女にとって〝ヴィクトリーヌ〟に関する情報は、今語ったことだけで十分といった風だ。
「もう覚えてないわよ、そんなこと。テオドール様とセリーヌ様のことだったらともかく、役目の終わった脇役のことなんてどうでもいいわ。アル様の頼みだから教えてあげただけで、私はあんたが本当にここにいることを確認できれば良かったの」
マリアンヌは、どこか遠くを見るような目をしている。
(――もう覚えていない? では、マリアンヌはいつ知ったというの?)
彼女はまるで劇中の〝ヴィクトリーヌ〟という配役について語っているようだ。いくらここが劇場だからといって、他人の人生を〝脇役〟の一言で片付けるこの無神経さに、また胸が燻る。
リベ家の皆が立たされた苦境も知らず、無念のうちにこの世を去った両親はもちろん、兄が、弟がどんな気持ちで教会を出たのかも知らず、この傲慢な令嬢はそれらを「どうでもいい」と切り捨てた。それはロクサーヌ自身が自分の人生を切り捨てた「どうでもいい」と同じ響きを持っていただけに、心が波立った。これは同族嫌悪というものだろうか。ロクサーヌは浮かべた笑みを何とか維持する。
「あなたが夢で見たものが真実であることを確かめたかった、ということですわね。……ところで、あなたの異能は生来のものなのですか?」
マリアンヌの言葉は伝聞を語る時にありがちな曖昧さはないが、どこか実感に乏しいというちぐはぐな印象を受ける。そして彼女は、自分の能力がどれほど特殊であるのか気付いていないのか、警戒する様子がないのも腑に落ちない。目が合うと、マリアンヌはいかにも嫌そうに目を細めた。
「そんなことを聞いてどうするつもり? 何を企んでいるのか知らないけど、どの道あんた――いえ、お前はもう終わっているの。だから、私のアル様を誑かしたことを後悔してももう遅いのよ」
「終わっている――ああ、ここでわたしの息の根を止めるためにいらしたのね。そういうことでしたか」
始末する相手ならば警戒する必要もないし、自身の異能についてぺらぺらと喋るわけだ。しかし、ここにいるのは彼女一人。まさか自らの手でとどめを刺しにくるほど憎まれるとは、マリアンヌの悋気の強さを甘くみた自業自得か。ああ、とロクサーヌは胸中でつぶやく。
(ここでわたくしが死ぬことで、消えない汚れのようにあの方達の心に残るかしら。それとも、これ幸いと忘れてしまう?)
結末を見られないことは心残りだが、貴族が本気で平民を消そうというのなら、抗うのは無駄だ。どうやって手を下すのかは分からないが、絞殺か刺殺だろうと見当をつけると、ロクサーヌは首筋を晒して差し出した。首は急所だ。すると、何故かマリアンヌはうろたえる。
「な、何してるの! あんた、おかしいわよ! ヴィクトリーヌがこんな頭のおかしい奴だなんて聞いてない! 色々変だし、やっぱりこの世界は間違ってるんだわ!」
また訳の分からないことを言っている。困惑しているのはロクサーヌの方なのだが、マリアンヌは気味の悪い虫でも見たような顔をするし、何だか彼女からは無用に貶められている気がする。勝手に騒がれるのにうんざりしたので、殺すつもりはないのかと一応確認すると、「当然でしょう!」と激怒されてしまった。
「お、お前が終わっているというのは、ヴィクトリーヌ・リベが劇場の娼婦になっていると言いふらしてやったからよ! どう、そんなかつらまで被って正体を隠していたのに暴露されて、屈辱でしょう?」
なんと、ワルキエに続き、マリアンヌまでもが良い働きをしてくれていたようだ。近頃の来客の多さは、彼女の功績によるものだったのか。それなら名乗りを上げるまでもない。思わず礼を言うと、マリアンヌが持っていた扇をテーブルに叩きつけた。
「本当に何なの!? へらへらしてないで怒りなさいよ!」
「わたしには怒る理由がありません。もしかして、今日のご用はわたしにそれを告げることだったのでしょうか。わざわざご足労いただきまして、ありがとうございます」
再度礼を告げたところでマリアンヌは立ち上がり、「もう帰る!」と足早に部屋を出て行った。結局疑問は残ったままとなったが、ロクサーヌに不満はない。彼女とは、また会える気がした。
また暇になったので明日からの予定を確認すると、元馴染みの客やらどこぞの貴族だの、物見高い人々の名が並んでいた。ロクサーヌはそれらを全て拒まず受けたのだが、昨夜のオリオールの怒り様を思うと少し申し訳なくなった。既に噂になっているのに、さらに煽ろうとしたのだ。彼が心配するのは当然だろう。そしてワルキエのあの思わせぶりな言動も、ロクサーヌの正体が露見したことを前提としていたのなら、仕方のないものだった。〝可哀想なヴィクトリーヌ〟のために、少々張り切っていただけなのだろう。彼の話を聞いたリリアーヌがわざわざ忠告してくれたのも、ロクサーヌの正体を知ったからなのだと思うと、空虚なはずの心が少しだけ温かくなった。