少年は遭遇する
「よって、ここに近代という時代は成立したのです。この時点で既に資本主義の基本的な構造は成立しつつあり、やがて生まれるイデオロギーの対立、その運命を示唆していたと言っても過言ではないと――」
赤坂先生の発する単調な低音が昼下がりの教室をこんこんと流れている。僕はその音声を聞き流しながら、なんとなく窓の外を眺めていた。校庭では1組の男子が体育のサッカーをやらされている。わらわらと無秩序に動く人影の点は、赤坂先生のお経と相まって優れた催眠効果をもたらしていた。グラウンドの向こうでは、学校の敷地を囲んでいる立ち木が昼下がりのぬるい微風に吹かれて静かにざわめいていた。
無。
そこには、無の時間があった。すべてが意味を持っているようで、その実意味をもっていないようだった。赤坂先生の語る世界史も、黒板にびっしりと書き込まれたカラフルな文字列も、それをじっと真面目を装って聴いている人々も、校庭でビニール製の球を追い掛け回している人々もそこらでそよぐ緑の木々も青空も、何となくそこに転がっているだけに思えた。午後のおだやかな陽光はあらゆる物の境目を曖昧にし、すべては融け合って僕という存在を世界から切り離しつつあった。
いつからか何となくこうなっていたのだ。
僕の日常には日に日に少しずつ透明のぬるい液体が入り込み、全てをすっかり薄め、僕の世界は無機質な平穏に満たされてしまった。そこには歓喜も絶望も無い。ただ、淡々と色の無い日々を過ごして淡々と自分の生命を1日1日と磨り潰していく、そんな毎日。そして僕はその事自体に、楽観も悲観もしていなかった。要するに、すべてが無だったのだ。
そう、その日までは。
「えっと……黒崎君、文化祭の打ち上げ費まだだったよね……?」
放課後。鞄に教科書をしまっていた僕の前に、女子が立っていた。確か、図書委員の青海さんだったか。そういえば、クラスで文化祭の打ち上げ担当になっていたはずだ。
「ああ、もう集めるんだ。えっと、1000円でよかったかな」
僕は財布から千円札を取り出し、青海さんに渡す。
文化祭の打ち上げにも興味は無かった。ただ、皆が出るから僕も出るだけだ。どこまでも空虚でありきたりな、消極的判断だった。
「あ、ありがとう……や、野球、応援してるね……」
それだけ呟くと、青海さんはそそくさと退散した。
野球。
青海さんの一言が、ずしりと心にのしかかった。僕の無色な日常に纏わりつく、数少ない汚泥のひとつ。
「はぁ……」
僕はため息をつくと、鞄とスポーツバッグを背負い上げて練習場へと向かった。
「おいそこの1年、早くボール取ってこいよ!!」
キャプテンの上島先輩の怒号が響く。僕は申し訳なさそうに頭を下げながら、いそいそとネット前へ走った。練習場のグリーンネットの下には泥のついた硬球がごろごろと列を作っている。僕はてばやくそれらを抱え込み、投手の元へと転がしていった。
「ったく、ちゃっちゃとしろよ、ちゃっちゃと。そんなんだから試合出れねえんだよ」
「すみません……」
藤島コーチの罵声を背に、再びいそいそと練習場の隅へ戻る。試合に出るも何も、そもそも入部してから試合はおろかバットさえろくに握らせてもらっていない。そういう「方針」なのだ。
「大丈夫か?疲れてるみてーだけど」
同期の花田が心配そうな顔で声を掛ける。
「ごめん、ちょっとね……テストも近いし。でも大丈夫」
「本当に大丈夫か? 練習のし過ぎかもな。なんかあったら言えよな、相談乗るから」
「……ありがと」
花田は笑顔を作ると、ボールを追い掛けて走っていった。
花田の親切に嘘は無い――ただ、それがまったく無意味で、表面的である事を僕は知っていた。
何があろうと、僕たちはこの練習を休む事は許されていないのだから。
野球にも興味は無かった。ただ、球技は嫌いではなかったし、「野球部は小テストの採点が甘め」という噂に流されるまま見学に行き、先輩らに勧められるまま入部してしまっただけだ。
入部してすぐ、何も考えず入部を決めた事を後悔した。「文武両道」を掲げ、甲子園進出を悲願とする私立五星高校野球部のスケジュールは毎日放課後3~4時間の練習、休日は半日潰してまた練習。もちろん1年がマウンドに上がらせてもらえるはずも無く、トンボ掛けや球拾いとトイレ掃除、そして基礎練習の毎日。ひらたく言えば、部の雑用係だ。
辞めようとも思ったが、顧問の藤島は「ここで辞めれば内申に傷が付くぞ」の一点張りで退部届を受け取ろうともしない。以前、野球部を抜けようとした3組の野田は手書きの退部届を晒し上げられ、体育の時間にも先生に露骨に無視されるイジメを受けていた。
ここは地獄だ。
だが、そう感じているのは僕だけらしかった。野田事件以降、他の1年は「先輩の言う事だからしょうがない」「そもそも自分で入っておいて抜けるのは部の一員として無責任」という論を展開し、より一層普段の雑用に力を入れるようになっていった。
先輩に目を付けられないようにしているだけなのか、本心からそう思っているのかは分からない。ただ、僕は彼らと付き合う気も失い、ただ毎日反復される地獄の3時間が終わるのを何も考えず待つ泥のような日々を忍ぶしかなかった。
僕がおかしいのだろうか。僕が部の一員としての自覚も、責務も認識できていないだけなのだろうか。
単調で、そして過酷な雑用の最中にはそんな疑問がふつふつと僕の脳裡に浮かんでは消える。この3時間だけは、無色透明な僕の身体はどす黒い粘液に満たされ、歩く事はおろか呼吸をする事すら苦しくなっていた。
「おいボール飛んだぞ1年!! 何ぼさっとしてる!!」
藤島の怒声にはっと我に帰る。振り返ると、ボールがネットとポールの隙間を抜けて校舎を飛び越え、裏に消えるところだった。
「すいません、僕行きます!」
「はやくせいよオイ!! お前らが気ィ張ってないと先輩らも真面目に練習に打ち込めねえんだからな!」
藤島がマウンド横で腕を組みながら野太い怒鳴り声を上げる。鼓膜を直に揺らすような、不愉快な大声だ。
僕は一時でもこの地獄から脱け出せる事にほっとしつつ、校舎裏の立ち木に向かう。
校庭の反対側、校舎と立ち木の間に空いた通路の上を硬球がころころと転がっていた。あたりでは西日の中に黒く浮かび上がる木々がさざめいているばかりで、人気は無い。僕は手短に球を拾い上げ、藤島の怒りが爆発しない内に練習場へ踵を返そうとした。
「そこの、少年よ。すこし、お聞きしたいのでありますが」
ふいに背後から浴びせられた声にびくりと肩を上げる。思わず、手にしたボールをぽとりと取り落としてしまった。
ボールはころころと通路脇の溝を転がって僕の背後に消えていった。僕は荒くなる呼吸を整えながら、おそるおそるそちらに顔を向ける。
通路の先、僕の目の前に少女が立っていた。背丈は僕の肩ほどで、膝まである白いワンピースが茜色のやわらかな光を反射してはためいている。夕陽で染めたような紅い髪が夕暮れのそよ風に揺れ、たなびく髪の中から覗く青い瞳は、鋭い光を宿しながら僕をじっと見据えていた。
ボールは一直線に少女の足元へと転がってゆき、こつんと音を立てて少女のブーツに跳ね返る。
「少年よ。ひとつ、お聞きしたいのであるが。
……ここはどこですか? そして、私は、誰でありますか?」
一陣の冷たい風が、僕と少女の間に吹き抜けた。
「……はい? あの、何て?」
僕は、何も知らなかった。
これから始まる事になる、"革命的"な日常を。
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