人魚姫 ひとを愛した娘の話
――泡になってもいいと、思ったの。
あなたに恋い焦がれて、故郷を捨てた。あなたに会いたくて、声を失くした。あなたに愛されたくて、人魚であることを手放した。
そんな、私。
嵐の海は好きだったわ。ごうごうと揺れる水面を、静かな海の底から眺めること。嵐のあとに沈んでくる、人間たちの宝物。きらきら煌めく不思議な石、不思議な硬い銀色のナイフ、見たこともない地上の木の実。まだ地上のものの名前を知らないで、私にとって嵐は、不思議を運んでくれるものだったの。
だからあなたが沈んできたとき、あなたには悪いけれど、嵐がまた私に贈り物をくれたのだと思った。嵐の海が、あなたを殺しかけて、多くの人間の命を奪うことは知っている。でも嵐の海が、私にたくさんのことを教えてくれたし、あなたと出会わせてくれたのよ。
実はね、あなたがあのお嬢さんを好いたとき、私はあなたのことを愚かだと思ったの。
あなたを海から救ったのは私なのに、あなたと出会ったのは私なのに、どうして気付かないのかしら。なんて愚かなのかしら。
そんなことを何日も胸の中で呟いて、苦しくて、苦しくて苦しくて、あなたとお嬢さんを悪者にしなくては立っていられなかった。ただでさえガラスを踏む痛みが走る足が、きっと耐えられなかった。
でもあなたとお嬢さんの婚姻が決まった日、私はふと思ったの。自分でも驚くくらい突然に、すとんと理解をして、涙が止まらなくなったのよ。
――ねえ、愚かなあなた。愛しいあなた。私はこんなにあなたを愛しているし、あなたのためにすべてを捨てたけれど。
あなたはきっと、私が声を出せても出せなくても、私があの夜のことを説明できたとしても、私のことは好きにならなかったでしょう。あのお嬢さんだったからこそ。そう、私ではなかった。あなたはあのお嬢さんにきっと、一目惚れをして。命を救ったとか、きっとそんなこととは関係がなかった。
愚か者は、私だったのよ。何も考えることができずに、ただ盲目的に恋を追って、自分のためにあなたと結ばれようと願った。あなたの視点からものを考えることをしなかった。愚かね。本当に、わかってしまえば驚くほど愚かだった。
けれどね、ひとつだけ言い訳をしてみるなら。私もあなたと生きたかっただけなのよ。私は私のためにこの恋を叶えようとしていた。私の命が散ってしまうことがやっぱり怖かった。
怖かったけれど、私ね、今、今ようやく、あなたの幸せを考えているの。
姉さんたちは私に生きて欲しかったのでしょう。それがもし父様の命令だとしても、姉さんたちの私への愛によるものだとしても、どちらにしても、彼女たちは人魚の宝である美しい髪を切り落とした。人魚の髪は特別なもの。海の宝石。魔法を使う存在にとっては、魔力の詰まった素晴らしい宝物。そして何より、美しく長い髪は人魚にとっての自慢。
それを姉さんたちは手放した。
自惚れるなら、私は愛されていた。宝物を私のために手放してくれるほどには。愛されていたわ。私の家族が、どれほど私を慈しんでくれていたのか、今なら痛いほどわかる。
だからこそ、罪悪感が募って手が震えるのよ。いいえ、もしかしたらこれはただの興奮なのかもしれない。姉さんたちの気持ちの上に成り立つ銀のナイフ。手の中で温まるほど握りしめているこのナイフは、心なしか愛しい。姉さんたちが込めてくれた気持ちが残っているのかもしれないわ。そんな都合の良いことを考えながら、それでも、このナイフが血に濡れることはないでしょう。
身勝手な妹姫。愚かな人魚。そう語られるまでに時間はかからないかもしれない。そう言われても、いいわ。愚かな私、恋に沈んだ私。私は今ようやく、この最期になって「愛する」ことを知ったのだから。
ナイフは握ったままで、目の前の愛しい額へキスを落とす。結局これが、最初で最後の口付け。額なんて、まるで不器用な子供の恋みたいね。実際似たようなものだから、きっと私とあなたの恋にはこのくらいが丁度いいのかも。
愚かなあなた。愛するあなた。私を私と気付かずに、私の目の前でお嬢さんと恋に落ちたひと。ひどい人ね。あなたはとっても。
それでも好きよ。それでも、愛しているわ。今の私には、その気持ちだけで十分。そう思えた私がいるだけで幸せなのよ。
私、お嬢さんのこと嫌いではなかったわ。城にいるだけの素性も分からない私にも笑ってくれた、きっと素敵な人。いいえ、素晴らしい人。優しい人。だから私は私が醜く見えて、怖かっただけ。
あのねお嬢さん、お嬢さんの優しさは私をちょっぴり傷つけて、それでも足りないくらいに私と彼を癒やしていたわ。……ありがとう、素敵なお嬢さん。
あなたの運命が、お嬢さんと繋がっていて良かった。今は心からそう思う。
隣で眠るお嬢さんの額にもキスを落として、もう一度、あなたの額にキスを送る。今度はさようならのキスよ。これで最後。これが最後。私の恋が終わる時間。
涙はもう、地上では流さない。せっかく泣けるようになったの。泡になるその瞬間、海の中で流すわ。私は今人間で、かつての人魚で、その私が死ぬときは、海で泣くわ。私の故郷。私のかつてに触れながら、生まれて初めて、私のままで涙を流すの。
甲板へ出て、濃い潮風を浴びる。まだ海鳥たちも起きていない。頭上では少しだけ白んできた空に、星々がゆったりと光っている。静かな空間。世界中で私だけになってしまったと思うほど穏やかで美しくて、泡になるには少し贅沢かもしれない。
そんなことを思いながら、ナイフをもう一度胸に抱く。このナイフと共に消えよう。姉さんたちの気持ちと共に、私は私のすべてを果たす。
そもそも私が勝手に恋い焦がれただけのこと。あなたを殺せるものですか。あなたには幸せになる義務がある。ひとりの女の子の恋を殺したのだから、あなたはお嬢さんと幸せにならなければいけないのよ。死ぬなんて、私が許さない。
空がゆっくりゆっくり、それでも着実に白んでいく。もうすぐ水平線は薔薇色に染まるだろう。私がこの地上で一番美しいと思う景色。海の上から見る朝焼けは、私の心をつかんで離さない。
さあ、息を吸って。目を見開いて。全てを忘れないように。かつての私が目指した地上。その地上の美しさを、一つも取りこぼさないように。
――泡になってもいいと、思えるの。
あなたの幸せを心から願える。私のために叶えたかった恋ではなく。これは全く新しくて、それでも懐かしいほどの愛。あなたを「愛して」いる。私自身が消えてもいい。私のためにそう思うのではない。
あなたのために今、愛を誓いましょう。
体を海へと投げ出したその瞬間。海が赤と橙に染まって、やがて綻ぶように薔薇色を覗かせる。それはやっぱり、初めて地上に来たときと同じくらいに美しくて。この世界を、地上も海も、私自身すら、愛しいと思う。
瞳を閉じて息を吸って、優しい水に包まれて、
――人魚姫の話をしましょう。遠い遠いどこかで、ひとを愛した娘の話を。
今も昔も人魚姫が一番好きです。