072.とても短い平々凡々とした日々
闘技場での戦い。
二百人を相手取ったイェルケルは、朝の七時から夕方の五時まで戦い続けていた。
途中昼休憩が三十分ほど入ったが、十時間近い時間戦い続けるというのは尋常ではない。
当人もさすがに疲労困憊の様子であったが、一晩寝て次の朝にはもう復調している。
また共に訓練しているレアは、当たり前に次の日から一緒の訓練を行なおうとしたし、イェルケルもこれを受け入れていた。
二人にとっては、前日の戦いもその程度のものであるようだ。
玄関にてイェルケルを待っていたレアは、昨日のアイリとの戦いで足りぬ部分を思い知ったのか、すぐにでも訓練を始めたくてうずうずしている。
騎士叙勲の時は綺麗に刈り揃えていたレアの髪だが、手入れをサボっているのか毛先の不揃いが目立つ。
アイリと同じで肩口ぐらいの長さなのだが、その雑さのせいで印象はまるで違う。
とはいえ、それが妙な愛嬌に見えてしまうのは、レアの地顔が整っているおかげか。
屋敷を出ようとするレアとイェルケルの二人は、ちょうど早朝訓練を終わらせてきたスティナとアイリを見つけた。
二人の早朝訓練の話を聞いたイェルケルは、汗が気になるんならウチの風呂を使ったらどうだ、と気安くこれを許可したのだ。
イェルケルの屋敷の風呂は、大貴族ですらそこまでのものは無いだろう、と言うほど豪華なものである。
イェルケルの屋敷の入り口でちょうど顔を合わせる形になった四人。
レアもイェルケルも、スティナとアイリの姿に驚いた。
どちらも土塗れ汗塗れで、普段は絶対に見られない疲労した顔と、重そうな足取りを見せてきたのだ。
背中にかかるほど伸ばされたスティナの銀色の髪がなびく。
至高の美しさを誇るこれは、普段はあまり外には見せないのだが、今は疲れて気を抜いているせいか惜しげもなく露にされている。
もちろんコレもまた埃と汗に塗れており、美を知る者であればあるほど貴重な芸術品が汚されたと考え、とても見てはおれぬだろう有様となっている。
アイリの金髪は元が肩口程度の長さのせいか、スティナほど見れぬ様にはなってはいない。
むしろ逆に、大量の汗で光沢がより映えており、常より美しさをすら感じるほどだ。
スティナとアイリ、二人の体力はイェルケルやレアの二人から見てすら、理解できぬほどの尋常ならざるもの。
そんな二人がここまで消耗する訓練というものが、イェルケルには想像もつかない。
レアが少し怯えた顔で問う。
「もしかして、二人共、毎日そうなるような訓練、してるの?」
二人から即答が。
「もちろん」
「当たり前であろう」
イェルケルは眩暈を覚えた。きっとレアも同様だろう。
スティナは疲れ顔ではあるが陽気に言う。
「殿下、私今日のお風呂楽しみにしてたんですよ。アイリが、それはもうすっごいって何度も言うもんですから」
「そうか、我が屋敷唯一の自慢だ。遠慮はいらないから、是非毎日使っていってくれ」
「はーい」
スティナとアイリが楽しそうに屋敷の中に向かう。
これを見送った後、イェルケルはレアと顔を見合わせる。
「レア。正直に言って私は今、とても挫けそうな気持ちだ」
「うん。わかる、わかるよ王子。でも、ほんのちょっとだけど、悔しい方が勝ってる」
「そうだ、そうだなレア。チクショウ、目指す頂は今現在もどんどん伸びてるってどーいうことだよこれー」
半ばヤケになりながら、二人は訓練場にしている山裾に向かって、人目を避けるようにしながら走り出した。
二人が街中を抜ける時、本気の全力疾走を行なう場所がある。
これは二人の全力疾走に追いついてこられる者がほぼ居ないためだ。
これにより、尾行なんて真似を考えていた者は、まず間違いなくここで振り切られる。
全力疾走でどこまで走るかは時々によって違っていて、更に二人は王都の城門を潜ることは絶対にしない。
二人が抜けるのは、城壁のある場所。
ここを跳躍で登り、上から飛び降りて城壁の外に出るのだ。
既にイェルケルも壁跳びはできるようになっているのだ。
更に二人は、ビボルグ砦でアイリとスティナがやっていた、城壁上から飛び降りつつ壁を何度か掴んで減速しながら着地する、といった技もできるようになっている。
これにより、二人は誰にも気付かれることなく、痕跡すら残さず城壁外へと出ることができるのだ。
「やってるの見た時は人間技じゃないと思ったけど、やってみれば案外いけるもんだよな」
「うん。やっぱり、きちんと鍛えれば、人間にできないことなんて、ない」
とても順調に、イェルケルもレアも脳内筋肉に染まって来ているようだ。
カレリア王国第十五王子、イェルケルはその書類をじっと見つめていた。
横から覗き込むのはアイリ・フォルシウスである。
「いやいや……何と申しましょうか……」
「凄いことになってるなコレ。もしかしてヘルゲの奴、この手の才能あるんじゃないのか?」
先日行なわれた闘技場を使っての第十五騎士団採用試験の収支報告書が、責任者であるヘルゲからイェルケルに送られてきたのだ。
その内容が凄まじい。
闘技場には国王陛下も来られる、多数の貴族も見に来る、ということで、イェルケルはもう採算度外視で事に当たっていた。
だというのに、最終的には黒字。真っ黒だ。向こう一週間闘技場を借り切れてしまうぐらいドス黒く染まっている。
約束された赤とも言うべき、通常の三倍の値段で行われた闘技場の改装費用すら、問題無く吸収しきってしまっている。
イェルケルは追加人員を手配するための金と闘技場改装費用を全て自分で持つとヘルゲに宣言してあり、イェルケルを嫌うヘルゲならばどんな状況に陥ろうとこの金は回収するだろうと考えていた。
しかしこの書類を見る限りは、それらの費用も全て浮いた利益分で賄うと書かれている。
同封されている手紙にはこう書かれていた。
『業腹極まりないことだが、ここまでの利益を出しておきながら、お前に金を出させたままというわけにはいかん。なので、約束の金はいらん。浮いた金でせいぜい分不相応な贅沢でも楽しめ』
アイリはヘルゲ側の事情を推測する。
「殿下に金を出させたままですと、形としては出資者ということになってしまいます。そうなりますと、闘技場で出た利益の分配云々といった話になりますから、それを避けるための処置かと」
「いや、幾らなんでもあそこで出た利益寄越せとは言わんぞ私は。仕切ってたのはヘルゲだし、利益が出たのなら気に食わなくはあるが全てアイツのものだろうに」
「そう主張する根拠になる、ということでしょう。ヘルゲ・リエッキネンも殿下の性格を知っておりますから、殿下から金を出させたうえで利益配分はしないつもりだったのを、配下に止められたといったところでしょうな」
「……まあ、この儲けを見れば、用心したくなるのもわかる。なんだこれ? たった一日で稼いでいい金額じゃないぞ」
人の悪そうな顔で笑うアイリ。
「いやいや、実に楽しいことになりそうですな」
「どういうことだ?」
「催し物一つで、闘技場一日で、これだけの利益が上がるとなれば、意地汚い連中がこぞって口を出してきましょう。もちろん対象は剣を振っていた殿下ではなく、催し全てを取り仕切っていたヘルゲ・リエッキネンでしょうなぁ」
「おいおい、それはアイツがもっと儲けるということか?」
「この間のは例外中の例外です。あの集客は幾らなんでも異常でした。それが故のこの利益だということが、奴に寄ってくるハイエナ共には理解できないでしょうなぁ」
「あー、そう言われてみれば確かに。面倒くさいことになりそうだな、うんうん、実に素晴らしいっ!」
ざまあみろ、と二人でひとしきり笑った後、イェルケルは真顔に戻る。
「前にアイリが言っていたな、王家と貴族の衝突は不可避で、そう遠くない未来であると。ならいっそ、こちらから先制してやるわけにはいかないのか?」
「時間は王家の味方ですから、宰相閣下は自身からは動かないでしょう。団結する前に、細かな暴発を誘う程度でしょうか」
「……それ、何度もやったら貴族側も警戒しないか?」
「しますね。サルナーレは予定通りだったのでしょうが、アジルバは完全に宰相閣下の予定から外れたものでしょう」
「つまり……」
「はい。サルナーレの段階では動こうとしなかった貴族も、アジルバとその一党が立ち上がることすらできず潰されたことで、かなりの危機感を持ったと見るべきです。それでも宰相閣下の予定の内ならば解決策もあるのでしょうが……」
イェルケルたちのしでかしたことにより状況は悪化したと聞かされては、イェルケルも冷静ではいられない。
「そ、それはどうにかできないのか!?」
一方アイリはといえば、そんな話にも平然としたものだ。
「そう焦らずとも。そもそもあの時点でアジルバの蜂起を許し、その要求を受け入れるようなことになっていたら、宰相閣下の権威は地に落ち貴族たちの権勢がより強まっていたでしょう。あの時は、ああするのが最も良い選択でした」
「む、むむう。だ、だがな……」
「どの道、武力を用いたぶつかり合いは避けられぬのですから、誰にどれだけ責任があるかなどを論じても意味なぞありますまい。そんな暇があったら戦力増強にでも努めるべきでしょう」
「騎士を増やすとか?」
「我らの場合ならば、やることは単純明快ですぞ」
にこりと微笑むアイリに、イェルケルはやりきれぬ顔になる。
「つくづくウチは特殊だよな。でもまあその通りだ、頑張って鍛えるとするよ」
ついてこられぬ者を増やすより、己を鍛えて力を増す方が騎士団全体が強くなるというのだから、確かに特殊な環境であろう。
戦力の足並みを揃えるという意味でも、イェルケルとレアを鍛えるのは騎士団全体が強くなることに直結する。
ふと、思い出したようにイェルケルは言う。
「そうだ、ケネト子爵の方はどうする?」
「うーむ、味方になりたいと言うのならせいぜい利用してやるがよろしい、と私は思うのですが、スティナは反対のようでして」
「理由は?」
「あの手の目敏いクズは、こちらがアレを全く好んでいないことを察知するそうで。となれば、いつまでも友好的な関係を続けられると向こうが思わず、何かしらしでかしてくるとか」
「……わからんでもない。よし、やるか。王都はしばらくは静かだろうし……」
その静かなはずの、王都のイェルケルの屋敷に、レアが騒々しい音を立てて駆け込んできた。
「おーじ! おーじっ! 反乱! 今度はおっきいの来る!」
イェルケルはアイリと顔を見合わせた後、こんな言葉をのたもうた。
「……ケネト子爵、何か凄まじい幸運の星にでも守られているのではないか?」




