004.ラノメ山越え(前編)
一度でも発見されてしまえばたちどころに辺境兵が三人を取り囲むだろうが、先の陽動が効いたのか追っ手に見つかることはなかった。
三人はそのままラノメ山中へと足を踏み入れる。
馬があるので楽ではあるが、林の中を進むので速度を出すこともできず、また足場が悪いことから騎手も神経を使う。
アイリもスティナも、山中をまるで迷い無く進む。
イェルケルがそろそろ馬ではキツイか、と思い始めた頃、スティナが馬を降りるよう言ってきた。これ以上は馬では無理だと。
そこからは徒歩での登山になる。道らしい道もないので、アイリとスティナが先頭に立ち剣で藪を切り開きながら進む。
それでもイェルケルにはキツイ山道だ。
斜面で足場が悪いのに、草木で足元が見えないのが特に辛い。とはいえ女二人がよりキツイ仕事をこなしながら進んでいるのだから文句を言う気にもなれない。
しばらく歩くと、切り立った斜面に出る。そこでスティナは休憩を申し出てきた。
「一休みしましょう殿下」
「気を使っているのか? 私ならばまだ余裕はあるが」
「ええ、それには少し驚いております。ここまで私たちのペースについて来られるのは大したものだと思いますよ。ですが、この先は難所の一つですので」
スティナがそう言うのなら、とイェルケルは勧められるがままに岩の上に腰掛ける。
アイリと比べてスティナは比較的常識的な考えをしているらしい、とわかったからだ。
「難所は全部で何箇所になる?」
「そうですね、殿下の体力がわからないのでなんとも言えませんが、概ね三箇所。最初の一つがココです」
「ここ?」
スティナは頭上を指差す。
「そう、この崖を登るんです」
イェルケルは頭上を見上げる。
首が痛くなるほど上を向かねば頂上が見えない垂直な壁を、登れというのだ。
やはりスティナも非常識だった、とイェルケルは上を見上げたまま思うのであった。
下を見るな、そう言われて登り始めた崖であるが。そもそも壁に張り付くような姿勢でどうやって下を見ろというのか。
スティナが先行しながら、手足をかける場所の見本を見せてくれているので、イェルケルは必死にこれについていくだけだ。
見上げるスティナはいともたやすく手を伸ばし、軽々とその身を押し上げていっているが、イェルケルにとってはただ腕を伸ばすだけでも多大な労苦を伴う。
体中の肉が張り詰めているのがわかる。この状態を長時間続けると後でエライことになるのも。
だが、だからと力は一切抜けない。特に腕。体を押し上げる時はもう完全に腕の力のみでそうしている。そして押し上げ終わったからといって気を抜くことは許されない。
腕で全身を支えながら足場に足を伸ばし、体重をそちらにも分散させて初めて少しだけ腕の力を抜けるのだ。
腰に巻いた縄はスティナとアイリと繋がっている。アイリはイェルケルの下だ。
イェルケルが落ちれば二人に物凄い迷惑がかかろう。そう考えると、どうあっても失敗するわけにはいかない。
イェルケルは早く終われと祈りながらこの作業を繰り返す。
途中からは、後少しと考えると少しでないことにヘコむので、先のことなぞ何も考えず次はどこだ、しか考えないようにした。
汗が滴り落ちるのが鬱陶しい。伸ばした腕の先の手の甲が汗でてらてら光っている。多分、裾の中の腕も汗でエライことになっていよう。
その汗が手の平に伝ったらどうしよう、と気になり始め、どうしようもないという結論に達すると、そうなる前になんとしてでも登りきらなければと焦る。
勢い良く体を引っ張り上げる度、汗が大きく跳ねるのが恐ろしい。
イェルケルは、汗、手につくな、とそれだけを念じながら手を伸ばし、足を出し、スティナの後を追い続ける。
不意に、スティナの姿が見えなくなる。
大いに焦るイェルケル。スティナは? 落ちた? 縄には反応無し。つい駄目だと言われた下を確認しようと首を伸ばしかけたところで、上から声が聞こえた。
「殿下! ほら! 後少しっ!」
それがスティナのものであったことに安堵し、言われるがままに後少し、頑張って手を伸ばす。
掴む。が、最後の最後で汗のことを忘れていた。手の平のそれは冷や汗だったのか。よくわからないが、イェルケルは体を支えきるには握力が足りない、と他人事のように思った。
下から足を押す力が加わり、上からは手首を掴み上げる力が。
「大丈夫です殿下! さあ後体一つ分ですぞ!」
「引っ張り上げますから合わせてっ!」
せーので最後の一登り。イェルケルは崖の上に転がり込んだ。
腕が痺れ、息が乱れ、どうしようもなくその場に倒れ込んだままのイェルケル。
そんなイェルケルをアイリが満面の笑みで上から覗き込む。
「いやぁ、お見事! 最後に気を抜いたのはご愛嬌として、まさか一度も手足を踏み外さず登りきるとは! ははは! 殿下も騎士学校で充分に鍛えてこられたようですな!」
スティナも穏やかに頬を緩めている。普段の表情にあまり愛想というものが感じられない分、こうして好意的な視線を向けられるとそれだけで驚くほど可愛らしく見えてくるものだ。
「本当、見直しましたわ殿下。ここを単独で登れるのなら残る二箇所も自力で突破できます。殿下はラノメ山を単身で突破できるのですよ」
褒めてもらって嬉しいは嬉しいのだが、それ以上に、後二回もこれをやらなきゃいけないのか、と絶望的な気分になるイェルケルであった。
崖を登り終え小休止の後、イェルケルたち三人はラノメの山を更に奥へと進む。
崖の上はそれまでとは違い木々がほとんど生えておらず、ごつごつとしたむき出しの岩肌が続いている。
木々や草藪が無くなった分、歩き易くなったかといえばそんなことはまるでない。
人の身の丈を軽く超える大きさの、奇怪な形をした不揃いの巨岩がそこら中に転がっていて、これらを時には乗り越えて進むため、かかる労力は林中を移動していた時の比ではなかった。
もちろんこれは、あくまでイェルケル視点での話である。
岩の上端に手をかけ必死に身を引き上げるイェルケルは、荒い息を漏らしながら岩の上で待っている二人を見上げる。
「……剣の腕云々じゃないよな。そもそもの基礎能力が違いすぎる……」
イェルケルが登ったのを確認すると、アイリはさっさと次の岩の上に跳躍して跳び乗った。見るからに簡単そうにそうしてくれたが、跳んだ距離も尋常ではないし、そもそも岩の高さを考えるにもし失敗でもしたらと思うとおいそれと跳ぶなんて真似はできまい。
イェルケルならばその岩に乗るのに、一度今の岩から降りて再度その岩に登りなおさなければならないのに、アイリはジャンプ一つで簡単に移動してしまうのだ。
小柄なだけあって身軽さは相当なものだ、とイェルケルはなんとも言えない顔で、元気にこちらに手をふっているアイリを眺める。
イェルケルの側でスティナは、ばつが悪そうに頬をかいている。
「あの子、あれで悪気は無いんですよ。その、殿下に良いところを見せようとしてるだけで、それがどう考えても逆効果にしかなってないんだとしても」
「いやー、凄いとは思うよ、本当に。私にもできるんじゃないのかー的な視線を向けてくるのさえ自重してくれれば、もっと良いんだけど」
「……悪気は、無いんです……もう、ほんとあの子ってば……」
スティナはイェルケルに先立って岩を降りると、次のアイリが乗っている岩に手をかける。イェルケルもすぐに続き、ひーこら言いながら岩から降りる。
さっきの崖登りもそうだが、体格が比較的似通っているスティナが先を行き動き方の見本を見せてくれるので、イェルケルは随分と楽ができている。
ありがたい、と考えてふと思いつき口を開くイェルケル。
「なあ、スティナはアイリがやるように跳んで移動できるのか?」
跳躍には死ぬほど不向きな塊を二つほど胸に抱えてるスティナであるし、アイリとは体の重さも全然違うだろうから無理だろうな、と思っての台詞であったが、スティナは事も無げに答える。
「お見せしましょうか?」
言うが早いかスティナの体がイェルケルの視界から消え失せる。
直前のスティナの挙動が僅かに沈み込むものであったことから、イェルケルはまさかと思いつつも上を見上げる。居た。
一瞬で、全身がイェルケルの視界から消えてなくなるほどの高さをスティナは跳んでみせたのだ。それはスティナ自身の身長よりずっと高いもので、それでも岩の上にまでは届かないのだが、岩壁についた片手をリズミカルに引き寄せると勢い良くスティナの全身は真上へと引き上げられる。
岩壁に突起らしい突起なんて見えない。なのに、スティナの手には吸盤でもついているのか、真横から添えるだけで跳躍に耐えるだけの支えとなったのだ。
二度目は右足が岩壁に触れ、三度目は左手が。全部で四度の跳躍で岩の上へと辿り着いたスティナ。見事すぎる曲芸で登頂に成功したわけだが、当人はそれを大したことなどと欠片も思っておらず、上に辿り着くなりすぐにぴょんと、岩から跳び降りる。
城より脱出する際跳び降りた三階の窓より高い。だが、やはり今度もスティナは音も無く綺麗に着地をしてみせた。
「ねっ」
同意を求めるように気安くそう言われたところで、イェルケルに返事などできようはずもなく。
「……せめてもスティナだけは、私にも真似しろって顔はしないでくれよ。それ以上は望まんから」
イェルケルたち三人は、現在山の尾根を筋に沿って歩いていた。
まず尾根の進行方向右側には、急な角度と風とに流されたか、視界を遮る岩もないまっすぐな斜面が続く。見るだけなら、ここを滑り進むのが楽なんじゃないかという気になるが、命は惜しいので絶対そんな真似はしない。
進行方向左側は日の光が当らず薄暗くなっている、こちらは右側に比べればまだ斜面の角度も急ではないのだが、ある程度いった所でその先が消えている。いや、見えないだけであるのだろうが、その先はより急な斜面か、もしくは崖か。いずれロクでもないものがあるだろうと予測される。
景色は良い。ラノメ山はカレリア王国で最も高い山であり、その山頂付近に居るのだから、言うなればカレリア王国で最も高い場所に居るようなものだ。また周辺は全くといっていいほど人の手の入らぬ土地であり、自然の自然なる美しさを見るに最も適した場所であろう。
眼下に広がる壮大な風光明媚さが細部に至るまでくっきりと映って見えるのは、惜しげもなく降り注ぐ陽光が故だ。
スティナが、運が良い、と言っていた天気の良さのおかげで、風は強いがそれ以外に空よりの妨害は無い。
スティナとアイリの二人は散策気分で尾根を歩く。残るもう一人、イェルケルだけはそんな暢気な気分にはなれないが。
「……臆病者の謗りを覚悟で言わせてくれ、二人共。この地の風は、これ以上強くなることはあるのか?」
びゅうという風切り音のせいで声がよく聞こえないので、イェルケルは大声で泣き言を漏らす。
イェルケルが心底から怯えているのはわかっていたか、スティナは意識して真面目くさった声になる。
「今日は天気も良いですし、しばらくはこのままの風でしょう。もちろん、時間が経てばその限りではありませんし、今の風の強さは幸運故と考えてください」
イェルケルの顔がより引きつったものになる。
現状の風の強さですら、イェルケルは歩きながら姿勢を維持するのに大変な労力を要しているのだ。もちろんここでバランスを崩せば尾根から滑り落ち真っ逆さまだ。崖から落ちても鍛えてるせいで無事な人間もいるらしいが、イェルケルはどれだけ鍛えようとその域に達せる気がしない。
「こ、これが、ふ、二つ目の難所か。まったく、生きた心地がしないぞ」
スティナはアイリと顔を見合わせた後、取り繕うように言った。
「え、ええ、そうですわね……その、殿下は山歩きはあまり経験が無いので?」
「領地の側にあった私がよく訓練に行っていた山なぞ、ここと比べれば盛り土と変わらんだろうよ。こんな所、良くもまあ歩こうという気になったものだ」
アイリが何かを言おうとしたのを、スティナが視線で止める。スティナは勇気付けるように言った。
「尾根はそれほど長くはありません。もう少しの辛抱ですよ」
苦笑いで答えるイェルケル。スティナは少し考え込んだような表情になった後、おずおずとイェルケルに訊ねる。
「あの、殿下もしかして……」
そこで尾根の遥か上空を山ならではの速度で走る雲が、イェルケルの頭上に影を落とす。
同時にこれまでで一番の風が真横より吹き付けてきた。
それは、ここまでの道中を突破してきた体力ならば、問題にもならぬだろうと思えたもので、実際崖を登ったり大岩を上り下りする方がよほど大変な程度の風であったのだが、こんな夢にも想像しなかったほどの高い場所を生まれて初めて歩き、恐怖と緊張で硬くなっていたイェルケルの体勢を崩すには充分なものであった。
イェルケルが、あれ、と思った時にはその両足は大地を離れていた。
「殿下!?」
強風に吹かれ宙を舞うなどという経験は、それこそ山にでも登らねばそうそう巡り合うことも無いだろう。
どこか心地良いとすら感じられる浮遊感に身を委ねながら、イェルケルはぼんやりとそんなことを考えていたのだが、斜面に落下し激突した瞬間暢気な感想は吹っ飛んだ。
まず真っ先に思ったことは、下が無い、である。通常なら手なり足なりをついて転がる勢いを止めるのだが、そのつくべき地面が無いのだ。あるのは壁だけで、これを掴もうにも転がる速度が速すぎるのと角度が悪いのとでまるで上手くいかない。
既に転がる速度はイェルケルが制御できる速さを超えている。右も左も上も下もわからない。あちらこちらから次々と壁が迫ってきてイェルケルにぶつかってくる。
もう痛いのが足なのか腕なのか頭なのか胴なのか。それに今は痛いより恐ろしい、だ。こんな速さで転がって、止まってしまうほどの何かに激突したらエライことになる。
止まれ、でも止まるようなモノこの先にあるな、と一見矛盾したようなことを当人は真剣に祈りながら斜面を転がっていくイェルケル。
イェルケルも見ていたはずだ。
彼が転がったのは尾根の進行方向左側。そちらは斜面の先が、ある箇所より見えなくなっており、そこより先は斜度が上がっているか、上がり過ぎて崖化してるかのどちらかであることを。
それを思い出せぬほどイェルケルは動転しており、だから聞こえてきた声の意味がすぐには理解できなかった。
声はすぐ近くより発せられていた。
「殿下! 下は川よっ! 下手したら死ぬから気合い入れてくださいね!」
直後、脇腹に今まで味わったことの無い、信じられぬほど強烈な衝撃が。
全身は大きく宙を舞い、そこでようやく、イェルケルは自らの現状を理解することができた。
長く続く斜面が見える。ずっと奥に山の尾根が見え、自分がそこから転がってきたのだとわかる。
そして、今いるのは空中高く。斜面は途中で途切れ、やはり予想していた通りその先は深い谷になっている。その谷底に向かって、現在イェルケルは落下している最中であった。
重苦しい轟音は耳元を風が切る音。風がこんなにも不気味で恐ろしい音を鳴らすなんて知らなかった。
そんな聞くに堪えない騒音に混じり、透き通った高音が聞こえる。
「殿下! 足を真下にぴんと伸ばして! 水に落ちるよう蹴飛ばしたから後は着水失敗しなきゃなんとかなる!」
ああ、あの最後の瞬間のアレ君が蹴飛ばしてくれたのかこんちくしょう、とか思いながらも言われるがままに体を伸ばす。そして、何故に君までココにいるんだと言い返そうとしたところで、イェルケルの意識は完全に消失した。ここまで堪えてきたのが奇跡のようなもので、さすがに着水の衝撃まで耐えるのは無理があった模様。