039.アルハンゲリスク史における最も不運な砦
「まだニクラスは戻らないのか!」
ビボルグ砦の中、会議にも使える大きな部屋で、この砦の最高責任者ロニー・エステルバリは配下の兵士に向かって怒鳴り散らす。
予定の時間になってもニクラスは戻ってこず、カレリア領内に多数忍ばせてある諜報員たちからの連絡も無い。
こちらはニクラスの裏切りで全て捕捉されたのだが、それをロニーは知る由もない。
ロニーはアルハンゲリスクでも有数の貴族の子弟だ。
とはいえ跡取りではなく三男であったので、軍務につけて身を立てさせようと彼の実家は考えていた。
それ自体はロニーにも異論は無い。
だが、それでこんなド田舎の最前線に送り出されるのは我慢ならないことであった。
酒も女もロクなものがなく、そもそも話の合う貴族が一人もいない。
皆貴族らしい振る舞いも心得ぬ野卑で野蛮な者たちばかりだ。
兵士の中にはエステルバリ家を知らぬ馬鹿者すら居たほど。こんな場所で軍務の経験を積めと言われても、ロニーには全く納得ができなかった。
さっさと手柄でも立てて中央に戻ろう、そう考え、ロニーは軍に入る前から共に悪さをしてきた、ロニーに悪事の大半を教え込んでくれたニクラスを連れてきたのだ。
この男、とにかく目端が利くし、悪知恵も大層働く。ロニーは何かにつけニクラスを頼りに、自分のわがままを通して来た。
このロクな娯楽も無い地方砦で、それでもロニーが楽しみを持てたのはニクラスが居てくれたおかげだ。
彼の悪巧みはいつだってロニーを楽しませ、そして利益をもたらしてくれる。
一年間もの長きに渡ってここで生活することを納得したのは、ニクラスがカレリア領内で暴れて回ることがロニーの武勲に繋がってくれていたからだ。
噂に名高きマティアス将軍ですら、ロニーとニクラスのこの仕掛けに一年間も対応できぬままであり、そのことが中央に伝わる度、ロニーの武名は高まっていったのだ。
こんなお得な状況、そう易々と捨てられるわけがない。
だが、このような事態はここに来て初めてだ。
さんざカレリアの者に侮辱された挙句、ニクラスは行方不明になってしまっている。
もし、ニクラスが殺されていたら、と思うとロニーは怒りで全身がはちきれそうになる。
あれほどロニーに利益をもたらしてくれる男は他にはおるまい。
ロニーの大切な手札であるのだ。
これを失わせた者がいるのなら、何がなんでも償わせてやらねばならない。
自分もカレリアの副官を殺していることは、ロニーの考慮の内には無い。
そういう男だ。
結局ニクラスは戻ってこぬまま、次の事件が起こる。
カレリアが軍を動かしたのだ。
最初にその報を受け取った時、ロニーは腰を抜かさんほどに驚いたが、兵数が五十と聞いて今度は逆に怒り出した。
ニクラスを動かしたことに対する当て付けだと思ったのだ。
だが、その当て付けの軍が国境を越えビボルグ砦に迫っていると聞くと、喜び勇んで兵を出そうとした。
これは副官のミカル・ニリアンが止めたが。
「たかが五十程度に何を恐れるか!」
「たかが五十程度でこの砦に来る馬鹿がありますか。ここは当然伏兵を警戒する場面でしょうに」
「だっ、だがっ! ここは我らがビボルグ砦だぞ! 兵たちがカレリアの連中を見落としたとでも言うのか!? ありえん! ここの哨戒網をどうやって抜けてきたというのだ!」
「それを調べるのもそうですが、連中の目的もわからないままです。そんな段階で砦を開いて兵を出すことがどれほど危険か。既に状況は他砦にもロシノにも伝えてあります。ここはじっくりと敵の出方を見定めるべきでしょう」
ロニーは貴族の子弟らしくわがままで尊大で傍若無人な男であるが、同時に貴族らしい計算高さも持ち合わせている。
まかり間違ってビボルグ砦を失墜したなんてことになれば、我が身の破滅だとよくわかっている。
だからこそ、小うるさいミカルを側に置き続けているのだ。
「クソッ! カレリアの動きは、あの馬鹿王子の指図か? 奴め、こうも堂々と国境を越えるとは……単純に考えの足りぬ馬鹿であるという可能性はあるか?」
「突発的であったはずのあの状況で冷静に事態を捉えるだけではなく、ロニー様を挑発し、こちらの諜報網を潜り抜けながら女騎士三人を囮に、ニクラスと盗賊役をおびき寄せ全滅させる男ですぞ。断じて、甘く見てはなりません」
自分の失策を指摘され、ロニーは手ずから斬り捨ててやりたくなるほどの怒りを覚えるもなんとかこれを堪える。
今ミカルを失うわけにはいかない。
この男の軍務における判断はマティアス将軍に抗し得るほどのものであるのだ。
元々、ニクラスが作り上げたヴァラーム周辺に広がる諜報網を頼りに様々な活動を行い、カレリアを翻弄してきたのだ。
それが、あの王子には全く通用しない。
そうなってくると、事はロニーの得意とする謀略の領域から離れてしまう。
苛立ち収まらぬロニーは、捕らえた奴隷でもいたぶって憂さを晴らすか、と酒瓶を手に地下室へと向かう。
その途上で、ロニーは騒ぎを聞きつけた。
兵士たちの品性に欠片も期待していないロニーは、また連中が野生にでも返ったか、と忌々しげに騒ぎから遠ざかろうとしたが、今日の騒ぎは度が過ぎている。
あれらを管理するのはミカルの仕事だ。
怒鳴りつけてやろうと思って騒ぎの中心を探す。
それは、城壁の上で起こっていた。
多数の兵士が城壁の上に集まって騒いでいる。
この段階でもまだロニーは事の重大さに気付いていない。
だが、城壁上から一人の兵士が放り出され、大地に激突し潰れたことで、これは緊急事態であると認識する。
「なんだぁ!?」
急ぎ城壁に向かう。
途中、大慌てで走る兵士をとっ捕まえた。
「おい貴様! いったい何事だ!」
「あん!? ってうお! ロニー様! 敵です! 敵襲です!」
「何い! 敵っておいまさか城壁上に乗り込まれているのか!?」
「はい! 兵士は皆城壁に集まるよう指示が出ています!」
「馬鹿野郎! はいじゃねーだろ! 見張りはいったい何してやがったんだ!」
「わかりません! 気が付いたらもう見張りはほとんどやられちまってたそうで」
ふざけるな! と怒鳴りながら兵士たちの動きを見ると、城壁上には多数の兵士たちが向かっており、城壁を降りてすぐの場所には中隊指揮官がいて兵に指示を出している。
また敵に乗り込まれたらしい場所以外にも城壁上に警戒の兵が配備されていて、城の中を伝令が走り回っているのが見える。
「よし、ミカルが動いたな」
これなら自分は下手に動くことは無い。
ロニーはミカルが指示を下しているだろう城内の指揮所に向かい、部屋に入るなり怒鳴った。
「ミカル! 何が起きた!」
「ロニー様! 敵襲です! 城壁を越えて敵が侵入してきました! 現在兵たちが迎撃を行っていますが、戦果はあまり芳しくありません」
「ちっ! 他はどうだ!」
「襲撃は一方向のみ、敵援軍の姿はありません。ロニー様、気を落ち着けてお聞きください」
「ん? 何だ?」
「敵は四人。城壁をよじのぼって城壁上に辿り着き、城壁上に居た見張り全てを殺し、今現在も、被害は拡大し続けております」
「は? 四人って、一、二、三、四、の四人か?」
「はい」
「見張りは二十人以上いただろ」
「現在百人が城壁上にあがっていますが、止められる気がしない、との報告があがっております」
「なんだそれは! 熊でも襲ってきたというのか!?」
「熊ならとうに仕留めています。敵は先日我々がヴァラーム城で見た、王子イェルケルと三人の女騎士です。全員が、熊なぞ足元にも及ばぬバケモノたちです」
「お前は私をからかっているのか!」
「…………冗談で兵は死にません。城壁下にも既に二十を超える兵士の屍が転がっておりますので、お疑いでしたらそちらの確認を」
二人がやりとりしている間にも戦況は動く。
報告の兵士が駆け込んできた。
「敵の阻止に失敗! 敵は四人とも中庭まで降りてきてしまいました!」
中庭ならば今この建物の部屋の窓からも見える。
ロニーはミカルと一緒に窓に駆け寄る。
居た。
しばしの間、二人は四人の戦士の戦う様に見入ってしまいぴくりとも動けなくなっていた。
基本的に、砦の中での攻防ならばそうややこしいことは無い。
なのでわざわざミカルが指示を出さずとも軍はきちんと動いてくれる。
だから今、イェルケルたち四人を取り囲んでいる軍の動きは、ビボルグ砦の兵たちができる最善の動きである。
それらを苦も無く粉砕し、突破し、蹂躙する四人の剛勇は、ロニーにもミカルにもそれが真実のものであると理解できた。
これは夢や幻などではないのだと。
生唾を飲み込みながら、先に硬直から復帰したのはミカルだ。
彼の声でロニーも正気に戻った。
「まずい、ですロニー様。あれは、正直、止める術が思いつきません」
「矢だ! 矢ならばどうだ!」
「あんな速く、しかも止まらず動く標的を狙える者なぞ居ません。いや……それ、なら、一縷の望みぐらいは……ですがその前にやるべきことがございます」
「な、なんだ? 手があるのなら……」
「貴方は今すぐこの砦からお逃げ下さい。そしてここで起こった出来事をロシノの街の太守様にお伝えするのです。アレは、充分な備え無しで迎え撃ってはとんでもない損害を被ります」
「ば、馬鹿を言うな! 真っ先に逃げるなんて真似をしたら、都中の笑いものになるぞ!」
「では貴方が残って私の代わりに死にますか?」
「んなっ! し、死ぬ、だと?」
ミカルは配下に彼が思いついた戦術を説明し、すぐに実行に移すよう命じる。
「ええ、死にます。この策もどこまで通用するものか……どちらかが残らねば兵の士気は保てません。かといってここまで尋常ならざる事態を、そこらの兵に説明させるわけにもいきません。どちらかが行き、どちらかが残るしかないのですよ」
攻め込まれる前にこの異常な戦闘力を知っていたのならまだ対応策もあったのだが、今、既に砦の中に攻め込まれ多大なる犠牲者を出した後では、ミカルにも万全の策なぞ用意できようはずもない。
ですから、と言葉を繋げたところで、ロニーがミカルの方を見ていないことに気付く。
ロニーの視線の先はあの四人に向いており、内の一人、スティナが微笑みと共にこちらを見ていたのだ。
ミカルは直感で悟る。
あれは狙いを定めた肉食獣の目であると。
「ロニー様! 急ぎ出立を!」
「お、おうっ!」
ロニーの腕を引っ張って窓から離れさせる。
ミカルは配下の信頼できる兵にロニーを頼み、すぐに砦を脱出するよう命じる。
攻防の激しい表を避け、ロニーは城の裏口から外に。
厩は表門の方だ。
なので馬は諦める。
事の重大さを理解している兵は、真剣な表情でロニーの手を引き続ける。
だがロニーは、ここで逃げ出してしまった後のことを想像してしまい、足取りが重い。
「ロニー様! ミカル様と皆の犠牲を無駄にされますな!」
兵士はロニーの足が重いのは皆を見捨てる罪悪感故だと思ったらしくそんなことを言ってきたが、ロニーはそこに一切頓着していない。
ここで被った多大な損害を如何にして取り返すか、そんなことを考えながら逃げていたのだ。
逃げた後の責めを避けるには、報告のため逃げ出したではなく、何か砦を離れなければならなかった理由を作り出してしまえばいい。
そう思いつく。
良し、と先の展望が立ったので、ロニーは足を速める。
それに安堵した兵もまた走った。
裏門。
ここは完全に閉ざされており、開くのには門脇の小塔に入って鉄鎖で作られた仕掛けを回さなければならない。
兵士は当たり前にそちらに向かい、大きな装置を回して裏門を開いていく。
まだか、まだか、まだか、と裏門のすぐ前で待つロニー。
どうにか人一人が抜け出せる隙間ができるなり、これに身を滑り込ませ外に出ようとする。
その腕を掴まれた。
「なんだ! 俺はいそいで……いる……」
ロニーの腕を掴んだ女、スティナは言った。
「そう? なら、これでもう急がなくても良くなったわね」