034.王子、責任者を押し付けられる
ヴァラーム城は優美さの欠片も無い無骨な城壁に囲まれた、正に最前線の城といった造りである。
隣国、アルハンゲリスク大公国との国境にあるこの城は、幾度の包囲を受け止め蹴散らしてきた。
以前起こった内戦の折、アルハンゲリスク大公国は大公の娘を第一王子ウルマスに嫁がせていたことで、今の宰相アンセルミの反目に回った因縁があり、カレリア王国とアルハンゲリスク大公国とでは外交関係はあまりよろしくはない。
内戦時、軍を動かしたアルハンゲリスク大公国に対し、その侵攻を食い止めたのはここヴァラームの城であった。その時の将軍が、名将の誉れ高きマティアス将軍である。
イェルケルはマティアス将軍の副官の一人としてヴァラーム城に赴任することになったのだ。
だが。
「どうしてこうなった」
そう零すイェルケルは、ヴァラーム城の一角に騎士団団長に相応しい豪華な一室を執務室としてあてがわれ、その部屋の主の椅子に座り、目の前の机にうず高く積まれた書類を見て呆然としていた。
紙は五十年以上前に極めて安価な紙の作成法がカレリアへと伝わり、以後、公文書に限らず多方面で用いられるようになっており、今では民間でも気軽に使用できるほど普及している。なので、公務においては今のイェルケルのように、文字通り紙に埋もれるなんて目に遭うこともそれなりにはあるらしい。
室内にはイェルケルの机以外にも三つの机と椅子が用意されており、その内の一つにアイリが座している。
「殿下、事情の把握はスティナたちに任せ、我らは一刻も早くこれらを処理しませんと」
「しないと、どうなるんだ?」
「城壁の改修やら兵の訓練計画やら偵察任務やらが滞ります」
「いやそれおかしいだろ! 私が着任したのって今日の朝だぞ! なんで昼前にはもうこんなことになってんだ!」
イェルケルがヴァラーム城に着いたのが昨日の夜。そして今日の朝城を訪れたところ、城中がある種のパニックのような状態になっていた。
いったい何事かと聞けば、現在ヴァラーム城において軍務の決裁ができる人間が一人も居ないとのこと。
そこにのこのことマティアス将軍の代行権限を持つイェルケルが顔を出したところ、軍関係の事務処理担当役人たちがよってたかって決済待ちの書類を持ち寄ってきたのだ。
この城に来たばかりで判断なぞつくはずがないとイェルケルは言ったのだが、急ぎの分だけでもどうにかしてもらわないと、軍務が全て止まってしまうと懇願される。
アイリが幾つかの書類に目を通し、これぐらいならば、とイェルケルに進言したため、仕方なくイェルケルはこれを引き受けた。
当初、イェルケルたちはあてがわれた一室で執務をしていたのだが、途中でアイリが一度席を立った。
そして戻ってくるとイェルケルに仕事場所の移動を提案する。特に逆らう理由も無いので言われるままに移動すると、その先は資料室だった。
「我々では以前どう処理していたのかがわかりません。ならば、どうせ資料を見ながらになるのですから、こちらでやるのがよろしいでしょう」
既に確認してあったらしい、一番使うことになりそうな書類棚の側に机を持っていき、そこにイェルケルを座らせる。そしてアイリはというと、どこから連れてきたのか資料室に詳しい文官を付き合わせ、彼にあれこれと指示を出している。
最初のうちこそイェルケルが自分で資料を探しに行くこともあったのだが、時間が経つにつれ書類と一緒に必要資料も用意されるようになると、イェルケルはもう机から動かないで済むようになる。
更に、処理の終わった書類を脇に避けた時、ふと自分の机を見ると、気付かぬうちに馬鹿みたいな量の書類が資料と共に積み上げられている。
「アイリ……これは……」
「今日中に処理するものはそれで終わりですのでよろしくお願いします。残りはこちらでも処理できそうですからやっておきましょう」
見るとアイリの机にも書類が山と積まれていた。いや、これは二山、つまりイェルケルの山の倍ほどはあるだろう。
そんな山を見せられては文句も言えず、イェルケルは悲壮な覚悟で書類に向かう。
そして愚痴も内心に頑張って留める。
『これとかさあ! 演習やったその日のうちに仕上げておけばそれで済んだだろう! 後日に回すから一々資料引っ張り出したり二度手間かけなきゃならなくなるんだろ! なあ! わざわざ面倒にするってどういうことなのかなあ!?』
しかし書類に目を落とすアイリからは愚痴気配すら漂ってこないので、口に出すのは我慢するイェルケルである。
書類をめくりながら、アイリは少し機嫌よさげに言った。
「ふふっ、こういうのは久しぶりです。鈍っているかと思ったのですが、やってみれば案外やれるものですなぁ」
「アイリはこの手の書類仕事得意なのか?」
「父がとにかく無精者でしたので。まあ悪い人ではないのですが、人が足りないからと十にも満たない子供に手伝わせるような、そんな人だったのですよ」
「……わかったのか、内容?」
「わからないなりに手伝う方法を学びました。父、というより執務担当である当時の執事長があまりに哀れで見ていられませんでしたので、頑張りましたよ」
「それはまた、ヒドイ話だな」
「ええまったく。年を重ね書類の内容がわかってくるにつれ、自分がどれだけ適当なことをしてたのかに気付いて青くなったものです。そんな適当書類でもどーにかなってしまったのはどうしてだ、と考えたのが、まあ、私にとっての内治に対する最初の一歩だったような気がします」
「わかってる部下が居てくれるとさ。馬鹿な内容の命令書も、きちんと見合った形に噛み砕いて処理してくれるんだよなぁ……」
「ええ、本当に助けられました。子供心に、あまりに申し訳無さ過ぎて、ベッドで泣いたこともあるほどでしたよ。当人に言ったら笑って許してくれましたが、父に言って笑って返してきた時は遠慮なく殴りましたね」
「……仲、良かったのか?」
「まあそれなりには。あれでなんやかやと、悪い人ではなかったのですよ」
フォルシウス家の頭首は、先の内戦で亡くなっている。だが、そんな父の思い出を話すアイリはそれを辛く思うような感じは無く、思い出すことを楽しんでいるように見えた。
きっと、アイリの中では整理がついているのだろう。なのでイェルケルは別段そのことに関して言及することは無かった。
結局、イェルケル、アイリと資料室に詳しい文官君の三人がかりで集まった書類全てを処理し終えるのに、終日かかってしまった。
何も考えずただ判を押すだけならばものの二時間で済んだのだろうし、文官たちもそれ以上を期待しておらず、二時間で終わるのでよろしく、と言っていたのだが、イェルケルたちは丸一日かけてしまったのだ。
処理が終わった書類を受け取った役人たちは、イェルケルを見て苦笑しながら言った。
「いやはや、イェルケル殿下はとても真面目な方のようで、我ら一同安心いたしました。明日からもどうぞよろしくお願いいたします」
「……仕事が遅いって文句言ってもいいんだぞ」
「遅れる理由もわかっておりますれば。何、一週間もすれば慣れましょう。そうすれば効率はぐんと上がるでしょうし、我らとしましても確実な仕事の方がありがたいに決まっております」
「そうか。もし私の仕事の仕方で意見などがあったら、遠慮せずに言ってくれ。私も一刻も早くこの仕事に慣れたいのでな」
役人たちが部屋を出た後、イェルケルはアイリに問う。
「どう思う?」
「お世辞、ではないっぽいですな。また一昨日まではもう一人の代行が処理をしていたようです」
「だな。ほんっと最低限しかやってなかったけどなっ! 昨日、何かがあったということか?」
「マティアス将軍と副官が二名。居るはずなのですが、さて、どういうことなのか」
その日の夕食は城内に用意されたイェルケルの部屋で、四人で一緒に取ることにした。部屋の中を窺うような不心得者が居ないことを確認したうえで集めた情報の整理を行う。
まずは城内の兵士たちにレアが聞いた話だ。
「マティアス将軍は、どうやら王都に極秘裏に呼ばれたみたい。誰が、まではわからなかったけど、宰相がこちらを騙しているのでなければ、それ以外の人だと思う」
なんとも胡散臭い話である。が次の話はもっと酷い。城に残って代行の仕事をしていた副官の一人は、昨日、浮気相手に別れ話を持ちかけたところ、相手に寝首をかかれてしまったらしい。女は副官を殺した後自殺を試みたが幸か不幸か命は助かったようで。あまりに不名誉な話で、事実がはっきりするまではイェルケルたちにも話しづらかったらしい。
イェルケルとアイリが凄い顔になる。続くのはまだマシな話だ。
「もう一人の副官は書類仕事が嫌いらしくて、盗賊が出たっていう国境沿いの村に行ってる。もうじき戻るらしい」
これが昨日の朝の話だ。彼が戻ったら書類仕事は全部押し付けよう、とイェルケルは固く心に誓う。
そして次はスティナの報告だ。
「マティアス将軍って、どうも元帥と昵懇らしいわ。宰相閣下が呼んだっていうんじゃなきゃ、将軍呼んだのは元帥でしょうね。なんのつもりかはわからないけど、良い予感はしないわ」
「いや、幾らなんでもここ国境の城だぞ。そんな……まさか、なあ」
「副官が一人でもいれば守るには充分、ってのがこの城の連中の見解みたいね。商人たちも大した不安もなくこの街まで来るし、住民もまるでアルハンゲリスクのこと恐れていないわよ」
これにはアイリが異を唱える。
「待てスティナ。国境の村からは度々陳情が上がっているぞ、アルハンゲリスクへの対策はできているのかと」
「んー、城壁の内と外の差ってことかしら」
「……一概に言えることではないが、わざわざ陳情上げるほどなのだから、何かしら実害がある、と考えるべきかもしれん」
少し話が逸れてきたのでイェルケルが元へと戻すと、すぐにスティナも倣う。
「マティアス将軍がここを離れたのはいつだ?」
「三日前。まー、つまるところ、王都から最速の便なら、私たちに命令が下った後に将軍に手紙を出しても余裕で間に合う。丸一日以上猶予があるんじゃないかしら?」
「即日極秘裏に王都に戻れなんて命令、そう簡単にできるものか?」
「そりゃ、この短期間に連続して二度も反乱騒ぎ起きてますから。もしそういう命令が来ても、受ける側としては真剣に受け取らざるをえないでしょうね。副官一人でも残ってれば国境は安泰、って思われてるってことはつまり、ココは過剰戦力であるってことでもあるでしょうし」
ふむ、と息を漏らすイェルケル。だが、そうまでして将軍をここから離してどうしようというのかが見えない。
スティナが自分なりの予測を述べる。
「副官は二人共、元帥派とは深い繋がりがあります。殿下に対して嫌がらせの一つや二つや三つ仕掛けろって言われて逆らえない程度には。それでも将軍が居れば言いなりになることもないのでしょうが……」
「どんだけ元帥は私が嫌いなんだ」
「この世から消し去りたいぐらい、ではないでしょーか」
「そこまで恨まれるよーなことかあれ!?」
「王都に報告に戻った時、私一度元帥の周辺軽く探ってみたんですけどね。もー、すっごかったですよ。親の敵か何かみたいな怒りようで。自分が仕掛けた罠を逆に武勲にしてのし上がっているっていうのが、よほどお気に召さないらしくて」
「……さいしょーかっか、どーにかしてくんないかなーあれ」
「宰相閣下最大の協力者ですから。つくづく、私たちってヒドイ立場なんだと思いますわ」
聞いてるだけでため息が出てくるような話である。ただ、元帥ほどの権力者であっても表立って仕掛けてこないのは、宰相アンセルミの目が光っているせいであろう、と自分を納得させるイェルケルだ。
いずれマティアス将軍も戻ってこようし、それまでどうにか凌げばいい話。
だが、その将軍が戻ってくるまでの短い間にヴァラーム城は、イェルケルどころか元帥や宰相ですら想像もしなかった事態に巻き込まれることになる。