204.アイリ、魔法を学ぶ
近衛の試験を突破したのが二年前のことだ。
そこからそれまで以上に血の滲むような努力を積み重ね、つい先日西方衛士長の座についたばかり。
彼は出自がそれほど高い身分ではなかったため、その身分にまるで見合わぬ強烈な自我に相応しい立場を得るためには、この道しかなかったのだ。
だからこそこうして西方衛士長となれたことは誇らしかったし、近衛の試験に受かった時に次ぐほどの喜びもあった。
そんな西方衛士長の目からは、北方衛士長エーメルの生き方はまるで理解できぬものであった。
いや理解できぬどころではない。エーメルのやり方は西方衛士長の価値観を頭から否定してくれるようなものだ。
元より地位や財ではなく、自らの生き方、戦士としてのあり方に固執する彼とはソリが全く合わなかった。それでも上司でもあったため我慢してきたが、いざこうして対等の立場に立ったと思ったら今度は近衛の職務を放棄するような真似をしでかしてくれた。
いつか追い落としてより上の立場に立ってやる、そう思って機会を虎視眈々と狙っていたのだが、彼はといえばそんな西方衛士長が何よりも重要であると思う四方衛士長の座を惜しげもなく捨てると言うのだ。
好機と思う以上に、馬鹿にされたという思いが西方衛士長にはあった。
いっそ殺されてくれればすっきりする、などと考えるほどの憎しみであったのだが、西方衛士長は知っている。近衛師範である北方衛士長エーメルの実力を。
戦い方を工夫すれば西方衛士長でも勝てる、とは思っているが、ではエーメルの戦い方を知らぬ者が戦えば間違いなく負けるだろう、そう信頼できるほど、エーメルの戦闘力は高かった。
だが、城壁下に見える景色に、西方衛士長は言葉を失っていた。
『これは、これは、いったいなんなんだ?』
近衛入隊からエーメルにはさんざんしごかれたからこそよくわかる。エーメルの剣撃の重さは見た目で測れるものではないのだ。
ほんの僅かでも弱い体勢で受けてしまえばたちどころに崩されてしまう。一瞬たりとも油断のできぬ相手である。しかるに、あの敵は。カレリア第十五騎士団団長、イェルケルなる男は、明らかに体重の乗っていない腕だけの動きで、エーメルの剣を受け止めあまつさえ弾いているではないか。
最初は本気でエーメルが手を抜いているのでは、と疑っていた西方衛士長であったが、あのエーメルの表情は冗談で出てくるものではなかろう。
そして、エーメルの遅く見えるくせに実際はとんでもなく速い剣を、こちらの意識の裏をすり抜けてくるような巧みな剣を、易々と捌いて見せるあの技量。
単純な剣技だけで言うのならば、エーメルは近衛随一と言っていい。その男を、こうまで見事に完封する戦士。しかも、彼は一切の魔法を用いていないのだ。
『こんな馬鹿なことがあっていいのか。エーメルだぞ。迅雷とまで呼ばれたあの男が……』
自分で考えて気付いた。そう、まだエーメルは迅雷と呼ばれる所以であるあの魔法を使っていない。
雷を剣に纏い、受けどころかかすめるだけでも致命傷となる必殺の剣。放つが素人ならばそれですら防ぐ手はあろうが、これの使い手は近衛北方衛士長エーメルなのだ。あの男にこれだけの優位を持たせて勝てる道理があろうか。
眼下のエーメルもイェルケルなる男の強さに覚悟を決めたのか、普段剣の勝負であれば決して使わぬ、かの必殺剣を構える。
魔法の発動は斬りつける直前に行なうようだ。そうまでの警戒が必要と彼は判断した。西方衛士長も全く同じ考えだ。
『よし、いいぞ! 奴に見せてやれ! 近衛にその人ありと謳われた貴様の剣を!』
いつの間にか西方衛士長はエーメルへの憎しみも忘れ、一心不乱に彼の戦いを見守っていた。
そして、西方衛士長が心中にて叫ぶ。
『今だ!』
隙と呼ぶにはあまりにか細い優位点。それでも、エーメルがこつこつと積み上げようやく作り上げた強い体勢で打ち込むことができる猶予だ。
ほんの微かな隙ではあるが、それだけの間があればエーメルならば魔法の発動も行なえる。発動が成ってしまえばもう止めるも受けるも避けるすらできぬ。だからこその必殺の剣だ。
技への入りはもう、惚れ惚れするほど見事な動きで、西方衛士長には振るわれた剣が男を両断するところまで幻視できたほど。
だが、数秒後、城壁上で観戦していた全ての魔法使いが驚愕に呻き声をあげる。
イェルケルは斬れず、斬れ飛んでいたのはエーメルの腕と剣であった。
あのエーメル最速の剣すら及ばぬ、神速の剣がエーメルの必殺剣に向け放たれ、頭上高くへと剣を腕ごと飛ばしていたのだ。
高く高くへと飛び上がった剣が大地に落着する前に、イェルケルの剣はエーメルの首を刎ねていた。
西方衛士長は思い出した。かつて近衛最強と呼ばれていた男、ゲイシル様がエーメルに稽古をつけてやっていた時だ。
エーメルの必殺剣に対し、より勝る速度でこれを払い落として彼に言ったのだ。必殺の剣は威力を頼るあまりその前後の動きが単調になる、と。だがそう言われてからもう何年も経っている。あのエーメルが欠点をそのままにしておくはずがない。
それでも、少なくともあの男にとっては、エーメルの改善した技もまたゲイシル様が言ったように、甘く単調なものに感じられたのかもしれない。
既にゲイシル様も老いて久しい。今や近衛最強の一角となっていたエーメルを、こうも見事に討ち取る者がいるなどとは。
信じられぬ思いで呆然とこれを見下ろす西方衛士長。
だが、程なくして残る三人の内二人も討ち取られていく。いずれも近衛の名に恥じぬ優れた魔法使いであった。
そして最後の一人となった男は、口惜しそうな表情でありながら構えを変える。それを見て、相対していたチビ女、胸の小さい方は豪快に笑った。
「よせよせ、せっかくの晴れ舞台であろう。わざわざ苦手な戦い方をするものではない。つまらん面目なぞ捨ててしまえ。貴様が、最も強い貴様でいられる戦い方を貫くがいい。さすれば、いかなる結果にも後悔は残らんだろうよ」
最後の一人になってもしぶとく残り続けるような戦いはみっともないのでは、そういった考えがあったのだろうが、チビ女の言は正しい。それは魔法使いたち誰もが思ったことだ。
一人残ってしまった恥ずかしさなぞ打ち捨てて、全てを出し切りありったけで戦ってほしいと誰しもが思っていたのだ。
彼の戦い方は、その魔法で鎧と剣を極度に硬くし、持久戦に持ち込み体力勝負を挑むこと。そのために彼の能力は特化されていた。
結局、チビ女の猛攻により体力を極限まで搾り取られ、鎧の硬度を保てなくなり倒れたが、見ていた誰もが彼を命惜しさに生き汚く粘ったなどとは思っていなかった。それはきっと、戦っている殿下商会の連中もであろう。
城壁上でこの戦いを見守っていた近衛は三十人。
その全員が、最後の一人を倒した殿下商会四人が呼吸を整えた後、その姿を見失ってしまった。
城壁上から見ている関係上、死角はすぐにわかる。そこに近衛三十人の目をすらくらまし滑り込むというのは信じられぬものであるが、突如その場から消え失せたと考えるよりは余程現実的である。
幾人かの不注意な者、或いは危機感の足りない者が城壁から身を乗り出し眼下を見下ろす。死角とは城壁すぐ側のことだ。
城壁より身を乗り出した近衛は二人。その首が、同時に空高くへと舞い上がった。
首が失われた胴からは、飛び上がった頭部を追うように血飛沫が跳ね上がる。
そして近衛残り二十八人は見た。
城壁端、胸壁部を飛び越えてきた殿下商会四人の姿を。
いかな近衛とて、空中にあるからとこれへ魔法を放つ余裕はない。姿を見失ってから飛び掛かられるまでの時間が、あまりにも短すぎた。
殿下商会が得意とする壁跳び。これは更なる進化を遂げていて、最早壁を跳ぶではなく壁を走るといった形になっている。もちろん壁面との接地回数が多い今の方が壁を登る速度は速い。
イェルケルが口にした約束を守りながらの奇襲。これをまともにもらう形になった近衛たちであるが、しかしその目は、顔は、獰猛に笑っていた。
首を飛ばされた間抜け二人のことなぞ、最早誰も考えてはいない。
近衛の猛者四人を倒し、今また城壁を圧倒的速度で無効化したこの恐るべき戦士たちを、己が武にていかに打ち滅ぼすか。殿下商会四人の戦士に向かい、近衛たちもまた雄々しく笑いこれを迎え入れた。
『さすがに、やってくれるな』
アイリ・フォルシウスは舌打ちしながら単身街路を駆けていた。
呪われた王都ケミ。中もさぞやおどろおどろしい風景であろうと思いきや、街の中に入ってしまえば存外普通の街並みが広がっていた。
ただ常の大きな街にあるような建物が林立しているようなことはなく、大きな庭を持つ屋敷がずらりと並んでおり、街並みは基本、屋敷と道路をへだてる石壁と各屋敷への入り口が見えるばかりであった。
アイリたちは、一騎打ちにて四人、最初の一撃で二人、城壁上にて一人、城壁を降りてから一人。四人がかりで攻め込んで、まだそれしか殺せていない。
挙げ句、四人は現在散り散りとなってしまっていて、アイリは多数の魔法使いに取り囲まれている。
アイリの俊足で街中を走り回っているのだが、魔法使いの包囲をどうしても振り切ることができない。
『ちっ!』
またアイリの進行方向に巨大な壁が出現した。地面からせり上げるように伸びてくるこの壁だが、アイリの膂力ならば打ち砕くことも確かに可能だ。だが、これを展開されると当然だがその先の気配がわからなくなる。見えなくなるだけでなく、壁の厚さからか音も聞こえなくなるので、その先が全くわからなくなってしまい、近衛たちはこうしたアイリの感覚を遮断する壁を多数用いて現在の状況を作り上げていた。
『えいくそ、ならばこちらも腹をくくるしかないか』
アイリは壁の前で足を止め、意識を聴覚と視覚に集中する。
これまでも敵の位置は把握できていたが、より正確に敵の動きを見極めにかかる。
『十二、いや、十四。かなり遠くにもいるな。壁の向こう……ええい面倒な。私が壁をぶち破るのを待ち構えておるのかアレは』
アイリが足を止めたと見るや近衛たちは、逃げ道を塞ぎつつ八方よりの同時攻撃を仕掛けるべく動き出す。十四人の近衛全員が意思疎通もないままに最善の動きを見せてくる。全員己が役割を熟知している証拠だろう。
アイリに余計なことをさせぬよう、牽制の意図で射撃魔法を放ってくる。
これもまた並の魔法使いの攻撃とは一味違う。命中精度が馬鹿みたいに高く、動いているアイリにもきっちり当ててくるほどのもので。
当然止まっているアイリ相手に外すはずもなく。だがアイリもまたこれを最小限の身のこなしで受けることすらせず全弾かわしてみせる。
『牽制は十分。さあ、絶好の好機だぞ。何が来る?』
疲労から足を止めた風を装っていたアイリは、敵魔法使いよりの必殺の魔法を誘っていた。
雷光二閃。
『甘いわっ!』
アイリの反応速度が稲光に勝った。だが、雷の轟音と輝きに紛れ、黒い、小さな、針がアイリへと迫る。
こちらが射撃の本命だ。本来雷の魔法をかわされることなぞ考慮に入れる必要はない、ありえない。だが、これまでの動きを見て、そんな非常識もまたありうると近衛の猛者たちは考えたのだ。
必殺の一撃は、超長距離よりの気配すら感じられぬだろう小さな毒針。これの飛来と雷の魔法とを同時に合わせるその技術は正に近衛の名に相応しきものであろう。
殿下商会は魔法使いではない。ならば不可視の盾は使えない。だからこその毒針である。これまで得られた殿下商会の情報を、近衛は集めまとめて整理し、分析を済ませてあるのだ。
まさか王都に本当に来るとは思っていなかったが、いずれ殿下商会を打ち滅ぼす任務は近衛がやらねばならぬと皆が考えていた。
ちくり。アイリの二の腕に毒針が刺さった。さしものアイリも、この小さな針を混戦の最中見切ることはできなかった。いや、毒針を魔法使いが放つという発想に、思い至っていなかったのだ。
だがそこからが修羅の戦地を数多潜ったアイリ・フォルシウスであった。
偶々土砂なり何なりが跳ねた、そう楽観せずちくりの元を目で見た後、即座にこの部位を人差し指で弾いた。
びちり、という音は人間が肌を指で弾いた音とはとても思えぬもので。それはそうだろう、アイリは指先のみの力で、毒針が刺さった患部ごと肉を弾き飛ばしたのだから。
「猪口才な真似を!」
少し怒った口調なのは、毒の使用を卑怯だなどと考えたわけではなく、この攻撃を予測できなかった己に憤慨していたのだ。
敵位置の確認に要した時間はほんの一瞬のこと。アイリは剣を大地に突き立てた後、懐より短剣を抜き、両腕を振り回しながら大きく身体を捻る。
何をするつもりかは一目瞭然。だが、本当にそうできるなんて誰も思っておらず、魔法使いたちは完全に虚を突かれる。
近衛となる程の技量を持つ魔法使いが最大射程にて放った魔法の毒針である。不可視の盾がない前提であるからして、威力は低くても構わないという距離だ。
そんな超遠距離を、短剣の投擲でどうこうしようなどと。しかも相手は魔法使いである不可視の盾持ちである。
まさか、本気か、届くことすらできまい、そんな彼等の思考を他所に、アイリは全身を高速で回転させつつ短剣を投げ放った。
投げる瞬間、踏みしめた大地には放射状の亀裂が走る。
短剣ではなく、アイリの身体が風を切る音が殊更大きく聞こえた。
そして、結果はわからない。あまりに遠すぎて、魔法使いたちにもその位置は見えないのだ。だがアイリはというとすぐに剣を地面より抜き動き出す。
魔法使いも間抜け顔を晒していたわけではない。必殺が破られたと知るや、近接担当が即座に動いていたのだ。
これまでアイリの前では絶対に見せなかったその圧倒的速度で、男はアイリへと迫る。
男の武器は両腕外側に沿うように据え付けられた、鮫の歯のような刃である。こんな特異な刃では、殴り抜けるような形でしか敵は斬れまい。もちろんそれは拳が届く距離まで踏み込む必要があるということだ。
剣や槍が相手では圧倒的に不利がつく武器だ。だが、この男にはこれこそが相応しい。
アイリの踏み込みすら凌駕する速度なのだ、この男の飛び込みは。或いは、テオドル・シェルストレームの得意技である急加速に匹敵するやもしれないほどで。
この速度で敵側を駆け抜けつつ斬る。そうしながら武器が折れない、そんな武器を必要とした結果のこの奇妙な刃であったのだ。
アイリに許されたのはほんの僅かの間のみ。だが、移動速度は男が勝ろうが、反応速度はアイリが上だ。
『目が追いきれておらぬわっ』
初撃からそこまで見抜いたアイリは恐れる気もなく男に向かっていく。男はこの速度を操りきれていないのだ。そして更に言うなれば。
『剣速ならばこちらが上だ!』
アイリの圧倒的反応速度はこの男の突進にすら対応し、振るった剣は男が必殺圏内に侵入することを許さず。
袈裟に振り下ろした剣により、男は斜め下に向かって斬り潰されてしまった。
すぐにアイリはその場に倒れ込む。その背の上を雷光が走り抜けていく。
そして倒れ込んだ姿勢のままアイリが走り出すその背後を、二筋目の雷光が通り過ぎる。
歴戦の勇士である近衛の地位にありながら、二人の魔法使いは悲鳴のような泣き言を吐かずにはおれなかった。
「だからっ! 当たり前の顔で雷の魔法かわしてんじゃねええええええ! お前魔法戦闘教本百辺読み直せ! 雷の魔法は撃たれたら絶対かわせませんって書いてあんだろうがああああああ!」
「なああああんで当たらねえんだコイツはああああああ! お前の魔法未来視だろうそうに違いない! そうだって言えやクソッタレがああああああ!」
彼ら二人のすぐ前に、一人の男が滑り込んできた。
「喚くな騒ぐなみっともない! 行くぞ! 『踊る鉄柱』!」
男の周囲に、四本の鉄の棒がふわりと浮き上がる。
それは宙を飛び回り、アイリの四方より襲い掛かる。更に別の男が叫び声を上げる。
「続くぞ! 『土蛇』!」
大地が大きく盛り上がり、人間を一口で丸のみできるほどの巨大な土の蛇が飛び出してくる。
また、更に別口の魔法が展開されている。アイリが戦うその頭上に、ドス黒い雲が集まってきているのだ。
まるでおとぎ話のただ中に迷い込んだような光景に、さしものアイリも脳内ではあれど愚痴を溢さずにはいられない。
『ええい次から次へと非常識な! 貴様らこの世の理をなんだと思っとるのだ!』
四本の鉄柱がアイリのすぐ側をかすめ飛んでいく。そして、土蛇が覆いかぶさるように飛び掛かってきた。
アイリ、鉄柱の一本を両腕で掴み取る。
「んなっ!?」
魔法使いの悲鳴は、アイリの腕力に抗えなかったせいか。アイリはその鉄柱を縦に降り下ろし土蛇を真正面から叩き潰す。
土蛇が砕け散り、鉄柱の先端は勢いよく大地に叩きつけられ、そして跳ねる。
アイリは跳ねた勢いそのままに鉄柱を頭上高くへと放り投げる。凄まじい速度で回転しながら空高くにまで飛び上がった鉄柱は、アイリの頭上に集まっていた黒雲をその回転にてまき散らしてしまった。
「なんだとおおおおおおお!? そんなのアリかよ!」
せっかく集めた雷雲は、雷を落とす前に霧散してしまう。
アイリはしみじみと思った。
『うーむ。思っていたよりも魔法とは単純な造りであるようだな。ははっ、これはいい。何故そんな事象が発生するのかはわからんが、起こった事象自体には私の常識が通用するというのなら、どうとでも打つ手はあるというものだ』
アイリはこの戦いを通じて急速に、魔法への対処を学んでいっていた。
後少し、後少しである。
アイリが魔法に対し攻勢に出るだけの確証が得られるまでは。
だが、アイリの頭には一つ、不安材料があった。
『……これは、殿下とレアには、キツイかもしれん、か……』




