194.人外三人
溶岩の川を渡りきった先に辿り着くと、パニーラ、アイリ、スティナの三人はそこで一息ついた。
パニーラはすぐに魔法で敵陣の状況を把握せんとするが、唱えていた魔法を途中で止める。
三人は溶岩を突っ切ってくるなんて真似をしたにも拘わらず、帝国軍が三人のもとへと駆けてきていたのだ。
突如現れた魔法使いが、軍のど真ん中にてイジョラでも滅多にお目に掛かれぬ大魔法をぶちかましたというのに、まるで上空から見下ろす目でもあるかのような正確さでパニーラたちの動きを把握し包囲に動いているのだ。
スティナ、アイリはもちろん、パニーラですら驚きを隠しえない。
「やっべえ。コイツら、滅茶苦茶訓練してやがる。なんだってこんなクソ面倒くせえ敵が……」
乾坤一擲、意表を突いた奇襲攻撃を仕掛けたと思ったら、何度も戦ったことのあるパニーラですら驚くほどの練度の部隊であったのだから文句の一つも出てこよう。
帝国兵からの怒鳴り声が聞こえる。
「イジョラの魔女を討ち取る絶好の好機ぞ! 我らキルピヴァーラ軍の武威思い知らせてやれ!」
魔法使いには不可視の盾がある。だがこれも、十分な威力があれば貫けると彼らは知っている。だから、勝てる、殺せる、とパニーラに向かって殺到できるのだ。
キルピヴァーラという名はパニーラも聞いたことがある。イジョラとの国境からは少し離れているが武に優れた家名であったと。
「ロクに護衛も付けずとは見くびられたものよ! その浅慮! 後悔させて……」
「あ?」
「は?」
殺気だった兵士たちの足が止まった。
左右から押し包むように攻め込んできた兵士たち、全員の足がぴたりと静止してしまったのだ。
パニーラの進行方向右側より迫る敵の前には、背後にパニーラを庇うようにしてアイリ・フォルシウスが立っている。
表情からはわからない。だが、足を止めてしまった右方よりの兵士たち全てが理解している。怒っている。この、黒いドレスを着た愛らしい少女が激怒していると。
彼らは兵士だ。恵まれた体躯を持つ者も多くアイリなぞ自分の胸程もない、小娘でしかない、はずだ。
だが、彼らの目にはそうは見えていない。
熊だ。
人の血肉を覚えた、臆病さを失い、飢えた腹を満たしてやろうと見境なしに人を襲う猛獣だ。
いや、そんな人知の及ぶ存在ではない。その証拠に兵士たちの目は、アイリの握る剣に釘付けだ。
アイリの小柄な背に相応しい、それほど長い剣ではない。はずだ。だが彼らにはそれが、どこまでも大きく太く伸びているかのように見えている。
まだ剣の間合いからはずっとずっと遠いはずなのに、アイリがそのつもりで剣を振るえば、兵士たちは何をする間もなく斬り倒される。そんなどうにもしようのない死の予感が彼らを襲っているのだ。
逆に、帝国には魔法が無いことが良くなかったのかもしれない。
彼らは魔法をすら打倒するべく剣を鍛え、身体を鍛えてきたのだ。だからこそ、アイリの人間離れした脅威を、そのほんの僅かな挙動からでも感じ取ることができてしまったのだ。
怒りに震えるアイリは、最早技量を隠そうというつもりもなく、この身の程知らず共に、どちらが強いのかを教えてやろうと剣を小さく払う。
「ロクでもない護衛、とな。良くぞ抜かしたわ。おいスティナ、どうやら我らは随分と見くびられているようだぞ」
パニーラの進行方向左側には真っ白なドレスのスティナが立っている。こちらもまた背後にパニーラを庇うように立ち、足を止めてしまった兵士たちを睨み付けている。
殺意とは、殺気とは、殺されるかもしれないという可能性であろう。
スティナの目が、姿勢が、態度が、言っているのだ。
踏み出したならば、一足飛びに首を刎ねる、袈裟に千切り斬る、真横に薙いでまっ二つ、目にも止まらず背後より刺し殺す、どれでもいい、どれでも選べる、そうできると、スティナは知っているからそのように彼らを見る。
もう何百回も、何千回もそうしてきたのだ。己が身一つで、多数の敵を同時に相手取り、次々にこれを屠って回るという真似を。
スティナの全身より漂う気配からはぬめりとした血の香りがし、その背後からはこれまで斬った躯たちが怨嗟の声を漂わせる。
人間がその一生の間で殺せる人間の数、それを明らかに逸脱した量を殺してきた。故にこそ、当人に隠すつもりがなくなれば、自然と漏れ出てしまうのだ。
その圧倒的なまでの殺人者の威風が。
「油断してくれるのは大歓迎だけど、そうね、だからって、なめられるのは我慢ならないわねぇ」
そしてこんな血塗られた戦士の威圧二人分を、超至近距離から叩き付けられているパニーラさんである。
「……うわー、ねえわこれー。何コイツら。神話に出てくる、カミサマすら食っちまうよーな怪物ってきっとこーいうのなんだろーなー。俺、睨んだだけで兵士びびらせて足止めさせるとか見たことねーよっ」
軽い口調だが、パニーラもきちんとビビっている。思わず自分が全身に張り巡らせている不可視の盾を、必要もないのに強化しちゃうぐらいには。もちろんそれでこの威圧が軽減されるなんてことはないのだが。
音が聞こえた。
さして大きな音ではない。こん、こん、といった音だ。
アイリがまず、大地を剣の先で叩いた。
するとスティナがこれに倣い剣で音を立てる。
次はアイリ、次はスティナ。交互に、同じ感覚で音を立て続ける。
こん、こん、こん、こん、こん、こん……。
一回ごとに緊張感が高まっていくのがわかる。
それでも、これをなしているアイリもスティナも、薄ら笑いを浮かべるのみ。
何が起きるのか、パニーラは予測し、そして、その通りになる。
「うああああああああああ!!」
兵士たちが絶叫した。
アイリとスティナが生み出した緊迫した空気に、兵士たちの忍耐が限界を超えたのだ。
後も先もなく、ただただ雄叫びを上げながら突っ込んでくる。雄々しく勇ましい姿。だが、それは挑んでいるのではなく、招かれているのだ。
抗えず、吸い寄せられているだけなのだ。
秩序も何もない攻勢なぞ、恐怖に駆られて狂騒するのみの兵なぞ、スティナとアイリの敵ではない。
その間合いに入るなり次から次へと斬り倒されていく。
兵士たちの目に、最早パニーラの姿はない。見えていても意識の外だ。彼らは皆、必ず訪れるだろう死から逃れるために、深夜灯火に引き寄せられる羽虫のような有様で、アイリとスティナに群がり、触れることなく果てるのだ。
アイリもスティナも、優しく切断してやる、なんて真似はしていない。
戦いの邪魔にならぬよう、斬った相手は一人一人丁寧に千切り飛ばしている。二人の剣撃を受けた兵士は、二つなり三つなりに分かれながら猪の突進でも受けたかのように大きく吹っ飛んでいる。
パニーラは感心しつつも呆れながらこれを見ていた。
「お前ら護衛だろ。守れよ、攻めるな」
威風、威圧によって敵陣を崩し、パニーラを守る陣形を崩さぬままに敵を引き寄せ撃破する。目的が敵の打倒であるのだから、守るではなく攻めるで正しかろう。
最初のうちは、まだ敵の密度がそれほどでもなかったので、遠目に見る兵士たちからも、血飛沫と共に舞い踊る黒と白を目にすることができた。
だが、ここは、一万二千の軍隊のど真ん中なのだ。
それも対魔法戦闘に長けた帝国軍である。イジョラの魔女パニーラ・ストークマンが寡兵で奇襲を仕掛けてきたという話は、とうに軍司令部にも伝わっている。
ならばこの好機、見逃すはずもない。
ある時を境に、敵兵の密度が一気に跳ね上がった。スティナ、アイリをして剣一本のみでは対処しきれぬほどのものに。
パニーラは体中に漲る力に、満足気に笑いながら言った。
「おーっし、十分だ。次ぁ俺が魅せる番ってな」
パニーラは片腕を勢いよく天へと突きあげる。するとその全身から黒い煙が噴き上がり、螺旋を描いて空へと登っていくではないか。
青のドレスと黒の煙とが交互にパニーラを覆い、噴き上がる魔力の渦にドレスの裾がたなびいている。
かつてパニーラは、同じ魔法をイェルケルへと放ったことがある。その時は、カレリア国内に深く侵入していたせいで魔法は本来の威力を発揮しえなかった。
だが今は違う。ここはイジョラ国内で、パニーラの魔法は最大限の威力を約束されている。
一筋の白が空より降り注ぐ。
スティナ、アイリの剣によらず、兵が死んだ。それも鎧の内側を黒く炭化させながら。
直撃の一人以外にも、すぐ側に居た兵士二人がこれに巻き込まれ倒れた。彼らもまた二度と起き上がることはなかった。
パニーラからではない、上からの何かだと思い兵士は空を見上げる。晴れた空に相応しい青空であったはずの頭上高くに、いつの間に生じたものか灰色の雲が浮かんでいた。
雲は徐々にその大きさを広げていく。そして再び白い輝きが降り注いだ。
今度は三筋。
突撃を指揮している小隊長は、訝し気に雲を見上げる。彼はその長い戦歴の中で数多のイジョラ魔法を見てきた男だが、こんな魔法は初めて見る。
雷が空から降ってくる避けようのない恐るべき魔法だ。だがこれだけならば、押し寄せる軍を留められるようなものではない。
小隊長はいまだ空に漂う不気味な灰色の雲を見上げながら、退避ではなく攻撃の命令を下す。
不安はあった。だが、イジョラの魔法を相手にする時はいつだって、不安はなくなってはくれないのだから、それを理由に引き下がることはできない。
小隊長の懸念通り、空から降ってくる白光はその後も止まることなく、灰色の雲は更に大きく広がっていき、そして、パニーラが呟く。
「死ね。どいつもこいつも全部まとめて、この世から消え失せな」
その瞬間、世界全てが白濁したかのような錯覚に陥りながら、小隊長は死んだ。突撃命令を下した部下達諸共に。
頭上を見上げるのはスティナだ。
アイリは首を回して周囲を見渡している。
この二人と、パニーラのみが現状を把握していた。
空から雷が降ってくる。そんな魔法だ。しかしその規模はパニーラ以外の全ての者が想像していた範疇を大きく逸脱していた。
視界いっぱいに、白光が見える。空からの雷撃はほんの一瞬のみであり、その瞬間縦に光が走って見える。それが雷だ。
そしてそんな一瞬が無数に重なり合って、視界の全てを白で埋め尽くしているのだ。
その様、さながら雷の豪雨である。
恐るべきことに、降り注ぐ雨粒一つの代わりに、雷が一つ降ってくるのだ。あまりに現実離れした光景に、スティナもアイリも言葉もない。
この雷は幸い本来の雷とは違い耳をつんざくような轟音を伴わないので呑気に見ていられるが、音まで揃っていたらとんでもないことになっていただろう。
パニーラの存在が知れると、帝国軍はパニーラを討ち取るべく集まった兵とパニーラから逃れるべく動く兵とで二つに分かれた。この内、近辺に集まれていた兵は全てが死んだ。この魔法にて、範囲内に居た者はただの一人も逃さず全てが死に絶えた。
実際の時間はそれほどでもなかったのだが、見ている方からすればいつまでも終わらない奇跡を見せられているような、長い長い時間に感じられた。
空に浮かぶ灰色の雲が消えてなくなると、世界は白光ではなく青空に取って代わられ、周辺の惨状を例外とすれば、元の馴染み深い現実へと帰還した。
これだけの大魔法を用いたというのに、パニーラの表情に疲れの様子はない。
アイリは感心したように頷いている。
「うーむ、パニーラ貴様、本当に凄い魔法使いであったのだな」
「はっはっは、そーだろそーだろ、もっと褒めろ」
そう言いながら懐より紙を取り出し、パニーラはこれを空へと向けて放り投げた。紙は空中で一羽の鳥に変化し、空へと飛び上がっていく。
スティナはもうなんて言っていいのやら、といった顔である。
「……とんでもない切り札あったのね、アンタ。アンタ一人いれば落とせない城なんてないんじゃない?」
「ん? 切り札? おいおい、切り札切るのはこっからだぜ」
え、と真顔でスティナとアイリがパニーラを見る。当のパニーラはといえば、空に飛ばした鳥と視界を同調させ、敵の配置を探っている。
さすがに魔法慣れしている帝国軍であり、このパニーラが飛ばした鳥は即座に見つけられ矢を射掛けられているのだが、この鳥、紙でできているとはとても思えぬ頑丈さで、なんと命中した矢を弾いてしまっていた。
そしてパニーラは標的を見つける。敵本陣、というより小さく分散して動いている敵司令官がいると思われる部隊である。
これもまた小憎らしいことに、空から見下ろすだけではどれが司令官かまるでわからない。候補は絞っても十個以上あり、そのどれもを撃破するには既に距離が離れすぎている。
そしてパニーラは知っている。こんな司令官が逃げ回るしかないような状況においても、帝国軍司令官はどうやってか兵士たちに指示を下し続けられ、部隊潰走には至らないのだ。
地上から見える部分だけでも、帝国軍がまだまだ全く戦意を失っていないのはわかる。
スティナはとても嫌そうにぼやく。
「まーだやる気よね、コイツら。もうどうなってんのよ帝国って」
アイリはというと敵の底知れぬ戦意に、怯えるでもなく警戒するでもなく、ただ不思議そうにしていた。
「いったいどういう鍛え方したらこんな命知らずになるのだ? 意味がわからんぞ」
二人の疑問にはパニーラが答えてやる。
「昔っからさんざウチとやりあってたからな、連中は知ってるんだよ。魔法使い相手に、一瞬でも怯んだら勝てないどころか逃げることすらできなくなるってな」
まあそいつはどーでもいいや、とパニーラはスティナとアイリに次なる作戦を提示する。
先の召雷の魔法で一度は周囲の敵全てを蹴散らした三人だったが、既に次なる敵集団がこちらへと向かってくるのが見えていた。
敵は、一万二千なのだ。溶岩の魔法だろうと、召雷の魔法だろうと、それがイジョラの魔女パニーラによって放たれた空前絶後の大魔法であろうと、単身でどうこうできる数ではないのだ。
大地の上に整然と整列すれば、それこそ地平線の彼方まで人波で埋まってしまうような、一列に並び道を歩けば、先頭と末尾とで街と街を繋いでしまうような、それが一万を超える軍隊である。
これら全てが、戦い敵を殺すために最適化された集団である。それが、万を超える軍勢なのだ。
ましてやこの軍、キルピヴァーラ軍は帝国でも勇猛をもって鳴る部隊。魔法王国イジョラへと侵攻するに充分とみなされた、精兵部隊なのだ。
そして、パニーラ・ストークマンという稀有な魔法使いの価値を、彼らもまたよく理解している。コレを殺せるのなら、少なくとも帝国にとってならば千の犠牲も惜しいとは思わない、と。