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189.走る少女達


 帝国軍一万の侵攻により、東部反乱軍が影響を受けることはほとんどない。

 攻め込まれた南部には、そもそも反乱軍がほとんどいないのだ。

 だが、これを見過ごせない者もいた。イェルケルたち殿下商会の活動はそのほとんどが南部で行われていたのだ。

 イェルケルはその報せを受けた後、無言になって考え込む。

 そしてある程度自分の中で考えがまとまったところで、自らの騎士たちに問うた。


「……間に合わない。私はそう見たが、どう思う?」


 レアも不機嫌顔のままで答える。


「うん。……上手く逃げててくれるのを、祈るしかない。その後で、非道の報いをくれてやる。それしか、できないと思う」


 顎に手を当てたままのアイリに、スティナが問う。


「アイリ」

「……五分、だな」

「そうね」


 イェルケルとレアがそちらを見る。イェルケルは険しい表情で聞いた。


「間に合う可能性があるのか?」

「帝国軍が、ターヴィ将軍率いるカレリア国軍と同精度で動ける軍ならまず間に合いません。そうでないのなら私とスティナの二人でという条件付きで、連中より先に街に辿り着けるかもしれません」


 イェルケルもレアも随分と鍛えてきてはいるが、やはりスティナとアイリの基礎能力にはまだ及ばない。特に体力という面においては、大きくあけられた水を縮めることができぬままだ。

 またスティナとアイリが間に合うには敵が最速の軍事行動を取らないことが条件になる。

 更にたった二人で一万を相手にどうすればいいものかもわからぬまま。

 だが、イェルケルは即座に決断した。


「わかった。スティナ、アイリ、頼む」

「「はっ!」」


 一刻を争うのだ。二人は命じられるやすぐに身を翻して駆け出した。走りながら、身に着けていた革鎧やら剣をひょいひょいとそこらに投げ捨てる。

 本気で走るのだから、少しでも身を軽くしようという話だ。街までの距離を考えながら、スティナは隣を走るアイリに問う。


「本当に行けると思う?」

「できるかどうかは、やってみればわかるだろうよ」


 スティナは呆れ顔だ。


「そのやればわかる的思考停止、良くないわよ」

「やらなきゃわからんという意味だ、馬鹿モノっ。さすがに今回は無駄口叩いている余裕なぞないのだから、下らんことを言うでないわ」


 とはいえ二人共が、自らの限界を試すといった挑戦は嫌いではないのだ。

 やったるわー、と気合を入れて二人は走っていくのであった。






 スティナとアイリが出発して、二十四時間が経過した。

 現在二人は峠を越え終わり平野部をひた走っている最中である。

 体力おばけなこの二人とて、無限に走れるわけではない。走れば走るほど消耗するし、限界も当然存在する。

 二人共鎧も剣もない状態で、衣服はもう流れ出る汗のせいで、川に頭から飛び込んだかのように全身びっしょりである。

 表情も苦しさを隠せなくなってから随分経っている。

 もうどちらも無駄話はしていない。苦しいのを我慢するので精一杯だ。

 今の二人の頭にあるのは、後少しで次の街だ、である。

 スティナもアイリも、長時間の連続運動には水と食べ物が必須であると、その経験からよく知っていた。

 なので途中途中で街に立ち寄るようにしているのだ。この途中何度かの休息を挟んでいるからこその速度でもあるのだが、さすがに丸一日を超えると、休憩込みでの速度も少しずつ落ちてきている。

 とにかく苦しい。

 何が苦しいかと言えば、何時間も何時間も延々苦しいっぱなしなのが苦しい。

 これまでの経験から、より以上の苦しさにも耐えうるのはわかっているが、それでも苦しいものは苦しいのだ。苦しさから不機嫌になり、水や食事を露店から買い取る時もとげとげしい対応になってしまう。

 そして、食事と水の補給を済ませたならばまた走り出す。この走り出す時が特にキツイ。もう少しゆっくりしたい、また苦しい思いをするのは嫌だというわがまま、身体からすれば至極当然な欲求を振り切っていかねばならない。

 走り出した時、アイリがぼそりと呟く。


「次の街は……少し、遠い、な」


 スティナはこれを睨み付ける。そんなわかりきってることわざわざ言うなと。

 この区間が一番距離が長い。そのうえ、山の昇り降りも含まれる難所であると言えよう。

 走り続け、区間の半ばを越えた辺りになると二人共呼吸が荒く激しくなってきていて、精神的にもかなり追い詰められてくる。少なくとも今の二人の頭に、街がどうの一万の帝国軍がどうのといった思考はない。ただただ走ることだけを必死に繰り返すのみだ。

 そんな中で、今度はスティナが、ぼそりと呟いた。


「は、ははっ、苦しい、わね、これ。ねえ、アイリ、あの囚人たちも、こんな苦しかったのかしら、ね」


 思わぬ攻撃に、アイリは言葉を失ってしまった。

 囚人たちが死を賭して走ったのと、今スティナとアイリが街を守るために走るのとは、全く種類が違う。

 だが、スティナがこれを口にした意図ははっきりしている。


「くくっ、あい、変わらず。貴様はこういうのが、上手い、な」


 どんなに苦しくても、それで死ぬほどではない。それが死に至る苦痛でないのなら、どれだけ苦しくはあっても怖くはないだろう。

 ただ今を耐えられさえすれば、後のことは心配する必要がないのだ。

 厳密にはそこまで苦しい目に遭っているというのなら、それは色々と問題も異常も抱えている行為なのだから後のことは是非とも心配すべきだが、二人の鍛え上げられた肉体ならばそういった思考にもなってしまうわけで。

 自らを奮い立たせる、意地を張るための理由を、我慢し続けるための何かを、見つけて自らに言い聞かせるのがスティナは上手いのだ。

 苦しい最中、一瞬のみ二人は笑みを見せた後、歯を食いしばって走り続ける。

 これから先、あまりの苦しさから何度足を止めたくなったとしても、アイリはどこまでだって走り続けられる気がした。






 宿に客は無し。なので店を開けるのは昼からだ。

 この街は景気が良い方ではあるが、今この時、呑気にこんな街の宿に泊まる馬鹿もおるまい。

 それでも食事を取りに来る客はいるかもしれないので、宿の主人はのんびりと料理の仕込みを行なう。

 南方から帝国軍が侵入してきたと聞いた。

 まだここまで距離はある。主人の妻は、避難の準備といって上の部屋でどたばたと賑やかにやっているが、主人は避難と言われてもどうもぴんと来ない。


「ここらはエルヴァスティ侯爵様の支配地域なんだし、別にこっちがどうにかしないでも、なあ」


 侯爵様がなんとかしてくれんじゃないのかー、なんてことを考えながら、ことことと大釜でスープを煮込んでいる。

 ぼけーっとした顔で、宿の入り口に目を向けた。

 すると、宿の扉が破裂した。


「は!?」


 両開きの扉が根本より千切れ飛び、入ってすぐの食堂になっている部屋の中を凄まじい勢いですっ飛んでいく。

 用意されていた机や椅子をなぎ倒しながら二枚の扉は、壁にズガンと突き刺さった。

 そして、もう二つの物体だ。

 入口から飛び込んできた、つまり扉をぶっ飛ばした要因であろうそれらもまた、入口から飛び込んできた勢いそのままに机や椅子をなぎ倒し転がっていく。

 驚き慌て、宿の主人は厨房より飛び出し食堂に足を踏み入れる。すると、突っ込んできたのは物ではなく人であるとわかる。

 一人は、うつ伏せに倒れておりその背に椅子が一つ、斜めにちょこんとのっかっている。

 もう一人は仰向けに倒れているが、片足が倒れた机の上に乗っかっており、そのせいでか身体が斜めに傾いだ形で静止している。

 二人共、どういうわけか頭から水でも被ったかのように全身が濡れており、また二人が寝転ぶ床にもじわりじわりと水分が広がっているのが見える。

 こりゃ何事だ、と倒れた二人に近寄ろうとして主人の全身が硬直する。そう、この二人の顔を見たせいで。もちろん見覚えはある。先頃まで宿に住み着いていた、悪魔のように恐ろしい、怪物女たちだ。

 はたと気が付いた主人は、壁に突き刺さった扉を抜きにかかる。明日辺り腰に響いてくれそうな勢いで二つの扉を抜き取り、入口に急いで立て掛ける。ついでに外には本日閉店の看板を。

 そうやっていると二階から宿のおかみさんであり妻である女性が降りてくる。

 おかみさんも倒れた二人を見て目を丸くしているが、主人のように彼女たちを恐れていないので気安い調子で声を掛ける。


「おやまあ、どうしたい?」


 もちろん宿の食堂にぶっ倒れているのはスティナとアイリである。

 スティナが息も絶え絶えな様子で懇願する。


「み、水……」

「水かい? はいはい、今取ってくるよ」


 すぐにアイリが追加する。


「たるっ、樽で頼む」

「あいよー」


 よっこいしょ、と樽を持ってきたおかみさんであるが、二人は寝転がったままであるし、樽では飲みようがないのでコップに注いで渡してやると、二人は行儀悪いことこの上ないが、寝転がったままでこれを飲み干し、再びその場にぐでーと倒れる。


「い、いかん……これ、ちょっと、動けんぞ……」

「や、やり、すぎた……くる、苦しっ……ごめん、おばちゃん、ちょっと、休ませてっ」

「はいはい。まったく、若い娘さんがまー、みっともない恰好でもー」


 二人共、疲れ切った様子なのはおばちゃんが見てもわかった。とても暑っ苦しい様子なのも、まだまだ喉が渇いてそうなのも。

 なのでおばちゃんは二人に申し出てみた。


「水、頭からかけてあげよっか?」

「「是非っ!」」


 よーしまずはアイリからだよー、と樽の栓を抜きつつ斜めに倒して水をどじゃーとかけてやる。


「おっ、おっ、おおおおおおおお……こ、これは、たまらんっ……」


 はい次スティナだよー、とそちらにもじゃばじゃばーと。


「あっ、うあはっ、つめたっ、あーもうこれきもちいー、おばちゃん、天才っ」


 そうかい良かったねー、と二人に交互に水を掛けてやる。まるっきり庭木への水やりだ。

 零れ落ちてくる水を、頭からかぶったり、口に流し込んだり、もぞもぞ動いて別の場所にかけてみたりと、スティナとアイリが水遊びを堪能しているところに、ヴァロとエルノの二人が戻ってきた。

 絶世の美女二人による水も滴るほどの良い女っぷりを堪能できる好機に出くわしたというのに、ヴァロもエルノも、とても呆れたような、憐れむような、渋面を顔中に広げていた。

 エルノが心底嫌そうに聞いた。


「何してんのアンタら?」


 するとおばちゃんが怒りだした。


「こらっ、じろじろ見るんじゃないよ。男として恥ずかしくないのかい」


 ヴァロが普通につっこんでみる。


「いや、その二人こそ女として恥ずべきじゃねえのかそれ……まあ、そっぽ向けって言われりゃそうすっけどさ」


 どれほど魅力的な光景であろうとも、その絵の題には間違いなく上に『地獄の』と付くのだから、下半身より先に背筋に反応が出る。

 ヴァロもエルノも言われるがまま倒れる二人に背を向ける。

 そんなヴァロとエルノに向かって、アイリが命じる。


「帝国軍が南方より迫っているのは聞いているな。この情報を可能な限り集めろ」


 これにスティナが追加する。


「敵の現在位置、分隊があるんならそれも、敵軍の構成なんかもあると嬉しいわね。後、もしまだ街に残ってるなら顔役にすぐに来るよう伝えておいて」


 その指示で、この二人がこんなザマで戻ってきた理由を察したヴァロとエルノだ。

 街を出た後、そこら中で武名を馳せていたコイツらが街を気にかけていたということが嬉しくて、にやにや笑いながらヴァロとエルノは指示の通りに走り出すのだった。






 街の顔役は、帝国軍来襲の報を聞いてから、あちらこちらと駆けずりまわりながら忙しく動き回っていた。

 なのでエルノが彼を捕まえるのには苦労したが、殿下商会が来ていると聞くや他の全てを放り出して真っ先に会いに駆けつけてきた。

 その頃には寝転がっていたスティナもアイリもそれなりに回復はしていて、今は着替えを終え食堂で山ほどの食事を取りつつヴァロが集めてきた情報を確認していた。

 宿に飛び込んできた顔役は、スティナの顔を見て驚き、そして一人納得顔をする。これまで顔役はイェルケルとアイリ以外の者の顔を知らなかった。

 それでもスティナは近隣での目撃証言があったため、多少驚いた程度で済んだ。


「あー、とりあえず何よりもまず、だ。俺はそっちの銀髪の顔、見ちまってもよかったのか?」


 用心深い顔役の言葉に、銀髪ことスティナは苦笑する。


「構わないわよ。私はスティナ、よろしくね」

「ああ。で、アンタらの目的を聞いていいか?」

「この街を守る」

「身内を守るだけなら、今すぐにでも避難させりゃいいんじゃねえのか?」

「街全部、守りたいのよ。それが殿下の希望でもあるし、私たち二人の意思でもあるわ」

「……そうか。殿下ともう一人は?」

「反乱軍の方も厳しくてね。今回は私たちだけよ。敵、一万二千ですって?」

「ああそうだ。よりにもよって侯爵様が反乱軍討伐に軍を率いて出たところに来たもんで、こっちはもう千だか二千だかしかいねえんだとよ」


 ひらひらと手を振るスティナ。


「どの道イジョラ正規軍でしょ? 私たちが連中と一緒にやるわけにもいかないわよ」

「…………おいっ」

「当たり前だけど、私とこの子の二人で一万二千とか無理よ、さすがに」

「ああっ、本当に良かった。当たり前の顔でその程度余裕で潰せるとか言われたらどうしようかと思った。じゃ、どうするつもりだ? 何か手があるからわざわざここまで来たんだろ?」

「んー、期待させといて悪いんだけど、正直打つ手なんて無いわね。全力で嫌がらせして足止めするぐらいが関の山かしら。その間に少しでも避難を進めてちょうだいな」

「……いやさ、たった二人で普通に一万二千足止めできるとか言われてもよー」

「何も考えず真正面から突っ込むだけでも、半日ぐらいはなんとかなるんじゃない。それやったらさすがに死ぬかもしんないから絶対やんないけど」

「そこはやんないじゃなくて死ぬの方に絶対付けろ! なんなんだよお前らホント……前にも似たような真似したことあんのか?」

「守秘義務により黙秘させていただくわ」

「あんのかよ!? くそう、そんな化け物が街中のケンカに混ざってくるんじゃねえ。本気で泣けてきたチクショウ……」


 スティナが顔役で遊んでいると、アイリが焦れたのか口を挟んできた。


「下らんことしとらんで本題に入れ。お前がこれまで掴んでいる情報を全て提示しろ。どんな細かい話でも構わん」


 顔役は主に攻められているイジョラ側の情報を多数手にしていた。

 どの街でどういった対応が取られていて、少ないイジョラ側の戦力がどこに展開し誰が指揮を執っているかなど、突如侵攻を受けたイジョラ側の対応はほとんど網羅していた。

 曰く、最南端の既に侵攻を受けている街とは連絡途絶、それ以外の街では敵襲に対し街規模での対応をしている場所はないとのこと。

 帝国軍の侵略があまりに予想外すぎて、どこもまともに対応できていないらしい。個人単位では避難を開始している者もいるが、どの街でも大半の人間は街に留まったままだという。

 アイリが信じられぬといった顔になる。


「報せは、届いておるよな?」

「この街でもそうさ。帝国は確かにおっかねえ敵さ、だがな、イジョラ南部にまで帝国が攻めてきたなんて話はこれまでほとんどねえんだ。戦争なんざ国境付近の小競り合いぐらいで、自分たちに降りかかってくるようなシロモノだと思ってねえのさ」


 国中を巻き込んだ反乱騒ぎをすら商売の種ぐらいにしか考えていないのが南部の民だ。仮令(たとい)攻めてきたとしても、それは経済活動の一環である、と考えるのだろう。

 その考えは必ずしも誤ったものではないが、少なくとも今回だけは、生死を分けるほどの浅慮であろう。

 また南部を治めるエルヴァスティ侯爵に対する信頼が大きすぎるのもそれに拍車をかけているのだろう。確かにこれまで侯爵は、南部に降りかかる災いのほとんどをその知恵と力で未然に防ぎ続けていたのだ。

 侯爵は色々とやらかしてもいるのだが、少なくとも南部の民たちにとっては、誰よりも頼れる領主様なのである。

 額を押さえて嘆息するアイリ。

 特に気負った様子もなく、スティナが顔役に注文する。


「んじゃ、私たちからは馬車を一台と、敷物十枚ぐらい、それと食べ物山ほど……はおばちゃんに頼むからいいわね。それだけでいいわ。できるだけ、避難は進めるようにしといて。多分コウヴォラに結集してるイジョラ軍から援軍来ると思うけど、今聞いた感じだとそれまでほっといたら南半分持ってかれるわよ。私たちが足止めしても、どれだけ稼げるかわかったもんじゃないし。当たり前だけど反乱軍はこっちに軍回さないしね」


 南部からの反乱軍参加者はほぼゼロなのだから、これも当然である。彼らにとってはむしろ天祐と言っていいぐらいだろう。

 顔役はスティナの要請をすぐさま了承し、造りのしっかりとした馬車を一台用意させる。敷物十枚は、この馬車の中に敷いて、少しでも馬車での移動を快適にするためだ。

 スティナとアイリはここまで一睡もせず駆けてきたこともあり、最前線までに少しでも休めるよう馬車での移動を考えたのだ。

 どれだけ時間の猶予が取れるか全くわからない状況で向こうを出立したのだ。二人はできる限り早く辿り着こうと己の限界に挑むようにして走ってきた。

 そして現在、どれほどの猶予があるのかは概ね把握できた。敵陣前まで辿り着くなり妨害工作に入るぐらいでなければ手遅れになる。そんな状態であるので、少しでも休憩を取りつつ移動を行なおうというのだ。


 手配されてきた馬車の中を見て、スティナとアイリは目を丸くする。

 用意された敷物十枚は、その全てが大きな毛皮であったのだ。しかも十枚どころではない、大きな大きな毛皮が三十枚近く敷いてある。

 毛皮はとても高価なもので、間違ってもこんな雑に積み上げていいようなものではない。というかこんな大きさと枚数、余程大きな商会でもすぐには揃わないだろう。

 スティナが驚いた顔で言う。


「ちょっと……これ……」

「アンタらの目的にはこっちの方が合うだろ?」


 アイリが馬車の中に乗り込みつつ、毛皮を確かめる。


「おおっ! おおおっ! これは良い! これなら道中も充分休めよう! 感謝するぞ!」


 んじゃ、とヴァロが肩を回しながら御者台に乗る。


「アンタらは後ろに乗りな、コイツは俺たちが動かすからよ」


 一瞬、考えるそぶりを見せるスティナであったが、頬をかきながら苦笑する。


「ごめん、相当危ない件だけど、付き合ってくれると助かるわ」


 エルノは馬車の座席の方に宿から大量の水と食料を運んでいる。


「雑用ぐらいっきゃできねえだろうけどさ、手数はあった方がいいだろ」


 既に馬車に乗り込んでいるアイリがほほ笑む。


「うむ、ありがたい。……おいっ!」


 アイリの横からスティナが馬車に乗り込み、エルノは前の御者席に。アイリは馬車入口より顔を出しながら、満面の笑みで顔役に向かって言った。


「借り一つだ! この毛皮の恩は忘れん!」


 急ぎの旅でもある。馬車は別れの挨拶もそこそこにさっさと走り出していった。

 これを見えなくなるまで見送った顔役は、両の拳を握りしめ、天に向かって突き上げる。


「よっしゃあああああああ!」


 アイリのような真面目さのある人間は、借りを、恩をそのままに相手を殺すような真似は極力しないだろう。

 これある限り、顔役の命は保証されるのだ。殿下商会がこの街にやってきてから、ただの一度も保証されたことのない顔役の命を、ようやく、どうにか、一瞬の知恵と気配りで手にすることができたのだ。

 帝国軍侵攻の最中でありながら、顔役はもう祝杯を挙げたいぐらいに浮かれてしまうのだった。


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