183.イジョラ最強の戦士(非公式)
カヤーニ牢獄の精兵たちがスティナへと襲い掛かってきたのは、十数人の兵が十分に動き回れる中庭でのこと。
射撃魔法やら長柄の武器やらと色々と工夫をしているようであったが、まあつまるところ瞬殺であった。
ロクに足止めすらさせずさっさとこれを突破したスティナは、牢獄職員を皆殺すべく建物の中へと駆けこんだ。
そこに、男が一人立っていた。
廊下の真ん中に立つ彼は、その佇まいからして兵の気配を漂わせている。
男、カヤーニ牢獄警備次長ヨエル・マリネンは、苦々し気にスティナを睨み付ける。
「……あれだけの手練れたちがああも容易くとは……私がアイツらを鍛えるのに、どれだけ苦労したと思っている」
スティナは揶揄するように笑う。
「部下を殺されて怒るだなんて、イジョラの貴族らしからぬ方だこと。……いいのかしら? 山頂研究室の近衛三人、もうここには来られないわよ」
「ふん。お前らの技量が噂にたがわぬ大層なものなのは理解した。だが、だからとお前ら、カヤーニ牢獄をなめすぎだ」
正面よりスティナへと飛び込むヨエル。スティナが感じた通りだ、踏み込む動きだけでもわかる。この男、山頂に居た近衛に匹敵する戦士だ。
『近衛、元近衛は全部で四人。三人は殺して後は一人らしいけど……外見からして獄卒隊ともシュルヴェステルってのとも違うわね。良い駒揃えてるじゃない』
その時、スティナは一切油断をしていなかった。いざ殺し合いとなれば口ではどれだけ嘲るような言葉を発しようとも、スティナは手を抜くなんて真似はしない。命のやり取りである以上、加減をすることはあっても手抜きはしないのだ。
最後の一歩を大きく踏み出しながらの右拳。重さと速さとを備えた鋭い一撃だがこれは牽制で、左よりの拳がスティナの顔を狙う。
『これに合わせて反撃を……』
スティナが首を傾け左拳をかわそうとした瞬間、視界と意識が瞬間的に途絶えた。
世界が大きく斜めに傾いでいる。
ヨエルの蹴りが真横からスティナへと迫るのが見えた。不思議なことに、スティナは廊下の真ん中に立っていたはずなのにスティナの顔の側に壁が迫ってきていた。
避けようとして上手くいかず、ならばと腕を上げて受けようとするも、腕が言うことを聞かない。まともに蹴りをもらってしまったスティナは真横へと吹っ飛ばされる。
だがおかしい。真横に吹っ飛ばされたはずなのに、吹っ飛んだ方向とは逆側に向かって全身が引っ張られてしまう。
スティナはまるで空へと投げ放たれたかのようで、身体を支えることができない。ヨエルの身体が半回転しているのが見える。空中に飛び上がっての後ろ回し蹴りだろう。
何故そんな無駄なことをするのか。距離も近いことであるし素直に床に足をつけてそうすればより威力が出るのに。そんなことを考えたところでようやくスティナは、横と縦がズレて見えていると気付いた。スティナが壁だと思っていたのは床であり、ヨエルは別に飛び上がっておらず床に足をつけ強い姿勢から後ろ回し蹴りを放っていると。
『冗談でしょ!?』
そんな大技もらってたまるかとスティナは身をよじってかわそうとする。だが、無理。膝の部分に輝きが見えたかと思うと、まだ届かぬはずの足がスティナの顔に叩き込まれた。
堪えることもできず、大きく廊下を転がり滑っていくスティナ。むちゃくちゃ痛いのを我慢しながら体を回しつつ身を起こす。
そして起き上がって愕然とした。世界が大きく歪み揺れ動き、まともに物が見えてくれないのだ。
なのでヨエルの表情も見えない。彼は今、驚愕に満ちた顔をしているというのに。
「立つ、だと? 私の拳を、蹴りを、三度も受けて平気な顔をしてるなど……信じられん。いったいどんな魔法を使えばそんなことができるというのか」
ヨエルの声が三重に聞こえるが、どうにか聞き取ることができたので、スティナはくわんくわんと鳴り響く頭の音を無視しつつ答える。
「この程度の攻撃で偉そうに。貴方よっぽど弱い相手とばかり戦ってたんじゃない?」
スティナの言葉にヨエルは冷笑で返す。
「そういう台詞はせめて一撃なりと避けてから抜かせ」
再び飛び込んでくるヨエル。スティナの歪んだ視界はまだ戻らぬまま。
『ぎゃー来んなー! もう少し会話に付き合いなさい! せっかちな男は嫌われるわよー!』
歪んだヨエルの身体を注視する。意識を研ぎ澄ませればどうにか視界はそれなりには安定してくれた。今度は牽制無しの右上段蹴りだ。
スティナ、警戒して避けではなく確実な受けを選択。だが、余裕をもっていたはずの受けすら間に合わなかった。
ヨエルの踵の裏に輝きが。空中に文様が描かれた円が見えた。あれはカレリアを出る前に元イジョラの魔法使いオスヴァルド・レンホルムより教わった魔法陣とやらに酷似している。
その輝きが見えた瞬間、蹴りが急加速した。
腕は受けたというより顔と蹴りとの間に挟まったという感じだ。もちろん蹴りを支えることはできずスティナは勢いよく蹴り飛ばされる。
だが、種は知れたとスティナは次の攻撃に備える。
崩れたスティナの頭部を、ヨエルの左拳が狙う。左肘に魔法陣が出た。見えた瞬間にはもうスティナは殴り飛ばされていた。
『んにゃー! 加速ついてからかわすの無理ー!』
なら早めにその拳なり蹴りなりの軌道から外れれば。
次は腹部への蹴りだ。まっすぐ伸びてくるかわしにくいこれを、身体をよじって早めに避ける。魔法陣が光る。光る直前、ヨエルも身体を捻って足先の進む方向を変え、結局またもやモロにもらってしまう。
魔法による加速。それもスティナですら見切れぬ速さで、そのうえ、それ以外の立ち回りにおいてもこの男、十分にスティナと張り合えるだけの力量を持っている。
壁にぶつかり後方へと滑るスティナ。そのまま背後の壁に後頭部をしこたま打ち付ける。
いつものスティナならば後方であろうと壁までの距離を見誤るようなことはないのだが、さんざっぱら殴られ蹴られたせいで感覚が鈍っている。そう、この男の攻撃は、スティナ・アルムグレーンに通用するほどの威力を持つのだ。
ヨエルが駆け寄ってくる。壁にもたれかかる形のスティナはその動きを見て、これは飛び蹴りであるとすぐに見破る。
『それじゃ加速できないでしょ!』
起き上がり、飛びのこうとするスティナ。だが、直後己の読みの甘さを悟る。
床を蹴って飛び上がるヨエル。その全身を覆うほど大きな魔法陣が空中に現れたのだ。これをヨエルの身体が通過した瞬間、再びスティナの視界が衝撃に失われた。
『しまっ……』
ヨエルの全体重を乗せ、そのうえ魔法陣による加速まで得た飛び蹴りが、受けすらできなかったスティナの頭部に命中した。
壁に押し付けられる。だが、石造りの壁如きでこの蹴りは止まらない。スティナごと壁をぶちやぶり隣の部屋へと蹴り込まれてしまう。
崩れた壁の瓦礫と共に倒れるスティナ。さしものスティナも、すぐに起き上がることはできない様子。小さくうめき声を上げながら、必死に上体だけを起こそうと震えている。
そんなスティナのすぐ脇に立ち、ヨエルは、これだけ殴って蹴っても全く壊れる様子もないスティナに対し、私の拳をコケにするのも大概にしろ、とばかりに怒りの拳槌を叩き込む。
「がっ!」
スティナですら悲鳴を堪えられぬ一撃は、彼女の腹部に真上より振り下ろされたもので。その衝撃は部屋の床いっぱいに放射状に広がっていき、スティナを中心にすり鉢状に大きくへこみ抉れてしまう。
「いかん、やりすぎた」
大慌てでヨエルはその場をとびのき、自分がぶち破った壁より部屋の外へ飛び出す。すぐに、部屋の床が抜け、階下の地下室へと床ごとスティナは落下していった。
山頂研究室で、近衛のタイヴァスとトゥリは、旧友であるカンガストゥスと情報交換を行っていた。
カンガストゥスが近衛を離れてから近衛はどうなったか、というよりカンガストゥスの興味は強い奴が来たのかどうかであったが。
カンガストゥスは嘆かわしいとばかりに嘆息する。
「昨今の近衛の質の低下は目を覆わんばかりだな」
タイヴァスは肩をすくめる。
「そう言ってやるな。俺たちの代に強いのが集中してしまっただけだろう。ゲイシル様曰く、十年前後に一度、強力なのがまとめて出てくるというぞ」
「後五年も待てと? 馬鹿馬鹿しい、付き合ってられるか。近衛なんぞより在野の方が余程面白いわ」
カンガストゥスの偉そうな言い草に、トゥリは気分を害した顔で言い返す。
「在野だあ? チンピラ紛いだらけじゃねえか。一々そんな中からまともな奴探すなんざ無駄手間もいいところだろ」
「ははは、その通りよ。だがな、これで在野もなかなかどうして、磨き方の甘い所はあれど面白い戦い方をする戦士もいるものよ。随分と刺激になったぞ。それにな……」
「なんだよ、まだあんのかよ」
「ああ、これを言うのは業腹ではあるのだが……負けたぞ俺は」
タイヴァスとトゥリが目を見張る。この男が負けたという事実も驚くべきことだが、それ以上に矜持の塊のようなカンガストゥスが敗北を他者に口外しようとは。
「あそこまで完璧に敗れればもう意地すら張れぬわ。文字通り手も足も出なんだぞ。何度か手合わせしたがな、ただの一度もその攻撃をかわせなかったし、こちらの攻撃もまた一度たりとも当てることはできなかった。しかも俺が元近衛だと言ったら驚いておったわ。俺と戦うまで、自分の強さがどの程度か全く理解していなかったようでな。俺が何度か負けた後、不安そうに近衛の試験受けたら受かるかどうかと問うてきたからな」
信じられぬという顔の二人に、カンガストゥスは愉快そうに笑い言った。
「まあお前らも後で試してみろ、あれは本当に大した男だぞ。俺が見るに、接近さえ果たしてしまえばイジョラでもアレに勝てるのは、それこそ陛下ぐらいしかおらんのではないか」
ヨエルは穴をあけた壁に手をつき崩れ落ちた部屋を覗き込む。
相手の動きが鈍っていたこともあり、当てやすさより威力を重視した強烈な一撃を叩き込んでやったせいで、部屋の床はもうほとんど全てが抜けてしまっていた。
幸い、職員の避難はさせていたので地下の部屋に誰かが居るということはなかった。
「馬鹿……な」
なのに、人がいた。
瓦礫の真ん中で、撒きあがった煙で姿は見えないが確かにそこに、人影が立っている。
ヨエルが叩き込んだ攻撃は、もしヨエル自身がもらったなら不可視の盾を鍛えてあるヨエルですら三度は死ねるような過剰攻撃であった。
煙が晴れてくる。
人影、女は、煩わしそうに顔の前でひらひらと手を振って煙が口に入らないようしている。
攻撃は、当たっている。確実に。手応えもあった。だがその感触は弾力性と硬度を備えた不可思議な素材を相手取っているようで、間違っても人体を殴った時のものではなかった。
しかし、殴り心地は確かに、鍛えた戦士の身体を殴ったものの延長であるようにも思える。そして、魔法盾を使っている気配は一切ない。
煙が落ち着いてくると、ヨエルは地下へと飛び降りる。
女は頬を痛そうに撫でた後、忌々し気に口から血の塊を吐き捨てていた。
「あー、もう、こうまで手も足も出ないのなんて生まれて初めてよ。貴方、何者よいったい」
ヨエルは心外そうに言い返す。
「何者はこちらの台詞だ。魔法戦士ですらないだろう、お前。神の使徒だと言われても今なら信じるぞ」
「まったくもう、魔法だのカミサマだのと御大層なもの並べてくれちゃって。そんなのなくたって、きっちり鍛えればこのぐらいできるわよ。貴方、名前は?」
「ヨエル。カヤーニ牢獄警備次長ヨエル・マリネンだ。お前は?」
「殿下商会のスティナよ。どうしてこういつもいつも、私の前には厄介な敵ばっか出てくるんだか」
殿下商会の面々ですら手に負えぬかもしれない強敵と、何故か遭遇するのはいつもスティナである。忍び寄る影といい、パニーラとテオドルのコンビといい、愚痴の一つも溢したくなるのも無理はない。
本来、名前を敵に明かすのは今のスティナの立場からすれば好ましいことではないのだが、武術の領域でこうまで圧倒的な相手に出会ったことのないスティナは、ある種の敬意のようなものすらこの男に抱いており、それは名前を教える不利益を飲み込めるほどであった。
ヨエルの表情が一瞬歪み、しかし戦いのための険しいものへと変わる。
「惜しい、とも思うが。これも役目だ。殺すぞ、スティナ」
「はっ、アンタのかるーい拳で私を殺しきれるっていうのなら、やってみなさいヨエル」
そのかるーい拳で足元もおぼつかないほどふらふらになっていたスティナであったが、ここまでの会話で視界は完全に回復している。身体は重たくて仕方がないのだが、我慢と気合でどうにかなる程度、ならば問題はない。
スティナは待つ。先制攻撃からの連撃にて勝負を賭けるのも良い手だとは思うが、ヨエルの攻撃を見切れなければどこかでひっくり返されるかもしれない。
ヨエルの鋭い右拳がスティナの顔を一直線に狙う。
魔法陣を使わぬこれですら術理の伴った素晴らしい拳である。だが、ヨエルの拳はここから不自然な加速をするのだ。
いつ来る、と構えるスティナであったが、拳は加速せず、そのままの速さなのでぎりっぎりでこれをかわす。かわせず。
スティナは頬を真横から張り飛ばされる。頬横をまっすぐ抜けていくはずだったヨエルの拳が、突然真横に向かって跳ねたのだ。
即座に追撃の左拳。当たる確信が無ければこの繋ぎの速さはありえまい。
こちらの左拳は早い段階で加速を始める。スティナ、額で受けるのだけは間に合った。直後、スティナの右拳がヨエルの頬を捉える。が、駄目。不可視の盾を抜くほどの威力はない。
何故なら、スティナの左拳より僅かに遅れて放たれたヨエルの左足による中段回し蹴りが、スティナの脇腹に突き刺さっていたからだ。
足を棒のように振り回す回し蹴りでありながら、その衝撃は突き刺さると評するのが一番相応しい、そんな一撃だ。蹴りの衝撃でスティナの重心が浮いてしまい拳の威力が減衰したのだ。
『かんっぜんに速さ負けしてるわね。……他人にしたことはいずれ自分に返ってくる、なんて言うらしいけど、私はいつもこれ他人にやってるってことよね? ホント、私いっつも相当ヒドイことしてるわ。腹が立つなんてもんじゃないわよこれ』
そんな物語のような法則はこの世にはありえない。もし本当にあったとしたら、スティナが被る損害はこの程度で済むはずがないだろう。
ヨエルは止まらない。スティナの攻撃はその全てが空を切り、ヨエルの攻撃はその全てがスティナへと命中する。
そしてヨエルの攻撃は、スティナですらよろめかせる、殿下商会内でも通用するほどの攻撃なのだ。
更に、一方的に攻撃され続けることの苦痛だ。肉体的苦痛もさることながら、己の行動全てにおいて、敵の方がより優れていると何度も何度も何度も何度も証明され続けることの苦しさは筆舌に尽くし難い。
それでも、スティナは折れない。その目には何処何処までも決して揺るがぬ不屈の闘志が輝き続け、悲鳴を上げ続ける肉体を支えている。
もちろんただ耐え続けているわけではない。ヨエルの攻撃に対し、何度も受け避けを試み続け、失敗し続け、なら別の方法をと工夫し続け、その脳が休むことはない。
こうした苦痛に苦悩を重ねるような真似をいつまでもやり続けられるのは、スティナの人類の枠を大きく逸脱した体力故だろう。
人間、考えるのにも体力はいるのだ。
たった二人のみで、誰も入ってこない地下室にて、スティナとヨエルの戦いは続く。
最初に、動きを止めたのはヨエルの方であった。
スティナもヨエルも荒い息を漏らし、肩を激しく上下させている。
スティナは笑う。
「何よ、もうへばったの?」
「……そうか、お前、受け方覚えてきたな」
ヨエルの攻撃回数はヨエル自身も数を覚えていないが、現在既に五十二回である。五十二回も殴って蹴っているのだ、ヨエル・マリネンの魔法陣にて加速させた攻撃を。それでも尚倒れぬその理由を、ヨエルは殴られながらも衝撃を逃がす技術、受けによるものだと考えた。
だがスティナはといえば、それだけではないと言いふふんと鼻を鳴らす。
「貴方、その速さまだ完全には使いこなせてないでしょ。加速させる攻撃に体重を乗せる工夫、上手くやれてるとは思うけど、それでもまだまだ粗がある。本来その速さの攻撃ならこんな威力じゃないはずよね」
スティナの指摘に、ヨエルは口をへの字に曲げる。
「悪かったな、ヘタクソで」
意外にも、怒るではなく拗ねてきた。思わず吹き出すスティナ。
「ぷっ。ついでに言うと、武器使わないのもそれが原因かしら。その速さで振り回したら上手く当てらんないし無駄にぽきぽき折っちゃうだけでしょうし」
「本当に、腹の立つ女だ。貴様と戦っていると、自分がとんでもなく貧弱な気がしてくる」
「ふーざけないでよ、それはこっちの台詞でしょ。これで私結構な数の敵殺してきてるはずなのに、アンタみたいな敵が存在するなんて想像すらしてなかったわ」
「クソッ、良く言う。今年は自信もついたことだし近衛試験受けようと思っていたのだが、その自信も最早粉々だ」
「いやさすがにアンタなら受かるでしょ、近衛試験も」
「そうか? おお、お前もそう言ってくれるというのなら、やっぱり受けてみるか。お前を殺して、気分良くな」
「むーりーよっ。ここで私がアンタを殺すんだから。ほら、休憩は終わりよ。さっさと来なさい」
おうともさ、とばかりに飛び込んだヨエルの拳をスティナは防げない。やっぱりもらってしまうのだが、急所だけはどうにか外している。
その雰囲気から、スティナはヨエルより大技の気配を感じ取る。
足裏に生じた魔法陣を用いた跳躍。これを更に加速するは振り回した右足、その踵裏の小さな魔法陣だ。飛び回し蹴りをスティナは大技であるが故に、どうにかかわし得た。ヨエルの攻撃、かわせたのはこれが初めてだ。
だがヨエルは空中で更に加速する。空を切った右足、そのまま半回転して襲い来るは左後ろ回し蹴りだ。魔法陣の加速により回し蹴りと後ろ回し蹴りの連蹴りが、スティナですらこの間隙を縫うこともできぬ素早き繋ぎで襲い来る。
踵が、後ろに下がろうとしたスティナの額を引っ掛ける。そして、魔法ならではの理不尽がもう一発。後ろ回し蹴りの後、魔法陣による加速があって始めて成し得る荒行。空中にて三連続の回し蹴り三発目がスティナの頬を捉えた。
一発目で誘い、二発目で崩し、三発目で受けすら許さぬ痛撃を。壁に叩きつけられるスティナ。頭部への攻撃により動きが鈍ったスティナに、ヨエルの前蹴りが突き刺さる。重苦しい衝撃音の後、スティナごと壁がぶち抜け隣の部屋へと。
そこは牢獄だ。入口側の壁は全面鉄格子になっている。スティナ、壁ごと吹き飛ばされるも瓦礫舞う中、どうにか両足を踏ん張り転倒を堪える。
瓦礫煙が収まらぬうちにヨエルは動く。魔法陣による跳躍にて瞬時にスティナの脇に回り込みつつ、足を振り上げ突き出す。突き出した足が空中に生じた魔法陣を通過すると、爆発的な加速を得てスティナを蹴り飛ばした。
勢いよく吹っ飛んだスティナは鉄格子に激突。最初に耐えられなくなったのは鉄格子を石壁に固定する杭で、これが千切れ飛び鉄格子全てが固定を外れ廊下へと倒れる。
倒れた鉄格子の上にスティナが倒れる形。下は固い鉄格子、しかもこれより下の階はなく上より叩きつければその衝撃は逃げる場所もなく全てスティナへと向かうだろう。
勝機、そう確信しヨエルはスティナの脇に立ち、しゃがみ込みながら拳槌を振り下ろす。
腕を強力な保護魔法で覆い、振り下ろす先には魔法陣が二重に待ち構えている。これを通過させれば、今のヨエルが出せる最大の威力と速度を得ることができよう。
その拳槌を、スティナは待っていた。
立ち上がりざま、腰にずっと差したままであった剣を抜き放ち振り上げる。
三連飛び回し蹴りの時、スティナはようやく、ヨエルの魔法陣加速、その間の取り方のクセを掴めたのだ。
だがスティナはヨエルをなめてはいない。この男ならば戦闘中であろうとクセは即座に修正してくる。だから、切り返し一発で決められる、そんなヨエルの大振りをスティナは待ち構えていたのだ。避けられるのを我慢して避けぬまま。
スティナの振るった剣はヨエルの不可視の盾をすら切り裂いて、その首横を正確に捉えていた。
首元を手で押さえながら、ヨエルは自身の失策を即座に悟ったのだろう。口惜しそうにスティナを見る。
そんなヨエルに対し、スティナは珍しく裏表のない笑みで返す。ざまあみろだのどうだ見たかだのといった意図の全くない、ただただ純粋な、技の成功を喜ぶ笑みだ。
その眩いばかりの笑顔でヨエルは思い出した。
『そういや、コイツ、すげぇ美人だったな』
これまで見たこともないような美しい女だ。だからと口惜しさは薄れないが、それでも最期に綺麗なものが見られたことはとても喜ばしいともヨエルには思えた。
振り上げた剣を鞘に納めるとスティナは、こてん、といった形でしりもちをつく。
呼吸が荒いのは疲れよりもむしろ怪我のせいだろう。こんなにもそこら中ぼこすか殴られたのは、それこそアイリとの鍛錬の時ぐらいだ。それにしたって鍛錬であるからして、実戦とは緊張感が違う。
動きの速さで圧倒され、挙げ句技量も兼ね備えているため、技で誤魔化すこともできない。スティナは己が身体を的にかけ、文字通り身体に敵の攻撃を覚えさせるしか手が無かった。
両膝を立て、膝と膝の間に頭をうずめると、大きな大きな安堵の溜息をついた。
「良かったぁ……なんとかっ、勝ったぁぁぁ」
忍び寄る影と戦った時も相当キツかったものだが、今回もまた負けず劣らずだ。忍び寄る影は敵と自分と、どちらが先にへばるかの勝負であったが強力な魔法は消耗も激しいという話を聞いていたので勝算はあった。その割に滅茶苦茶粘られて焦りはしたが。
だが今回はこの未経験の速さに本当に自分の身体が慣れてくれるものか、全く予測がつかなかった。攻撃はもうありえないほどに強烈だしで、自分より強いとはっきりと思えた初めての敵であった。
戦っている間に、ヨエルはヨエルで弱い部分もあり、総合的にはスティナの方が上だとも思ったのだが。それでも、自分を殺し得る強敵には違いない。
そういった敵との戦いは、やはりおっかないものなのである。だが、怖いばかりでもない。
ふらつく足は、戦闘の緊張感から解放されたが故だ。全身を襲う苦痛によろめきながら、スティナは今の戦いを振り返る。
みんなにどうやってこの話をするかを考えるのは、そうはお目に掛かれない強敵であっただけに、とても楽しい。
せいぜい自慢してやろう、とスティナは子供のような顔で笑った。