169.アイリの子守り
イジョラに来てから、いやそれ以前を含めても、イェルケルがこんなに一所懸命逃げ回ったのは初めてではなかろうか。
サルパウセルカの戦いの時、撤退する軍の殿を務めたが、この時もそんなに焦って逃げたという記憶はない。逃げるというか、待ち構えてかかってこいというのがより近い。
人狼は既に数体で組を作り、イェルケルとレアを取り囲むように動き始めている。
一組は三体。こちらが二人だから、三体いれば足止めならば十分とでも思っているようだ。
「……なんか段々腹が立ってきたな。おいレア、逃げて疲れるぐらいならやっぱりやり返そうか」
「あー、うん、私もちょっとむかっと来てる。スティナたちとの合流考えてたけど、もうやっちゃおうか」
二人は走りながら顔を見合わせ、にやりと笑う。
やるとなれば大地の上の方がやりやすい。二人は屋根の上から飛び降り、追い迫ってくる人狼を睨む。
「同情の余地はあるかもしれないけどさ、だからって殺されてやるほどお人よしでもないんでな」
「ていうか、こっちが優しく逃げてあげてるっていうのに調子乗り過ぎ。どっちが強いか、きっちりと教えてやるっ」
人狼による踏み込みながらの突きは、狼の爪を用いた刃のようなものであったが、僅かな動きでこれをかわしつつ踏み出し、イェルケルが、レアが、人狼を殴り飛ばす。
いや、ただ殴ったのではない。人狼の硬さは既に知っている。だからイェルケルは頸部をへし折るように正面より頭部を殴り抜き、レアは人狼の真横から顎を打ち抜き首を半回転させこちらも頸部を折り曲げる。
後続の人狼たちは味方の損失にも恐れを見せず、雪崩を打って突っ込んでくる。
レア、次の敵の足元に滑り込みその両足首を掴む。
「おりゃー!」
そのまま人狼を持ち上げると、これをこん棒のように振り回し突っ込んできた人狼を殴り飛ばす。
「あはっ、これいい。スティナの真似も案外、悪くない」
アルト王子をこうやってぶん回したという話を聞いて、面白そうだからと真似してみたレアである。
そこに当のスティナが空から降ってきた。
「「スティナ!」」
「いや、なんで逃げてないのよ。敵総数もはっきりしてないのにまともにぶつかってどうすんの」
登場するなり文句をつけるスティナに、イェルケルもレアも同時に抗議する。
「だって」
「腹が、立ったしっ」
「もーちょっとマシな理由つけなさい! 敵八千。ヒュヴィンカーの平民全部が人狼になってるそうよ。範囲はこの街のみ、人狼の寿命は二日か三日、つまり、さっさと街から逃げ出すのが最善ってわけ」
八千と聞いて、イェルケルとレアの眉がぴくりと動く。
しかも、レアが人狼をこん棒にして殴り飛ばした人狼は、人間なら潰れるほどの衝撃にもそれだけでは死んではくれていない。
見るとイェルケルが殴り蹴り倒した何体かも起き上がり再び戦いに加わろうとしている。
どうやらきちんと急所を破壊せねばコレは殺せないようだ。
レアはこきりこきりと指を鳴らす。
「八千、八千ね。いいんじゃ、ない。骨のある敵は、歓迎するし」
イェルケルもまた戦い方を変えるべく重心と構えを変化させる。
「かなり珍しい敵だしな。試してみたいこと結構ある。数が多いのは大歓迎だね」
完全に火がついてしまったらしい。
スティナは苦笑すると、剣を抜こうとしてしかし、剣を持っていない二人を見て思い直したのか、剣から手を離す。
「剣折っておいて偉そうによく言うわね、二人共。まあいいわ、私も無手で付き合ってあげる」
イェルケルもレアも、相対する敵人狼から一瞬目をそらしスティナを睨む。
「ほんっと、人を煽るの上手いよなスティナは。くっそ、コイツらなら素手で十分なんだよっ」
「いちいち腹立つっ、スティナの助太刀とかいらないしっ。そこらで見物でもしてればっ」
スティナは別に煽るつもりでこうしたのではなく、スティナであってもこの敵相手ではいずれ剣が折れてしまうだろうし、ならば長丁場になりそうなこの戦いで少しでも早く素手でコレを殺すことに慣れておこうとしただけである。
苦笑しつつスティナももちろん参戦する。
「元気でよろしいっ。んじゃ、やるとしましょうか」
アイリは古神殿に向かって駆ける。
行ってどうするのか、全く考えていない。
人狼の視界から逃れるようにしながら屋根の上を疾走すると、眼下にはもうまともな人間の姿を見つけることはできない。
悪いことをしたのなら斬れるだろう。抵抗が全くないわけではないが。
だが、悪くもないのに斬れるのか。当たり前に斬れるつもりであったが、どうにも今は自信が持てない。
家族でも、仲間でも、友人ですらない。共に過ごした時間などほんの数時間程度。人品も性格もロクに知らぬまま。
そんな子供たちの生死を確認して何になるというのか。これが自己満足だというのなら、行った先でいったい何を見ればアイリは満足できるというのか。それすらわからぬままで。
きっと、人狼となっている子供たちを見て、そうか、とイェルケルたちのもとへ引き返す。それだけだろう。斬る必要性すらない。
人狼となった子供たちを見て、何か思うところはあるのだろうか。涙の一つも流してやるのだろうか。とてもそんなことになるとは思えない。
今、一つだけはっきりしていることは、アイリはあの子供たちがどうなったかを見たいと思っている。それだけであった。
街外れまで辿り着く。ここまで来た感想としては、かなり隠密に気を配らなければここまで来れなかっただろうということ。
人狼は獣としての能力が備わっているのか、何せ勘が鋭い。挙げ句、きちんとものを考える知能もあるようだ。
そんな相手の目を逃れ続けるのはなかなか骨の折れる作業であった。
さて、と神殿の中へと。
子供たちと共に食事をした厨房は綺麗に片付けられていた。
屋内ならばもしかしたら黒い霧だか雲だか煙だかも入ってきていないのでは、とわずかな希望があったのだが、黒い霧は壁をすり抜け侵入するようで、神殿内部にも薄く漂っているのが見えた。
ふと、気配を感じた。
一番奥の部屋、そこだけ唯一扉が残っている部屋の扉を躊躇なく開く。
「ひっ!?」
思わず声を出してしまったのは、最年少の青であった。
アイリは大きく目を見開いて、言った。
「お前ら……無事、だったのか?」
子供たちは十人が十人共、全員人間の姿のままでそこにいたのだ。
「いやいやいや、意味がわからんぞ。お前ら、なんで無事なのだ」
子供たちもまた驚きがふりきっているようでぽかんとした顔のまま。
青のみがまだ体調不良であるのかベッドに横になっていて、その周囲に残る子供たちが集まっている。
白が確認のために問うた。
「え、いや、何? 本当に、金ねーちゃん?」
「見ればわかるだろう。というか何故お前らは無事なのだ。これ魔法だぞ。お前らもしかして魔法使いだったのか?」
「そんなわけねえじゃん。俺らも意味がわかんねえんだって。回り中みんな狼みたくなっちまうし、外はもう狼だらけで逃げるに逃げらんねえし、とにかくみんなで隠れてたんだけど……金ねーちゃんこそ魔法使いだったのかよ」
「いや、私にはこの手の魔法が効かぬだけだ。いや驚いたな、よくもまあ無事で……人狼になった者もなしか。どういった理屈であるのか……」
白は少し震えながら問う。
「な、なあ、あの、狼になっちまうと、どうなるんだ? し、死んじまうのか?」
「ああそうだ。街に潜入している敵を殺すために、街中の人間を人狼にする魔法をかけたらしい。人狼は標的をつけ狙った後、数日で死ぬと聞いた」
「じゃ、じゃあさ! 金ねーちゃんみたいに魔法が効かないようになる方法ってねえのか!? お、俺たちでもできるようなさ!」
「極めて強固な意志の力があれば、こういった魔法は一切通じなくなるらしい。ただ、それをお前たちに求めるのは無理であろう。魔法使いには抵抗するための訓練法というものが伝わってるらしいが、私はその方法を知らん」
アイリの目は、すがるようにアイリを見る白を見ていた。正確には、白の足だ。脛から生えた剛毛は、狼のそれにしか見えない。
白から目を離し、他の子供たちを見る。半数は身体のどこかに狼の兆候が出ている。残る半数も恐らくは見えないどこかにあるのだろう。
「そうか……進行が、遅いだけだったか……」
子供の一人が怒鳴る。
「なんだよそれ! なんだって俺たちがこんな目に遭わなきゃなんねえんだよ! 敵を殺すってんならそいつだけ殺せばいいじゃんか!」
「魔法使いは、私の知る限りほとんどの者がお前たち平民の被害を考慮には入れておらんな。こうして命を利用することに、まるで良心の呵責を感じていない。ここは、そういう国なのであろうな」
アイリの言葉に応えたのはまた別の子供だ。
「それ、魔法使いだけじゃねえよ。大人はみんなそうさ。俺たちが生きようと死のうと、みんな知ったこっちゃねえんだ」
「……そのようだな」
白は、疲れ切った様子で床の上に座り込んでしまう。
色々と諦めた顔で、アイリを見ながら問うた。
「なー、なんだって金ねーちゃんそんなに色々知ってんだ?」
「ついさっき、この魔法の準備を手伝ったという魔法使いに会ったからな。ヒュヴィンカーの民を巻き込むのが怖くて逃げだしてきたんだそうだ。逃げるぐらいなら術者を殺すぐらいの根性を見せろと」
「ははっ、まったくだ。んで、俺たちにひでぇとばっちりくわせてくれた敵ってのは殺せたのか?」
「馬鹿を言え、私がこの程度でやられるものか」
「…………ん?」
子供たちは皆一斉にアイリを凝視する。
代表して最年長の子供が聞いた。
「もしかして、敵って、金ねーちゃん?」
「うむ」
「なんだよそれ! 俺たち金ねーちゃんのとばっちりで殺されんのかよ!」
「いや、私のせいみたいに言うでない。悪いのは魔法を使った馬鹿に決まっているではないか」
白は呆れきった顔である。
「そりゃ、そうなんだけどさ……金ねーちゃんって俺たちのこと気にかけてくれてんのか、どうでもいいのかよくわかんねえ……」
「うむ、私にもよくわかっておらん。……少なくとも、生きていればいい、と思う程度には気にはかけておったよ」
青が少し苦しそうにしながら言う。
「じゃあさ、俺たちこのまま狼になったら、金ねーちゃん殺しにかかるってことか?」
「そうなるな」
「……それは、ちょっと、ヤだな、俺。金ねーちゃんってさ、きっと女神様だし。俺死んだら金ねーちゃんに死者の国連れてってほしいし」
「さすがにそれは約束しかねるぞ。ていうかそれ私も死んどらんか?」
「えー、なんだよ、いいじゃん。金ねーちゃんのケチー」
「いやケチの一言だけで死者の国までは付き合えんだろ……そういった無茶でなければ多少の願いなら聞いてやらんこともないが」
青は額に皺を寄せながら言う。
「じゃあ、何か美味いもんくれよ。俺死ぬんなら、その前に腹いっぱい美味いもん食いてえ」
青の言葉に他の子供たちも同調し、我も我もと騒ぎ出す。が、これに対するアイリのお返事である。
「無理だ。今外に出たら人狼に見つかるだろうし、そうなったらお前らも危ないぞ。もう少し物を考えんか馬鹿者が」
これが今際の際の願いに対する答えである。そりゃ子供たちも失望の声もあげようて。
別の子供が興味深げに聞いてくる。
「なあなあ、金ねーちゃんって何やらかしたんだ? 魔法使いに狙われるってよっぽどだろ」
「ああ、イジョラの軍と魔法使いを殺してな、その後でなんとかいう施設を潰してやったのだ。実に気に食わん連中であったな」
「嘘っ、魔法使い殺したのかよ金ねーちゃん」
「ふん、どうということない相手よ。外をうろつきまわる人狼共も、私を殺せるほどの敵ではないわ」
へー、すっげー、と素直な子供たちだ。
アイリの目は先程からずっと、青に向けられたままだ。
青ははっきりと苦しそうな顔で、アイリに言う。
「な、なあ、金ねーちゃん。剣、あるだろ。貸してくれよ」
「お前の身体には大きすぎよう。短剣ではまずいか?」
そう言って短剣を懐より出すと、青はそれそれ、と頷くのでアイリは渡してやる。
「どうするのだ、青よ」
「女神様には、剣向けらんねえよ。それにさ、なんかムカツクじゃん、魔法使いがなんだってんだよ。なんで俺が言うこと聞かなきゃなんねえんだよ」
「……そうだな、ムカツク、な」
「へへっ、だろ? だから、さ」
「自分で難しければ、私がやってやるぞ」
「だ、大丈夫さ。み、見てろよ。俺ぁ、さ、やる男なんだ。怖くなんて、ねえんだ。魔法使いなんざ、クソッタレだ!」
そう言って青は、最期にアイリに問う。
「なあ、金ねーちゃん。俺、本当に死ぬんだよな」
「ああ」
「なら、やるわ俺。もう、時間もねえ、みたいだしさ」
青は自分の首に、短剣を勢いよく突き刺した。
青ざめていく顔、口を弱々しく開閉するのを見て、アイリは急ぎ青の口元に耳を寄せる。
「……怖いよ……」
「恐れることはない、女神が見ておる」
青の返事は聞こえなかった。
完全に青の瞳から色が消えうせた後で、最年長の子供が口を開く。
「次、俺いくわ」
青から短剣を受け取ろうとした彼の手をアイリが取る。
「待て」
「ん?」
「お前たちはまだ身体も動くのだろう。なら、連中に一泡吹かせてやらぬか?」
「一泡、って、連中って?」
「外をうろついておる人狼共に、その短剣を叩き込んでやらぬかと言っておるのだ」
子供たちはお互い顔を見合わせる。
白が皆の意見を口にした。
「いや、あんなでっかいの、俺たちじゃ無理だよ」
「やり方は教えてやる。どうする? その気があるのなら、私が手助けしてやるぞ。クソッタレの魔法使い、その使いっ走りに一撃くれてやってから死ぬのも悪くはなかろう」
神殿の中で、アイリが外を窺いながら子供たちの動きを見てやる。
「ほら、腰が引けておる。腕ではなく身体でぶつかるように」
子供たち全員が、アイリから渡された投擲用短剣を手にしている。
これを持ち壁に立て掛けたベッドに向かって、順番に短剣を突き刺しにかかる。
ベッドには印がつけられていて、ここを正確に貫く練習を行なっているのだ。
全員三回ずつ試したところで、アイリの表情が険しくなる。
「……思ったより早かったな。おい、来たぞお前たち。ついてこい」
アイリが部屋の外に向かうと、九人の子供たちは緊張した表情でこれに続いた。
人狼はその獣じみた外見に似合わぬ知性を備えていて、標的を逃がさぬよう街の門を閉じ見張りを置き、幾人かで小隊を作り街中を捜索していた。
これでも人であった頃の意識、精神は残っていない。あるのは強烈な使命感と溢れんばかりの殺意だけだ。
こういった人狼の仕様を詳しく知らなかったアイリが、その外見に引きずられ人狼の捜索速度を見誤るのも無理はない。
また神殿周辺は、街外れでありまっとうな人間が寄りつかなくなって久しいため、魔法による恩恵がこれまでほとんど受けられなかったせいで、街のどこにでもある魔法の残滓が極めて薄かった。
これが神殿の子供たちだけ北極族の呪詛の進行が遅かった理由である。こういった細かな不思議の理由を、結局アイリは最後まで知ることはなかった。
こちらを発見した人狼はきっと少数ずつで突っ込んでくる。そんな予想を立てていたアイリであったが、人狼は数十体が神殿の敷地入口に集まっていて、更に人数が集まるのを待っていた。
『なかなか、上手くはいかんものだな』
敵が少数ならば子供たちの援護をしつつ一矢報いる手伝いもできたのだが、これだけ数がいるとアイリにも援護はしきれない。
おそらく、最初の衝突で全員が死ぬだろう。
そんな予測をおくびにも出さず、アイリは陽気に言う。
「見ろ、あれだけの巨体、あれだけの数を揃えておきながら、我らに怯え数が揃うまで待っておる。なんとも腰の抜けた話よな。お前たち、構わぬから全力で罵ってやれ」
神殿建物の入り口からアイリと共に子供たちが姿を現すと、人狼たちは一斉にこちらを見る。
子供たちは生唾を飲み込みながら、アイリに事前に教わっていた通り、大きく息を吸って怒鳴りつけてやった。
「魔法使いの下っ端ー! お前たちなんてぜんっぜん怖くねーぞ!」
「ばーかばーか! 何が魔法使いだよ! ひょろひょろの枯れ木みたいな魔法使いなんてへでもねーぜ!」
「かかってこいよ! 俺がぶっ殺してやるからよ! ほらかかってこい臆病者!」
「図体ばっかでかくて肝っ玉はちっちぇえのな! お前らに俺たちの根性分けてやりてえよ!」
怒鳴っているうちに調子が上がってきたらしく、怒鳴り言葉もどんどんと勢いの良いものになっていく。
戦の前の声闘にも意味はあるのだ。声を張り上げることで己の意思を鼓舞し心に熱を灯していくことで、より大きな勇気を絞り出せるようになる。
人狼は集団でじわりと神殿敷地内に進み入ってくる。
敵の突撃の気配を察したアイリは、その前に機先を制し、子供たちに命じた。
「よし行くぞ! 私に続け! 神殿隊! 突撃!」
剣を抜き走り出すアイリ。子供たちは一人の脱落者もなく全員が、鬨の声と共に自身の三倍はあろう巨躯の人狼の群に向かって突っ込んでいった。
神殿隊の突撃を見るや、人狼達の集団も、その全てが女子供であるからと侮ることもなく、突撃に応じるように人狼側も一斉に突入を開始した。
数十体の、成人の倍の巨躯を誇る人狼だ。激突の直後、瞬く間にアイリはその群に飲み込まれる。
いや、激突の瞬間、一体の人狼を斬り倒し、迫る後続の隙間をすり抜けながらこれを斬っていく。
子供たちの援護などとんでもない。技量だのなんだのといった話ではない。人狼の大きな身体に視界を遮られ、アイリの身長ではもう誰がどこにいるかも全くわからなくなってしまう。
また人狼は自らの巨躯と硬い外皮を活かし、アイリに対し格闘戦のような超接近戦を挑む。
味方への攻撃になっても構わず、圧し潰す勢いで密集してくるのだ。
アイリは、だがそれでも、人狼を大きく吹き飛ばす攻撃はできない。何故なら、所在のわからぬ戦っている子供たちに当たってしまうかもしれないからだ。
戦いながら、アイリは子供の姿も見えぬままに叫ぶ。
「よーし! いいぞ白! 良い踏み込みだ!」
最初の突撃地点から、徐々に離されていっているのはわかるが、敵の攻勢圧力が強すぎて下手な移動もできない。
「雲! 良い突き出しだ! そのまま抉ってやれ!」
子供たちはきっとこう動いているだろう、そんな予想で彼らを励ます声を掛け続ける。
「そうだ鼠! その勢いでもう一度やれい!」
「さすがは魚よ! 我が教えを忠実に守っておるわ!」
「いいぞ屋根! その素早さはスリならではだな!」
「よく刺した! 壁の勇気は余人の及ぶところではないな!」
「惜しい! 次は決められるぞ長中指よ!」
「ははは! 角よ! それはさすがにやりすぎだ! 敵がかわいそうになってくるわ!」
「よしそこだ蓋! 次は敵を蹴ってやれ!」
アイリにも、当然わかっている。今、子供たちがどうなっているのかも。
だが、言葉が止められないのだ。称える言葉の種類が尽きて、似たようなことばかり言うようになっても、アイリは子供たちへの声をやめなかった。
ずっとずっと、何体も何十体も人狼を倒しても、アイリは声掛けを続ける。
息が荒くなって、敵を倒したおかげで周囲の様子が見えるようになっても、声は続いていた。
そして、最後の一体を蹴り千切った後、アイリは肩で息をしながら、ぐるりと周囲を見渡す。
そこら中に散らばっている人狼の身体。それらはほとんどが無残に千切れへし折られていて、ぴくりとも動かぬ躯となり果てている。
周囲を見渡すも、どこにも、人狼以外の身体を見つけることはできない。
最終的にここらに居た人狼五十体近くをアイリ一人で蹴散らしたのだ。その遺体が並び倒れるこの場所に、例えば子供の小さいそれが転がっていたとしても、埋もれて見えないだろう。或いは、人狼化しアイリに襲い掛かっていた、なんて話もあったのかもしれない。
アイリは、ゆっくりと子供達の名前を呼ぶ。呼び掛ける。
一人ずつ、青も含めた十人の名前を呼んだが、答えはなかった。
「……皆、ご苦労。よく、休むがいい」
胸を張ったいつもの偉そうな歩き方でアイリはこの場を去っていくが、その歩みは重く、イェルケルたちに合流する直前まで、沈んだ表情が晴れることはなかった。
三日。三日間である。
人狼溢れるヒュヴィンカーの街に出ては、いかな魔法使いと言えど死は免れ得ぬ。
なのでヒュヴィンカー地下魔法陣にて儀式魔法北極族の呪詛を行なった初老の魔法使いは、人狼と化したヒュヴィンカーの平民たちが死に絶えるまで三日間、この地下魔法陣にて過ごしたのだ。
その準備はしてあったとはいえ、ロクな研究資料もない地下で過ごすのは気の滅入る話で。
ようやく時間が経って地下魔法陣から外に出て、抜けるような青空を見上げた時は、基本屋内活動ばかりしていたこの魔法使いですら、陽の光を心地よいものと受け取り両腕を上に伸ばして背筋を引っ張ったりしていた。
「いや、ようやく終わったか。まったく、助手が逃げたり、外の監視用にと用意しておいた使い魔が人狼に潰されたりとさんざんであったが、とにもかくにも終わったことだし良しとするか」
イジョラ史に残るような大規模儀式を、たった一人で成し遂げたのだ。その達成感もひとしおであろう。
使い魔が潰されるまでではあったが観察記録もある。後はこれらを使って報告書類をまとめるだけだ。
「っと、その前に」
一応、自分の目でも確認する。
さんさんと太陽の照り付けるヒュヴィンカーの街を一人歩く。
来た時は結構な数の人間の姿が見られたものだが、今はどこにもいない。まるで街の全てがこの初老の魔法使いのものになったかのようで、少し気分が良くなった。
街の最も大きな通りを進み、交錯する通りを覗き込んだりもするが、人狼の遺体はどこにも見られない。
これはおかしい、と首をかしげる。
人狼は自身が最大三日の寿命であるとは知らない。だから人狼が死ぬ時は、何かをしながらにして、もしくは何かをしようとしてそのまま死ぬ形になるはずだ。
標的を殺した後の人狼にはこれといった命令は出されていない。なので街中を好きにうろついていると思っていたのだが。
彼は魔法を学問として学んだ魔法使いであるからして、知的探求心はそれなりに旺盛である。
予定していたよりも長い時間になりそうだが、人狼の遺体を見つけるまでは、と街中を歩いて回ることにした。
そして、見つけた。
そこだけ、いきなり世界が変わった。
通りいっぱいに、おびただしい数の人狼の遺体が転がっている。
どれもこれも、人ならざる何者かに身体を引き千切られたかのような、考えられぬほど無残な遺体である。
数なぞ数えられるものか。通り狭しと敷き詰められた遺体たちは、魔法使いの見える範囲全てに転がっているのだ。
「な、なんだこれは……これが、今回の標的の力、か……恐ろしいことよ。北極族の呪詛を選んだわしの判断に間違いはなかった。ヒュヴィンカー地下魔法陣を用いたわしの判断は正しかったのだ」
遺体の間をおっかなびっくり進む。
幾ら進んでいっても、遺体で敷き詰められた通りは終わらない。咽返るような死臭は、実験慣れしているこの魔法使いにすらキツイと思えるものであった。
「ね、言ったでしょ」
突然聞こえた声に驚き振り返る。
そこには、銀髪を背にたなびかせた美しい女が立っていた。
「本当に確認に来るとはな。どれだけ不用心なのだこやつは」
豪奢な金髪の、こちらも驚くほどの美少女がいる。
「負けてる、なんて思ってもみなかっただけ。ふっふーん、丸三日かかったけどっ、ぜーんぶやっつけたしっ」
得意げにそう語る少女の美しさに目を見張る。三人目の美女でも全く驚きは失われない。
「文字通り丸々三日かかったよな……戦の最中に逃げ出して隠れながら寝るって、冗談で言ったことはあるけど本当にやることになるとは思わなかったぞ」
唯一の男性。背の高い美男であるが、何故最後だけ男なんだ、と魔法使いは少し期待を外された気がした。
四人に取り囲まれた初老の魔法使いは、四人が促すのに従い、この通りを更に奥へと進んでいく。
そこはこの街で二番目に大きな通りが見える曲がり角。
覗いてみろ、と言われた魔法使いは足を進め通りを見る。
「なっ! な、な、なななな、なんなんだこれは!」
この通りなぞまるで序の口。
馬車が三台横に並んで通れるような大きな大きな通り。街の入り口まで続く長い長い通り。
その全てが、人狼の遺体で埋め尽くされていた。
四人組の言葉の意味を理解した。納得した。ぜんぶ、やっつけたとは文字通りだ。八千の民が変化した人狼全てを殺し尽くしたという意味であったのだ。
その人外の所業に、言葉もなく立ち尽くす初老の魔法使い。その肩を、優しく、スティナが叩いてやった。
「じゃ、貴方はこっちね」
スティナに連れられこの場を離れる魔法使い。
二人が去った後で、イェルケルがぼやき、レアとアイリが続く。
「いや、さすがに八千全部とか絶対無理だけどな」
「うん。半分も、いってなかったよね」
「残りは寿命で一気にばたばたと倒れていったな。三日もかけてこのザマとは、まだまだ我らも修業が足りぬ」
イェルケルとレアはじとーっとアイリを見る。
「三日間寝る以外は全部戦いっぱなしとか、こんなキツイ戦い初めてだったんだが。八千殺し尽くす前に、絶対私力尽きてたぞこれ」
「最後の方、ほとんど記憶ないんだけど。で、記憶がはっきりしたのは人狼の遺体のど真ん中で目を覚ました時って、どういうこと? 普通運んでくれるぐらいするよね?」
アイリは呆れ顔で返した。
「戦を始めたのは殿下とレアであったと聞いたが」
むぐぐ、と二人は黙り込んでしまう。
アイリは神殿がある方角に目を向ける。
結局、納得なんてものが得られたのか。何かしら意味のある行為であったのか。今でもアイリにはわからぬままだ。
だが、もっと上手くやれたのではという悔いはあれど、行くべきではなかったという後悔はないので、まあ良し、とすることにした。
後にこの事件はヒュヴィンカーの惨劇と呼ばれることとなる。
大層理不尽な話であるが、ヒュヴィンカー八千の民を全て殺害したのは、殿下商会の四人組、ということになった。
北極族の呪詛により人狼に変えられた住民を、逃げるでもなく全て殺して回った戦狂い、そう思われているのだ。
もちろん平民を虐殺したヒドイ奴、という意味ではなく、特級儀式魔法によって生み出された恐るべき人狼を八千人、たった四人で撃破したすさまじき戦士たちという誉め言葉である。
言われたイェルケルたちは、きっと誉め言葉だとは思わないだろうが。