148.親しき仲にも容疑者あり
イジョラ北東部は警邏の負担が他の地域と比べて著しく小さい。
理由は単純明快。人口が少ないからだ。
耕作適正地が少なく、さりとて特産品があるでもなく、耕地の新規開発に旨味がないので開拓は進まず、そんな土地に人が集まるわけもない。
昔からこの土地に住み着いている人間たちが細々と暮らす、そんな土地である。
それでもカレリアとの交易が行われていた頃は、交易路の一つとしてそれなりには人の流れもあった。
だがそれすら失われた今となっては、商人が見向きもしない寂れた土地となる。或いは、この土地に昔から住まう人間曰く、昔通りの長閑な街、といったところだ。
この地の担当として中央より派遣された騎士は、元々権力志向が弱かったせいもあってか、それを不幸とは思わなかった。
ただ、そうなる過程において、自分に惚れていたらしい女に横恋慕していた大貴族の息子が、これでもかという勢いで俺の勝ちだ顔をしていたのと、お前には気がないと遠回しに言ってもまるで聞いてくれなかったその娘がこの世の終わりのような顔をして自分にすがりついてきたのが、己が身に起きた理不尽を象徴しているようで心底気が滅入った。
コウヴォラを離れる直前、大貴族の息子は鍛錬場にて向こう一週間は立ち上がれぬほど叩きのめしてやり、勘違い女はこれまで女性だからと遠慮していたものを全て捨て去って怒鳴りつけてやったことで多少なりと気は晴れたが、これでもう二度とコウヴォラに戻ることはできなくなったであろう。
そんな騎士がこの地に配属されて一月。ようやく騎士の任務らしい仕事が舞い込んできた。
「反乱軍? おい、それって本当に存在したのか」
部下の兵士が逆に驚いた顔をする。
「え? もしかして、信じてなかったんですか?」
「そりゃそうだろ。その反乱って、平民が貴族に対して反乱してるって話だろう? 魔法もないのにどうやって反乱なんて起こすんだ?」
「はぁ、それは私にもわかりませんが……」
「盗賊の類じゃないのか? その反乱軍ってのはイジョラ魔法王国の転覆を企ててるなんてアホな話しか俺は聞いたことがないぞ」
「はあ、私もそう聞いてます。ああ、はい、改めてそう言われるとすっげぇありえない話っすね」
「お前はわかってるよな? こんなこと言うのもなんだが、魔法が使える俺なら、そこらの兵士の十人や二十人、まとめて殺してもまだ余裕があるんだぞ。しかも反乱って、兵士じゃなくて農民なんだろ? そんなの相手に、俺はどうやって負ければいいと言うのだ」
「ですが、実際に被害にあった貴族もいるそうで」
「……そりゃ、まあ貴族と言っても色々だしな。しかし、参ったな。本当にいるとは……で、敵の規模は?」
「そこまでは連絡事項には無かったっす。ただ、反乱軍が集まっているからこれを討伐しろってだけで」
こめかみを押さえる騎士。
「敵戦力もわからず出撃命令って……せめて偵察なりなんなりって話一言でも入れてくれよ。幾ら地方だからって色々緩すぎだろ」
「いやまあ、こんなもんっすよ。来週には五十人揃いますんで……」
「来週!? 出撃命令が出てから一週間も待つつもりか!? お前それ命令無視と取られても仕方がないぞ」
「はぁ、そう言われましても……馬借りてきたり、鎧直しに出してる奴もいますし……」
「鎧直し? なんだってそんなものをこの時期に」
「あー、すんません、こっちの用語でしたね。つまり、鎧を質に出しちまってるんっすよ。コイツを買い戻すのに金策しねえとならねえっすから」
両手で顔を覆う騎士。
「……もうヤダ、ここ」
「慣れっすよ慣れ」
色々なことに絶望しながらも騎士は翌日までに出撃準備を整えさせる。人数は二十人に減ったが。
総勢二十一人のささやかな軍が街を出る時、その出口を過ぎてすぐのところで騎士は待ち伏せを受けた。
騎士の行軍を遮るように道のど真ん中に立つ男が三人。こんな無礼な真似、コウヴォラにいた頃は想像すらしたことがない。
「……なんの真似だ」
騎士の問い掛けに、三人の男の内の一人が答える。騎士はこの三人が、尋常ならざる技量を持つ魔法使いであると見た。
「新任の騎士殿は随分と仕事熱心なようだな。おかげで姿を出すハメになってしまったではないか。こんな田舎に来てまで中央の騎士様気取りとはな、片腹痛いわ小僧め」
「騎士の行軍を妨げる者は、理由の如何を問わず斬り捨ててよいことになっている。そのつもりがないのならばさっさと用件を言え」
「ククククッ、警戒は怠らずということは我らの力、それなりにではあれど見抜けているようだな。にもかかわらずのその言動、いやはや、いるものだな、地方にも戦士は」
騎士が本気になりかけたところで、三人組の後ろの一人が話をしている男の背中を叩く。
「ええいわかっておる。若き騎士よ、我らはイジョラ第十一兵団蒼の部隊。その反乱軍は我らが獲物よ、貴様らには我らが暴れた後始末を申し付ける。今晩我らが出撃した後で、現場に来るがよい」
そう言って騎士に見せた証は、確かにイジョラ軍第十一兵団のもの。指揮系統は騎士のそれとは異なるものであるが、警邏と軍とでは明らかに軍の方が上位者である。
納得のいかぬものはあるが、従わぬわけにもいかぬ騎士は馬首を翻す。
その背に、ずっと話をしていた男とは別の男が声を掛けた。
「すまぬな。地方にあって尚騎士としての務めを怠らぬその忠勤、必ずや中央に伝えておくので努々ヤケになぞならぬよう」
三人の男が去った後、騎士の副官を務める男が呟いた。
「良かったっすね、中央に戻れるかもしれないんでしょ?」
「真に受けてどうする。まあ多少なりと好意を持ってくれたようにも見えるが、基本ああいう軍の連中は自分の任務のことしか考えておらんよ」
第十一兵団で最も有名で最も人数の多い部隊が蒼の部隊だ。つまり、とりあえずこれを名乗っておけば第十一兵団だと思ってもらえる、という名前である。
騎士は連中を、蒼の部隊の名を借りている諜報部隊だと見ていた。そんなものが出張ってきているということは、この反乱軍とやらもかなり本格的なものなのでは、と考える。
『逆に、これで良かったかもしれんな。これは日数かけてでも最大戦力で出向くべきか』
行く先に何やらキナ臭いものを感じた騎士は、副官に命じて即座に残る三十人を集めさせるのだった。
イーリス・リュフタ。地方領主の娘であると言えば聞こえはいいが、自身は四女であり、父の治める領地も街が一つと村が二つ、そんなささやかな領地である。貴族、魔法使いとしての血も弱く、土地を豊かにする魔法を使うこともできない。
中央ならばいざ知らず、地方領主とその一族にとって最も重要な仕事は、その魔法の力で土地を豊かにすることだ。
それができぬイーリスの立場は本来、それほど高いものではなかった。ただイーリスはこの領地の実質的な支配者である母のお気に入りであり、それが故に、兄たちであったり従弟たちに対しても強く出ることができるのだ。
そんなイーリスであるから、兄たちや従弟たちからは母に贔屓されているいけすかない奴、と思われている。時折、それ故の嫌がらせもされてきたが、だからとその死を望んでいるなんてことは絶対に無い。
「うそ……」
つい昨日、イェルケルたちに威勢よく絡んできた従弟三人が、無残な遺体となって林に転がっているのをイーリスは見つけてしまっていた。
彼らが夜通し屋敷に帰ってこないなんてことはよくあることなので、イーリスも心配などは一切していなかった。
イェルケルたちにちょっかいかけてきた時、イェルケルの剣幕に怯えた彼らはイーリスの言葉に従ってその場を引き下がった。これのフォローを入れるつもりで三人を探しに出たイーリスだったが、死体になって転がっているのはさすがに予想の外だ。
イーリスは、幼い頃から一緒だった親族の死体を見ても、奇妙なほど冷静な自分に驚く。
『死体なら、一昨日山ほど見た、けど。私も、殺されかけたし、それって、関係、してるのかな』
どう見てもこの死体、事故でできたものではない。ならば、こうした犯人がいるはずで。真っ先にイーリスが思いついたのが、殿下商会の四人であった。
『いやいやいやいや、さすがにそれはないでしょ。あのぐらいで一々人殺してたらあの人たちの周り死体だらけになっちゃうじゃない』
などと自分に言い訳してはみたものの、この三馬鹿がイーリスの目の届かないところで殿下商会にちょっかいをかけ、今度こそ本気で怒らせたということもありうる。
イーリスから見れば、殿下商会の四人はとても親切で気の良い連中だ。だが、本気になった彼らがとんでもない力を持つこともよく知っている。
『いや、違う。問題はもうそこじゃない。殿下たちがまだ怒っているかどうかだ。こんな地方の領地で、殿下たちにどんな非があってもそれを咎めるなんてできるわけがない。百人を実質二人だけで殺し尽くすような人たちを、ウチの領地でどうこうするなんて絶対に無理』
殿下たちがもし従弟を殺したというのならば、イーリスが考えるべきはいかに残った家族を守るかであるのだ。
もちろん実力行使は論外。ならば交渉にてイーリスは家族の安全を確保しなければならない。
親族の死体を見てすぐにこんな思考ができてしまう精神の特殊性と、どうすべきかをすぐに考え付く高い知性が、イーリスが母に気に入られている理由でもあるのだが、当人にそれが特殊であるという自覚はあまりない。
イーリスは一瞬迷う。まず先に殿下商会のところに行き真相を確認するか、母のもとに行き報告を済ませるか。
だが、高い知性を持つとはいえまだまだイーリスも小娘に過ぎない。心通わせたと信じる相手、友達だと思っている相手を、信じない、用心するといったことには多少なりと抵抗がある。
『殿下たちならきっと、やったんならやったって堂々と言う』
それは友達だと思った相手には善人であってほしいというイーリスの願望が言わせた言葉である。そこまで殿下たちを理解するほど、イーリスは殿下商会との付き合いが長いわけでもないのだ。
イーリスは心のどこかでそれが間違った選択だと知りながらも、殿下商会のいる宿屋へと走る。
宿に入ると、殿下たちはいつもと変わらぬ、呑気でのどかな顔で食事をとっていた。
生唾を飲み込み、意を決してイーリスは起こった出来事を話すと、殿下、アイリ、レア、の三人が一斉にスティナの方を向いた。
「ちょっとおおおお! そうやってなんでもかんでも私のせいにするのやめてくれないかしら! イーリスが誤解するでしょ! ね、イーリス、私じゃないわよ。ほらほら、手見て、全然血の匂いとかしないでしょ? ほらほらほらっ、剣見てもいいわよ。もうぜーんぜん汚れてないしっ」
アイリが疑念を堂々と言葉にする。
「そんなものお前ならどうとでも誤魔化せてしまうからなぁ。本当にやってないのか? 昨日の連中の態度は確かに、お前ならば即座に……」
「あいりいいいいいいいいい! そのいかにも本気で疑ってます顔やああああめえええてええええええ!」
「……ふむ、まあ確かに。わざわざ手間をかけてまでイーリスの親族を殺す理由もないな。ということだイーリス、ウチで一番怪しいのがやってないとなれば、下手人は我らではないぞ。安心しろ」
その場で止まってしまっているイーリスに、イェルケルが声を掛ける。
「幾らなんでも君の親族に手は出さないよ」
イェルケルの言葉にアイリが付け加える。
「そうせねばならん時は、先にお前に断ってからやるので心配するな……」
「アイリは黙るっ」
すぐにレアに足を蹴飛ばされていたが。
イーリスは、半笑いであった。
「うん、アイリならきっと、先に一言断ってからやるわね。それはすごく納得できるわ」
「であろう?」
どうだ、イーリスはよくわかっておるわ、と得意気顔のアイリに、レアは肩をすくめて言う。
「イーリスって、修羅場土壇場でも、きちんと動けるんだね。ちょっと、凄いと思う」
イーリスはようやく殿下商会のやったことではない、と納得したようで、安心しきった様子でテーブルの上に突っ伏す。
そのままコテンと首を横に倒し、笑って言った。
「よかった」
そのイーリスの笑みで、彼女がこれをイェルケルたちに問うためにかなりの心労を重ねていたとわかった。
殿下商会の全員が、バツの悪そうな顔でイーリスから目をそらす。自分たちの在り方に恥じるところなど何もないが、それが友達に深い心労をもたらしたとなれば、それを申し訳ないと思うぐらいにはまっとうであるのだ。
しかし、とアイリが話題を変えにかかる。
「となると、誰がやったかとなる。反乱軍、まだ残っておったか?」
スティナもすぐにこの話に乗ってくる。
「だとしたらあの優男の知らない部隊が展開してたことになるわ。この程度の領地相手に、相互連絡のない部隊を配置するとも思えないわよ」
ていうか、とレアが少し機嫌悪そうな顔で言う。
「もしかしたら、イーリスが狙われてた可能性も、あったってこと? それはちょっと……いやかなり、許せない、かな」
イェルケルはちらとスティナを見る。スティナが頷くのを確認した後で、イェルケルは話し始めた。
「実は昨日、あの三人が宿に来た時、外でこちらを窺っているような気配があった。あの騒ぎの間に消えてしまったんで調べることもできなかったんだが……」
この時部屋に居た位置が悪かったためアイリとレアは気付けなかったが、現状ではこの気配がとても怪しいだろうという話になる。
こんな時、いつもならすぐにスティナが調べに行くと言い出すのだが、今日は珍しくも動き無し。そうこうしている間にイーリスが席を立つ。
「じゃ、私実家に報告に行ってくる。悪いけど、この件は他言無用でお願い」
すると、待ってましたと言わんばかりの勢いでスティナが席を立つ。
「はいはいはーい! 私っ! 私がイーリスの護衛につくわよー!」
イーリスに護衛を付けるなんて話にはなっていなかったはずであり、イェルケル以下皆きょとんとした顔になるが、言われてみれば今の状況でイーリスが単身で歩き回るのは確かに不用心かもしれないと思い至る。
これといって反対する理由もないのでイェルケルは許可を出すと、スティナは嬉々としてイーリスと共に宿を出ていった。
「よ、よろしく、スティナ」
「よろしくね。でね、イーリスとはこうして一度きちんと話をしておこうと思ってたのよ。アイリやレアが冗談ばっかり言ってるから間違っても真に受けたりしないように……」
悪いことがあったらとりあえずスティナのせいにしておけば間違いはない、という殿下商会内にはびこっている風潮を、少しでも改善せんと試みている模様。
見送るアイリとレアの顔が冷笑の如きものであったのは、それが無駄な努力であると見切っているが故であろう。
イーリスの実家であるリュフタ家は、うっかり中央に行きでもした日には、それお前本当に貴族と言えるのか、と問い返されてしまうような遠い遠い貴族の血を引いている。
先祖代々続いている領地も、小さな街が一つに村が二つ分、その程度でしかない。
そんな小さな領地に反乱軍が来るなんてことも予想外だが、中央からの軍がくるのはもっとありえぬ事態である。
屋敷を訪れた五人の男。彼らは第十一兵団蒼の部隊を名乗っていた。
領主とその妻の二人はこの五人との会談を行なうが、これは最早話し合いではなく単なる命令の伝達であった。もちろんそれこそが、彼ら五人と領主夫妻の正しい在り方である。
五人の要求。まず一つ、反乱軍百人を殺した者の情報提供。これは領主にも異存はないが、そもそも知っている情報が少なすぎるため五人の中で一番偉そうな男にかなり絞られた。
そんな怪しい者をどうして放置しているのだと言われれば返す言葉もないのだが、領主の妻が許可を得て発言すると、渋々だが彼らも納得する。曰く、戦力差がありすぎてこちらの意見を一切聞き入れてもらえなかった、と。
それでもイジョラ貴族の誇り云々と偉そうな男は文句を言っていたが、他の男が彼をたしなめその話はそれ以上お咎めなしであった。
そして問題の二つ目である。
どうやら彼らは領主の館に来る前に、領主の甥っ子たちに情報提供を求めたらしい。その際、彼らがあまりに非礼な態度であったので無礼討ちしたと。
泥棒すら滅多に出ない領地で、人殺しの話なんていきなりされても領主にはどう答えたものかわからない。だがこれもまた領主の妻が発言する。
死んだ理由を彼らの親族に説明しなければならない故、その非礼の内容を詳しく教えていただきたい、との発言に、五人の男たちの内三人が地方領主の嫁風情が無礼な、といきり立ったが、残る二人は平然としたままで、それは当たり前の要求だと三人を窘める。
そして語られた内容は、あまりと言えばあまりな話で。三人の甥っ子たちは、中央の軍を名乗る彼らに対し、力を試すだの一騎打ちがどうだのと言い出したそうで。
そんな馬鹿なことがあるか、と十人中十人が思うような話であるのだが、尊大な三人はともかく、礼節をわきまえていると思われる二人までもがとても言い難そうではあれどこれを肯定しており、領主の妻はこれが本当に起こった出来事であると確信した。
それでも殺すことはないではないか、といった考えは領主も、そしてきっと領主の兄弟たちも持つであろう。だが、血の気の多い軍の人間を、殺しても良い権限を持っている上位者を、真っ向から挑発などすれば当然の結果である、と領主の妻は理解している。
あの三馬鹿の内の一人は、大枚はたいて中央に留学までさせたのだから、そういった機微は心得ているものだろうと勝手に考えていた、彼女の不覚であった。
妻に促され領主もまた甥たちの無礼を詫びると、蒼の部隊を名乗る男たちもこの件に関してこれ以上の話はしてこなくなった。
ただ、一番揉めたのはこの後である。
領主はとても正直な男で、基本的には嘘がつけない。なので屋敷の中から見た起こった出来事を全て正直に五人に話した。
すると彼らはこう返すのだ。ありえん、嘘をつくなと。
これには領主も、そしてその妻も困った。
元々軍事には疎い二人だ。その動きがいかに人間離れしているかなど判別しようがない。二人にとっては、戦士が剣で人を斬り倒すのと、イェルケルが飛来した矢を剣で斬り落とすのとの差が理解できないのだ。
さんざ揉めに揉め、実際にその事件があった現場に出向いて、どこにどう立っていてどのように剣を振ったなんて細かな動きまで説明させられ、そのうえでもやっぱり嘘つき呼ばわりであった。
結局双方が納得する形に話は収まらず、彼ら五人は不本意そうな顔で帰っていった。
リュフタ家にとってはとても災難な出来事であったが、良かったことも一つある。
中央の出来事にそれなりに通じていた領主の妻は、自分ならば難しい問題も上手く解決できると考えていた。
だが今回、彼ら五人が曲りなりにもリュフタ家に対して咎めるようなことをしなかったのは、最後の最後まで決して怒りを表に出さなかった領主のおかげであったのだ。
納得のいかぬ理由で甥を殺され、更に居丈高な相手にさんざ罵られ嘘つき呼ばわりされていたのだ。中央で忍耐力を磨きに磨いてきた妻ですら、怒りを隠しきるのは難しかった。
しかし領主は不愉快そうな顔を一切出さず、誠実に、真摯に、彼ら五人と向き合い続けていた。そしてそうした領主の真剣な態度が向こうに通じたからこそ、彼らは彼らが納得していないにもかかわらず引き上げてくれたのだ。
妻は夫の善良さを愛していたが、それがこうして危地において役に立つなどと考えたこともなかった。いざとなれば自分が全てをこなさねばとすら考えていた。
だが結局最後の最後でこの領地を救ったのは、夫の善良で誠実な態度であった。
自嘲気味に妻は呟く。
「この年になってようやく、気付けることというものもあるものなのね」
この事件でたった一つの良かったこと。それは、この翌日からリュフタ家の夫婦仲がそれまでにも増して良好になったことである。