139.馬鹿が馬鹿やってる間にも世界は回っていくもので(カレリア編)
カレリアの東に位置するアルハンゲリスク大公国は、元々はカレリアの一部であった。
当時のカレリアは現カレリア王都ジェヌルキを中心に全てが回っていた国で、アルハンゲリスクは豊かな土地ではあれどジェヌルキから離れた場所であるため、アルハンゲリスク出身者はカレリアにおいて政治の中枢に入りこむことは難しかった。
なので当然政策もアルハンゲリスクにとってあまり好ましくないものが多く、これに不満を持った当時の大公がカレリアより独立を宣言したのだ。
この時アルハンゲリスク大公がいかな手品を使ったものか、カレリアは独立をあっさりと認め、以後カレリアとアルハンゲリスクは緩い協調関係にあった。
カレリアの政争に巻き込まれ、或いは口を出すことも多く、それ故の軍事行動も幾度かはあったが、お互いが致命的な事態になるような真似だけは避けていた。
だが、今、カレリアが仕掛けたアルハンゲリスクへの関税撤廃は、アルハンゲリスクへ確実な死をもたらす致命の一手であった。
アルハンゲリスク大公の前に、涙ながらに跪く男がいる。
「私のっ! 私の力が至らぬばかりに! 申し訳ありません! もうしわけ、ありませぬっ!」
カレリアとの交渉担当であった子爵は己の力不足が招いたこの事態に、今にも毒をあおって自死しかねぬ勢いであった。
いや、勢いだけではあるまい。この話し合いが終わった後、彼はきっと自身の死をもってこの責任を取るつもりであろう。誰かがこの事態の責任を負わねばならぬというのなら、それは己の役目であると彼は考えていた。
だが大公は彼を窘める。
「子爵。ではお主に問うが、もし仮に、カレリアのこの一手、読めていたとして我らに打つ手はあったか?」
「……いえ、それは……」
「では重ねて問うぞ。一年前に今の有様を予測していたとして、それでも我らにできることはあったか?」
大公の言う通りである。アルハンゲリスク側が何をどうしようとも、現在カレリアとの間に生じている圧倒的な経済格差はいかんともしがたい。
である以上経済を前面に押し出してこられれば、アルハンゲリスクには抗する術などないのだ。カレリアは法にも道理にも背かぬままに、水が高きより低きに流れいくが如く当たり前に、アルハンゲリスクの経済を破綻させられるのだ。
カレリアがやっているような農地改革には、アルハンゲリスクも早期よりこれを調べ手を出してはいた。
だがこの農地改革、地主から土地を奪うでもしなければ到底進められぬようなものであり、とてもではないがアルハンゲリスクでは真似などできない。いや近隣諸国どこであろうとも不可能だ。そんなことができてしまうカレリアが異常なのだ。
そしてそんな難事を乗り越えたカレリアは、およそ常識では考えられぬほどの生産力の向上を果たした。
イジョラのような魔法があるでもない、南部諸国連合のような南方との交易路があるでもないアルハンゲリスクは、カレリアの圧倒的躍進に抗する術などありはしなかったのだ。
「子爵。事ここに至ればもう、我らが目指すべき場所も変わってこよう。いいか子爵よ、今、カレリアの事情に長け、カレリアに数多のツテを持つお主を失うわけにはいかぬ。カレリアとの円滑な交流には、お主のような男が絶対に必要なのだ」
子爵は驚いた顔をする。
「大公閣下。しかし、円滑な交流も何もカレリアは……」
「アンセルミ王の人となりは私も多少なりと理解している。あの方は無駄を嫌う。アルハンゲリスクの貴族全てを滅ぼしカレリアから新たに文官を派遣するなどという手間のかかる真似は好むまい」
そこまで大公が口にすると子爵もまた考え深げに眉を潜める。
「……つまり、我ら自身がカレリアの手先となり、国内改革に着手することになる、と」
「いかにも。アルハンゲリスク国内の調整役を誰にやらせるのが一番効率が良いか。そんなもの我らアルハンゲリスク貴族に決まっておる。もちろん、反抗すればその限りではないだろうがな」
苦々しい顔で子爵。
「とはいえ反抗は無意味ですな。なるほど、なるほど、アンセルミ王は無駄のない手を打つお方だ。先の偶発的と思われたロシノの戦いにもこのような意味がありましたか……」
「千の軍であろうと指揮官が一瞬で殺される。それではとてもではないが戦にならん。そうできる化け物は何人もいるわけではないだろうが、イジョラ魔法兵団を完膚なきまでに、それも英雄ドーグラス元帥が失われた直後に叩き潰すような軍と戦えるわけがない」
大公と子爵は同時に、一人の男の顔を思い浮かべる。
アルハンゲリスクの武を代表する男、アルハンゲリスク戦士団の長である男だ。彼はほぼ間違いなく抗戦を主張してくるだろう。彼我の戦力差を知ったうえでも、だ。
アルハンゲリスク大公国は失われるだろう。だが、そこで生きている人間はだからと消えてなくなるわけではない。
国の旗が変わろうと、その土地に生きる者たちは変わらずそこに住み続けるのだ。だから大公は、この土地に生きる者たちが少しでも良い条件で暮らしていけるように知恵を絞らなければならない。
それは剣を交えるのみで手に入るものではないのだ。
大公は大きく嘆息しつつ言った。
「アレの説得は私がしよう。私以外からでは話を聞くことすらせんだろうしな」
「はい。また、現状把握のできていない連中は、こぞって大公閣下に反抗してきましょうな」
「それでいい。私に反抗するのならば私が寛大に接することもできる。だが、カレリアに反抗してしまえばそれはアルハンゲリスク全体の問題となろう。……まったくもって気の滅入る話だ」
最後にとぼけた口調でそう加える大公であったが、子爵はこれっぽっちも笑える気がしなかった。
これから先の困難に満ちた道程を考えれば、もしかしたら今死んでしまった方が楽なのではないのか、そう思えてならないのだった。
カレリア国王アンセルミの執務室にて。
アルハンゲリスクに関する報告を上げているのは、側近ヴァリオであった。
「……というわけでして。大公はこちらの意図を正確に汲んでくれたようです」
「ありがたい、大公には許せる限りの権限を与えてやってくれ。……農地改革、ほんっとうにキツイからなぁ」
「大公にできますでしょうか」
「正直、賭けになる。国軍進駐させて力ずくでやった方が早いかもしれん。だが、アルハンゲリスクではできるだけ波風立たぬよう話を進めていきたい。波風はもっと別のところで立てることになる」
「ああ、聞きましたよ。南方都市国家群、内応率七割ですってね」
「そうなんだよ。信じられるか? 三割もが抵抗するつもりなんだそうだ。連中、現状を本当に把握しているのか? 商売に長けてるなんて言われているが、アイツらの頭の中は自分に都合の良い幻想しか入ってないんじゃないのか?」
「かもしれません。南の交易相手からせっつかれているというのは?」
「海を越えねば届かぬ国と陸続きの国と、どちらの機嫌を取るべきかはいうまでもないことのはずなんだがなぁ……ま、あちらにはどの道一度は軍を出さなきゃならん。そうそう、ターヴィ将軍にどれぐらいの軍がいるかと聞いたら何て答えたと思う? でしたら千五百の騎馬で、だそうだ。南方都市国家群と戦しようというのに千五百でいいんだと。他の将軍皆も反対はしていない。随分とまあ、頼もしい軍になってくれたもんだ」
「慢心とは無縁の方ですから。逆に千五百が良い、ということなのでしょうな。補給路はやはり内応している都市を頼るのですか?」
「それがな、千五百の内五百の騎馬を補給に充てるんだと。残る千で連中の軍全部叩いてやると、当たり前のことのように言われてな。私も平静な表情を保つのに苦労したぞ」
別に一万、二万の軍を出してもいい、そのつもりもあったのだが、ターヴィ将軍はむしろ千五百がいいと言う。
ヴァリオは肩をすくめる。
「軍事とは、安易に計算できるようなものではないようですね」
不意に部屋の入口を叩く音がした。
「陛下、陛下ー、来ましたよ、また愉快なのが」
そう言って部屋に入ってくるのは、ヴァリオと同じくアンセルミの側近であり諜報担当のイスコ・サヴェラ男爵だ。すぐその後にはイジョラからの亡命貴族であるこちらもアンセルミの側近、オスヴァルド・レンホルムが続く。
怪訝そうなアンセルミに、オスヴァルドはしれっとした顔で答える。
「何故オスヴァルドまでいるんだ?」
「イジョラは私の担当ですから」
なんてことを言っているが、本音はイスコが持ってきた報せをすぐにでも聞きたいだけだろう。
最近、これはアンセルミとその側近達の楽しみとなっている。そう、イジョラに潜入し諜報活動をしているイェルケルたち第十五騎士団よりの報告である。
最初の報告にはいきなり闇金融を始めたとあり、それだけでも笑えるというのに、同業闇金融と揉めた挙げ句敵対組織叩き潰してその街における現地利権に食い込んだと。
この段階でアンセルミたちはイェルケルの正体がイジョラにバレても言い訳できるよう準備を始めていたのだが、何故かどうしてか、ここまでまるでバレる気配がない。
既にこれまでの報告で、イジョラ貴族をかなりの数殺しているというのに問題なく活動できているらしい。イジョラは間抜けの集まりなのだろうか、とのアンセルミの問いに、オスヴァルドは苦笑いを返すしかできなかったという。
そして今回の報告である。
報告を読んでいる途中で思わずアンセルミが噴き出してしまうと、我慢できなくなった側近たちもアンセルミの後ろから報告書を覗き込むなんてちょっと品のない真似まで始めてしまう。
一通り読み終わると、ヴァリオは後ろを向いて腹を押さえ、必死に笑いを堪えている。
「殿下、殿下て……なんで、これで、バレないんですかっ」
オスヴァルドは心底から不思議そうな顔をする。
「闘技場の戦士たちと殴り合いをした、か。これ、普通報告するか? 殴り合い云々の是非はともかく、これをわざわざこちらに報告してくる殿下の神経が理解できん。あの方は本国からの叱責やら問責が怖くないのか?」
イスコは笑い過ぎて涙がにじんできた目をこすっている。
「いやぁ、毎回毎回、本当に楽しそうですね。陛下には悪いですけど本音言わせてください。ほんっとウチの国でなくて良かったですよ! こんなのカレリアでやられたらたまったもんじゃありませんて!」
さんざっぱら大笑いした後で、同封されていた資料に目を通しはじめると、皆笑いをひっこめ感心した顔になる。
イスコは頬をかく。
「さすが、ですね。こんな資料、まともな諜報活動じゃ絶対に手に入りません。多分ですけど、結構な人入れてるはずの帝国でも無理なんじゃないですかね」
ああ、と相槌を打った後でアンセルミはまた別の資料に目を通しながら言った。
「イジョラも存外こうした仕事を丁寧にやっているのだな。……のワリに、こちらとの交渉担当はヘボばかりだった気がするのだが、その辺はどうなんだオスヴァルド」
「私も意外でした。南部地区はこういうのしっかりやってるようですね……確か、エルヴァスティ侯爵の派閥でしたか。イスコ、確か私が出た後だよな、エルヴァスティ侯爵のところで色々と商売に手を出し始めたのは」
「ええ、カレリアとの交易に絡めなかったので、南部諸国連合の方との取引に力を入れ始めてました。殿下の報告と合わせ、かなり商取引が活性化しているとみていいでしょうね」
アンセルミは少し嬉しそうな顔である。
「やはりイジョラにも見る目のある者はいるな。しかもエルヴァスティ侯爵と来たか、あの方四大貴族の筆頭だろう。なら、もう少し時間を置けばまたイジョラと取引もできるようになってくれるか?」
イジョラ担当のオスヴァルドは肩をすくめる。
「残る三大貴族が全力で邪魔しにくるでしょうな。それに魔法兵団の主である侯爵は今回の出兵で大きな痛手を負ってしまいました。恐らく、第一人者からは脱落するかと」
「なかなかこちらの都合よくはいってくれんか。魔法兵団の主ならばこそ、武力でウチと張り合う愚を理解してもらえたと思うのだがな」
商取引の重要性を理解しているエルヴァスティ侯爵が何故得しかないカレリアとの交易を捨て攻め入ってきたのか。
推測ではあるが、アンセルミたちはこれを危機感の表れだと考えていた。
カレリアとの交易は、アルハンゲリスクが今直面しているような問題を起こしかねない危険性がある。それを抜きにしても、カレリアより流れてくる豊かな品物の数々を見れば、まっとうな為政者であれば危機感の一つも持とう。
だからといきなりイジョラ最強軍団による出兵にまで踏み切るのはアンセルミの予想を大いに外れていた。つまり戦争開始前の段階では、アンセルミはエルヴァスティ侯爵に敗北していたのだ。そう思っているのはそれこそアンセルミとその側近たちぐらいであろうが。
アンセルミ、そして彼の側近たちは他国からは、神羅万象全てを見通しあるべき最善の手を常に選択し続けられる人外集団と思われているが、実際のところは失敗も読み違いも多々あるし、面白いことがあれば子供のようにはしゃいでしまうこともある、どこにでもいる人間とさして変わりはしない。
そんな人間の身でありながら、誰もが恐れ敬わずにはおれぬ奇跡のような業績を積み上げてきた、稀有な男たちであるのだ。