138.闘技場のクソ野郎(後編)
闘技場の建物はスティナが思っていたよりも整った造りになっていた。
剣奴が集まる不衛生でむさくるしい場所、といったスティナの事前予想は大きく外れていて、建物は頑強で屋内は清潔に保たれており、それだけでもここに住まう者たちがきちんとした人間扱いされているとわかる。
貴族が使う観客席周辺だけではなくそれ以外もこのように小綺麗にしてあるのは、この建物を管理している者の心掛けがしっかりしているせいであろう。さすがに多数の貴族を迎える建物だけあって、そこら辺にぬかりはないようだ。
スティナが覗き見た剣闘士たちの顔つきは、少なくともカレリアで見た奴隷のそれとは大きく異なったものであった。
幾つかの資料を無断で眺めたスティナは、この建物が時期によって極めて重要な場所になると知った。
人外機動が可能なスティナたちであるが、だからと魔法が使えるわけでもなく、なんでもかんでもやらかせるというわけではない。
そしてこの闘技場が最も警戒している時期に、ここに忍び込み重要情報を仕入れるなんて真似はさしものスティナにも無理であると思われる。
だが、見逃せない。
この闘技場に中央より貴族がくる時、地方貴族たちは幾つかの報告資料を彼に預ける。
中央でそれがどれだけ有効活用されているかはわからないが、この時提出する資料が不正確であると後々バレたなら厳しいお咎めがあるので、地方貴族たちは皆この資料作成にはかなり力を入れてくる。
人口の推移、各地の開発状況、商取引、関所の通行量なんてものも報告事項にはある。イジョラの現状を知るに、これ以上はないという資料である。
こんなものが近くで行き来するというのであれば、見逃す手はない。
だが難しい。これらの資料を盗み出してしまうのならば可能ではある。しかし、当たり前であるがこれほど重要な資料が失われれば大規模な捜索の手が入ろう。それはとても好ましくない。殿下商会という存在は、はっきりと言ってしまえば怪しんでしまえば誰もが黒と判別するだろう胡散臭いものであるのだ。
スティナはこれを他三人と相談したが良い案は出てこなかった。そこに闘技場出場の話がきたのだ。
とにかく時間との勝負である。
闘技場に来場する貴族たちは、人によっては戦闘開始の数時間前よりきて歓談に花を咲かせる者もいる。
この間資料は鞄に入れ従者に預けておくのが一般的だ。
レアは闘技場の貴族従者用控室の、天井裏に隠れていた。
事前に開けていた天井の穴から部屋の中を覗き込む。部屋の中には三人。平民にしてはきちんとした身なりをしているのは、貴族の従者としての教育を受けているせいだろう。
数分の間、中の人間を観察するのはレア・マルヤーナである。あまりの緊張に、胸が痛いほどに響いている。
『これ、かなり、怖い。見つかっちゃいけないってのが、もう、ほんと、でんかのあほーっ』
きつかったり困ったりした時は心の中でイェルケルを罵ることにしているらしい。
室内の三人は従者同士の歓談に花を咲かせている。どうやらお互い他の貴族に仕えているらしく、偶にこうして会える機会を喜んでいるようだ。
三人が話に夢中になっている間に天井の板をそっとずらし、従者の一人が持ち込んだ鞄目掛けて紐をたらす。かなり手際がよいのだがやってるレアからすれば、のたのたとした動きにしか思えない。
『急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げー』
紐の先端につけた鉤を鞄に引っ掛け引き上げる。一番気を使う瞬間だが、問題はなかった。
そのまま音もなく鞄を引き上げた後、レアは大急ぎで天井裏に作った衝立の向こうに移動、そこにつけていたロウソクの灯りで鞄の中を確認する。
思わず眉をしかめるほどの量の資料が。
『これ本当に全部やるのー!?』
文句を言っても仕方がない。レアは用意していた紙に、これらの資料を書き写し始める。
彼らの談笑は続いている。よくも話題が尽きないものだと思うぐらい色々な話をしている。
そちらの会話に意識を向けながらの写本作業は思った以上に骨が折れる。
三者の会話の盛り上がりは続く。だが、いつかは話し疲れるはず。その前に切り上げて元に戻さなければならない。
こうして天井裏から他人の会話を盗み聞くということを、レアは第十五騎士団に入ってもう何回もやっている。なのでとりとめもない雑談にも流れのようなものがあると知っている。
夢中になって話しているその声音に、会話の調子に、よく聞いていれば疲れの気配を感じ取ることができるのだ。
それを話をしている当人が自覚する前に、レアは盗み聞きにて察し得なければならない。しかも失敗許されぬ一発勝負。実に神経の磨り減る作業である。
頭の中では、全部終わらなくてもいい、と決めつけて作業を続ける。素早く書くのは今回のためにさんざ練習してきた。略字や記号を用いて簡易に表記するようにしておいたおかげで、どうにか全てを終わらせることができた。
『ここっ。こういう時っ』
じっとしていてからいきなり動くと、どうしても身体の軸がブレがちで。こういった時に予期せぬ音を立ててしまうものなのだ。
普段からは考えられぬほどゆっくりと慎重に動き、そっと天井板を外してまだ会話の真っ最中の彼等のいる部屋に、そっと鞄を紐で下ろし、そして一番緊張する瞬間、鉤を外しにかかる。そうなるようにしたのだが、鉤は軽く下にずらすだけで簡単に外れてくれた。
後は一気に引き上げる。天井板を閉めると、ようやく一息つけた。
『き、緊張したっ、緊張したっ、こわかったっ』
だが、この作業をレアはまだまだ続けなければならない。思わず握る拳に力が籠る。
『やっぱり、殴って奪った方がらくー。でんかのあほー、なんでそーしないのー』
やはりイェルケルを罵ることで不満を発散させるレアであった。
闘技場の外。
馬車置き場には多数の人間が集まっている。どの馬車も貴族の馬車だ、粗雑に扱っていいものなど一つとてありはしない。
つないでいる馬の世話も含め、結構な人数がこれらの面倒を見ている。そしてそれとは別に、御者をしていた従者たちはすぐ近くに設けられた休憩所で集まって休んでいる。
この御者たちが集まる簡易休憩所の屋根の上で、アイリは低い姿勢になって下の様子を窺っていた。
『普通、こういった重要な書類をだ、馬車なんぞに置きっぱなしにするか?』
自前の従者を連れていない、御者のみを連れてここに来た貴族は自分で書類の入った鞄を持っているのが面倒なので、いざこれを渡す直前になるまで御者に預けっぱなしにしており、御者がその時間になったら持っていくようにしてあるらしい。
そしてこれを預かっている御者はというと、自分は休憩所で休みつつ、鞄は馬車に入れっぱなしにしてあると。
『話に聞いた時はまさかと思ったものだが、本当にやっておるぞこやつら。これが我が従者であったなら一発解雇の案件だろうに』
アイリが厳しすぎるというのもあるが、彼らが緩んでいるのも事実であろう。
どの馬車の御者がどこにいるかを頭に入れながら、アイリは簡易休憩所の屋根から飛ぶ。
音もなく、風のように。今はまだ日も昇っているというのに、堂々と空にその姿を晒したのだ。
だが、当たり前だが人は、そんな場所に目など向けてはいない。しかも跳躍が速すぎてこれを見られる時間も極めて少ない。
着地の時すら音もせぬのはいったいどういう技術であるのか。
馬車の屋根に降り立ったアイリは、猫が隙間に隠れ入るような滑らかさで馬車の中へと。
そこで大胆不敵にも馬車のゆったりとした座席に座り、手に持った鞄から紙と板とペンを取り出し、さらさらとこれを書き写し始めるのだった。
そうやって馬車に残していた書類を書き写し、次の馬車へ移動を繰り返していたアイリ。
馬車の中にてふと、書き写していた手が止まる。付近を人が通るといったことは結構な頻度であったのだが、その時の歩き方がアイリの意識に引っかかった。
『イカン!?』
外から声が聞こえた。
「まったく、男爵様もせっかく持ってきたプレゼント忘れるとかどうかしてる……」
アイリが書類を書き写している間に折悪しく誰かが馬車の中に入ってくる、そんな偶然ありえないだろうとか考えていたアイリは、全身の血の気が引いていく音が聞こえた。
馬車のドアに声の主が手を掛ける。アイリは咄嗟にドアとドアを繋ぐ金具の所に持っていたペンを引っ掛ける。当然、鍵などかけたつもりのない御者はドアが開かないことに驚く。ドアを開く寸前に中で蝶番のかかる音が従者にも聞こえたはず。それは訝しむに足る内容であるはずなのだが、まさか貴族の馬車の中に勝手に入る馬鹿がいるなんて彼は思いもしていない。
「あん? 開かない?」
何度かがちゃがちゃやる従者。
「うーわ、もしかして曲がっちまったか?」
馬車の内より急ぎ気配を探るアイリ。男ががちゃがちゃやる音が邪魔だが、そんなことは言っていられない。
男のがちゃがちゃ音に合わせて逆側の窓を開き、外に飛び出す。すぐに馬車の下へと転がりこむと、ドアが開く音がした。
「お、開いた。って、何これペン? これが引っ掛かってたって? おいおい勘弁してくれよ。壊れたりしてないだろうな」
ひとしきりドアを確認し、壊れていないのに安堵した男は馬車の中から目的の物を取り出すと、立ち去っていった。
馬車の下で額の汗をぬぐったアイリは小さくぼやいた。
『どういう間の悪さだ、勘弁してほしいのはこちらだぞ』
もうこんなことないだろうな、とさしものアイリもびくびくしながら作業を続けるが、こんな不幸はさすがに二度はないようであった。
レアにしてもアイリにしても、こんな真似普通の諜報員であれば絶対にやらない。やれない。そもそもの基礎能力があまりに人間離れしすぎているため、その動きをまっとうな人間ならば、ありえない、と考えてくれるからこその離れ業である。
こういった真似ができるからこそ、第十五騎士団の諜報は王家のそれより深くに潜れると言われるのだ。だが、その中でもスティナのそれは抜きんでていた。
現在、スティナが立っているのは闘技場貴族用控室の、人間大の彫刻の裏、である。
貴族用控室は集まった貴族たちが歓談に用いる場所で、混雑時は数十人がここに集まる。もちろんこれは貴族の数であってそれに従う従者や闘技場の使用人を含めれば人数は百人以上に膨れ上がる。それらを収めて尚余裕のある大きさの、部屋というよりはホールという方がより相応しいだろう場所であった。
まだ闘技場の始まる時間までは間があり、このホールにいる人数もそれほどではないとはいえ、こんな場所にスティナは身を隠しているのだ。
何故そんな危ない真似をしているかと言えば、スティナはホール内の僅かな物陰を伝って貴族に近づき、大胆にもその貴族が脇に置いている鞄を開き、中身を抜き取っているのだ。
そして書類を手に取るとホールの狭い控室へ。ここのカーテンの裏に隠れ、窓からの明かりを頼りに書類を書き写すのだ。
とりたてて緊張した様子もなく、落ち着いた様子で書き続けるスティナ。この筆記速度、第十五騎士団の中で一番速いのはレアであったりする。スティナもアイリも物凄く速いのだが、とても次元の高いところでレアがそれに勝るという話だ。一番遅いイェルケルが闘技場で人目を惹き付ける役をするのは実に効率的な話なのである。
『これ、気を抜くと文章の内容に意識いっちゃうわね。あぶないあぶない』
文章を書き写すことに集中できていない証拠である。アイリ辺りなんか特に内容が気になるだろうから、やらかしてるんだろうな、とか考えながらもスティナのペンは止まらない。インク壺の配置も一番ペン先を付けやすい場所にしているのでペンの動きは途切れることはなく、まっさらな紙が瞬く間に黒く埋まっていくのはまるで魔法のようである。
必要事項を書き写し終えると、スティナは控えのホールに戻って書類を元の鞄へと返す。これを二時間ほど繰り返し続けるとホールの人が増えてくる。
さすがにホールの人数が二十人を超えてくると全ての目を確実に把握するのはスティナにも難しく、次の手にうつる。
スティナはここで書類を盗み書く方法を三つ用意していた。だが、こんな時スティナは思うのだ。
『変装、できればよかったんだけど。これだけは私には向かないのよねぇ』
どんな見事な変装をしたところで地顔を隠さず表に出せば絶対に相手に覚えられてしまうのだから、こういった隠密行動にはとことん不向きな顔をしているのだ。
その美麗な容姿を逆に利用するような諜報を行なえばよいのだが、こちらには性質的に適性がないのである。そもそも、最悪の場合皆殺しにしてやればいいや、なんて考える人間に隠密活動の適性があるかどうかは甚だ疑問であるが。
闘技場が動き出すと建物全体が賑やかで活気あるものとなる。この直前に、スティナ、アイリ、レアの三人は集まって情報収集の進捗を確認した。
難しい顔をするアイリ。
「存外、集まらぬものだな」
そんなアイリの反応に苦笑するスティナ。
「貴女、全部集めるつもりだったでしょ。さすがにそれは無理よ無理。とはいえ、まだ足りないのも事実。ほらそこレア、そんな露骨に嫌そうな顔しない」
「だって。これってすごく、気が疲れるんだもん」
「そーれーをー、いつも私にやらせてるって話よアンタたちはっ。今回ばっかりは手が足りないんだから文句言わない。さーきびきび働きなさいっ」
まるで気乗りのしていない声ではあったがきちんと、はーい、と返すレアに、スティナは大きく頷いてやった。
そしてにこやかに笑う。
「じゃあアレ、やるわよ。いいわね?」
この言葉にレアだけでなくアイリまでが渋い顔をする。アイリはここで手に入れられる情報の価値を誰よりもよく知っているが、そんなアイリですら嫌がるような作業が待ち受けているのである。
ただそれをするまでにはまだ時間がある。それまでに必要な情報を集めきることができれば、その嫌な作業をしないでも済む。
アイリもレアも、なんとしてでもソレを回避すべく動き始めるのだった。
「ま、絶対残るとは思ってたけど」
そんなスティナの台詞の通り、できれば欲しい資料が三つ、最後まで盗み取る機会を得ることができなかった。
闘技場の方はそろそろ終盤で、イェルケルの出番が近づいてきている。
さんざ嫌な顔をしていたアイリとレアであるが、いざやるとなればきちんと意識を切り替えてくる。その辺は頼もしいのだが、そうできるのならぐちぐちと文句を言う前にやってほしいとも思うスティナである。
アイリ、レア、それぞれ配置に付いたのが見える。スティナも目標たる貴族の席に一番近い場所に隠れ潜む。
闘技場ではイェルケルが登場し、観客たちの笑いをとっている。見た目は王族らしく見えるというが、ああいうことを平然とやってのける所はまるで王族らしからぬとスティナは思うのだ。
『偽物の王族が似合う王弟ってどうなのよ』
アンセルミ陛下に聞かれたらなんと言われるやら。とはいえ、イェルケルの話から聞くアンセルミ王像からすれば、こんな話も喜んで聞いてくれるような相手らしいが。
『兄弟揃って、変な王族よね』
イェルケルたち第十五騎士団の無軌道に毎回きちんと頭を抱えているアンセルミと、商人って楽しいよなとかぬかしているイェルケルとを一緒に扱ってやるのはあまりと言えばあまりであろうて。
こんな余計なことを考えながらもスティナの身体は予定通りに動いている。
観客たちの視線が闘技場に釘付けになっている間に、なんとスティナは闘技場観客席へと入っていってしまった。
音を立てず、さりとて不自然でない動きで。ほんの一瞬観客たちの視界に入ることはあろう、だが、それがとりたてて奇妙に思えるものでなければ彼らはそちらに注視したりはしない。
闘技場では一瞬も目を離せぬ緊迫した、しかしどこか安心して見ていられる愉快な見世物があるのだから、そちらに意識は向いてしまっている。
そのまま目的の貴族の側まで行き、彼の後ろに立ち、そしてスティナは、しゃがみこんで貴族が脇の鞄置きにおいている鞄から堂々と中身を抜き取ってしまう。
そしてどうするかと言えば、持参した板に抜き取った書類を固定し、闘技場観客席の中でこれを書き写し始めたのだ。
あまりに大胆すぎる犯行であるが、闘技場の戦いが白熱しており、皆総立ちで見入っているため、こんな真似をすることができているのだ。
書き写す作業中、思わず舌打ちしたくなるスティナ。
『コイツッ! 資料の書き方下手すぎ! もうちょっと読む方のこと考えて書きなさい! ああもうっ! どーしてこういう時に一番下手なのが当たるのよ!』
焦りも苛立ちも内心のみで抑え込み、資料の要所を拾い上げ書き写していく。
ペン先を滑らせる最中、インク壺から紙へと移動させる途中で、ペン先から一滴、インクが跳ねてしまった。
それ自体は大したことのないものであったが、スティナの手先の器用さからすればそれはありえないほどの大ポカである。
『んー、さすがに私も緊張してるか。……あの二人、大丈夫かしらね?』
ただ、失敗した後でも大崩れしないのがスティナである。作業を終え、鞄に書類を戻したところで不意に会場がしんと静まりかえる。
ぴたりと手を止めるスティナ。会場での戦いの様子は横目に見てはいた。もう少し待てば動けるはず、と考えたところで大歓声が沸き起こった。
止めていた手を動かし鞄を閉め、闘技場観客席から離れる。
もうここに用はない。予め見つけておいた逃走路を使って闘技場より出て、合流場所である空き家の奥の部屋へと。どうやらスティナが一番最後らしい。原因はあのやたらへたくそな資料であろう。
だが、その部屋にいるアイリもレアも、それはもう疲れ切った顔で椅子に座って机に突っ伏していた。
スティナは一応、聞いてやる。
「首尾は?」
無言で置いてある書類を指さすアイリ。そしてレアは憎々し気に声を出す。
「もう、二度と、絶対にっ、こーいうのやんないっ。特に最後のっ。もーやだっ、怖すぎ、あんなに大きな胸の音聞いたの初めてっ」
スティナは笑って言った。
「諜報活動って、普通はこういうのを言うのよ。いい勉強になったでしょ」
第十五騎士団の四人は、この街での隠れ家としてスティナが見つけてきた空き家に集合する。
目的はほぼ達成。集めた資料は後で精査する必要があるが、欲しいものは全て入手できたであろう。
ヴァロとエルノは宿の部屋の方に行っている。今回の作戦の具体的目標を二人には告げてはいないが、とても怪しげな活動をしているのは二人にもわかっているだろう。
だが、だからと何かを言ってくることもなく。手を貸してくれ、と頼めば二つ返事で任せろと答えてくれた。少なくともヴァロとエルノの二人に危害を加えるような真似はしない、程度の信用は得られているようだ。
部屋の中には弛緩した空気が流れ、スティナなぞは早々にワインを開けている。
だが一人、イェルケルのみが優れぬ顔で考え込んでいた。
最初にそれに気付いたのはスティナだ。だが、任務達成おめでとうワインを楽しむためにこれを黙殺する。
次にレアが気付くが、今日はもうこれ以上絶対に働きたくなかったので無視することに。
最後にアイリが気付く。イェルケルがそんな顔をする理由に全く心当たりのないアイリは、スティナとレアのこのまま触れないで流してしまおうという思惑の方を無視して話し掛ける。
「どうされたのですか?」
「んー、何か、さあ。なあ、アイリ、私、これからちょっと出てきていいか?」
「はぁ、それは構いませんが」
首を横に振るイェルケル。
「ああ、違う、違うな。そうじゃないんだ。つまりだな、私が今から闘技場に行って、あの闘技場の戦士たちにケンカを吹っ掛けてきてもいいか、って話なんだが」
盛大に嘆息するスティナととても面倒くさそうな顔のレア。そして意図が全くわからないアイリである。
「……殿下がそうしたいというのであれば。連中、何か腹に据えかねる真似でもしましたか?」
そう問うアイリに向かって、スティナが恨めし気に言う。
「アイリのばーか」
レアも続く。
「アイリのあほー」
「いきなりなんだ貴様ら!?」
「ほっとけば、自重してくれたかもしんないのに。ほら、見て。口に出したことで、でんかもう完全に、やる気になっちゃってるし」
「は? え? やる、とは闘技場のとか? いやしかし、あれはそもそもそういう予定であったわけだし恨むのも何か違うような気が……」
スティナとレアは再び同時に言った。
「アイリのばーか」
「アイリのあほー」
「だからなんなのだいったい!?」
貴族たちが皆帰った後の深夜の闘技場には、ここに寝泊まりしている闘技場の戦士たちと少数の管理人がいるだけになる。この管理人も元闘技場の戦士であり、皆気心の知れた相手ばかりだ。
なので貴族用の部屋以外ならば案外自由に使っていいことになっており、闘技場の戦士たちは夜になってから自主訓練やらに闘場を使うことも多い。
だがさすがに今日は大一番の後であり闘場に出ている者はいない。そこに、鉄巨人マルクスが自分の一派である十人ほどの戦士を引き連れ姿を現した。
「おー! お前生きてたのか!」
そう言って陽気に声をかけるマルクス。声を掛けられたのはついさっき戦ったばかりの殿下ことイェルケルであった。
イェルケルは闘場の中に立ち、マルクスを呼び出したのだ。
「ああ、わざわざ来てもらって悪いな」
イェルケルの言葉にマルクスは大きく笑う。
「ははは! 構わんよ! アンタとの戦いはキツかったが面白かった。是非アンタとは一度話をしてみたいと思ってたところだ」
「そう言ってもらえるとありがたい。だが、悪いんだが、今からする話は君にはとても、その、気分の悪い話になる。最初に言っておきたいんだが、私は君に含むところは何もない。それどころか気に入ってさえいる。だが、それでもこれは言わなきゃならない、言うべきことだと思うんで言わせてもらう」
イェルケルの口上に、マルクスは多少警戒するような表情に。
「……どういう話だ?」
「ああ、話なんだが……あー、違うな。話すよりコレがわかりやすい。君なら多分、文字通り一発で理解してもらえると思う」
そう言うが早いか、イェルケルは目にも止まらぬ速度でマルクスへと突っ込んでいった。マルクス、予想外であることと、そのあまりの速さに反応しきれず。
イェルケルがまっすぐに振りぬいた拳をまともに顔にもらってしまった。マルクスの巨体が大きく殴り飛ばされ後方へと転がっていく。
いきなりのことに驚きいきり立つマルクス一派の戦士たち。だが、イェルケルは殴り飛ばした姿勢で立ったまま、じっと倒れたマルクスを見据えている。
マルクスはゆっくりと起き上がる。
最初はとても驚いた顔をしていた。そしてマルクスを見るイェルケルの目を見て、事情を察し憤怒を露にする。
この拳の一撃は、とんでもなく重いものであった。
先の戦闘でイェルケルの膂力が凄まじいことはわかっていたが、そんな程度ではない。ありえない。こんな強力無比な拳なぞ、マルクスはくらったこともない。それにあの踏み込みの速さ。こちらもマルクスはまるで経験したことのないもので。ついさっき死力を尽くして戦ったはずの相手が、こんな真似をできるということはつまり、と思い至ったのだ。
「……てめぇ。手、抜いてやがったってのか……」
イェルケルは真剣なまなざしのままで言う。
「闘技場はそういう場所だろう。だけどな、お前は真剣にやってくれたんだ。自分の限界すら超えるような必死さで。だから私も、このままでいいのかって思えたんだ。だから聞くぞ。なあ、鉄巨人マルクス。お前、私より強いと勘違いしたままで良かったか?」
そのあまりの言い草に、マルクス一派の戦士たちは完全にキレてしまった。だが、マルクスはと言うとこちらは笑顔である。獲物を見つけた肉食獣のような笑顔だ。
「わざわざそのために来たってか。ご苦労なこったな殿下さんよ。いいぜ、やってやるよ。お前が、俺より強いってんなら……」
違う、と口を挟むイェルケル。
「お前、たち、だ。悪いが、一人一人じゃ相手にならんよ」
イェルケルは自分が武器を帯びていないことを彼らに見せながら、素手のまま手招きをしてやる。
マルクスより先に、彼の一派の戦士たちが怒り飛び掛かってきた。もちろん遅れてマルクスも突っ込んでくる。
イェルケルはとても嬉しそうに、彼らを迎え入れた。
闘技場の観客席。ここは貴族用であるからして夜間であろうと闘技場の戦士たちは立ち入らない。
なので今ここに来ている三人は闘技場の人間ではない。スティナ、アイリ、レアの三人である。
心底よりの呆れ声でレアが。
「ばっっっっっかじゃないの、でんか」
アイリは苦笑するしかない。
「そこまで溜めるほどか。とはいえ、今回のこれは理解に苦しむな。わざと負けるのはそれほど気に食わぬ話であったのか? ならば先に言ってくれればよいものを」
ばーか、ともう何度目かの言葉を繰り返すスティナ。
「いざやってみたらって話でしょ。殿下って結構相手のこと気にするから。相手が真剣にやってくれたのに、自分は手を抜いてたってのが申し訳ないって思ったんでしょ。後、相手の戦士のこと気に入ったってのもあるんじゃない?」
「気に入ったから叩きのめすのか? ああ、いや、そうか……ふむ、そういうこともある、な。ただまあ今の殿下を見るに、普通に自分の方が弱いって思われているのが我慢ならないってだけのよーな気がしないでもないがっ」
闘場では数十人の戦士たちが雪崩れ込んできていて、とんでもない大騒ぎになっている。
マルクス一派だけではなく、他の戦士たちも混ざってきているらしい。幾人かの戦士たちは完全にのびてしまっている。
そんな喧噪のど真ん中で、イェルケルはもうこれでもかという勢いで大暴れである。
はいはーい、とレアが手を挙げる。
「今回、一番楽で、一番楽しんでて、一番ズルイのは、私でんかだと思うー」
そうよねえ、と納得顔のスティナに、アイリはというとやはり苦い顔で嘆息しつつ溢した。
「ズルイってお前……我らの中で一番、殿下を王族扱いしてないのはレア、貴様であろうよ」
「コイツ絶対生かして返すんじゃねえぞ! おらつっこめええええええ!」
最後のヘイノ一派が闘技場に現れ、イェルケルへと突っ込んでいく。
生かして返すな、なんて話をしておきながら全員武器は持っていない、素手でイェルケルを叩きのめさんと飛び込んでいく。
数十人の敵に対し剣での時と違い、イェルケルはその攻撃全てをかわすことができていない。
剣や槍相手ならば、ただの一撃でももらえば致命傷となりうるが、素手戦闘はそうではない。急所にさえもらわなければもらい方さえ間違えなければ食らっても構わないのだ。
それにイェルケル側も一撃で仕留めるのが難しいため、イェルケルの一発を堪えて殴り返してくる者もおり、これをかわすのはさすがに難しいのだ。
ただまあそれでも、徹底的に足を使って敵集団を振り回しながら戦うやり方もないではないが、イェルケルはこの血の気が多くて気が荒く、それでいてどこか戦士らしからぬ甘さのあるこの連中と真っ向からの殴り合いを望んだのだ。
それは言うなれば消耗戦だ。多人数相手に消耗戦なぞ正気の沙汰ではなかろうが、イェルケルの体力もまた尋常ならざるもので。数百数千の敵と戦場で戦い続けるような化け物であるからして、いかな闘技場の戦士たちとてこれを消耗させきるのは難しかろう。
マルクスは先のイェルケルとの戦いが響いたのか、早々にのびてしまっている。
今は赤ら顔のイルモが皆を鼓舞しながら、戦いを続けている。
イェルケルはここの戦士たち皆を本当に気に入っていた。
誰か一人ぐらいは武器を持ち出すだろう、と思っていたのだが、ただの一人もそんな卑怯者はいない。
イェルケルの拳を、むしろやれるもんならやってみろとばかりに受けにかかる奴までいるほどで。
戦う前は、加減しなければ殺してしまう、と考えていたイェルケルであったが、それこそ目や喉のようなあからさまな急所を狙うでもしなければ、イェルケルでも一撃で殴り殺すのは難しいと思えるほど彼らは鍛えていた。
闘技場は確かに命のやりとりをする場所だ。
だが、ここで戦うということはどうやらそれだけではない何かがあるらしい。だからこそここの戦士たちは皆、こんなにも心地よいのだろう。
それでも、心地よい相手であろうとも、イェルケルが負けてやる謂れはない。
片っ端からなぎ倒してやると、戦士の数も徐々に減っていく。そして赤ら顔のイルモもイェルケルへと掛かってくる。
これを殴り倒す。イルモは立ち上がる。それでも殴り倒す。イルモもまたそれでもと立ち上がる。
十回目。それだけの数、イェルケルの拳を耐えたイルモは、震える足を殴りつけながら、必死の形相で立ち上がる。
「負けて、負けてたまるか! 俺たちは闘技場の戦士なんだよ! こんな、こんな奴に! たった一人に! 負けるわけにゃいかねえんだよ!!」
立ち上がり、ふらつく足でイェルケルへと歩み寄るイルモ。イェルケルは満面の笑みである。
「その意気や良し! だが許さん! 負けろっ!」
イェルケルの拳をもらったイルモは、これまでにないほど勢いよく殴り飛ばされ転がっていき、闘場に突っ伏しぴくりとも動かなくなった。
既に残る戦士は五人しかおらず。彼らもまた満身創痍で、だが、イルモの奮起を見せられては止まれるはずもない。全員が雄叫びを上げイェルケルへと飛び掛かっていく。
その全てを蹴散らすと、イェルケルの周囲に最早動く者もなく。闘場には数十人の男たちが倒れ蠢くのみとなる。
イェルケルは、大きく大きく息を吐いた。その瞬間、イェルケルの背後から飛び掛かってくる影が。
「殺ったぞ!」
この男の名はヘイノ、神風ヘイノと呼ばれる闘技場三戦士の一人。その速さは闘技場一で、そんな彼が完全に不意を打てる機を狙い、そして今こそと動いたのだ。
真後ろから首を取り、これを締めにかかろうと動くヘイノ。だが、ヘイノの腕がイェルケルの首に回される寸前、イェルケルの手がヘイノの手首を掴んだ。
「悪くない奇襲だった。だが、その程度の速さでは私には通じぬ!」
この手の不意打ちはスティナとレアで死ぬほど慣れているイェルケルである。
手と首を掴んで地面に投げ落とすと、ヘイノはその一撃で昏倒する。そしてこれで、全ての闘技場の戦士を張り倒したことになる。
イェルケルは汗をぬぐい、誰にともなく語りながら闘場を出る。
「いい戦いだった。また機会があったらくる。その時は、もっと強くなっていろよ」
翌日。闘技場の戦士皆がエライ怪我をしているのを見て、管理人たちは驚きその理由を問うた。
だが彼らは皆身内でケンカになったとしか言わず、殿下の話は誰一人としてしなかった。
当たり前だ。闘技場で強さを誇る戦士たちがよってたかってたった一人に襲い掛かり全員が返り討ちになったなんて話、どんな顔ですればいいのか。
以後、この闘技場ではこの時の殿下を誰もが殿下とは呼ばず、あのクソ野郎、と呼ぶようになったとか。
次来たら絶対地獄を見せてやる、と皆がやっきになって鍛えている中、誰よりもより鍛えるようになった鉄巨人マルクスだけは、どこか親し気な雰囲気で彼を、あのクソ野郎、と呼ぶのであった。