137.闘技場のクソ野郎(中編)
イェルケルの後ろを歩きながら、アイリは険しい表情を見せる。
「殿下、やはり私は反対です。顔役の言う通りヴァロとエルノを試合に出させて私たちが援護に回る形の方が問題も少なく、それでいて得られるものも充分にあるでしょう」
こちらも歩きながら振り返り、アイリに答えるイェルケル。
「どの道危ない橋は渡ることになる。なら、目指す利益は最大化を目指すべきだろう?」
「ですが」
言いつのるアイリに、アイリとは並んで歩いているスティナが口を挟む。
「私は殿下に賛成よ。前から言ってたけどあの闘技場、ここらの貴族ほとんどが顔出すみたいじゃない。しかも中央の貴族まで来るっていうんだから、こんな機会見逃す手はないわ」
アイリとスティナの更に後ろに続くレアが、一応とばかりに懸念事項を口にする。
「その中央の貴族。この間スティナが仕留めた魔法使いの件で動いてるんじゃない? それが主目的でなくても、頭には絶対にある。だからソイツの前では全力、出しちゃまずいよ? それでも大丈夫?」
これにはイェルケルが。
「元より今回は力押しはなしだ。この後も殿下商会として活動を続けられるよう、目立ち過ぎないよう動く。いいか今回は、地味に、密かに、目立たない、だ。実はこれ全員得意だろ?」
一応は、そりゃもう、私が一番だけど、と三人がそれぞれに答えるとイェルケルは頷く。
「なら問題はないだろ。ヴァロはもう闘技場入りしてる頃だろうから、私もそろそろ行くとしよう。そっちは任せる。一人二人なら行方不明にしても構わないから最悪それで凌いでくれ」
レアはわかった、と頷き言った。
「だって、スティナ。良かったね」
「なんで私がその行方不明枠使うことになってんのよ。そういう大雑把な動きするのはいつもアイリでしょうが」
「ぬかせ。大体仕事の雑さはレアが一番ヒドイであろうに」
「あー、アイリそういうこと言うんだ。なら……」
何やら三人で賑やかに騒ぎ出したので、もー知らん、とイェルケルはさっさと自分の仕事をしに向かう。
イェルケルたちは今、顔役から出場を依頼され闘技場のある街に来ていた。
この街には貴族用の宿や商店が多いせいか、街全体に整然とした清潔な雰囲気がある。
これらの宿や商店は全て、この街の闘技場にくる貴族たちに向けて作られたものだ。
街の税収の大半がこの闘技場絡みのものなので、街全体としてこれを後押しするような造りになっている。
カレリアの闘技場と比べれば、もちろんこちらの方が圧倒的に小さい。向こうは万の人数を収容可能なのだからして、あの大きさが異常なのである。
それでも最大数百人の貴族が観戦可能な闘技場は、その壁は城壁と見間違えてしまいそうなほどの巨大な建造物である。
こちらはカレリアのものとは違い、貴族のみが観戦するよう考えられており、平民用の一般席といったものは用意されていない。
貴族とその従者たちのみが楽しめる施設であり、そのためだけに、この闘技場には常時数十人の剣闘士が揃えられているのだ。
この闘技場は月に数回定期的に開催されているが、首都より貴族が来場する際は特に大きな催しとなる。この時ばかりは周辺の貴族たち皆がこぞって観戦に来て、闘技場の席はほぼ満席となるのが常だ。
イェルケルたち殿下商会に参加要請があったのは、この特別な戦いである。毎回闘技場外部より戦士を迎え入れての戦いが行われる。大抵の場合、闘技場の戦士に勝てる者なぞいないのだが、そういった戦士を用意できれば貴族たちの間で尊敬が勝ち取れるため、在野の優れた戦士の話題には皆敏感である。
殿下商会の武名を聞き、これを所詮はヤクザ者同士の争いと捨て置かずにいた貴族がいたせいで、イェルケルは今こうして闘技場の前まで来ることになったのだ。
実は以前、エルノはこの闘技場の戦いに参加したことがあるらしい。
そこで勝ってしまったもので、そのまま闘技場の戦士として登録されてしまいそうになったところを、賭博場の支配人がうまく匿ってくれたとのこと。
ヴァロはその技量からすれば招かれてもおかしくなかったが、そもそも貴族を張り倒してお尋ね者になったヴァロが、貴族の催しに顔など出せるはずもなかろう。
今回この二人は、素性を隠してこの街まで来ている。特にヴァロは顔が割れていないということで、闘技場への潜入を行なっている。
イェルケルは臆することなく闘技場入口へと。
闘技場の強面戦士が見張りに立つ脇を抜け、係員すら強面な受付で登録を確認する。
受付の強面男はイェルケルからその名前を聞くと、周囲も憚らず大笑いした。
「お、お前正気かよ。これ、本当にそのまま放送しちまうぞ? つーか殿下ってなんだよ殿下って。あとこのイカレた紹介文」
「その名前で通ってるんだから仕方ないだろ。闘技場への出場依頼は『殿下』宛てに来てたんだって」
「貴族が見るってのに、度胸がいいんだかただの馬鹿なんだか。まあ、多分だが、ウチにくる貴族サマたちなら笑ってくれるとは思うがね。本当にいいのか? こんだけ名前でウケ取っといて腕がヘボだったらエライ叩かれるぞ」
「ああ、それなら問題ない。対戦相手は一番強いの出すよう言ってあるから」
強面男の表情が固まる。少し考えた後で彼は答えた。
「興行としちゃ、あの人が出るんなら相手は道化でも問題はない。お前は間違いなく死ぬがな」
「その分、生き残ればおいしいんだろ。どうせやるんなら一番稼げる相手とやるのがいい」
はあ、と肩をすくめる強面男。
「お前のツラなら貴族様の夜の相手もできそうなもんだが。まあいいさ、上に確認はしなきゃなんねえから、もしそこで駄目出しされたら諦めろよ」
「おう、頼むぜ」
平民のチンピラ紛いともあっという間に親し気になれてしまうのは、イェルケルの極めて王族らしからぬ特技である。
用事が終わるとその日は外の宿で過ごし、そして翌日の夜、イェルケルは闘技場最強の男と戦うことになる。
イェルケルが宿で寝る前に、スティナが報告に訪れる。
闘技場の戦士たちはおおまかに三つの集団に分かれていて、それぞれに強力な戦士が長となってこれらをまとめている。
神風ヘイノ、赤ら顔のイルモ、そして最も強いと言われているイェルケルの対戦相手、鉄巨人マルクスだ。
この三人は貴族たちの間でも有名な戦士であり人気もある。
スティナはくすりと笑う。
「神風ヘイノっていうの、美男だっていうから顔見てきたんですけどね。あれなら殿下の方がずっと男前ですよ。きっと殿下なら、顔だけでも人気者になれます」
「うーむ、なら、その方向で行くか」
「殿下、本当に、大丈夫なんですよね」
「何度も言ったろ。君もいけそうだって言ってくれたじゃないか」
「いざとなったら私突っ込みますからね。その時になって文句言わないでくださいよ」
「わかったって、そんなヘマしないよう気を付けるさ」
「まったくもう、なんだって殿下が率先して一番危ないことしてるんだか……」
「おい待て。ここしばらく危ないことばっかしてたのは私じゃなくて君らだよな? スティナがぶつかった魔法使いって、イジョラ最強の暗殺魔法の使い手だったってな。なあスティナ、危ないことしてるのは私か? それともそれ以外か」
「あーもうっ、本当に知らなかったんだから勘弁してくださいって。なんかもうレアも無茶するし、アイリなんてさっさと顔バラしちゃってますし、そろそろ切り上げ時なのかもしれませんね」
「おいおい、まだできることあるんだから簡単に諦めないでくれ。こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど……私、結構楽しいんだよ、商人やってるの」
やはりまた、くすりと笑うスティナ。
「知ってます」
闘技場は基本的に多人数が戦うために作られたものではないので広さとしてはそれほどでもないが、一対一で戦う分には十分すぎる大きさがある。
土の闘場をぐるりと取り囲むように、上から見下ろす形で作られた観客席は、それが最も効果的に観戦できる形であるとしても、製作者の闘場にて戦う戦士への軽視が見てとれよう。当たり前ではあるが、戦士より観客をこそ考えた建物である。
その日は中央よりの大貴族を迎えての大一番であり、闘技場側も初戦から盛り上がる組み合わせを出してきて、集まった貴族たちを飽きさせぬよう工夫をこらす。
それらは長く闘技場を運営してきた者達がそうしているだけあって、集まった貴族たちを充分楽しませるに足るものであった。
そしてその日の最終戦。最強戦士、鉄巨人マルクスの出番である。マルクスは闘技場一の巨体を誇る男であり見た目からも強さの説得力は十分で、ここ一番の勝負強さも持ち合わせている、正にこの闘技場の顔ともいうべき男であった。
そんなマルクスの今日の対戦相手は、事前に皆には知らされていない。これは闘技場の外より戦士を招く際はこうすることが多く、戦士が登場する時その出自を説明する形であるのだ。
最終戦を前に、一番の戦いを期待しながら闘技場を見つめる観客たち。そこに、明らかに魔法の道具を使ったであろう驚くほどの大声が響き渡る。
「さて! 本日最終戦はもちろん皆さんお待ちかね! 鉄巨人マルクスの登場です! だが! 今日ばかりはマルクスにも荷が重いか!? 今日の対戦相手はいつもとは一味も二味も違うぞ!」
この説明を述べる者が異常に賑やかなのはいつものことで、彼の騒々しい語りが闘技場を盛り上げる一役を担っている。
「この男! イジョラの遥か南! 海を越えた更に先のコンスタンツよりやってきた! なんと驚くなかれ! かの国で政争に敗れ落ち延びた王家の末裔だ! 故に本名は明かせぬとのことですが、この通称がイカしてる! その名も『殿下』だあああああああ!」
誰しもが予想もせぬ紹介に呆気に取られている間に、闘技場の入り口よりコンスタンツ王家の末裔を名乗る男が姿を現す。
その格好に観客はどう反応すればいいのか理解できた。
明らかに王族を勘違いしていると思しき、無駄で無為で頭の悪そうな装飾がゴテゴテと張り付けられたクソ派手なガウンを身にまとい、つんと澄ました顔で現れた男。つまり、王族云々はカタリであると全身で言ってのけているのだ。
ただ、全てが王族らしからぬわけではない。品の良い顔立ちは確かに、王族貴族と名乗っても不思議ではないもので、その美男っぷりに惹かれる者もいるほどだ。ただ、紹介と格好があまりにアホらしく、これをまともに格好いいと受け取る者はいなかった。
観客である貴族たちは、よりにもよって自分たち貴族の前で王族を名乗る無謀さと愚かさ加減に、逆に喝采を送ってくる。
流浪の王族などという設定自体はありきたりのものなので目くじらを立てるほどではないのだが、いざそれを貴族の前でやらかすかと言われれば普通は絶対にやらないだろう。そんなギリギリを攻めてきたことに対する称賛でもある。
基本誰しもが、見て笑う分には馬鹿は嫌いではないのだ。
観客たちから十分な笑いを取れた殿下ことイェルケルは、無駄に胸を反らした窮屈な歩き方でマルクスの前まで進む。
「おい、そこな平民。キサマのような醜い筋肉を相手にするのは不快極まりないが、これもまた高貴なる者の務めよ。せいぜい無駄に足掻くがよいわ」
そう言って身に着けていた派手なガウンを脱ぎ捨てる。そこで初めて観客たちは、イェルケルの背が巨漢マルクスにも劣らぬほど大きいことと、その下の肉体が鍛え抜かれ引き締まったものであると気付く。
マルクスはというと、どういう顔をしたものか戸惑っていたようだが、一度振り返って観客席にいる闘技場の主の顔を見ると、彼が大笑いしつつ殺せの合図を出してくれたことでその意志を理解する。道化を狩れ、そういう話だろうと。
なら、とマルクスもイェルケルの前に進む。両者の反らした胸板がぶつかるほど近くにまで。
「お前が何者であろうとも、この場で、俺の前に立つというのなら、俺のやることは変わらない。かかってこい、望み通り殺してやる」
背はマルクスとイェルケルでほぼ同じであるが、マルクスの方が身体の厚みが倍はあろう。それでもイェルケルに憶するところはない。
「はっ、箱庭で一番を気取っている程度の男が偉そうにぬかしよるわ。我が剣、ただの一合でも受けられれば褒めてやるぞ」
そう言ってイェルケルは闘技場の端へと武器を取りに戻る。
観客たちは好き勝手に騒いでいるが、この二人の会話は大声でなされていたので彼らにも聞き取ることができた。
ここに集まった観客の大半は、闘技場の英雄ともいうべき鉄巨人マルクスのファンでもある。相手は平民ではあるがその強さに敬意を持つ者すらいるほどに。
そんな英雄が罵られ見下されれば気分はよくない。多少なりとその馬鹿さ加減から好意を持ち掛けていた観客たちは、この会話によって殿下よりやはりマルクスか、と応援する側を定める。
両者は大剣を手に取る。
マルクスの剣はその巨漢でもなければ振り回せぬだろう特注の巨剣だ。
対するイェルケルはこちらもまたマルクスの物ほどではないが、長く大きな剣を持つ。
大きな男二人が、大きな剣を持って向かい合う。そのわかりやすい強さの表現に、観客たちはただその絵面だけで興奮を隠せず。
そして、開始の合図と共に二人は動き出した。
初闘技場での緊張なんてものを一切感じさせず、殿下がマルクスと同時に動けたことに観客たちは皆驚く。
外部から招いた戦士は大抵、最初は様子見をするものなのだ。そこをマルクスたち闘技場の戦士が最初から全力で挑んで流れを掴む、といった展開はこれまで何度も見てきたものだ。
これを打ち破れただけで、一角の戦士であると誰もが認めるものだ。
更に二人の攻撃だ。
マルクスが仕掛けた剣撃。これに合わせるように殿下もまた剣を打ち込む。故に両者の剣は音高く鳴り響き火花を飛ばす。
一度、二度、三度と繰り返される打ち合い。どちらも小さく丁寧に振り回すといった形ではなく、力任せに大振りを繰り返す。その派手さに観客は皆歓声を上げる。
もちろん殿下も、そしてマルクスもそんな雑な戦い方をしているわけではない。
マルクスの大振りは隙があるように見えるが、これは大きく強く振ることで敵に対応を強いる攻めの形である。片手間に受けられるような一撃ではないが故に、相手に切り返しの余地を与えぬもの。そしてこういった強撃は続けて行なえぬものなのだが、マルクスはまるで途切れることなくこの攻撃を続けている。
細かな芸なぞいらぬ。大きな男が大きな剣を強く振り回す。これを確実に行なっていくだけでそれは強い攻撃の形となるのだ。
その恐るべき攻勢圧力に対し、観客が最も盛り上がる受け方、真正面からの打ち合いにて応じたのは殿下である。
これは並大抵の技量ではできぬこと。マルクスの強撃に対し、下手な受け方をすれば剣を叩き折られてしまう。だから殿下は剣が最も威力を発揮する位置にくる前に、これを打ち弾いているのだ。
マルクスの剣撃は殿下の身体に当たった瞬間に最大化されるような振り方をしている。殿下はこれを最大化前に自らの剣を打ち込み弾いているという話だ。もちろんマルクスの剣はそうやって単純化できるほど簡単なものでもないのだが、殿下の技量がこれを成立させてしまっているのだ。
結果として、幾たびも互いの剣が激しく打ち合われるといった形になっていた。
殿下もマルクスも、自らの剣が折れぬような振り方をしてはいたが、何度も打ち合えば失敗する時もあろう。いつそれが起きるか、もちろん剣を失えば命が危ういのは殿下だけではなくマルクスもそうなので、この剣撃は薄氷の上を行くような恐ろしさの中で行なわれている。
そして遂に、一際甲高い音と共に剣が折れ飛んでいく。
どちらだ、とマルクスは振りぬいた自らの剣を見る。折れているのはマルクスの剣だ。大慌てで短い剣での立ち回りに切り替えようと身を引くマルクス。だが、それは全く同じ動きを殿下の側もしていた。
マルクスの剣だけではなく、同時に殿下の剣も折れていた。思わぬ展開に、両者共その場で動きを止めてしまう。
先に動いたのは殿下の方であった。
「おのれ! なまくらめが! これが我が祖国の剣であれば容易く折れたりはせぬものを!」
忌々し気に半ばで折れた剣を投げ捨てる殿下。遠回しにイジョラをけなすような言葉を放ってきた殿下に、会場の人間は皆僅かにだが眉をひそめる。
折れた剣なぞみっともなくて使えるか、と言わんばかりの殿下の態度に、マルクスは闘技場一の戦士らしい姿勢で応えてやる。
マルクスもまた殿下と同じように、折れた剣を後方へと投げ捨てたのだ。その堂々たる態度に会場の貴族たちは大喝采である。闘技場で人気者になるには、こういった演出も必要になってくるのだ。
『へぇ、さすがに闘技場でやってるだけあって、コイツも盛り上げ方がわかってるじゃないか。なら、これにも乗ってくれるか、な?』
殿下はにたりと笑うと、拳を握ってこれを鳴らしながらマルクスに歩み寄り、助走をつけて殴り掛かる。マルクス、その巨体に似合わぬ俊敏な動きにてかわし、同時に殿下を殴りつける。
殿下、顔の前に出した手でこの拳をつかみ取る。その細身に似合わぬ握力にマルクスの顔が歪む。だが、直後殿下から放たれた拳は見逃さない。
殿下同様顔の前にてこの拳を掴み取るマルクス。お互いがお互いの右拳を掴んでいる状態。そのまま、押し付けていた拳を両者共が開いていき、両者の手の平ががっちりと組み合う。
力比べ、手四つの形だ。
『よしっ! 乗ってきた! 私ちょっとこいつ好きになってきたかもしれん!』
マルクスの巨体に対し、背こそ同じだが圧倒的に肉の量が足りてないだろう殿下が力比べを行ない、これが拮抗していることに観客たちは驚きの声をあげる。
対するマルクスはというと、これまでの戦いで殿下の体躯に似合わぬ膂力に気付いていたのか驚きこそないものの、この分野で負けるのは誇りが許さぬのか必死に殿下を押し込みにかかる。
全くの五分。そう見える観客と、ほんの僅かではあるがマルクスの有利を見てとる者、逆に殿下こそ有利と考える者が更に少数。
マルクスが僅かにのしかかる形になっているのだ。殿下は両足両腕を突っ張ってこれを堪える。
肉と骨とが軋む音。負けるな頑張れと聞こえる声援にマルクスの肉体が応えたかのように、更にマルクスの身体が殿下へとのしかかっていく。
この戦闘で初めて見せる殿下の苦悶の表情。直後、両者の身体がぐるりと一回転する。
殿下の側にマルクスの身体が倒れ込んでいく。だがこれは殿下がそうなるよう仕向けたもの。殿下はマルクスの身体の下に身体を滑り込ませ、足でマルクスを蹴り上げ自らの後方へと投げ飛ばしたのだ。
力比べから逃げた、そう観客たちが非難する前に、起き上がった殿下は倒れるマルクスへと駆け寄る。
走り寄る勢いそのままに、マルクスの顔を殴り抜ける殿下。立ち上がるのは間に合ったが、殴りつけられ上半身が大きくねじれるマルクス。だが、マルクスは倒れず堪える。
お返しだとばかりに全力で殿下を殴り返すマルクス。今度は殿下の上半身が後ろを向くまでねじれる。殿下もまた倒れず耐えて、マルクスを睨みつけながらこれを殴り飛ばす。
マルクス、耐えて殴る。殿下、堪えて殴る。どちらも引かず。しかし男らしく一発ずつだ。マルクスが殴り、次は殿下が殴り、再びマルクスが殴ってから殿下は殴り返す。
互いの血が飛ぶもお互いそんなことを考える余裕はない。最早技も何もない、意地の張り合いである。
十回以上拳を応酬しあった結果。当たり前ではあるが、より体重の勝るマルクスの拳により、殿下は踏ん張りきることができず後方へと殴り飛ばされてしまった。
だがマルクスの身体に刻まれた損傷も大きく、すぐに追撃には移れず。殿下はよたよたとした足で、それでも立ち上がりマルクスを睨む。
両者共、拳で頭部を殴り合ったのだから、足や意識に多少なりと問題は生じている。だが、その不確かな視界のままでも戦い続ける。戦いとはそういうものであろう。
踏み込んだマルクスの拳を、低くかがんでやり過ごし懐の中へ入った殿下。腕を取り、身体を捻ってマルクスを腰に乗せる。
惚れ惚れするほど見事な投げである。マルクスの巨体が大地に強く叩きつけられる。
倒れたマルクスに駆け寄りのしかからんとする殿下であったが、マルクスが寸前で立ち上がり、逆に殿下の身体を強引に掴みにかかる。
殿下はこれに抗うも、無理な形でそうしたマルクスは力任せに殿下を大地から引っこ抜き、肩の上に持ち上げ大地に叩き付ける。かなりの高所から叩き落としたので、殿下はその場でのたうち転がる。
観客たちは総立ちだ。
闘技場観戦歴の長い者たちでもこんな戦いは見たことがない。闘技場では武器を使うのだから決着は一瞬だ。素手での戦いが絶無ではないが、闘技場では血を見ることもまた娯楽であるので、武器を用いた戦闘の方が観客には喜ばれる。
だが今、素手の戦いの良さを、彼らは認めていた。
互いが力を出し尽くし、精魂尽きるまでお互いの性根を競い合う。そんな戦いもまた、観客たちの心を大きく揺さぶるものであるのだ。
またこの両者もいい。実力差がありすぎるではなく拮抗しているので、競い合いに見応えがある。
マルクスも殿下も、どちらもただ力自慢の男ではない。目の肥えた貴族たちから見ても、二人の格闘における技量の高さは感嘆に値するもので、そんな二人が技と力の限りを尽くして肉体をぶつけあう様は、たとえ戦場であろうと決して見ることのできない血湧き肉躍る光景であった。
幾人かはこの戦いに、戦場ではない闘技場ならではの進むべき道を見出していた。
彼らはまた、今多少不利な流れにある殿下にこそ、この素晴らしき戦いの功があると見ていた。
マルクスは誰もが応援する闘技場の第一人者だ。これと戦う立場の殿下が、上手く敵役になってくれているのだ。誰もがマルクス側に感情移入し、その奮戦っぷりに興奮する。だが、マルクスの奮戦を際立たせるには殿下の強さもまた不可欠である。
闘技場内にはできるだけ余計なものは置かないのが望ましいのだが、敢えてここには障害物が置かれている。それは戦いに緩急をつけるといった意味もあるがそれ以上に、大きな身体を持つ戦士たちが、どれほど大きいかを比較対象を側に置くことで観客たちに明示するためであるのだ。
これを大きさだけではなく強さにおいても明示するために、殿下という強力な戦士の存在が必要なのだ。
後はもう、このままマルクス有利の流れで決着がついてくれれば、今回の興行は大成功と言っていいだろう。
だがなかなかに現実は厳しいようで、殿下が新しい戦い方を披露すると、マルクスはこれに対応できずにいた。
殿下の足はマルクスのそれを大きく上回っているようで、走りながら間合いへの出入りを繰り返す殿下に、マルクスは反応しきれず何度も何度も痛打をもらってしまう。
右に左にと回り込むその速さは、観客席から見ていてすら驚くべきもので、さしものマルクスもこれには抗しきれまい、と思えるほどのもの。
だがそれでも、彼らが応援するのは無敵の戦士、闘技場最強の男マルクスだ。数多の戦いを潜り抜けてきた歴戦の勇士であるがゆえに、いかに不利な状況に置かれたとしてもそこからの逆転を期待されてしまう。
心根の正直な観客は必死に声援を送りマルクスの奮起を促す。少しスレた観客はいかに殿下の動きが優れているかを語り、見る目のある者は追い込まれているマルクスの目が死んでいないことに気付いている。
攻め立てる殿下は勝利を確信しているのか、攻撃が終わる度マルクスを罵り、嘲る。そんな真似をしても動きに隙がないのが殿下である。マルクスはこのまま追い込まれ、終わるしかないと誰の目にもそう見えた。
だが、しかしだ。マルクスは闘技場という限定された空間での戦いを、何度も潜り抜けてきた男だ。だからこそ、ここが屋内で、照明は太陽などではなく人工的に作り出されたものであることを知っており、複数の照明が多数の影を作ることも、その角度から、距離と位置を探ることができることも知っていたのだ。
完全に死角となっている場所からの殿下の攻撃。これを、またかわせぬ位置からか、と観客が失望の声を上げるなか、マルクスはたった一度の好機を信じ、殴る先も見ぬままに全力で振り向きながら殴り掛かったのだ。
反撃を一切考慮していなかった殿下に対し、不意の一撃は殿下ですら反応できず、驚くほど勢いよく殴り飛ばされる。
その身体は宙を舞い、大地に落下すると二回ほど回った後で、闘技場の端まで滑っていきそこで静止した。
観客たちは誰もが予想しなかった一撃に驚き言葉が止まる。マルクスもまた、最後の力を振り絞ったためかその場に膝をつく。
会場中がしんと静まり返るなか、一人の男が倒れる殿下のもとへと走り寄る。その服から闘技場の関係者とわかる男は、倒れた殿下の顔をのぞきこんだ後、首を横に振って手で合図を送る。これは、死んだの合図である。
これを見た観客たちは、一斉に声を張り上げた。
見事にすぎる逆転劇に、彼らは皆口々にマルクスを称える。
観客たちの声を受け、マルクスはようやく勝利を実感したらしい。強面に似合わぬ人懐っこそうな笑顔になったマルクスは、片腕を頭上へと振り上げ大声で吠えた。
英雄の勝利に、観客たちは闘技場全体が揺れたと思うほどの大歓声で応えるのだった。
担架に乗せられたイェルケルは横になったまま、これを運ぶ男、闘技場の係員の服を着たヴァロとエルノに話しかける。
「どうだ? 上手くいったろ?」
呆れ顔のヴァロと、感心しているエルノだ。
「よくやるぜ、まったく」
「いやいや、本当に見事だったって。ああまで盛り上げるってのは簡単なことじゃないんだぜ」
ははは、と横になったまま笑うイェルケル。
「目立たないようにするには、より目立つものを用意してやればいい、ってな」
おみそれしやした、とヴァロとエルノもまた笑う。
会場中の視線を引き付ける役割をこなしたイェルケルは、ヴァロとエルノに運ばれ闘技場を脱出する。後は三騎士がきっちりと仕事をしているかどうかである。
ただ、このまま横になって眠ってしまってもいいイェルケルであったが、どこか納得のいかぬ、心に引っかかるものがあった。
それがなんなのか今のイェルケルにはまだはっきりとはわからないのだが、闘技場からこのまま去るのが、少し嫌だとイェルケルは思った。