131.駆け抜ける銀の精霊
「上等だこの野郎! 勝負してやっから表出ろ!」
「おーもーしーれー、あれからどんだけ弱っちくなったか見てやらあ!」
宿の一階、食堂にて男二人の騒々しい声が響いた。
男の内の一人は、イェルケルがぶっとばした後で妙に気に入られて宿に入り浸りになっているヴァロという男で、もう一人はこの宿の主人の息子でスティナたちが賭博場で働いているのを連れてきたエルノという男だ。
どちらも大柄でありながら、その全身に無駄な肉なぞない引き締まった身体をしている。よほど普段より鍛えていなければこうはなるまい。
ヴァロは肩までの長めの金髪で、エルノは短く刈り揃えた短髪、後ろから見分けるにはその髪を見るぐらいしかないだろうというぐらい、二人は似通った体つきをしている。
どうやらこの二人幼い頃からの知り合いらしい。のわりに久しぶりの再会だというのに顔を合わせるなりケンカが始まってしまったのだが。
本気で呆れ、馬鹿じゃないの顔をしているのがスティナとレア。仕方のない奴だ、といった程度のアイリ。仕方のない奴だ(大変結構顔)なのがイェルケルで、宿のおばちゃんは楽しそうに、懐かしそうに二人を見て笑っている。
見ててもつまらないのでスティナとレアは最近ハマっているカードゲームを、アイリはイェルケルに不在の間の報告を行う。
街中で付け火騒ぎがあり、この際アイリが顔を出してそこらを走り回ってしまったと。幾人かにはアイリが殿下商会の人間だと公言した話も告げるが、いつまでも隠しておけるものでもないと二人共が思っていたので、良い機会だったと話はまとまる。
イェルケルとアイリの後ろから不意に大声が。
「甘いっ!」
レアが声と共に手を伸ばし、机越しに身を乗り出してスティナの腕を掴み上げている。
「むう、やるわねレア」
「むふー、次は私の番ー」
カードゲームをしていながら、いきなり相手の腕を取る遊びとかイェルケルもアイリも聞いたことがない。何をしているのかの予想はつくがつっこむのが面倒なのでイェルケルは放置を決め込んだ。
アイリは顔役たちがきちんと放火犯の元締めを仕留めるかどうかを確認する、と言ってその街まで出向きたいと申し出ていたのだが、カードゲームをしながらも話は聞いていたらしいスティナが、顔はレアの方を向けたまま話に混ざってくる。
「それ、私が行っちゃまずい?」
不思議そうにアイリ。
「どうした、何かあるのか?」
「自分の目で見てみたい。貴族が平民に甘くない街を」
「お前は数字云々よりも先に、自分の目で見たいタチであったな。私は構いませんが殿下、どうです?」
「そうだな。うん、顔役には少し怯えてもらうとしよう。スティナ、頼む」
「りょーか……甘いっ!」
ばしっとレアの手をはたくスティナ。レアは会話の隙を狙ったのだが、この隙を狙うとスティナに読まれていたのである。
悔しそうなレア。まだまだこのイカサマ訓練は決着がつきそうになかった。
その街は岩肌がごつごつと顕わになっている山岳地帯にあった。
何を考えてこんな山の中に街を作ったのか、スティナには理解ができない。街中を移動するだけで家の二階三階分の高低差を上がり下がりしなければならないような街なのだ。
ただ、こんな街に住んでいれば火事に対する認識が木造家屋だらけの街とは違ってしまうのも無理はないとも思った。
家はスティナの目に入る限り全てが石壁に覆われている。石壁というより、岩を掘って中をくりぬいたという感じの方がより近いかもしれない。
ただ外観はきちんと建物をしており、人の手が入った証である不自然に整った四角形をしている。
遠目に見ると、ちょっと面白いと思える。高低差が激しいせいでそれぞれの家の一階と二階が入り混じっていたり、だからと街の外観はスラム街のように小汚いものではなく、どこか統一性のある整然とした雰囲気がある。
その独特の光景に目を奪われながら街に入ると、これが街中はもっと面白い。
街を通る道が、グニャグニャと曲がって見える。遠くから見ると整然としているようであったが、中に入るともう上に下に右に左にとねじれよれており、このねじれた道に綺麗に沿う形で石壁の家々が並んでいるのだ。
どの家も道がどれだけ歪んでいようともきちんと平行を保っている。人が住む場所なのだから当たり前ではあるが、こうまでややこしい土地でもそうなっていることにちょっとした感動を覚える。
また遠目に見た時は岩肌をくりぬきでもしたか、と思えた家々だったが、近寄って見ればこれが石を積み重ねて作ったものであるとわかる。
石と石の隙間が見えにくいように作られているのだ。これを見て、まるで城壁みたいだと思うスティナはやはり兵士脳に毒されているのであろう。
道はそれほど広くはない。馬車が通れるようにはなっているが、道が急すぎて車輪の使用は躊躇われるのだろう。道幅が狭いせいか窓から隣の家の窓へと伸びる洗濯紐がそこら中に張り巡らされている。
二階の窓から伸びた洗濯紐が平行を保ちつつ隣の一階の窓にかかってるのを見れば、ここがどういう街なのかがとてもわかりやすいだろう。
「うん、これだけでも来てよかったかも」
きっとこの街を、カレリアでも作ることができるだろう。だが、イジョラのように魔法があるでもなければ払った労力に対し採算が合わない。
ならきっとイジョラにはこの他にも、こうしたカレリアではほとんど見られないようなものがあるのだろう。それを思うと少しわくわくしてくるスティナだ。
ちょっと浮かれてしまったスティナは、最初の丸一日を全部街を歩き回るのに費やしてしまったほどだ。
そのおかげでスティナは、この街の住人たちの顔を来訪早々知ることとなる。
ここはイジョラでも貴族が平民に厳しい街。いや、厳しくはない。これが標準であるそうだ。
なるほど、とスティナは納得する。声がない。どこの街でも当たり前に聞こえる声が、極端に少ない街だ。誰もが、黙々と己の仕事をこなしているのみ。
それはあまり楽しそうには見えないものであった。
かの街とは経済規模が違い過ぎる。なので顔役が用意した潤沢な予算により編成された攻撃部隊は、慣れぬ街という大きな不利を被っていようと圧倒的な攻撃力にて敵対組織を粉砕していく。
一般的に言って、経済の差は戦力の差に直結するものなのである。
スティナは監視目的で来ていたので、こちらに乗り込んできた顔役側のチンピラ共とは連携しておらず、そもそもスティナが来ていることすら彼らは知らないが、スティナはといえばチンピラたちの戦闘の推移を彼等に知られず把握するのはそれほど難しいことではなかった。
普通、ここまで徹底的に叩きにかかれば、この街の治安担当者とその最高責任者が動きかねないものなのだが、イジョラではそれこそ彼らが全滅するようなことになっても貴族は動いたりしないというのが一般的らしい。
貴族、つまり魔法使いさえ動かないのであれば、たとえ治安担当者が相手であろうと恐れるものではないのである。
「ほんっと、イジョラの貴族って平民たちに興味がないのね」
統治管理する気すらないのであろう。どんなヒドイ状況になったとしても最後は魔法でひっくり返せるというのは、統治する側からは熱意を奪い、統治される側にこそ安定運営の必要性を要求してくるものらしい。統治側は魔法でやれと命じるだけで相手の全力を引き出すことができ、やり方も工夫も統治される側が考えるのだから楽なものである。
いつものように建物の上からチンピラたちの寝泊まりしている場所に忍び込もうとしていたスティナは、突如視界の隅を走った小さな黒い影に驚き、かぶっていたフードを更に深くかぶせながら目で影を追う。
鳥だ。別段珍しくもない、この辺りで他にも見た鳥。だが、スティナは知っている。魔法使いは鳥を操り、その視界を共有することができる。つまり鳥を使った偵察が可能だということを。そしてこの鳥、幾らなんでも人に近づき過ぎである。
顔を隠しているスティナのそれを、まるで確認するかのような動きであった。
魔法を見破るにはそうした不自然さを見抜くこと、とスティナは教わってきた。ふーん、とスティナは笑う。とても、楽しげに。
スティナがねぐらにしている場所は、こじんまりとした家だ。ここの住人はちょうどスティナが来た日より外に商売に出掛けており留守にしている。そこで平然と寝泊まりしているのである。
その日も家に戻り、他人の家のベッドのシーツを勝手に変えてこれを使っておやすみなさいである。
だが、スティナが家に戻って少しすると、家の扉を叩く音が聞こえた。
スティナは、やっぱり来たかと簡単に身支度を整え、顔を隠すフード無しで堂々と玄関から顔を出す。
「はいはーい、何か御用かしら?」
家のすぐ外には二十人近い兵士たちが集まっている。彼らに向かってスティナは目を丸くした顔で問う。
「何かあったんですか?」
扉の前に立つ兵士もまた驚いた顔をしていた。
「いや何かあったじゃないだろ。そこ、お前の家じゃないだろうに、何平然と自分の家顔しているんだ」
「用事はそれじゃないんでしょ? さっさと言いなさいよ」
「お前……まあ、いい。さるお方よりお前を連れてこいとの命令を受けている。さっさとついてこい」
スティナは笑顔で頷く。
「はいはい、じゃー行きましょうね。さるお方って、名前とか立場とか聞いてもいい?」
「いいからお前は黙ってついてくればいい! ……なんなんだこの女は。お前、自分がこれからどうなるかわかっていないのか?」
「わかるわけないでしょ、私ここ来たばっかよ。だから教えろって言ってるんじゃない」
「……もういい。面倒は御免だ」
男の後にスティナはついていく。他の兵士が、この男に声を掛ける。
「たいちょー。なあなあ、コイツ、すっげぇ美人じゃん。隊長どーよ、ここはひとつ……」
「黙れ。充分に警戒しろと言われたのを覚えていないのか? 今の言葉は聞かなかったことにしてやるから、黙って任務だけを考えていろ」
ちぇー、と残念そうなのはこの兵士だけではなく、集まった半数近くが似たような顔をしている。
スティナは、くくくと笑いを堪えながら言った。
「隊長さんも大変ねえ」
「おまっ! ……まったく、肝が太いんだか頭が悪いだけなんだか……まあ、いずれ結果は一緒か」
スティナの正体を詮索することすらなく、隊長と兵士たちはスティナを連れて街の外れにある大きな屋敷の中へと。
どんなのが出てくるかと期待していたスティナであったが、出てきたのはそれほど珍しいものでもない。
自己節制ができてない故の肥満体をでぶでぶと揺らしながら、好色そうな顔でその男は満足気に笑う。
「おおっ! 実物はずっと美しいではないか! これは良い拾い物をした! よしよし、おい、女、お前はこれより我が物となる。今晩より早速……」
反抗を一切考慮していない物言いから、これは貴族であるとわかる。なのでスティナは彼の言葉にかぶせるように言ってやった。
「嫌よそんなの。貴方自分の顔見たことないの? 貴方みたいなぶっさいくな豚、見てるだけで気分悪いからさっさとどっかへ消えてくれない?」
発言が予想外すぎて、誰一人反応できる者はいなかった。
凄まじい罵り言葉であったのだが、言われた貴族はというときょとんとした顔。そして逸早く状況を察した隊長は大慌てでスティナの腕を取り、これを捻り上げて跪かせようとする。
が、できず。スティナの腕を掴んだ隊長は。
「誰が触っていいって言ったのよ」
というスティナの一言と共に振るった腕で、床を盛大に転がっていってしまう。
「もうちょっと面白いの出てくると思ってたのに。何よこの豚。魔法使いっていったってロクに動けもしないんじゃ話にならないわよ。ねえ、この家、他にもっと使える魔法使いいないの?」
ここまで来て、貴族はようやく自分が侮辱されていると理解した。
そしてそれはもう見苦しいほどに激昂しつつ、スティナに向けて魔法を放つ。戦場でさんざん見た、石の弾を放つ魔法だ。
「だから?」
半歩ずれて、あっさりとこれをかわす。貴族は更に熱くなって魔法を連打するが、スティナはその全弾を容易くかわしてみせる。
「ほら、この雑魚魔法使いだけじゃ話にならないんだから、兵士君たちも仕事するっ」
隊長はスティナの身のこなしを見て、ようやくそのふてぶてしい態度の理由を察するが、それでも状況を打破するほどであるとは考えなかった。
「全員抜剣! 囲んで逃げ道を塞げ! 馬鹿め、幾ら身のこなしが軽かろうと武器も無しでどうするつもりだ!」
兵士たちがスティナへと突っ込んでくる。これの内の一人の顔を、スティナは真横から平手でひっぱたく。
ばちん、ではなく、ぶちん、であった。
兵士の頭部は真横から薙いできたスティナの平手に千切り飛ばされ、部屋の壁までふっ飛んでいき激突し、半分に潰れてそのまま壁に張り付いてしまった。
兵士、そして貴族の表情と動きが止まる。スティナはというと、とても晴れやかに笑い、言った。
「武器、いると思う?」
動きの止まった彼らに対し、スティナは容赦をしなかった。
兵士たちの集まりに向かって突っ込んでいき、一人の兵士が予備に差していた腰の剣を抜いて片っ端から斬り伏せていく。
「あった方が楽ではあるんだけどね」
兵士たちももちろん無策ではなく、既に抜いてある剣を振るおうとするが、スティナの剣の速さに対抗できるはずもない。ただの一人もスティナに剣を振るうこともできず斬り倒されてしまった。
最も強いはずの隊長も、他の兵士と同じように一刀で斬り殺されており、貴族はというとスティナの動きが速すぎて魔法を唱えることすらできず。
最後に一人、貴族だけが残っていても、彼は詠唱を始めようとすらしなかった。
「え、ちょ、ちょっと待って。何、なんだこれ? 何が起こった? これは、いったいなんなんだ?」
自分の命が風前の灯火であると、彼はまだ理解していないようだ。いや、理解したくないのかもしれない。
スティナがこれを最後に残したのは、もちろん慈悲の心なんかではない。
イジョラというのがどういう国なのか、貴族から生の声を聞き出せる機会なんてそうそうないだろうから、この好機に聞きたいことを全部聞いておくつもりだ。
「いやぁ、さすがにね、いくらイジョラだからって、いきなりそこらの貴族適当にとっ捕まえてーとかはやらないわよ。そういうの嫌う人もいるし。でも、ほら、今は私、言うなれば被害者じゃない。ならね、私がされるかもしれなかった程度なら、やり返してもいいかなって、ね」
そして遅ればせながら、貴族は数多の死体を見て、自分がとんでもない化け物に狙われていることに気付き悲鳴を上げた。
「うるさい」
即座にスティナの鉄拳が飛ぶ。その程度で貴族君の恐怖は消えたりはせず彼は錯乱して喚き蠢くが、スティナが何度も殴ってやればさすがに何をしたらいけないのかは理解したようだ。
スティナはこの貴族から色々な話を聞き出した。
年間の税収から最近のイジョラ貴族の流行りまで、思いつく限りのことを聞きながら、時々顔出してびっくりする屋敷の使用人に剣ぶん投げて殺したりしている間に時間は進み、ふと気が付くと外はもう夜が明けている。
家に兵士たちが来たのが夜更け過ぎであるから、結構な時間こうしていたようだ。
「ん?」
その時後ろを振り返ったのは、偶然でもなんでもなく、そうした方がよい、そうしなければならない、そんな気がしたからである。だが、そこに危急の危機感が備わっていたかといえばそうでもなかった。
黒い人影があった。
四肢と頭部を備えた人型は、右腕をスティナへと振るってきていた。
なにこれ、と呑気に考えた直後、スティナの全身は弾けるように跳躍する。着地後、スティナは自らの肩に手を当てる。
衣服が裂け、じわりと血が滲んでいた。スティナの全身から汗が噴き出す。
『な、なにこいつっ!?』
ソレを脅威と認識し改めてその姿を見るも、ソレが何であるのかスティナにはわからない。
黒い人影。最初にそう感じた通りで、それ以外の情報を得ることができない。
見ていて距離感がおかしくなりそうなのは、全身が一部の隙無く黒一色で、身体に影も濃淡もないので厚みが感じられないためだ。
いや、とスティナはこの黒人影の足元を見て、厚みが感じられないのではなく、コイツには厚みがないのだと知る。
この部屋は複数の燭台を使って明かりが灯してあり、この黒人影にも影ができている。
多方から映し出されるこれの影の形を見れば、その太さ厚みがわかる。ある一定の角度に対してコレは、ほとんど影を作らないのだ。
黒人影はスティナの観察を待つこともなく襲い掛かってくる。攻撃手段は腕だ、これを振り回してくる。スティナはその全てを避ける。距離感が掴みにくいせいでヒドクかわしづらい。
試しに、と振り回す黒人影の腕に剣をぶつけてみる。と、剣はこれをすり抜けてしまった。
『魔法、なのは間違いないだろうけど……』
動きはなかなかの速さだ。下手な剣士では太刀打ちできないだろうが、その動きからは洗練された技術といったものは感じられない。闇雲に腕を振り回しているだけとスティナには感じられた。
それでも距離感の掴みづらさと速さから、これを戦場に出せばかなりの戦果が期待できるだろう。何より、スティナは既に攻撃を始めているというのに、この黒人影は全くそれらを意に介さない。
スティナの剣は黒人影の身体を何度も捉えているのだが、全てまるで抵抗なくすり抜けてしまう。身体の様々な部位を狙うも結果は一緒だ。
ならば、とスティナはその一瞬を狙いすまして剣を振るう。
ぎりぎりまで攻撃を避けずにいて、スティナに黒人影の腕が当たる、と相手が錯覚するほどぎりぎりでかわすと同時に剣をこれに叩き込むのだ。
そこでようやく手応えがあった。薄い金属を切った感触だ。もちろん、きっちりと斬り落としてやった。
切り離された影はすぐに消える。そして、斬り落とされた黒人影の腕の先は、すぐに元の長さに戻ってしまった。
スティナは考える。
『あれ? これ、もしかして、倒せない? 私もしかして、結構ヤバくない?』
これぞイジョラ魔法王国においても滅多に見ることのない秘術、忍び寄る影である。
はっきりと言ってしまえば、この黒人影を滅する手段はこの世に存在しない。影のように薄い身体でどこであろうと容易く侵入し、何せ影であるからして物理的ないかなる攻撃もこの黒人影に当たることはない。
よしんばスティナがやったように攻撃の瞬間、唯一硬質化するその瞬間と部位を狙い黒人影の一部を削ることに成功したとしても、再生は容易である。
魔法的な手段によってこの侵入を防ぐことは可能だが、それには儀式をすら必要とするだろう複雑な術式が必須で、とてもではないが常時展開しておくなんて真似はありえない。
イジョラにおいてこの魔法は、最も強力な魔法の一つとして恐れられている。狙った獲物は逃さない、必殺の暗殺魔法である。
これを使える魔法使いが多数存在するのならイジョラは無敵となろうが、この魔法の成立には幾つかの条件があり、またイジョラの歴史においてもこの魔法を使えるのはたった二人しか存在しない。
一人目のこれを開発した偉大なる魔法使いは、この魔法を恐れた他の貴族により寝込みを襲われ死亡している。防げないのなら撃つ前に殺す、実に正しい対処法である。
そして二人目の今この魔法を操る彼は、自分の魔法が周囲にどんな印象を与えるのかを熟知しており、滅多に人前に姿を現すことはない。
彼はその暗殺魔法の力で現政権に多大な貢献をしており、この土地をもらったのもそのおかげである。
この街含む周辺一帯を治める領主である彼は、ほとんど人前に出ないので領主の仕事は彼の親族に丸投げしてある。
スティナが一晩中いたぶっていたのはこの一人というわけだ。
面白い魔法が見たいとのたもーたスティナ・アルムグレーンは、いきなりイジョラ史の中でも屈指の強力な魔法使いにぶちあたってしまったわけだ。
さんざ色々と試した後で、スティナは結論を出した。
『うん、これ無理。つまり』
スティナは黒人影に背を向け全速力で逃げ出した。
スティナは足が速い。全力で走って追いつかれたのはアイリを相手にした時ぐらいだ。イェルケルやレアが相手なら本気を出せば振り切る自信はある。
そんなスティナに黒人影は平然と追いついてくる。むしろ純粋な移動速度を比べたならば黒人影の方が速い。
厚みが無いというのはそのまま重量が小さいということに繋がっているのだろう。或いはそれすら魔法だからの一言で解決してしまうのか。
山を走る全ての獣、平野を走る馬にすら勝てるスティナであるのだから、陸上を走る全ての生物より自分が速いと考えていたとしても、それは傲慢でもなんでもない現実の正確な認識であったはずだが、どうやら世界にはまだまだスティナの見知らぬ頂点が転がっているようだ。
『ま、魔法ってホント凄いのね』
思わぬ事態に冷や汗の出るスティナだ。こちらの攻撃は効かないがあちらの攻撃は通る。なのに逃げることもできないとなれば、さしもの豪胆なスティナも笑ってはいられないらしい。
追いすがってくる黒人影は間合いに入るなり攻撃を仕掛けてくる。その攻撃の仕方は、最初素人臭いとも思えたものであったが、この黒人影の特性を理解してからはなかなかに理に適った動きであるとわかるようになった。
防御は考える必要がなく、いかにその腕を当てるかだけを考えればいい、そんな動きとしては適切なものといえよう。
スティナはというと攻撃をかわすのみが目的であるから、ただひたすら黒人影の間合いから少しでも遠ざかることだけを考える。
朝っぱらから道路を駆けるスティナとこれを追う黒人影。
両者の姿を見た通りすがりの平民たちは、ぎょっとした顔で二人を見送る。
『上下はどう?』
道を走りながら脇に寄ったスティナは、建物の軒先を手を伸ばして掴みながら跳躍する。
その人間離れした脚力により、屋根の高さにある軒先の上まで一飛びで登れてしまうのだから、これを偶々見てしまった通行人は大きく目を見張る。
追う黒人影。こちらもまるで重みがないかのようにひらりと軒の上へと。人間二人どころか一人すら支えられないだろう薄い布と木の棒で作られた軒の上を、スティナと黒人影はどういう理屈か平然と走っていく。
スティナ、敵の動きに悪寒を感じ空中にて身を捻る。この軒上で動きが制限される場所にきて初めて、黒人影は腕が長く伸びるところを見せてきたのだ。
『こ、コイツッ!?』
見切ってかわす余裕なんてない。その場で真下に滑り込むように動く。伸びた黒人影の腕がフードをかすめ、隠していたスティナの顔が衆目に晒される。
照りつける朝日を浴びて、スティナの銀髪が大きくなびく。フードをかぶっているからと横着をせず、動きやすいポニーテールにまとめておいたのが役に立った。
スティナの身体は軒の布部の上に投げ出される形となる。勢いよく飛び込んだので、布は一気に千切れスティナは地上へと落下する。
視界はない。だが、身体に備わった平衡感覚により向きと高さを読み、着地の間を測り足をつく。
布が足に絡まるかどうかは運であったが、あの一瞬ではさすがに完璧な対応は無理だ。
軒の布を突き破ったスティナはそのまま地上におりるなりまた走り出す。黒人影は布を突き破ったりせず軒から外に出るように飛び降りたので僅かに差は縮まったのだが、もともと攻撃の挙動で広がった分が埋まっただけである。
黒人影がどこまで伸びるかがわからない以上、まっすぐはまずい、とスティナは路地を曲がる。
曲がった途端後悔した。
『こんな所にゴミ置くなー!』
すぐ目の前に、スティナの首の高さにまでゴミが積まれていた。スティナはこれを飛び上がってかわす。
ゴミの頂点に両手をつくと、そこから先が見える。何と、ゴミがこの高さのままでまだまだ続いていたのだ。
『バカバカアホー! 役所仕事しろーっ!』
両手をつきこれで押して飛び越えようとしていたスティナだが、一つでは無理だ。だから両手をつき両足を開いた状態でゴミを越えながらも、最初に一回ついた勢いで奥に飛び、もう一回その姿勢のまま両手をつき、腕の力で失速を防ぎつつ更にもう一回両手をついたところでようやくゴミの向こう側が見えてくれた。
下半身を前に突き出すように、お尻がゴミ山の端をかすめるようにしながらどうにかこれを飛び越える。
よし、と勢いよく加速したところで路地を抜ける。そこはちょうど、下の建物の天井であった。
『なんじゃこりゃー!』
高低差のある街なので、一階にあたる地上を走っていたらそこは実は二階の天井だったなんてこともありえるのだ。
二階の天井であるスティナが走る地面も、すぐに途切れてしまっている。
首を振る。右方。
そちらに向かって速度を落とさぬままにスティナは飛ぶ。
落差は一階分。隣の建物の一階天井部分へと飛び降りたのだがこの空間の幅が狭い。人が二人並んでは通れぬ程度。
着地で転がらなければ足に負担が掛かってしまうものだが、今この狭い場所ではそうする余裕もない。
ちょっと痺れる程度なら、と無視してスティナは走る。結構難しい動きをしてきたはずなのだが、黒人影はまったく危なげなくスティナについてきていた。
スティナ以上の身体能力があるのなら、前を走るスティナと同じ動きができる理屈だ。
細い一階天井部を走り抜けると、再び開けた場所に。
だがそこは更に地面が下へと落ちており、地面までの高さは三階分。背後には結構な距離まで迫る黒人影。既に腕を伸ばせば届く距離だ。
地面が尽きる。スティナは三階分の落差がある空間へと身を躍らせた。
スティナの身体はしかし、地上よりの高さは変わらぬままであった。それは眼前の開けた空間に張り巡らされている洗濯紐の上を走っているからだ。
眼下には布と木でできた軒を使った露店が道路の左右に続いており、スティナの左右には三階建ての石造建物が隙間なく立ち並ぶ。
この左右の建物を結ぶように洗濯紐が通っており、この上を、スティナは軽やかに跳躍しながら移動しているのだ。
黒人影、ここで再び切り札伸びる腕を披露。しかし今度はスティナではなくその足元の紐を狙ってきた。
着地予定の紐を切り落とされればさしものスティナも転落せざるをえない。だがそれすらスティナの計算の内であったようで。
全くあぶなげなく下の紐を手で掴み減速する。紐はスティナの走る勢いと体重を乗せられたもので大きくたわみ、下方へと伸びる。
紐の張力限界を握った感触から察し、スティナはこれより手を放す。引っ張られ弾かれた紐はうまいこと黒人影へと飛んでいったが、黒人影の胴を紐はするりと抜けていった。
敵に攻撃をさせ減速させることで猶予を得て地面への降下を成功させたスティナは、建ち並ぶ露店の品ぞろえを一瞬で見定める。幸運にも目的のものは見つかった。
「もらうわよ!」
銀貨を三枚放り投げながら、スティナは露店にあった手に収まる大きさの手鏡をひったくる。すぐにこれを口にくわえると、口先で角度を調節。
『おーっし! これで完璧!』
走りながら何度も後ろを振り返るのはとてもキツイので、口にくわえた手鏡で後方を確認しようというのだ。
目から鏡までの距離が短すぎるだの、走りながらだと揺れてロクに見えないだの、口でくわえながら角度の調整を都度行うのは難しいだの、色々とよくない条件を考慮したとしても、前を向いたまま後ろが見えるという利点は捨て難いものであった。スティナならば幾つかの悪条件を無視できることであるし。
後方からの悲鳴が聞こえる。
「忍び寄る影だ! 領主様がお怒りだぞ!」
「は、初めて見た! あの禍々しい影がそうなのか!」
「……いや、それよりもだ。忍び寄る影と追いかけっこしてるあの女、いったい何者だよ」
最短距離を移動しようと思ったならば、出来るだけ上下の移動は避けるべきだ。下に行くのはまだマシだが、下りたら上らなければならず、上るのはいかなスティナでも大きな減速を伴う。
なので多少の足場の悪さには目をつむって走ることとなる。スティナは今、中産階級の住宅街に入り、隣家との境である煉瓦の壁の上を走っていた。
何が面倒かといえば、この煉瓦の上にも洗濯紐が通っているのだ。一つ、二つ、三つ、と連続してある洗濯紐を飛び越えた後、四つ目は高めなので下を潜り問題の五つ目。
これには紐の限界一杯まで広くシーツが干されていた。
『じゃー! まー!』
視界を遮られるのが何よりキツイ。
シーツに両腕を伸ばしながら突っ込み、触れるなり全力で腕を回してシーツを巻き取る。この間、シーツが邪魔で前が全く見えないまま。足場は細い煉瓦壁。
『怖い怖い怖いってばー!』
急を要する事態が多すぎて、段々と思考が幼児化していくスティナである。
なんとかシーツを巻き取りきると、一気に視界が開ける。開けたが閉まった。
後五歩、走った先にはそそり立つ巨大な壁が待ち構えていた。
右、左、と見て、左に直角に曲がる。だがこのままでは速すぎて曲がり切れない。
なのでスティナは曲がりながら正面の壁に向かって飛び上がり、横向きに身体を倒しながら壁を走る。
そのままの姿勢で十歩走った後、煉瓦壁の上へ戻った。何が憎たらしいかと言えば、こんな驚きの動きにも後に続く黒人影は全く動じることなくスティナと同じ動きをしてくることだ。時々より以上に効率的な動きをしてくるのが更に腹の立つ話である。
煉瓦壁の上を走ると、今度こそ完全な行き止まりに。
右に飛ぶ。壁を蹴る。左手でそこにあった明らかに採光目的が果たせていない窓の枠に手を掛ける。
そこからは腕の力ではなく、腰の振りと回転の力によって窓の中へと転がり込んだ。
飛び込んだ部屋の中央にはテーブルが、その左右に相対するように中年夫婦が座っている。
そのテーブルの上をスティナは飛び越える。足を器用に折りたたんでいるのでこれによって左右の夫婦双方に当たることもない。
テーブルを反対側に抜けると更にその先にある、光の差し込んでくる窓を飛び出した。スティナの後を追うように黒人影もテーブルを飛び越えながら走り抜ける。こちらは夫婦のことなど気にもかけていなかったが、スティナが先に通ったことで大きく後ろに下がっていたので被害は無かった。
窓枠から飛び上がりながらスティナは、窓の外に伸びていた洗濯紐にかかっていた布を、両手で掴んで紐にひっかける。
ここの洗濯紐は平行ではなく斜めに伸びていたので、これを当てた布を支えに滑り降りていく。もちろん最後まで行っては壁に激突するので途中で飛び下り道を走るのだが。
横に移動する慣性の力を失わぬようできたおかげで、黒人影は窓から飛び降り着地したことで一度動きが止まってしまったこともあり多少なりと差を広げることができた。
だが、ちょっとでも直線が続くとみるみる間に追いついてくる。
これではさしものスティナも気が休まる時がない。
そんなスティナの前に、貴重な貴重な緩やかな上り階段が見えた。
これはスティナが失ってしまった高度を取り戻すのに最適な手段である。大きな減速なしに高さを取り戻せるのだから、スティナの顔も思わずにっこりである。
普通の人がそうするのとはちょっと違う、階段ではなくその手すりを蹴って上るようなやり方で階段を駆け上がり、路地の中へと姿を消す。
これまでの逃走で学んだことの一つだ。黒人影は、咄嗟の判断力がスティナに大きく劣る。
だからこうしてスティナの姿が見えない状態で移動方法の選択を迫られると、あまり効率的ではない動き方をすることがあるのだ。
大抵の場合スティナと同じ動きをすることでこれを解決していくが、こうして物陰から物陰へとその視界から少しでも外れるように連続して動くと、よく黒人影は動き方を間違えてくれる。
ただこれは狭い場所に突っ込むことにもなり、その後で色々と難しい選択をスティナは迫られるようになるのだが、こうでもしないと追いつかれてしまうのだから仕方がない。
今度もまた障害があった。シーツ。先程やたら怖い思いをさせられたシーツが広がっている。
『二度もっ! やられてたまるもんですか!』
走り込みながらスティナは、シーツ直前で身体を横倒しにしながら飛び上がり、勢いよく横に回転することで身体全体でシーツを巻き込みにかかる。
腕よりずっと太い身体ならばすぐにシーツは巻き取り終えられる。そして着地と同時に、壁際の突起部にシーツの端をひっかける。
スティナは両足までシーツでぐるぐる巻きになっているが、両足を揃えたまま着地と同時に同じように回転しつつ前方に飛び出す。
シーツの端を突起に引っ掛け、身体を回転させることでこれを外していくスティナ。だが、そんな隙を黒人影が見逃すはずもない。
伸びた腕がシーツの中央を貫く。
が、シーツはスティナの目隠しになるが同時に、黒人影への目隠しにもなっていた。
巻き取りから巻き外しまでの速度があまりに速すぎて、黒人影が攻撃の判断を下し攻撃を仕掛けるまでに、スティナは全ての作業を終えてしまっていたのだ。
切り裂かれたシーツの先に、走り去るスティナの後姿が見えた。
こうして黒人影は、スティナへと迫る度スティナの小技やらに翻弄され速度を落とし、何度も何度も何度でもこれを追いかけるハメになるのであった。
街中の平民たちを恐怖のドン底に叩き落す報せが広がる。
領主様の無敵の魔法、忍び寄る影が街を走り回っているというのだ。
狙われたら最後、それこそ魔法使いが相手だろうと絶対に逃げきれない最凶最悪の暗殺魔法、忍び寄る影のことは街の住人誰もが知っている。
これへの恐怖のため、彼らは常日頃から怯え恐れながら過ごしているのだ。
その恐怖の象徴が朝っぱらから街を走り回っているというのだから、とんでもない報せである。
いったい何が起こったのか、そう誰もが思い、そして忍び寄る影の姿を見た者はそれを知る。
銀髪の、この世のものとはとても思えぬ美貌の女性が、忍び寄る影より走って逃げているのだ。
その動きたるや。美貌もそうだがとても人のそれとは思えぬ。軽やかに、艶やかに、優雅に、巧みに、誰も想像だにせぬ驚きの動きを見せながら、追いすがる忍び寄る影を軽くあしらっているではないか。
忍び寄る影の動きもまた、とても人間とは思えぬ速さであり、こんなものに追われればそれはどんな魔法使いだろうと逃げきれぬだろう、見た者全てがそう思うような、これまでに聞いた恐怖の噂も正に真実よといった動きであったのだが、だからこそ、これをあしらう銀髪の凄まじさが映える。
もちろんここは領主様の、魔法で見えぬものをすら見るような魔法使いの街だ。平民たちはこの姿を表立って称えるような真似はしない。
だが誰もがその銀の女性の走りを注視し、熱い視線を送るのだ。魔法使い何するものぞ、と走り続ける彼女を。
またそのあしらい方が痛快で。その姿はいたずら好きの妖精のそれであるような。時折見せる笑みもまたそういった印象付けに拍車をかける。
だが、それでも、妖精と呼ぶにはあまりに麗しすぎる。容貌も体躯も、そして、舞うようなその動きも。
誰かが呟いた。
「銀の、精霊様だ……」
そう、妖精と言うには神秘的にすぎる彼女には、精霊という呼び名がより相応しいと思えた。
軽やかに吹き抜ける風の精霊、強く踏みしめる大地の精霊、滑るように流麗な水の精霊、雄々しく激しい炎の精霊。
その全てを、彼女の姿から見出すことができる。
だからこそ銀だ。朝日を浴びて神々しく煌めくあの銀の髪こそが、彼女の象徴として相応しいだろうと誰もが納得したのだ。
銀の精霊と忍び寄る影との追いかけっこは、昼になる頃には街で知らぬ者はないほどの騒ぎになっていた。
忍び寄る影への恐怖が無くなったわけでも薄れたわけでもない。
だが誰しもがこぞってその来訪を待ち構える。ある者は窓から身を乗り出して、またある者は道を走り回って、高い所にのぼって、通りに陣取って、色々なやり方で銀の精霊を待ち構える。
もし、精霊様が通りすがっても歓声をあげるようなこともない。皆黙ってこれを見送るのみ。
だがその視線の熱さが彼らの感情を物語っている。そして、昼を回ってしばらくする頃になると、平民たちはその奇跡を見るために一か所に集まるようになっていた。
この街は高低差の激しい街であるが、その中で一か所、作り方の関係で街の中であるのに断崖絶壁となってしまっている場所があった。
てっぺんには精霊を祀る神殿があり、そこはこの街で最も高い場所でもある。
崖の下に皆は集まり、垂直な斜面の上に微かに見える神殿の先っぽを注視する。
「おい、本当に来るのか?」
「俺は二度目だが、三度目の奴もいるってよ。だから、次も来るんじゃねえのかって話だ」
「信じられねえ。だって、おい、見てみろよこの高さ。領主さまの屋敷の屋根から飛び降りたってここまで高くはねえぞ」
「うん、わかる。心底わかる。俺も誘われた時は、ソイツを笑ってやるつもりでここ来たんだからな」
「俺は、みんなが言うから。だって、ほら、もう、ここだけで十人以上集まってるぜ」
「あっちの建物の上が一番いい場所っぽいが、あそこなんか百人超えてるんじゃねえのか?」
「俺も見たよ、精霊様のお姿は。だがな、でもな、あれ、人の姿してただろう。やることはすげぇ人間離れしていたけど、人間っぽいって俺は思ったんだぞ」
「じゃあこれ見りゃ印象変わるわ。あ、おいっ! 上見ろ上!」
崖の端から、大きな赤い布を振る男の姿が見えた。彼は神殿関係者で、その時を皆に知らせるために神殿にある一番目立つ布を持ってあの場所で待ち構えていたのだ。
まさかあれ合図か、と見ている誰もが思ったその時、神殿の端っこに、ソレの姿が見えた。
声を上げる暇もない。その小さな小さな人型は、姿を現すなり躊躇も何も無しに、断崖絶壁のてっぺんより飛び出した。
ふわり、といった感じがしたのは最初だけだ。とても落下らしい恐ろしい速度で落ちていく。しかし、高所より落下した人間が見せる慌てふためいた様子は一切見られない。
迫る大地を受け入れんとばかりに頭部を下にしながら、両手を真っ直ぐ横に伸ばした姿勢を堅持したまま、それが失敗故の所業ではなく自らの意志でそうしたのだとわかる堂々たる姿勢にて、銀の美しき精霊は落下していくのだ。
見ていた男は思わず変な声が出てしまう。
「っふぁー!?」
それは男だけではない。各所で見ている者たちから悲鳴とも歓声とも怒号ともつかぬ叫び声が上がる。その声の奇抜さを笑ったりしてる余裕もない。誰もが落下してくる銀の精霊に釘付けである。
そして、落ちた。
落ちた先。二度目以降のものはすぐに動き始める。初めての者は呆然とその場に立ちすくむか、少し考え彼女が落ちた場所が藁束を保管している倉庫であると思い出し遅ればせながら走り出す。
観客たちは走る。その場、藁束の倉庫前には最初から陣取っている者も数十人いた。そしてその時までに集まった人数は二百人近い。
皆が固唾をのんで見守る中、倉庫から銀の精霊が飛び出してきた。
遂に、観客たちは堪えきれずに大歓声を張り上げる。
彼女の後ろから、同じく崖から飛び降りたらしい忍び寄る影の姿も見えるが歓声は止まらない。
興奮し熱狂し、ありったけの声で応援を叫ぶのだ。
そして再び彼女は、街中を走り回ってあの崖の上までのぼっていく。
結局この日、銀の精霊様が崖より飛び下りた回数は八回にのぼる。これにより街の住人全てが、銀の精霊による奇跡の御業をその目にすることができたのであった。
日が暮れる前に、魔法使いはその場に崩れ落ちた。
魔法は、いつまでも延々と使い続けられるものではない。特に忍び寄る影のような強力な魔法は魔法使いの消耗も激しいものだ。
それでも朝日がのぼる頃から今の今まで魔法を行使し続けてきたのだから、彼の体力も大したものであったのだろう。
しかし、それでも、女を殺すには至らなかった。
彼はこの魔法の習熟度に関しては、最初の開発者以上であると自負していた。
だがその磨いてきた技の全てが、あの銀髪の女には通用しなかった。
優れた魔法使いは、相手が魔法を使っているかどうかを見分けることができる。彼も当然そうできたが、この女からは一切魔法の気配はしなかった。
信じられぬ、考えられぬ、と魔法の痕跡を探ったが、結局見つけ出すことはできなかった。
たとえ魔法の産物であろうと、彼の必殺の魔法を用いれば殺せぬ相手なぞいない、そう考えていたのだがまさか、魔法も使えぬ相手にこちらがへばるまで逃げ続けるなんて真似をされるとは思ってもみなかった。
魔法使いは疲労のあまり、声もロクに出せぬ有様である。
その場にへたり込み、敗北感に打ちひしがれながら眠りにつく。体力が回復したならば、今度こそは必ず仕留めてみせると心に誓って。
もちろん、魔法使いの誓いが果たされることはない。
完全に熟睡している魔法使いのもとにスティナ・アルムグレーンが現れたのは魔法使いが意識を失ってから五時間後のことだ。
街中を逃げ回りながらスティナは、黒人影の反応から、コレが最も嫌がる行為を見抜いていた。
つまり、黒人影を操る魔法使いの居場所に近寄ること、だ。その反応から大まかな位置に当たりをつけ、後は虱潰しである。彼はできるだけ自分の居場所を探られにくいようにはしていたが、贅をこらした生活は手放していなかったので見つけ出すのはそれほど難しくはなかった。
あの必死の逃走劇から休む間もなく五時間の捜索となったが、スティナの体力にはまだそれなりにだが余裕は残っていた。
「でも、さすがに疲れたわ。魔法ってホント卑怯よねぇ」
スティナが近づいても目を覚ます気配すらなかったこの魔法使いに、スティナは剣を突き立て決着をつけた。