130.火消しの妖精
その日、アイリ・フォルシウスはいつも通りフードを目深にかぶり顔を見られないようにしながら、夕暮れ時の街を一人歩いていた。
イェルケルたちは他所の街に遊びに行っており、アイリは残って留守番である。これ幸いと単身諜報活動に力を入れるアイリは、イジョラに入ってからずっと欲しかった情報の幾つかを仕入れられた。
これを基にまた資料を作ろう、と夜の作業を楽しみに帰路をいくアイリは、ふと、大通り沿いの一軒の家の前で足を止めた。
この家は商家の一つで、顔役とは反目、つまりイェルケル達から見れば敵側にあたる家であったのでアイリも覚えていた。
今この街は顔役の力が大きくなっていてこの商家も勢力を削られており、逃げ出す算段でもしているのでは、と言われていたと記憶している。
ただアイリが足を止めたのはそのせいではない。
匂いだ。記憶にあるその匂いは、ずっと昔、領地で、火事を見た時のもの。
『火事だと!?』
思い出すなりアイリはその家の敷地内に飛び込んでいた。
この街は近くに豊かな森林があるおかげで大半の建物は木造であり、火事は最も恐るべき災害である。
庭先から二階建ての家を見上げる。特に火の手の気配は見えない。だが、匂いは少し強くなった。
ここは、言うなればアイリにとっては敵の領土内である。そこに無断で入り込んだなら既にアイリ側優勢であるとはいえ、何らかの不利を被ることになろう。だが今のアイリの頭に、そういった思考は無い。全く考えていないわけではなく、そういった事実も頭にあるが考慮に入れていないのだ。
足早に家の側に行き、窓から中を覗き込みながら歩く。二つ目の窓でアイリはそれを見つけた。
屋内に倒れる人が二人。そして、壁を這うように火の影が。
アイリは窓を開け躊躇なく屋内へと飛び込んだ。倒れた二人の顔を見る。どちらも息はあるようだ。
アイリは大声を張り上げた。
「誰か! 誰かおらんか!」
この火事の匂いを感じ取っていたのかすぐ近くにまで人が来ていたらしく、アイリの声に反応して二人の男が部屋へと駆けこんできた。
「おいっ! お前何をしている!」
アイリはこちらを訝しむ二人に対し、必要事項を即座に伝える。既に顔を覆うフードは外してあり、その豪奢な金髪と麗しき容貌は外に出されていた。
「私は通りすがりだ。怪我人は二人、息はあるようだが怪我の具合は見ておらん。それよりも……」
そう、倒れた二人にも注意を向けていたが部屋に来た二人が見て驚き何よりも対応せねばと思っていたのは、部屋の壁を登っていく大きな火である。
これが天井まで登ってしまっては消火はもう絶望的になる。木造建築に住む者たちであるからそういった知識はあったのだが、火は既に天井を炙っているではないか。
男の一人、特に行動力のあるらしい男が屋内の椅子を手に取り火が走る壁へと叩き付けようとする。が、アイリがこれを制する。
「よせっ! それでは間に合わんっ! 下がっておれ!」
アイリが指さした先。天井の一か所であるが、そこからばちり、と何かが爆ぜる音がした。これは火が燃える音だと認識した男は歯噛みしながら上を見上げる。
そんな男をアイリは部屋の奥へと突き飛ばすと、低く構えた後、強く呼気を吐き出しながら、真上に向かって飛び上がった。
床板が抜けるのではないか、というほど大きな音と共に飛び上がったアイリは、そのまま頭上に向け垂直に片足を振り上げる。天井にアイリの足が叩き込まれた瞬間、天井は大きく弾け砕け散った。
同時に降り注ぐは砕けた木屑、そして天井裏を走っていたらしい炎たちであった。
赤と茶と黒とが入り混じったものが大量に天井から降り注ぐ。その中心にアイリはいたはずだ。男は不審者以外の何者でもないはずのアイリの去就を心配し、声をあげる。
「お、おいっ! アンタ! 無事かよ!」
すると、降り注ぐ炎と木屑が大きく弾けた。いきなりのことに男は両手で顔を覆う。
弾けたのは、その中心にてアイリが身に着けていたフードを大きく振り回し炎も木屑も払い落としたからだ。
「下がっておれと言ったであろうに! 貴様らはすぐにそこの二人を医者の下へ運べい!」
更にアイリは炎に包まれた壁に向かって、両手を強く突き出した。
壁に叩き付けられた両手の平。それがいかな勢い強さを持とうとも、いや強ければ強いほどに、壁には穴があくだけのはずであるのだが、アイリの技はそんな当たり前を蹴り飛ばしてみせる。
アイリが両手を叩きつけた壁は、大きく膨らんだかと思うと火に覆われた部分が外に向かって吹き飛んでしまったのだ。
突いたのは手の平二つ分。だが、吹っ飛んだ壁はアイリの身体数個分の面積である。こちらも天井同様、火の粉と砕け散った木屑が舞い散るが、庭には延焼するようなものもなく、このままならば火も落ち着いてくれるであろう。
たったの二撃で部屋を半壊させつつもアイリは、火が燃え広がるのを防いでみせたのだ。
男たち二人は、ただ呆気に取られてこれを見ていたが、アイリが叱咤するとすぐに飛び上がる。
「何を呆けておるか! こ奴らは貴様らの仲間であろう! さっさと医者に見せてやらぬか!」
そうやって騒いでいる間に、屋敷の他の男たちも駆けつけてきた。
新しく来た者たちはアイリを見ていったい何者だと騒ぎかけるも、最初に来た二人の内の一人が、アイリが火事を食い止めてくれたと説明するととりあえずのところはそれで納得してくれたようだ。
アイリはとりあえず一段落だということで、素直にあった通りに状況を説明した。
「何やら火事の匂いがしてな。申し訳ないが無断で敷地内に入らせてもらった。そして窓から中を見れば人は倒れているわ火は出ているわで、さしもの私も泡を食ったぞ」
陳述内容も怪しいなんてものではない。ないのだが、ある種の神々しさすら感じられるほどの美貌で、後ろめたさなど欠片も感じさせぬ口調で話されると、その通りなのではないかと思えてきてしまう。
男たちは判断に迷うが、最初に飛び込んできた男の片割れは、とりあえず家の主に話をしてほしいと頼むと、アイリは快くこれを引き受ける。
その男と話をしていたアイリは、怪訝そうな顔で首を傾げた。
「どうした?」
「いや……なんというか、何か、こう、変な感じがしてな、うーむ、上手く言葉にできん」
「あー、実は俺も、なんというかまだ、終わってない感じが……」
アイリと男、二人がそれぞれ感じている違和感をどうにか言葉にしようと試みたところで、二人は同時にその可能性に思い至る。
「「まさか!」」
廊下に飛び出すとアイリは右、男は左にと二手に分かれて走り出す。
廊下を端まで走ったところでアイリは自分の方はハズレだとわかる。匂いが弱いのだ、火事の匂いが。
舌打ちしつつ男の走った方に向かうアイリ。すぐに、男の怒鳴り声が聞こえてきた。
「チクショウ! 大当たりだ馬鹿野郎! 火事だ! こっちも燃えてやがるぞ!」
ちょうど裏側にあたる部屋にも火がついているのだ。
アイリが部屋に駆け込んだ時には、もう黒い煙が部屋の半ばを覆いつくしていた。
男が口の前に腕を押し付けながら怒鳴る。
「おい! アンタのさっきのでどうにかできそうか!?」
「むう、さすがにここまで広がっては。恐らく、隣の部屋、そして二階の床下までいっておる」
「クソッ! どうなってやがる! 付け火か!?」
「その疑いが濃厚だ。貴様ら、誰かに恨まれでもしたか?」
「こちとら商売してんだ! 恨みを一切かわねーなんてこたありえねーだろうが!」
「はっ、その通りだな。とはいえ、火をつけるほどとは……まあ今はそれより先にすべきことがあるか」
煙に巻かれる前に部屋から出た二人。扉を閉めると煙いのは多少なりと落ち着いてくれる。
「この家、延焼する前に崩さねばならん。主は?」
「出先だ。許可取ってる余裕はねえ。だが、ウチからの出火でここら火の海にしましたなんてなったら、それこそ二度とこの街で商売できなくなっちまう」
「事の軽重を判断できる者がいてくれて助かった。人手を集めよ。私はすぐに外から屋敷を崩しにかかる」
「悪い、頼む。……なあ、アンタ、本当に通りすがりか?」
「通りすがりなのは事実だが、身元は相当に怪しいぞ。殿下商会の関係者だ」
「うわ、そいつはキナ臭すぎんだろ」
「だが証明もできる。殿下商会の武力を知っておる者ならば、付け火なんて馬鹿な真似を我らがする必要がないこともわかろうて」
ごもっとも、と肩をすくめた後、男は人手を集めるため外へと駆けだしていった。
木造建築が並ぶ街での火事がどれほど恐ろしいものかを知っているのならば、火事が起こったとなるや敵も味方も後回しというのは当たり前のことであるのだ。
事はその一軒だけの話では済んでくれないのだから。
もちろん、まともな神経の持ち主ならば絶対に付け火放火なんて真似には手を出さない。それでもアイリが付け火と断定したのは、同じ家で同時に二か所、それも事件性を匂わせるような意識不明者二人なんて怪しすぎる状況のせいだ。
それを最初に発見したのがこの商家の敵対組織にあたる殿下商会のアイリだというのだから、そちらの方がよほど怪しくはあるのだが。それは、アイリが自身に恥じるべきものが何一つないので、開き直って堂々としていられるのだ。
アイリが外に出ると、既に人は動き出していた。
この家の者たちだけではなく、周囲の若い男たちが集まってきていて、皆が協力して家を叩き壊しにかかっていた。
アイリは風を見るべく、隣の家の屋根に飛び上る。一階の屋根の上まで一飛びで、そこから二階の屋根までこれまた一飛び。アイリのそれを見てしまった街人がぎょっとした顔をしている。
風はそこそこある。が、きちんと家を崩すのが間に合えば延焼は防げる。そう思えたアイリだったが、屋根の上からぐるりと周囲を見渡すとその目が驚愕に見開かれる。
すぐに目に付いた場所だけで三か所。ここ以外に燃えているのが見えたのだ。
「馬鹿な!」
ここが付け火であるのなら、同時に起こっている他三か所の火事もまたそうであろう。これが自然に起こったなんて考えるほどアイリは夢見がちにはなれない。
分散した場所に同時に火をつけるなんて真似、下手をすれば街全てに火が回りかねない。人間のしていい行為ではない。
アイリは屋根の端に立ち、家を崩そうと集まった男たちに向かって叫んだ。
「聞けい男衆よ! 火事はここのみに非ず! 三番街! 十番地! 西区六番にて火災が発生しておる!」
アイリの言葉に集まった男たちが騒然となる。アイリは続ける。
「特に! 西区六番の火がヒドイ! そしてこの風下にはスラム街がある! この意味! わからぬ馬鹿はおるまい!」
スラム街には木造の小さな小屋が密集しており、ここが本格的に燃え上がったら収拾がつかなくなってしまう。
アイリは手を振り西区を指さす。
「二十人! ここよりスラム街へと走り! 西区からの飛び火を警戒するよう呼び掛けて回れ! 風に乗って火種が飛べば、スラム街ならすぐにでも火がついてしまうだろう! だが! 人が待ち構えていればその程度の火ならばすぐに消せる! 後は直接火が燃え広がるのを防げばよい!」
集まった男たちの中の幾人かが、屋根上のアイリに向かって抗議する。
「おい! 何だって俺らが西区やスラムのために動いてやらなきゃなんねえんだよ! こっちだって今すぐ火を消さなきゃなんねえんだぞ!」
「そうだぜ! 燃えてるのは西区なんだし、連中が警告すりゃいいじゃねえか! それにおめーなんだって俺たちに指図してやがんだよ!」
声を出している者だけではない。他の者もアイリの言葉に否定的であるから声を出す者を誰も止めないのだ。
建物を燃やす炎が天井を破り、炎の手が上空目掛けて噴きあがる。
これにほの赤く照らし出されたアイリは、暗闇の中にあっても決して見失うことはないであろう金色の髪を、噴きあがる風にたなびかせながら言った。
「この地区が一番だ」
大声で怒鳴るのではない。だが、その凛とした声は不思議と集まった全ての者の耳に届く。
「四か所の火事。その中で、ここが一番火事が小さい。私たちの地区が一番上手く、火を消せている」
炎に照らし出されたアイリの顔が不敵に笑うと、そのあまりの美しさに、そのあまりの小憎らしさに皆がこれに目を見張る。
「だから我らが行くのだ! この街で一番火消しの上手い我らが行くのが一番良い! それとも何か? お前たち男衆は! スラムが怖いから行きたくないとでも抜かすか!?」
アイリのあからさますぎる挑発にも、火事場で気の立っている、頭に血が上っている若い衆には充分であった。
「俺が行く! 誰がスラムにビビってるって!? おもしれー! 俺が連中のケツ蹴飛ばしてでも火消させてみせらあ!」
「俺もだ! 五番街の男衆なめんじゃねえぞ!」
「俺も行くぞ! その代わりここの火絶対他所に飛ばすんじゃねーぞ!」
一番血の気の多い、気合いの入ってるのが乗ってしまっては、冷静さを保っている面々も文句は言いづらい。しかたねえなあ、と勢い任せで怒鳴っている連中の中から誰が行くべきで誰が残って作業するかを、冷静さの残った者が考え指示を出す。
彼らもまた冷静さを保っているだけあってアイリの言葉の正しさを認めてはいるのだ。
下から指示を出していた男がアイリに向かって怒鳴る。
「おい! 他所の火事もそうだが! そこから見える家の火の状況説明も頼むぞ!」
「任せい! 早速だが西側より五人! 東側より十人で家を崩してくれ! 中央部の火が残るが左右を先に潰せば飛び火はしづらい!」
「わかった! 火の動きが変わったら報せてくれよ!」
屋根の上からアイリが怒鳴るに合わせて、下に集まった男衆が右に左にと走り回る。
男衆は片手に盾を、片手に斧を握りしめ建物へと突っ込んでいく。よくみれば盾の代わりに戸板や鉄鍋なんてものを持ってる者までいて滑稽なものに見えなくもないが、皆その表情は真剣そのものだ。
そして彼らの必死の作業により、みるみる間に家は削り倒されていく。
彼らの手際の良さをアイリは内心で称賛しつつ、口に出しては厳しいことばかりを言う。今彼らに必要なのは、噴き上がる火に怯えぬ強い心であるのだから。
屋根の上から指示を出していたアイリの動きが止まった。彼方の一点を凝視して、これを憎々し気に睨み付けながら。
「おのれ、下手人を見つけたら八つ裂きにしてくれる。おい貴様ら! ここから二区画先で新たな火だ! 私の他五人! ついてこい!」
そう言うが早いかアイリは、屋根の上から身を投げ出すようにして飛び降りた。
驚いたのは下でアイリの指示を聞いていた男衆だ。誰もがいきなりのことに驚きながらも、これは一大事だと駆け寄ろうとする。
しかし当のアイリはと言えば、地面に足がつくなり前転一回。それのみで何事も無かったかのように立ち上がり、とある貴族の屋敷に住まう使用人が偉そうと評した歩き方にて皆の方へと歩いてくる。
「は? え? あれ? 何無事?」
「何をごちゃごちゃと言っておる。こちらは任せたぞ」
「お、おう……あー、それじゃあ……」
下で指示を出していた男、彼は最初に火が付いた家でアイリと共に廊下を走った男でもある、が名前を呼んで五人を選抜すると、彼らは文句の一つも言わずアイリの後ろに従った。
選ばれた五人はアイリの後に続いたのだが、これがとんでもなくキツイ労働であった。
小柄な体躯に相応しい、驚くほどの速度でアイリは走るのだ。男たちはついていくだけで精一杯。現場についた時は、全員が大きく肩で息をする程に疲労していた。
アイリはその二階建ての家の庭に入ると、使用人らしき女性がアイリたちの姿を見つけて駆け寄ってくる。
「よ、よかった! 火事です! 誰か、人を呼んで……」
動転しているせいか言葉が要領を得ない女性の襟首を、アイリは乱暴につかみ上げる。
「質問にだけ答えよ。中に人はいるか?」
「は、はははいっ、そうなんです。で、でも私はたまたま庭にいて……」
アイリが女性の襟首を強く締め上げはじめる。
「質問にだけ、答えろ。中には誰がどこに何人残っている」
「す、すみませ……二階の寝室に、奥様と、お嬢様が。後は、一階の厨房に老いた使用人が二人……他はわかりま、せ……」
アイリは女性を放り捨てると、ついてきた男たちに向かって怒鳴る。
「中には私が入る! お前達は家の周囲を回って庭の燃えそうなものをどけておけい!」
おうっ、と返事を返した男衆はしかし、え、と顔を見合わせる。
既に家には火が回っており、幾つかの窓からは煙が立ち上っている。この状態の建物の中に突っ込んだら、火は避けられても煙に殺される。
そんな不安気な表情の男衆に対し、アイリは獰猛な笑みで言ってやる。
「私は十分以上息を止めていられる。任せるがよい」
井戸で水を汲み、全身を覆うフードにこれをかけた後、アイリは家の中へと飛び込んでいった。
入ろうと正面入り口を開いた時に見えた家の中が、想像したよりずっと火が回っていたことに少し怯んでいたのは、アイリだけの秘密なのである。
そこは、戦場すら凌ぐであろう危地であった。
屋内の熱さもさることながら、何せ煙がキツイ。
息を止めていればいい、そんなことを考えていたアイリであるが、煙が目に染みてくるのには閉口した。
肝心な時に目が参っていては困るので、見るのは最低限のみにして、必要な時以外は目を閉じていることにしたアイリは、とても視覚を欠いているとは思えぬ軽快な動きで廊下を走る。
まずは一階の厨房へ。火事の火元といえば大抵はここであるのだが、今はそれほど火が回ってはいないようで、少し煙い程度で済んでいる。
アイリが声を張り上げると、棚の陰から弱弱しい声が。
「おいっ、無事か?」
「す、すみま、せん。こ、腰が……」
腰を痛めたらしく身動きが取れないのが一人のみ。
「もう一人いるのではないのか?」
すると腰を痛めていた老人は顔を憤怒に染めて言った。
「あの恩知らずめ! ワシが動けぬのを見ても手をすら貸さず一目散に逃げおったわ!」
火事によほど驚いたのであろう。それを責めるのも酷な気もしたが、見捨てられた方からすれば怒るのもまた当たり前だ。
とはいえ自力で逃げてくれたというのならありがたい話だ。アイリは老人を抱えて窓、ではなくすぐ近くの壁を蹴破って外に出る。
それはちょうど外を回っていた男衆の一人が近くを走っていた時で。もちろんアイリはその気配を察したうえでの行動だ。
「おい、このご老人を頼む。私は上へ向かう」
「え? か、壁崩れた? ああ、はい、わかりました」
じいさん大丈夫かと男衆が背負ってやると、じいさんは腰の痛みも忘れて真顔で男衆に聞く。
「あのお嬢さんはいったい何者じゃ? ただの一蹴りで壁に穴をあけよったぞ」
「俺もしらねー。てか俺がききてーよ」
そんな二人を置いてアイリは上階へと走る。
火はもうかなり回ってしまっているようだ。アイリが上ろうとしている階段にも、その手すりは既に火に包まれている。
そして火がこんな状態であるのなら、煙はもう、とてもではないが目を開けていられるようなものではない。
それでもアイリは目を閉じるようなことはできない。一瞬で建物を記憶し目をつぶったままで走る、なんて真似もアイリはできるのだが、今はそれをやるわけにはいかない。
走るアイリの足裏からは、頼りなげな床のきしむ音が聞こえる。また目で見る先にある階段も、手すりのみならず他にも回った火によって、かなり弱くなっているようにも見える。
まだある。天井だ。これがぎしりぎしりと音を立てているのは、その重量を支えることができなくなってきている証である。
つまりいつ崩れてもおかしくないということだ。そんな屋内を走ろうというのに、目をつぶるなんて真似ができるわけがない。
またアイリは自身の目論見の甘さを思い知る。
『く、崩れる気配がまるで読めぬっ!』
相手が人であるのなら、その挙動から先を読むのは戦士たるアイリには呼吸をするのと同じぐらい簡単なことである。
だが今度の相手は無機物。建物だ。自然ですらない建造物が火に炙られどう動くのか、アイリには全く予想がつかない。
家がどのように作られているかの構造はアイリの頭に入っているので、崩れ方は予想できるだろうと踏み込んだのだが、燃えた柱や壁がどう動くかは全く予測がつかないもので。
今アイリが一番知りたいのは、火や煙でどれぐらい床板が傷むかだ。足裏から返ってくる感じからして、アイリが本気で飛んだら簡単に抜けてしまいそうだ。
なのでアイリは階段を駆け上る時、できるだけ体重のかからぬ飛び方を心掛ける。飛ぶ、で正しい。階段を上るにあたって手すりを含めて四回蹴るのみで上階に至るような移動の仕方は飛ぶと形容するのが正しかろう。
二階はよりひどい。アイリが体重が分散するような優しい走り方をしているというのに、足元からはそれはもうおどろおどろしい軋み音が響いてくる。
それに、煙も一階の比ではない。
アイリは上体を極端に低くしながらの移動を心掛ける。二階の廊下の上半分の空間はもう煙でいっぱいだ。自分の背が低くて良かったなんて思えたのはいつぶりだろうか、と自嘲気味に考えている間に、使用人から聞いた目的地へと。
声がしていたから場所はすぐにわかった。扉を開くと、けたたましい赤子の泣き声と、これに覆いかぶさる女が一人。
状況を説明している暇などない。アイリは駆け寄ると、右の小脇に女を抱える。女は驚き抵抗を見せるも、アイリがそうするのだ、逆らえるはずもない。
逆側の手には赤子を掴むと、部屋を飛び出す。
女は喚くがアイリは黙殺。というより、そろそろ呼吸が苦しくなってきているので、余計な手間をかけたくない。
二階の廊下の突き当り、ここまで来ると、アイリは駆け寄った勢いそのままに壁を蹴り飛ばす。
奇妙な現象が起こった。
アイリに蹴り飛ばされた壁は先程アイリが壁を両手で突いた時のように、穴があくではなく壁が大きく人間二人分が通れるほどの大きさで吹き飛んだ。そして直後。
勢いよく空気がアイリに向かって吹き付けてきた。常人ならばその風だけでひっくり返るだろう勢いの風だ。だが、ここにいるのはアイリ・フォルシウスだ。いかな強風だろうと、それこそ風に質量が伴っていようとこれを吹き飛ばすなどできようはずもない。
アイリは吹き付ける風に逆らい、穴から外へと飛び出した。もちろん、右腕に女性を、左手に赤子を抱えたままで。
そしてアイリが狙っていた通り、飛び出した先には隣の家との境になる煉瓦の壁があったのだ。
この壁の上端を蹴り、火事になっている家側に飛んで戻るアイリ。その頭上で、とんでもない爆発音が轟いた。
勢いよく大気を屋内に吸い込んだことで、家の中の火が爆発的に燃え上がったのだ。二人の人間を抱えたままでありながら、一蹴りを交えられたおかげか綺麗に着地を決めたアイリは、頭上より降り注いでくる炎の雨より逃れるべく走り出す。
突然の爆発に度肝を抜かれている男衆の前まで、アイリは走っていくとそこでようやく抱えていた二人を下した。
「……思っていたより火とは、危ないものであるのだな」
アイリがぼそりと溢したそんな一言に、男衆たちは皆、はぁ、と返すぐらいしかできなかった。
危地を脱したアイリに、男衆は焦った声で言う。
「やっべえっすよ、火の勢いが強すぎるし速すぎる。俺たちだけじゃこれ、崩しきる前に飛び火しちまう」
「問題は無い。ちと待っておれ」
アイリはそう言うと、庭に立っていた大きな木の前に行き、これを、両手で抱え込む。
小柄なアイリが両手を一杯に広げればどうにか端と端を掴める程度の幹の太さ、である。そんな木であるからして高さはもうこの二階建ての家よりも高いものだ。
しかもこの木の先を見ればわかるが、青々しく、または瑞々しくも葉が生い茂っており、これを斬り倒すには相当な手間がかかろう、そんな木だ。
これを。
「ぬうううううああああああ!!」
気合いの声と共にアイリが両腕を引き締めると、木が重苦しい悲鳴を上げる。
木の皮は潰れ、中の幹すらあまりの力にへこんでしまう。そして、折る、ではない、砕く、でもない。木の繊維を、千切る、そんな形だ。
木を処理する音とはとても思えぬ不気味で奇怪な音と共に、巨木は斜めに折れ曲がり始める。
男衆、大口開けた姿勢で硬直したまま。
アイリの最後の気合いの声と共に、ぶちり、と木は千切り折れてしまった。
その長さ、二階建ての家をも超えており、その太さ、アイリが両腕をいっぱいに伸ばしてようやく両端を掴める程度。まあ今はアイリがへこましたせいで多少なりと余裕はできているが。
そんな馬鹿げた重量の木を、アイリは両腕で抱え込んだまま、歩いた。
持ち上げた姿勢のまま、歩いたのだ。それもよろめくようなこともなく、しっかりと大地を踏みしめまっすぐ目的地に向かって。
男衆たちはそのあまりに光景に驚いていたせいで、アイリが何をするつもりなのか全く予想すらできないまま。それが起こってしまった。
千切り折った見上げんばかりの巨木を抱えたアイリ・フォルシウスは、この大木を、燃え盛る家の中央へと振り下ろしたのだ。
男衆はこの時の音を、なんと表現していいのかわからなかった。あまりに重苦しく、あまりに豪壮で、あまりにもありえない音であったのだ。
巨木を家に振り下ろしこれを叩き潰した音など、何と比較しどう形容しろというのか。
アイリは振り下ろした大木を、ゆっくりと持ち上げる。横倒しになった木は、アイリを起点に再び天をつくような垂直へと。
大きくひしゃげへこんだ家から叩き込まれた木が抜けると、その場所から真上に向かって炎が噴き出す。
アイリは噴き上がる炎ごと潰すかのように、またこれを振り下ろした。
男衆、やはり、その場で硬直したまま。結局彼らは、アイリが十三回この大木を家へと振り下ろしてこれを完全に破壊するまで、誰一人、微動だにできぬままであった。
この日、この街に生まれた伝承の名は『火消しの妖精』という。
男衆が数人、街路を大声で騒ぎながら走り抜ける。
「どけー! 道をあけろー! 火消しが通るぞ道を開けろー!」
野次馬も含めると街路にはかなりの人数がいたのだが、その男の後に続いて聞こえる音に驚き、誰しもが道を譲る。
ぞぞぞぞぞぞぞ、そんな音だ。それが彼方から聞こえてくると、誰しもが恐れおののき道を開け、そして直後、道を開けた自分の正しさを知る。
先触れの男たちの後だ。金髪の少女、まさに妖精と呼ぶに相応しい可憐な少女が、肩に木を担いで走ってくる。
その木が子供が振り回すような手に持てるようなものであるのなら、妖精の話としては実に出来のよいものとなろうが、現実の妖精とやらはそんなお優しい存在ではない。
その麗しき少女が担いでいるのは、長さは二階建ての建物を優に超え、幹の幅は少女の体躯の倍はあろう、大きな大きな巨木であった。
少女が持つどころか、大人が十人がかりでも運べぬだろう巨大な木を、当たり前の顔で肩に担いで走る少女の姿は、この日街のあちらこちらで見ることができた。
そして妖精、ではなく火消し、の部分だ。
この少女が火災現場にたどり着くと、中に人の有無を確認した後、この少女は、巨木を振り下ろしあっという間に燃え盛る家、屋敷を叩き壊してしまうのだ。
特に被害の大きかった西区でこの少女はよく見られた。
次はこちら、次はあちら、と走っては家を壊して回る少女の尽力により、この規模の街火事ではありえぬほど被害は小さく済んだのだ。
全ての消火が終わった頃、街中を駆け回ったため先触れをしていた男たちは精も魂も尽き果てた様子であったのだが、妖精である少女は汗こそかいてはいたもののまだまだ平然としたものであった。
火事に走り回った男衆を見回し、妖精は機嫌よさげに言った。
「よくやったぞ貴様ら! 後は官憲なりに任せ貴様らは一休みするがよい! ではな!」
そう言って立ち去る少女に、最初の大木入手の時から延々付き合っていた男衆の一人が問うた。
「あ、あの、アンタは、休まない、のか? ほら、女共が飯と水と、持ってきてくれたぜ」
「それはお主らだけで楽しむがよい。私は……この付け火の下手人に用があるでな」
「下手人に心当たりあんのか!?」
「心当たりも何も。木造の家ばかり建つ街で付け火なんて真似をするような輩がどんな馬鹿かなど、少し考えればわかろう」
「あ、いや、悪ぃ、俺には全然わかんねえ。てかアンタ一番働いてたんだし、疲れたとかねえのか?」
「ははははは、心配してくれるのは嬉しいがな、この程度ならば疲れたうちに入らんよ。貴様も随分頑張っていたようだが、まだまだ鍛え方が足りぬぞ、精進するがよい」
そう言って少女は軽やかに去っていった。男に、後を追う気力など残っているはずもなかった。
火がついた家、屋敷を見れば、誰がそうしたのかなんて一目瞭然で。
特にアイリは屋根の上からほぼ全ての出火元を確認しているので、それは誰よりも早かった。
火が付けられていたのは顔役派閥とは敵対している新興勢力ばかり。普通に考えればもう勝敗は決しているのだからそこまでする必要はないはずである。
だが顔役たちはともかく、顔役の応援としてこの街に入った連中は違う。新興勢力たちは完全に駆逐されたわけではなく、ある程度の商売を認められつつ、それ以上の利権拡大を完全に封じられた形だ。
ここから伸びていくことを念頭に投資をしていた彼らからすれば大損ではあるが、それでも商売のタネは残っている。これを、顔役の応援に入った連中は奪おうと画策しているのだろう。
彼らは他所から来た連中で、この街のことをそれほど知っているわけではない。特に、石造りの建物ばかりがある土地から来た連中は、火事の危険に対する認識が違う。
こんな、街全てを焼き尽くしかねないような愚かな真似をしでかすような馬鹿は、そうした街から来た顔役が招いた他所の助っ人たち、そうアイリは断定した。
その条件に合う商会へ、アイリは単身乗り込む。
彼らは街中がとんでもない騒ぎになっているというのに、のんびりと祝杯を挙げていたようだ。
アイリや街の男衆が必死になって駆け回り、奇跡的に軽微な損害で済んだこの火事も、彼らにとっては大袈裟な、と笑うようなものであったのだ。
まずはコイツらを皆殺しだ、と三人殺したところでアイリの手が止まった。
この屋敷を取り囲む気配がある。案外、官憲も手が速いと感心したアイリであったが、屋敷に突入してきた男を見てその眉根に皺がよる。
「貴様……」
顔役が、配下の荒くれを引き連れ乗り込んできたのだ。
誰何の声を無視し、アイリはその部屋に元からいた六人の男たち全てを殺し尽くした後、顔役に向かって言い放つ。
「コイツらを皆殺しにした後は貴様の番だ。飼い主に責任がないとは、よもや言うまいな」
顔役が引き連れてきた男たちがアイリの言葉に色めき立つが、当の顔役といえばアイリの言葉に顔中青ざめ立ちすくんでしまっていた。
この凄まじき血臭。漂う威圧感。ただ立っているだけで部屋中の全てを支配しているかのような圧倒的存在感。こんなバケモノ、そうそう何人も居はしない。
「お、おま、え、まさか……殿下の、ところの……」
「ふん、その察しの良さをもう少し別のところに向けておれば」
「待て! 待ってくれ! お、俺たちがケリをつける! そ、その為にこうしてここまで来たんだ! もちろん殿下にも話を通す! だからこの場は俺に預けてくれ! な! 頼むって!」
「それはこんな騒ぎになる前に、そうしておくべきだったな」
「落ち度は認める! アンタの言う通りだ! だが悪意がなかったことは信じてくれ! だからこそこうして真っ先に処分に動いたんだ! コイツらにも! コイツらの根にも責任を取らせる! もちろんアンタらの手は煩わせねえ! だから頼む! もう一度だけ! 俺に預けちゃくれねえか!」
必死だ。そして顔役の必死さから、彼に付き従っていた荒くれ者たちも事態を悟る。そうできる優秀な者を彼は身近に集めている。
そう、顔役がこうまで必死になる相手は今この街に一人しかいない。この少女は、驚くほどの手練れである金髪の美少女は、殿下商会の関係者であるということで、その彼女が今回の責任は顔役にあると言っているのだと。
アイリは顔役の言葉に、僅かに首をかしげる。
「……ふむ、こ奴らの根、と来たか。なるほど、それは私にはわからぬしお主でなくばどこまでやるべきかの判別は難しいか。……殺すべきは殺し、殺すべきでない者は殺さぬ。できるか?」
「やる! 必ずやってみせる! だから頼む!」
「もう一つ。火災で損害を被った者と消火に駆け回った者に、貴様から手当をしてやれ。それで今この場では、私は目をつむろう。後は殿下の判断にお任せする」
そう言って身を翻すアイリ。襲撃の最中にこんな呑気なことをしてる場合ではないはずであるが、この屋敷は完全に包囲されていて逃げ出す余地などなく、それがわかっている顔役は、アイリが去った後その場にへたりこんでしまい襲撃の指揮は部下に任せることに。
もし手抜かりがあったらエライことになる。それもわかっているのだが、いきなり現れた死線にさしもの顔役も、神経が続いてくれなかったのである。人間、誰しも限界というものはあるのだ。