128.闇金イェルケル君
「おうおうてめぇら! だーれに断って金貸ししてんだオウルァ!」
威勢の良いドスの利いた怒鳴り声と共に十人のチンピラが乗り込んできた。
これを迎え撃つは宿の一室を事務所にしてしまっているイェルケルとその配下、アイリ、スティナ、レアの三人である。相変わらず女騎士三人は顔が見えないようフードを被ったまま。
やかましい、とばかりにアイリが即座に十人をしばき倒す。暴力度は高いが常識人度はこの四人の中では比較的高めのアイリは、いきなりコイツらを殺したりはしない。
アイリの加減した蹴りにより、各所の骨が折れ激痛に床をのたうち回る彼らの内の一人に、イェルケルが近寄って問う。
「無許可金融業に誰かの許しがいるとは知らなかった。で、誰に何を断ればいいんだ?」
苦痛を堪えながら、それでもその男は精一杯の虚勢を張る。
「テイヨさんに決まってんだろ! その程度もわかんねえ余所者がここで商売しようたぁ笑わせるぜおい!」
イェルケルは少し困った顔になる。
「いや、でも、結構、客来るぞ。どこから聞きつけてくるのか知らないけど」
「はっ! そりゃてめぇがなめられてっからだよ! 貸した金踏み倒されておめーはお終いだよ!」
「それはやめた方がいいと思うんだよなぁ。うん、絶対にやめたほうがいい。君は知らないだろうけど、ウチにはどこにどう逃げようと絶対に見つけ出すよーなのが揃ってるから」
「……おい、もしかしてアンタ。貴族、なの、か?」
貴族とは魔法使いという意味で、魔法ならばそんな理不尽な取り立て方法も充分にありえる話だ。苦笑するイェルケル。
「違うよ。殿下なんて呼ばれてはいるけど真に受けるなよ、恥ずかしい」
「あー、そりゃそうか。魔法使いならわざわざ金貸しなんてするまでもねえし。しっかし殿下って名前、ホントぴったりくるなアンタ。……っと、和んでんじゃねえ! いいか! てめえこんな真似してタダで済むと……」
「ただで済ませた方がいいと思うんだよなぁ。ま、どっちみち一回はやらなきゃダメか」
イェルケルがこんな話をしている間に、スティナはぶっ倒れた内の一人から敵の居場所を聞き出しており、イェルケルが目で合図を出すと、スティナはアイリと共に白状させられた男を連れて部屋を出る。
残った連中はレアが二階の窓から外に全部投げ捨てた。それを見た宿の主人がこの騒ぎの文句を言うのを諦めたのだが、イェルケルたちが彼の配慮に気付くことはなかった。
売る物全部売ったら後は仕入れて帰るだけ。だがそれでは諜報活動にならない。なのでイェルケルは街に腰を据えての商売を考えることにした。
ワインを売った時に取引した商人から、商取引がさかんな街を教わりその街へと。
仕入れに来た、と商人顔して宿に入り、殿下と呼んでくれと再び鉄板ネタにて知人を作る。そこまではこれまでの街と同じ流れであったのだが、そこで事件に遭遇する。
事件といっても大したことではない。酔ってイェルケルに絡んだ馬鹿が、レアの蹴りをまともにもらって宿の外まで吹っ飛ばされたという話だ。
だが、その時たまたま外を通っていた馬車にこれが命中。車輪がへし折れ馬車は横転。馬車の弁償はもちろん吹っ飛ばされた男に全額負わせたが、彼の返済能力では即座の完済は不可能。そのうえ、新たな馬車をすぐにでも用立てないと馬車の持ち主が取引に遅れてしまう。
三騎士は誰一人自分たちが悪いなどと思わなかったが、イェルケルは申し訳ないと思ったのか、馬車の持ち主である商人に新しい馬車の代金を立て替えてやることに。
つまり借金である。こちらは利息もほとんど取らぬ良心的なもので、その商人はこれによりどうにか取引に間に合った。
この時、馬車の弁償を負わされた男への取り立てもイェルケルたちが引き受けた。男は一度だけ逃げようとしたが、大怪我を負っているうえに相手がスティナ、アイリ、レアである。あっという間に捕まった挙げ句、未来永劫イェルケルたちに逆らえぬような一生ものの思い出を叩き込まれてしまった。
そこでふと、イェルケルは考えた。
基本的に金貸しとは国からの許可制である。カレリアではそうだったし、イジョラでもそうだ。
だがそうした大きな金貸しとは別に、無許可で細々とやっている金貸しはどこにでもあるものだ。これなら、顧客の確保と取り立てさえ可能ならば、商品知識もないイェルケルにもできるのではないかと。
ものは試しだと、イェルケルは宿の一室をそのまま事務所に、金貸し業を始めてみた。
先の馬車の件の商人や、宿を使っている他の商人たちは、利息もそこまで高くない金貸しができたと知るや、これを知人に広めてくれた。
これはイェルケルへの善意とかではなく、単純により安い利息での金貸しは利益に直結するもので、そういった情報を商人は皆欲しがるものなのだ。
イェルケル自身、がつがつと利益を貪るような真似をするつもりはなく。それでも利益も出さぬでは何故商売をしてる、なんて疑いをもたれるので、この街の他の金融連中よりほんの少し利息が安い程度にしておいた。
ただ、一見相手でありながら既に安めの利息で貸し付けてくれるのだから、懇意になればもっと安くなるのでは、といった期待から幾人かの商人が少額ではあるがぼちぼちと利用を始めてくれた。
なかなか良い感じなんじゃないのか、と考えた矢先、チンピラたちがつっこんできたというわけだ。
ただこれも、イェルケルたちにとってはある程度予定通りな部分ではある。
無許可金融業、通称闇金は借金の取り立てに法律を頼りにくい部分もあり、大抵の場合において法律に代わって暴力を充当するものなのだ。
それをイェルケルが持っていると知らしめなければ、商売として成り立たないだろう。これはそもそもからしてそういう商売であるのだ。実にイェルケルたち向きであると言えよう。
スティナとアイリがこの街最大の闇金業者を始末すると、程なくして大きく街が動き出す。
街の支配者たる貴族は、この程度のことに関わったりはしない。税収が上がるかどうかはある程度気にするが、それすら彼らにとってはそれほど重要なことではない。
イジョラ貴族はいつでも平民たちをその魔法の力で意のままに操れるのだから、余程目に余るようなことが無ければ平民なぞ放置が基本である。彼らの興味は同じ貴族同士の付き合いにあり、平民がそこに関わってくることは極めて少ないのだ。
だから実質的に街を管理し支配しているのは平民である場合が多い。彼らは既存の権益の代表者であり、新参がこれらを害するようなことがあれば、その全力をもって叩き潰すのである。
ただこれが人間社会の複雑怪奇なところであるが、経済規模が大きくなればなるほど、その集団は一枚岩ではいられなくなる。
それが全体からすれば非効率的であるとわかっていても、複数の有力者同士は牽制し合い、己だけがより高い利益を得ようと好機を狙い合うようになる。そんな隙間に新参が入り込む余地が生まれるのだ。
イェルケルは、いきなり失われたその闇金業者の取引先全てを奪ったりはしていない。イェルケルが得たのはそのごく一部にすぎず、これにより大きな利益を得たのは同業他社であった。
その辺がわかっていれば、後は面子の問題だけだ。
イェルケルの下に訪れた使者に対し、イェルケルは護衛を一人のみ連れ彼らの求めに応じ街の顔役のもとへと向かう。
貫禄のある恰幅と荒事に慣れた威風を備えた顔役を前に、イェルケルは恐れず怖じず、さりとて相手を見下すでもなく、その要求は二十人を瞬く間に殺害してのけた殺人鬼の主とは思えぬささやかなもので。
顔役はいぶかしげにイェルケルに問う。
「わかってんのか? お前の要求じゃ、デカイ稼ぎは無理だぜ?」
「どの道俺たちの人数で大きな規模の商売は無理だろう」
「人を増やす気はねえってことか?」
「まっぴらだね、どうしてわざわざ他人の面倒まで見てやらなきゃならないんだ。ウチはただでさえ手間がかかるの三人も抱えてるんだからな」
顔役は戦士が間合いを図るように、機を窺いながら話題を切り出す。
「……カレリア人が、イジョラに何の用だ?」
「あ、やっぱわかるもんか」
「なめてんのかてめぇ。カレリアは景気が良いと聞く。なのにどうしてわざわざイジョラに来た?」
「別に隠すことでもないんだが、そこまでわかってるんならカレリアで何があったかは知ってるだろう? カレリアの傭兵が今あの国でどんな扱いなのかも」
「てめえらは、騎士軍崩れってところか」
「……そこまで詳しいのは予想外だよ。とはいえハズレだ。ただ、境遇は連中と大して変わりゃしないさ」
「フン。てめえらにそのつもりがあるんなら、ウチで面倒見てやってもいいぞ」
「もし借りを受けたなら俺たちは必ず返す。だが、俺たちを従えようなんて考えるなよ。あの三人、別に俺に従ってるってわけじゃないんだからな。……本当、頼むぜ。アイツら暴れ出したらもう、手に負えないなんてもんじゃないんだから。カレリアでもなぁ、そりゃあもうヒドかったんだぜ。これは本気で忠告させてもらう。間違ってもあの三人を手懐けられるなんて考えるなよ。死ぬぞ。お前だけじゃない、周りも全部だ。こんな街一つ、三人だけで消しちまえるんだ。もしアイツらを止められる可能性があるとしたら魔法使いぐらいのもんだぜ」
顔役はイェルケルの脅し文句にも、少なくとも表面的には一切動揺を見せなかった。そして問うた。
「本当に、魔法使いで止まるのか? カレリアの戦士はサシで魔法使いすら仕留めるって聞いたぞ」
真顔の顔役に、イェルケルは笑って言った。
「そりゃ幾らなんでも話盛りすぎだ」
ぶははっ、と顔役も笑う。
「だな。話はわかった。できりゃ揉め事になった時は、ケンカの前に一言こっちに話通してもらえるか? 大抵の相手なら俺が言えばそれで話は済む」
「借りはそう簡単に作りたくはない」
「おめーらにぽこぽこ殺されちゃたまったもんじゃねーこっちの都合だ。恩に着ろなんて言わねえから抑えられそうな時はこっちに話回してくれ」
驚いた顔でイェルケル。
「随分と物分かりがいいんだな。てっきりもっと抵抗してくるもんだとばかり」
「おめーらがぶっ殺したあそこにゃな。この街でも飛びぬけて強ぇ化け物が二人揃ってたんだよ。どっちも、まともな抵抗もできなかったんだってな」
へえ、とイェルケルは晴れやかな顔で笑った。
「それは良かった。俺もできるだけ犠牲者は少なくしたかったんだ。それに、俺たちは確かに強いが、無敵でも不死身でもないんだから、恨みを山ほど買う前に恩を売る方に回りたいんでな」
そうしてイェルケルと顔役との話し合いは終わった。
イェルケルが帰った後、顔役は配下を集めてくれぐれもアレには手を出すなと厳命する。
もちろん荒くれ連中をまとめてる奴らだ、顔役の言葉にすぐには納得しなかったが、彼はしみじみと語った。
「あの、殿下って奴。ふざけんなよ、何が殿下だ。可愛らしい顔しときながらアイツこれまでに三桁は人を殺してるぞ。ひっでぇ血生臭ぇ気配してやがる。しかもだ、こりゃ俺の勘だがな。アイツ、魔法使い殺したことあるんじゃねえか。でもなきゃあの余裕はちっとありえねえ。イジョラでいきなり他国の奴が暴れるってな、魔法使いのヤバさを想像すらできない馬鹿か、魔法使いをどうにかする自信があるかってことなんだからな」
騎士軍とは関係ないとか言ってたが、イジョラ魔法兵団をぶっ潰した軍に居たとかじゃねえのかね、と顔役が続けると、集まった連中は皆黙り込んだ。
彼らにとっても衝撃的であったのだ。イジョラ最強の軍、イジョラ魔法兵団がカレリアの地に乗り込み、粉々に蹴散らされて帰ってきたという話は。
魔法使いが千人もいる軍に、いったい何をどうすれば勝てるというのか。カレリア軍とは彼らの想像すら及ばぬとんでもない軍なのだろうと。
また、顔役の人物評も皆に信頼されている。特に、危険人物を見分ける目、鼻に関しては、これが誰より利くからこそ、彼は顔役なのだ。
顔役は自分で本当に全てを抑えられると思っていたし、その力もあるつもりだった。
だが、ここはイジョラでも経済成長著しい街。伸びていく街にはイェルケルのような新参の入り込む余地が多数あり、それはイェルケルのみに開かれた好機ではない。
顔役たちのような旧既得権益を代表する者たちとは別の新たな勢力は、この騒ぎ混乱を好機とみなしたのである。
話し合いにより顔役に取り込まれたとみなされたイェルケルたち、通称『殿下商会』は彼らにとって格好の標的となったのである。
その日の来客は、殿下商会を取り巻く緊張感といったものを全く考えない、実に馬鹿馬鹿しいものであった。
宿の扉を蹴り開けるなんて入り方をしたのは、最初のチンピラ以来である。
「オラァ! ここか殿下とかいう奴がいやがるのは! ヴァロ様がケンカしに来てやったぞ!」
背格好はイェルケルより少し小さい程度で、体つきは悪くない。ただ、ケンカをしに来たというワリにこの男、見える場所には武器を携帯していない。
しかも一人。他に気配もない。本当に一人きりできたようだ。
イェルケルは訝し気に問う。
「あー、殿下は私、じゃない俺だが。何か用か?」
「アホか! ケンカしにきたっつってんだろうが! 耳聞こえてねえのかてめえは!」
「武器も無しでか?」
「はっ! 武器! 武器ときたか! そんなもんはなあ! 弱っちい奴が使えばいいんだよ! 俺みてぇなつえー奴ぁなあ!」
そう叫ぶと自らの拳を強く握り顔の前に突き出す。
「この拳がありゃ充分よ!」
顔役は、少なくとも彼の影響下にある人間はイェルケルたちにつっかかってくることはないと言っていた。そしてそれ以外は、くる時は殺す時だろう。だというのに戦としては呑気にすぎるこの相手を差し向けるというのは考えにくい。
では、どこの誰だ、となるがイェルケルには全くわからない。
少しすると宿のおかみさんが顔を出してきた。
「ん? もしかしてヴァロかい? 何してんだいアンタこんな所で」
「あん? っておばちゃんかよ。そういやここおばちゃんの宿だったか、道理で見覚えあると思ったわ。おい、おばちゃんはすっこんでな! 俺ぁこれからこの殿下ってのに用があるんだからよ!」
「あー、殿下さんよう。面倒なのに絡まれたねえ」
ぼそぼそと小声でアイリがおかみさんに問う。おかみさんは現在この街で、アイリ、スティナ、レアが女であると知っている数少ない人間の一人である。
「どういう相手なのだ?」
「ケンカ馬鹿よ。何せ腕っぷしだけは凄いからねぇ。その勢いで魔法使い一人ぶっとばしちまったもんで、そこらを逃げ回ってるんだよ」
「ほう、魔法使いをか」
「アンタらの噂聞いて帰ってきたって話かね。どうする? 顔役さんに話通せばコイツぐらいどうにでも……」
イェルケルはおかみさんの言葉を手で制する。そして、腰に下げていた剣を隣のスティナに預ける。それを見たヴァロが怪訝そうな顔に。
「あん?」
だが続いて懐の短剣を全て机の上に放り投げると、イェルケルの意図をヴァロも察する。
「は? おいおいおいおい、お前、本気か?」
「本気かはこっちの台詞だ。まあいい、剣を使わないってんなら付き合うさ」
こきりと指を鳴らすイェルケル。
「どうせ結果は変わらん」
ヴァロの顔が喜色に染まる。
「おいおいおいおいおいおいおいおい! なんだよ! おめー面白ぇじゃねえか! チンケな優男かと思ったが骨がありそうで嬉しいぜ、なあ!」
「そういうお前はどうだ? 口先だけか試してやるから、来いよ」
一発目。風切り音すら聞こえるほどの剛腕はヴァロの放ったものだ。
いきなりの大振りではあるが、イェルケルは呆れたりはしなかった。最初の一発目から大振りの隙をつくのは難しく、また、この大振りの避け方をヴァロはじっと見据えていたのだ。
そしてヴァロは右前の構えから左前へと切り替える。左肩がぶれる、左拳がくる。との惑わしからの速い右拳。
観戦していたアイリ、スティナ、レアの目が興味深げなものに変わる。
イェルケルは無手戦闘用の構えを取っていなかったため、この右拳を顔にもらってしまう。が、一発でどうこうできる相手では無論ない。
ヴァロは即座に怒涛の如き攻勢に。イェルケルは後退しながら避け、受ける。一発以外被弾は無し。
宿の室内はそれほど広いわけでもない。イェルケルは見ているわけでもないのにベッドやら机やらを全て避けながら後退を続ける。
そして反撃、の瞬間をヴァロに見抜かれた。攻守切り替えの寸前、ヴァロはイェルケルの顔の前で強く手を叩いた。
猫騙しだ。猫にならいざ知らず、人にこれをやって効果があるなんて話、イェルケルは聞いたこともない。だが、思わず動きが止まってしまったのは紛れもない事実である。
ほんの一瞬、見失ってしまったヴァロの左拳が真下よりイェルケルへと迫る。
『マズッ』
避けきれず。顎に強打をもらったイェルケルの頭部が大きく跳ね上がる。
ここだ、と前に出るヴァロ。しかし、跳ね上がったイェルケルの頭が跳ねきらず、下方を見下ろす形でその目がヴァロを捉えていることに気付く。だが、遅い。
無造作に前方へと突き出された足がヴァロの腹部を捉えた。
ヴァロは腹筋も鍛え上げている。下手な刃ならまともに通らぬほどにまで。だが、そんなものはクソの役にも立たぬと知る。
あまりの衝撃に、腹から下全てが消し飛んでしまったかのような感覚。ヴァロはそのまま宙を飛び、部屋の入口の扉をぶち破って廊下に転がり出る。
それでも勢い収まらず、廊下の壁に激突する。あまりの苦痛に呼吸が止まり、身体中が毒でも盛られたかのように動かない。
イェルケルは大股にこれに歩み寄る。ヴァロは動かぬ身体を無理やり起こそうと壁に手をつく。イェルケルが先だ。
片手でヴァロの顔を掴むと、強く壁へと叩き付ける。ヴァロの頭部が壁をつき破って外へと飛び出す。イェルケルはこのうえ更に、ヴァロの身体を蹴り飛ばした。
二階の廊下の壁が完全に砕け、ヴァロの身体は外に放り出される。二度大地で跳ねて転がり、止まった。その傍にイェルケルが飛び降りてくる。
動けぬヴァロの腰を両手で掴み、勢いよく頭上にまで持ち上げる。叩き落す先は、地面なんてお優しい所は使ってやらない。
ちょうどあった井戸。石で組まれたこれに乱暴にヴァロを投げおろす。石組みの井戸は砕け飛び、ヴァロの身体は再び大きく跳ねる。
動く力もないヴァロは投げられた勢いのままに地面を転がり、そして、井戸の穴の縁に引っかかる。ここで手でも伸ばせば堪えられたのだろうが、意識を失っているのかその程度の力も残っていないのか、ずるずると滑っていき、そのまま井戸の中へと落ちていった。
そこまでやってようやく、イェルケルの気配より剣呑なものが薄れた。井戸の縁に歩み寄ったイェルケルは中を覗き込みながら問う。
「おーい、動けるかー」
中から、微かにだが声が返ってきた。
「……動けねーよ、クソッタレ……」
ははは、と笑ったイェルケルは、井戸の中の木桶を掴むよう指示し、この紐を引いて引っ張り出してやる。
水浸しで地面に横たわるヴァロに、イェルケルは妙にさわやかな笑顔で言った。
「悪い、いいのもらって頭来たんで、ついやりすぎた」
「……悪い、じゃねーよ。お前、どーいう強さだこりゃ……」
お前の鍛え方が足りないんだよ、と笑いながら彼に肩を貸して立たせてやるイェルケル。
その様を穴の開いた二階の壁から見ているアイリ、スティナ、レアは、不思議そうな、不満そうな、不快そうな顔をしていた。
「でんか、また、隙だらけになってる。あれ分類としては、刺客、だよね?」
「ふん、またあれでしょ。男同士のよくわからない、お互いわかりあっちゃってるぜー的なんかなんでしょ。ふんっだ」
「わからんのかわかってるのかどっちだ。後お前はその面倒くさくなるのいい加減直さんと、そろそろ本気で殿下に嫌がられるぞ」
この翌日から、ヴァロはかなりの頻度で宿に入り浸るようになる。イェルケルはそれを少し鬱陶しいとも思ったが、宿のおばちゃんとヴァロは旧知の仲らしく、おばちゃんはヴァロが遊びにくるととても嬉しそうにするので、まあいっか、とこれを受け入れることにした。
新たな勢力とは、新たにこの街に根を伸ばした勢力という意味であり、これには他所の街に本拠を置くような組織が幾つも含まれている。
彼らがこの街で本気で伸びようと考えるのならば初期投資は必須であり、過剰とも言える戦力の集中は、中途半端な見せ戦力は逆効果だとわかっているからこその手法である。
特に気合いの入った連中は、それこそ傭兵団を丸々一つ雇い入れたほど。戦争と違い、街での戦いは治安組織への配慮も必要になってくるので、戦力を集めるまでは表立ってできてもこれを堂々とぶつけあうという真似が難しい。
故に、いざ大勢力同士がぶつかるとなれば戦力は蓄積されていく一方となる。見せ戦力としての意味合いが強い彼等は、小競り合い以上のことにはならないよう注意するものだ。
ただ、その中に一つ。そうした配慮とは最も縁遠い連中がいた。問題はその連中こそが集まった戦力の中で、最も強大で、最も躊躇が無く、最も少数である、ということだった。
調子に乗った馬鹿がちょっかいをかけたのをきっかけに、即座に反撃に動いた『殿下商会』。その攻撃力は参戦した全ての組織の予想を大きく、そう、顔役の予想をすら上回っており、新参勢力が見せ戦力として集めた兵の半ばをたった四人で殺してしまったのだ。
見せ戦力であるのだ。実際にぶつけたらどちらもとんでもない損害を出すことになる。社会的にも経済的にも。だから、あくまで示威行為のみに留める。そんな暗黙の了解を『殿下商会』は笑って踏みにじってきた。
そしていざ戦闘となればそうする理由も理解できた。何せ『殿下商会』はケンカで損害を被らないのだ。『殿下商会』側は誰も死人を出さず敵だけ死に損害を受けていくのだから、ケンカをしない理由がない。
街住みの人間誰しもが心のどこかに持っている、人殺しは可能な限り避けるべき、といった考えは、コイツらに全く通用しないのだ。
外道でもない、悪党でもない。殺人を一切厭わぬ戦地帰りの殺人鬼。それが、街で生き残った人間の『殿下商会』への印象であった。
実際は相手が外道や悪党でもなくばイェルケルたちはそうそう手を出したりはしないものなのだが、きっとそれを知ったところで外道で悪党な彼らが救われることはないだろう。
そしてこれだけの人数の死体が出れば、さしもの領主も動かざるをえない。それは、顔役にとっては致命的な事態である。下手をすればこの領主をすらぶっ殺してしまいそう的意味で。
事ここに至り、顔役ははっきりと認識した。
『殿下商会』は、最初にその頭である殿下が言った通り、その気になれば街の一つぐらい簡単に消し去れる連中であると。
これを理解している者はこの街でも顔役ぐらいのものであろう。だが、そうとわかった顔役は即座にこのケンカの後始末に奔走する。
せめても顔役が幸運であったことは、この彼の動きを『殿下商会』側が、借りと受け取ってくれたことであろうか。
そしてここで顔役が、『殿下商会』を利用すれば勢力拡大も思いのまま、と調子に乗ったりせず、危険物を取り扱うように慎重に対応したことが、彼の命を長らえさせた。
気付けば今この街に、外道悪党下衆野郎なんて呼ばれていた有名どころで生き残っているのは、彼のみになっていたのだ。
後、『殿下商会』で借りた金を踏み倒そうなんて馬鹿は、最早この街にはいなくなっていた。
一つの街に腰を落ち着けたイェルケルは、最初に想像していた国と実際のイジョラとは全然違うものであるとわかった。
そこに暮らす平民は皆、悪党は確かにヒドイ連中ばかりだがそれは街の総人口からすれば一部に過ぎず、カレリアのそれと変わらぬ、笑い喜び、時に怒ったり泣いたりと、自由闊達に生きているではないか。
出立前にオスヴァルドが言っていた言葉、平民の平均寿命は短いが食料事情は極めて良好なのだから平民が不幸顔などしているわけがないだろう、という意味をイェルケルは現地に入ってようやく理解した。
魔法の影響を受けた食物は確かに毒性がある。だがそれは、味が悪いだの栄養がないだのといった話は一切なく、寿命が短くなる以外は他国と比べて少ない労苦で多大なる収穫を約束するという、むしろ大いなる利点のある食料であったのだ。それにそもそも平民たちどころかそこそこの立場の貴族でもなければ、魔法によって作られた食料が平民の寿命を減らしているなど知らないのだ。
そして食べ物が満たされていれば、自然と人々の持つ不平不満も命懸けのものではなくなるものなのである。
実際、宿で出される食事はそれほど悪いものでもない。その事実を恐ろしいとは思うし、効かないとのお墨付きをもらっているとはいえこれを口にするのは少し度胸がいったが、なんやかやと美味い飯なら食べてしまうものであった。
宿の妙にびくびくしているおっちゃんも、かつては看板娘だったというでっぷりしたおばちゃんも、図々しいの極みのようなケンカ馬鹿も、殿下殿下と親し気に声をかけてくる商人たちも、気に食わない悪党を殺したらありがとうと率直に感謝を表してきた街の人たちも、イェルケルは結構気に入っていた。
『我ながら、単純で簡単なものだよな』
イジョラという国をイェルケルは少しずつ、好きになっていっていた。