126.カレリアにて
レア・マルヤーナの実家は上にクソをつけたくなるような田舎にある。
土地はそれほど悪くはないのだが、何せ道がない。多少土地の出来がよろしかろうと、そこで出来上がった作物を運ぶ道が無ければ意味がない。
もちろん、領主であるマルヤーナ家は道を通そうと努力はした。三代に渡ってちまちまと貯めた金を使って少しずつ道を作っていった。
その結果として、レアの実家の領地はクソ田舎で済んでいるのである。そうでもなくば、住む人間皆に見捨てられ田舎にすらなれていなかっただろう。
そういった家系であるため、マルヤーナ家は領地の住人たちにはきちんと貴族として尊敬されている。マルヤーナ家が尊敬されている理由は、ここへと至る道、であるのだ。
その道が、工夫たちによって掘り返されるのを、レアの父は複雑そうな顔で見守っていた。
隣に立つ妻に、彼はぼやく。
「なあ、マルヤーナ家がこの道を作るのに三代かかってるはずなんだが、王都に話が通ったら、一月で工夫が飛んできて倍の広さに広げるとか言い出したぞ。これ、私はご先祖様たちになんて言ったらいいんだ?」
「そのままを言ってやってください。あなたよりレアの方がよほど大きな仕事をしたということでしょうよ」
「……そこはもう少し夫の立場を慮ってほしかったなぁ。私もな、娘に対して父の威厳というものを示さねばならないんだぞ」
レアが第十五騎士団に所属したことで、王家との繋がりができ、王家より領地を国に返すよう申し入れが来た。
この申し出は、土地を堅守すべしと考えぬ貴族にとってはとても有利な条件を提示されており、土地を明け渡す代償は、収入も立場も十分なものが約束されている。
何よりレアの父が喜んだのは、この道の工事を条件として提示してくれたことだ。
道さえ広げられればもっと大きな規模で荷運びができ、それはこの領地が発展できぬ最大の理由を解消してくれるものであった。
領地内の商売の権利を幾つも持つレアの父にとって、領地の発展に繋がる全ては彼の利益に直結するのだ。それを、国が税金でやってくれるというのだからありがたい話である。
ただ、こうしていざ工事が始まるのを見ると、なんとも消化し難いもやもやとした考えが浮かんでしまうのである。
妻は言う。
「殿方の威厳やら矜持やらには大層なお金がかかるんですから、そういう贅沢はお金を稼いだ当人だけがやっていいものなんですよ」
「……それは、そうだが。なあ、せっかくお金、あるんだから……使わないのも、もったいないというか……」
ぶつぶつと呟くレア父に、レア母はこれをぎろりと一睨み。すくみあがってレア父はそっぽを向いてしまう。
レアが戦でもらった褒賞金は、そのほとんどを実家に送ってしまっていた。これを、レア父はこれ幸いと趣味のワイン畑に全部つぎ込んでしまったのだ。
しかも、レアから送られてくる褒賞金は一度ではなく二度、三度と続き、その金額は領地全ての年間収入よりも大きなもので。
これをどう扱ったものかとレア母は悩んでいたのだが、レア父はといえばもう迷うことなく、嬉々としてワイン畑に突っ込んでしまった。
騎士学校でとても辛い目に遭った娘に、父も母も大したことをしてやれぬまま、娘は行方をくらましてしまっていた。
それが突然便りを寄越したと思ったら、そこには騎士になったとある。挙げ句一緒に遺書も同封されていて、レア母はこれを見て卒倒してしまったほどだ。
その後も実家に戻るかと思えば、任務があるからと便りと金のみ寄越しつつ王都で大暴れである。父母は自身が持つ貴族のツテを辿ってレアの近況を調べるが、届く話はもう嘘か本当か判断がつかぬような話ばかり。
領地を出る前からレアの強さは尋常ではなかったが、だからと百人千人相手に戦をしたなんて言われても信じられるわけがない。
手紙では何度も両親の方から会いに行くと書いたのだが、レアは全力でこれを拒否してきた。レアが第十五騎士団に所属したばかりの頃は敵が多かったので身内を王都になど呼べるわけがなく、その状況は両親側にも伝わっていたので、父母はどちらも領地を動けなかった。
だからこそ、親族が両親をダシにする程度で話が済んでいたのだ。
レアの父も母も、騎士学校でレアが苦しんでいた時から今の今まで、何一つレアの力になってやることができなかったと思っている。
なのにレアと来たら、行方不明から戻ったかと思えば、栄達し得た褒賞やらを当たり前の顔で実家に送ってくるのだ。両親共にいたたまれないことこの上なかったであろう。
父の方は、細かいことをあまり気にしないレアの父らしく、お金があるならそれはそれで、と使ってしまっていたが。
そう、レアは父親似なのである。
だからいざ顔を合わせれば、それまでどんな顔して会えばいいかわからなかった、とか言って避けていても、自分がそうしたいと思うように振る舞うのだ。
「おとーさーん! おかーさーん!」
馬に乗りながら二人の姿を見つけると、レアは大声でこれに呼びかけながら手を振っていた。
いきなりの登場に、驚き声もない二人。だが、レアそっくりの父親はというとこちらもそれまでの経過なぞ全部無視して、愛しの娘に向かって嬉しそうに手を振り返すのだ。
一人、比較的常識人の母親はというと、レアが悩んでいたようにどんな顔をしていいのかわからない、といった様子であったが、レアと夫とを相手にそれを気にしても仕方がないのはこれまでの生活でよくわかっていたので、まったくもう、と苦笑するのであった。
王弟イェルケルの屋敷の中に、第十五騎士団の執務室になっている部屋がある。イェルケルが執務を行なう際は主にこの部屋で行なうことにしており、今日はここに第十五騎士団の皆、スティナ、アイリ、レアの三人が集まっている。
第十五騎士団の三騎士に向かって、イェルケルは少しどきどきしながら言葉を告げた。
「休暇を取ろうと思う」
いきなり何を言い出すんだ、といった顔を三人共がしたため、イェルケルは大いに怯んでしまうが、すぐに気を取り直して言葉を重ねる。
「前にも話したがこれより私たちはイジョラへと向かう。その前に、一度ゆっくりと自分の時間を取れるようにしたいと思ったんだ」
自分の時間とか言われても、とスティナは口を開きかけたのだが、左右の気配がスティナの考えていたものと違ったので一旦様子見を。
ふむ、と顎に手を当てるアイリ。
「それは、何か裏表のある話ですかな?」
「いやいや、いいかげん戦ばかりだったしな。ここらで大きく休みを取った方がいいと思ったんだが、どうかな?」
「イジョラの追撃は国軍がやるとのことで、思っていたよりずっと早く帰還できましたしな。私は休みをいただけるのでしたらありがたいですが、レアはどうだ?」
レアはうんうんと二度頷く。
「全員が休むんなら私も休む。実家に顔出してくる」
少し意外そうにイェルケル。
「実家、避けてたんじゃなかったのか?」
「……どんな顔して帰ればいいかわかんなかったから。けど、生きてるうちに顔見ておきたくなった」
「それがいい。きっとご両親も喜ぶ」
すぐにスティナが口を挟むと、イェルケルは問い返す。
「ものすごく怒りもするだろうけどね」
「そうなのか?」
「さんざ心配かけておいて、時間があいても戻ってこない不良娘でしょ?」
レアがとても傷ついた顔でスティナを見上げる。
「……いじわるっ」
「あはは、ごめんごめん」
嘆息するアイリ。
「スティナはそうやって人の嫌がるようなことばかり言うから嫌われるのだ、少しは自覚しろ。で、お前は休暇に否定的なようだが、何か今すぐにでもやっておきたいことでもあるのか?」
そうやって声を掛けたアイリだが、スティナはというとその場に崩れ落ちそうになるぐらい落ち込んでいた。
「……アンタ、時々洒落にならないぐらいキッツイこと言うわよね……」
「ええい、面倒くさい。まともな人間であるかのように傷ついたフリをしても無駄だ、私には通用せんぞ。さあ、さっさと休暇を取りたくない理由を吐くがよいわ」
抗議しようとして諦めて嘆息した後、口を開くスティナ。
「あーもうっ、どーせ私は乙女心とは無縁の野蛮無法なあくとーですわよーだ。……敵、まだ残ってるわよね」
カレリア国内に第十五騎士団の敵は、少なくとも表立ったものは残ってはいない。
ドーグラス元帥が亡くなり、国軍とは比較的友好な関係を築けており、最大の敵は失われている。残るは有象無象の類であろう。だが、スティナが敢えてそう言うということはまだ敵はいるのだ。
イェルケルが心当たりを口にする。
「ケネト子爵か?」
「そ。一応、みんなの意見を聞いておきたいのよね。アレ、完全にこっちとやり合う気無くしてるわ。私が調べただけでもちょっと凄いわよアイツ」
レアの実家のワイン取引にちょっかいを出し、イェルケルの屋敷の御用商人と新たに取引をし、執事が普段使っているワイン商にまで接触しており、とりあえず手を出せそうな所は片っ端から手を付けてある。これらは全て、イェルケルたちにケネト子爵が利益を供与できるようにするための下準備だ。
もちろんそれだけではなく、ケネト子爵は貴族派から完全に王家側へと鞍替えを決めており、これまで絶対に認めなかった王家の領地への介入を快く受け入れその運営を任せているそうな。
そんな真似をすれば自身に近しい派閥から反発を受けるものだが、彼らに対しても粘り強く交渉を重ね、戦の敗北により貴族派が弱体化し趨勢が定まってきた中、王家に協力しこれへ接近せんとする貴族たちをまとめ上げているらしい。
王家の主はアンセルミ国王だ。中途半端なすり寄りなぞ歯牙にもかけぬのだが、その国王が認めるほどの条件をすりよってきた貴族派から引き出しており、その交渉能力や調整能力をアンセルミ国王に認められるほどであるとか。
アイリ、レア、イェルケル、三人共が絶句する。
優秀な貴族だとは聞いていたが、まさかここまでできるほどとは誰も思っていなかったのだ。そしてこうまで思い切り良く敵から味方へ転身するとも。
こうなってくると、アジルバ陥落の後からずっとひらりひらりと逃れ続けてきたのも、彼の狙った通りなのではとすら思えてくる。
こうなってしまっては最早ケネト子爵を敵とみなすのは難しいであろう。
ぼやくようにスティナが言う。
「アレがこっち側にいると、陛下にとって有益なのよね、もう。そりゃね、今更尻尾ふってくる貴族なんて皆殺しでも構わないんだろうけど、だからって殺さないで済むんならそりゃそっちを選ぶわよ。多分、もう少ししたら私たちにとってもいるだけで有益な存在になるわよ。いやぁ、貴族の本気、なめてたわ私も。アイツ、ケネト子爵、本当に凄い男だわ」
スティナは脱帽だと両手を広げる。そして、笑い、言った。
「で、殺す?」
それは、それまでの話の流れから殺すのをやめよう、という言い方ではない。そういう殺しづらい状況だけど殺そう、という殺意に満ちた問いかけである。
こんな顔をするから殺し屋扱いされるのだろうが、当人それがわかっていてもやめるつもりはないらしい。
アイリとレアが揃ってイェルケルを見る。さしもの二人にも判断しきれないようだ。
イェルケルは、頬をかきながら答えた。
「殺す理由は無くなった、そういう話だろう? それに、ここまでした相手を斬ったらもう私たちに降ってくる者はいなくなってしまうだろうに」
そのイェルケルの一言で、ケネト子爵への攻撃は中止になったのである。
スティナは、抗議はしなかった。
ケネト子爵のなりふり構わぬその動きの根底にあるのは、第十五騎士団への恐怖だとスティナにはわかっていた。
アルハンゲリスクとの戦で捕らえたニクラス・ヤーデルードと同じであろう。理屈ではないところで、決して逆らってはならぬと心に刻まれてしまったのだ。
もう生涯二度と、こちらには逆らえぬだろう。きっとケネト子爵にとって第十五騎士団は、何か不都合なことをしでかした次の瞬間には目の前に現れるような、神話に出てくる悪霊そのものと思われていることだろう。
試すつもりもないが、跪いて靴をなめろといえば平気でそうしてきそうな、そんな気配すら感じられるようになったのだから、イェルケルとアイリがいいと言うのなら、スティナももうこれで良いか、と思ったのだ。
王都の警邏を預かるヘンリク・フルスティはその気さくすぎる人柄と盗賊の頭にしか見えないいかつい顔つきのせいで、あまり貴族とは見られない人物である。
当人もそれをわかっていて敢えて貴族らしからぬ粗野な態度や口調で他人と接しており、それと知らぬ者はその大半が衛兵の隊長さん程度にしか考えず、これにより平民との気安い接触を可能としていた。
それを続けていた結果、そちらが当人の素になってしまったようなのだが。
そのヘンリクは、王都でも十本の指に入る超危険人物より昼食の誘いを受け、心底嫌だったが断ることもできず、仕方なく招かれた貴族用宿の一室にて貴族基準からすれば大してうまくもない昼食を取らされていた。
ヘンリクが座る椅子の対面には、スティナ・アルムグレーンが座る。
強面のヘンリクと美女スティナとが向かい合って座っている様は最早犯罪の匂いしか漂ってこないが、実際は犯罪被害に今にも遭いそうなのはヘンリクの方である。
仏頂面のまま、ヘンリクはスティナに言った。
「アイリ・フォルシウスに伝えてくれ。イルマリ・スオラハティの件は、見逃してくれて感謝していると」
「ええ。少しは改心したの?」
「スオラハティ家が動いたからな。悪い友達は皆二度とイルマリには近寄らんだろうよ」
「おお、怖い怖い」
胡散臭そうな顔でスティナを見るヘンリク。
「アイリ・フォルシウスはあれでわかりやすく恐ろしい人物だが、アンタはアンタで他のなんとも比較し難い恐ろしさがあるな」
「見た目で言うんなら貴方の方が余程怖いわよ」
「見た目は人をとって食ったりはしないだろう。アンタといつまでも世間話する程度胸は良くない、さっさと本題に入ってくれ」
「はいはい、嫌われたものねぇ。ウチをまだ恨んでる馬鹿、いる?」
「恨んでる奴なら星の数ほど。それを愚痴る以上の行動に移す馬鹿は、俺にも心当たりはないな。赤い刃の残党が動いている、という噂を聞いたが真偽はわからん」
「あら、知ってるのね。それなら話は早いわ」
スティナが合図を出すと、部屋にもう一人男が入ってきた。
ヘンリクは彼の顔を見知っていた。
「マルコ? 客引きのマルコかお前……は、ははっ、なるほどな。目の付け所は悪くない。だがマルコ、お前さんが誰かの下につくたぁ意外だったぜ」
王都における客引きの元締めの一人、マルコはヘンリクの言葉に苦い顔をしながら席に座る。
「……俺はなあ、コイツに殺されかけたんだよ。お前も一度コイツに殺意向けられてみろ、意地もクソもみんなふっ飛ぶからよ」
「ああ、なるほど。お前も馬鹿の一人だったか。命があるだけ良かったじゃないか」
「俺はたまたまこの女に目をつけられただけだ! 俺を初めて見た時この女なんて言ったかわかるか!? 『まあアンタでもいいか』だぞ! でもいいかで無茶苦茶な殺され方しそうになった俺の気持ちがおめーにわかるかチクショウ!」
非難めいた視線をスティナに送るヘンリク。スティナ・アルムグレーンの武名を知っていながらこうできるのだから、ヘンリク・フルスティの豪胆さがわかろうものだ。
てへっと舌を出すスティナ。もちろん、スティナほどの美人がそうしようともヘンリクは動じたりはしない。
「あー、なるほど。コイツ、アイリ・フォルシウスよりタチが悪いのか。……不運だったなマルコ。悪いが警邏はコイツには手出しできんからな、何かあっても自分でなんとかしろよ」
「それが王都警邏責任者の台詞か!?」
「コイツら相手にするには純粋に戦力が足りないんだよ、そのぐらいわかれ」
「……あっ、はい。そっすね」
非難めいた視線をヘンリクに送るスティナ。
「せっかく女の子が可愛らしく振る舞ってるんだから、少しぐらい反応してくれてもいいんじゃないかしら?」
「そういうのはアンタの主にでもしてみせるんだな。あの方と女で争うほど命知らずじゃない」
「あはは、無理無理。殿下には色気だの可愛げだのは全く通用しないわよ。でもなきゃ私たち三人率いるなんてできるわけないでしょ」
ぼやくように口を挟むマルコ。
「王族ってな随分と贅沢な生き物だな。もしかして男が好みか?」
「あはははははは、それ言ったらものすごく怒るから殿下の前では控えた方がいいわね」
「うっ、気を付ける。……いやまあ俺が王弟殿下の前に立つなんて機会絶対にありえねえけどさ」
ヘンリクはことさらに大きく机の上を指先で叩く。
「で、マルコがいるってことは、コイツが何か情報でも持ってきたって話か?」
客引きの元締めをやっているマルコは、その仕事柄、王都の人の出入りに敏感で誰よりも早くこれを知ることができるのだ。
そのマルコを王都警邏の責任者であるヘンリクと同席させたということは、王都の治安に問題が生じるような人物がこの街に来たということだろう。もちろん一番の問題児は今ヘンリクの目の前にいる女だが。
スティナは肩をすくめて本題に入る。
「そ。赤い刃の残党が、各地に散っていた殺し屋を王都に集めてる、んだと思う」
「なんだよその頼りない語尾は」
「マルコ曰く、複数の殺し屋が王都に入ったのは間違いないそうよ。ただ、それがどれぐらいの腕前かはマルコじゃわからない、と。腕前で判断できない以上、それがどこの殺し屋かは判別しきれないって話。で」
そこで一度言葉を切った後、一気に自分の希望を告げきるスティナ。
「居場所と人数と調べてあるからそっちで処理してくれないかしら?」
「ほう、アイリ・フォルシウスとは違うんだな。アイツはこっちに一言も無しで全部自分でやっちまうぞ」
「あの子、警邏馬鹿にしてるから。ああ、もちろんそれなりに敬意は払ってるわよ。ただ、警邏を荒事に放り込んだら死人が出ると思ってるし、それなら自分がやれば損害も無いし効率的だって考えるのよ」
「……そりゃ、ご親切なこって」
「信じないんなら勝手にすればいいわ。で、私は他人に振れる仕事なら振っちゃう派なの。死人が出るのも警邏の仕事の内でしょう?」
おいおい、とマルコが割って入る。
「喧嘩腰は勘弁してくれよ。なあ、ヘンリクの旦那。こっちで殺し屋の居場所は掴んでるし、なんなら襲撃の手引きをしてもいい。だから連中の逮捕、頼めねえか?」
「……とても善良とは言い難い相手であろうと、民からの通報があるというのなら警邏が動くに十分な理由にはなる。今日か?」
「ああ、連中夜には移動する。悪いが連中の目的はまだ探れてねえ。なんで逮捕の理由はそっちで考えてくれ」
今はちょうど昼過ぎだ。
「支度に二時間は見てくれ。改めて聞くが、これは第十五騎士団からの要請ってことでいいんだな?」
一瞬、渋い顔を見せるがスティナはすぐにこれを取り繕って答える。
「いいわよ、殿下には私から報告上げておく。連中の目的、貴方には予想つく?」
「マルコにバレる程度の動きしかできねえってんなら、ソイツらで第十五騎士団に報復しようって線は薄いだろうよ。どっかの誰かさんが殺し担当を皆殺してくれたせいで、仕事が滞っちまったんで他所から助っ人呼んだって話だろ」
「この情勢下でよくもまあ。相当叩かれたって話じゃなかったかしら?」
「赤い刃の息の根は止まったさ。今残ってるのは、名前だけ使ってる関係者ってところだ。おいマルコ、その場所だが……」
そこからマルコとヘンリクの間で具体的な襲撃計画の話になると、スティナは特にすることもなくなる。
元々、マルコが殺し屋を見つけたのはいいが、これを直接ヘンリクに持っていったところで絶対に信用してもらえないからスティナを通したのだ。
スティナやアイリの戦闘力を警戒はしているが、新王との関係も良好と言われている第十五騎士団をヘンリクは信用に値すると考えており、そこからもたらされた情報もまた同様である。
そちらの話が一段落したところで、スティナはもう一つの目的をヘンリクに告げる。
「ねえ、ヘンリク・フルスティ。私しばらく王都空けることになるから、マルコのこと気にかけていてほしいのよ。法を曲げろとまでは言わないけど、何かあったら相談に乗るぐらいはしてやってくれないかしら」
マルコが目を丸くしている。これはマルコとも話し合いが済んでいる内容ではない模様。
ヘンリクは眉根に皺を寄せ問い返す。
「コイツは何かアンタの秘密でも握っているのか?」
全力で首を横に振るマルコ。苦笑するスティナ。
「役に立つのよ、マルコって。だから簡単に死んでほしくないの。だめ、かしら?」
「俺も利用していいって話だよな?」
「もちろん、こき使ってやってくれて構わないわよー」
「いいだろう。……マルコ、お前の方はそれでいいのか?」
「あー、あ? いや、ちょっとびっくりしすぎてな。なあスティナ、アンタって他人のこと考えることもあるんだな。あまりに意外過ぎて裏をかんぐる余裕もなくなっちまったわ」
「よしわかったそこへなおれ」
「まてまてまてまて、せっかく良い奴っぽい話になってんだから暴力はやめれ」
実際にはそれほど怒っていないのか、スティナはすぐに矛を収める。そして軽快に席を立つ。
「じゃ、後は任せるわよヘンリク。マルコ、良い子にしてなさいよ」
そのまま颯爽と部屋を出ていった。二人は、用心のためかしばらく無言で足音が遠ざかるのを確かめた後で、口を開く。まずはヘンリクから。
「で、信じたか? お前はあれを」
「まさか。だが、どれだけ考えてもアレが俺を気に掛ける理由が思い当たらねえ。俺は確かに客引きの元締めだが代替えは利く存在だ。ましてやアイツはあの、第十五騎士団なんだぜ。アンタには理由がわかるか?」
「さっぱりわからん。深慮遠謀って奴と、何せ俺は縁が無くてな。まあ、第十五騎士団からの正式な要請だ。無下にはできんし、お前が俺のために働いてくれるというのなら、こちらとしては言うことはない」
「……俺を、信じるのか?」
「裏切りたければそうしてもいいぞ? 第十五騎士団からの要請は、被保護者であるお前にも向けられているけどな」
「けっ、わーかってるっての。まずは殺し屋だ、よろしく頼むぜ旦那」
スティナがマルコにヘンリクを紹介したのは、十割中九割五分までが下心ない親切であったのだが、これをそのまま信用してもらうにはこれまでやらかしすぎていたようだ。
アンセルミ国王は、王城内で最も自分が寛げる落ち着いた雰囲気の応接室で、お気に入りのソファーに腰かけ笑っている。
その正面のソファーには、アンセルミの弟であるイェルケルが座っている。
イェルケルがアンセルミに語るのは、つい先日の騎士軍とイジョラ魔法兵団の戦の話だ。
アンセルミ王個人に対しては、どうやらイェルケルは隠し事をするつもりはないようで、自分たちが戦に加わって大暴れした話を既にしてあった。王としてのアンセルミや王の側近に対してはあくまで謎の山の民で通すつもりであるが。
王の立場を考えるに、イェルケルのような真似をする者が王の側にいると皆に知られるのはよろしくない、そう考えてのイェルケルなりの配慮というやつであろうが、そのつもりならば王にすらこれを伝えるべきではない。その辺の徹底しきれないところがなんとも未熟で、アンセルミには微笑ましく思えるのだ。
そして戦の話だ。
イェルケルは、王に対してではなく兄に対してそうするように、お互いの立場も何もなく、起こった面白いことを愉快に語り、そしてアンセルミもお互いのあるべき姿なんてものには一切言及せぬまま、ただ面白い話を聞いて遠慮なく笑っている。
アンセルミは笑いながら言う。
「お、お前、それでよく兵士たちが逃げることに納得したな。その者たちは戦で手柄を挙げるために参戦していたのだろう?」
「私はきちんと説得するつもりだったのですが、アイリとスティナが、面倒だからと二人で並んで睨み付けまして……まったく、アイツらときたら」
仰け反るほどに大きく笑うアンセルミ。
イェルケルはぼやくように続ける。
「せめても隊長はシルヴィの足手まといになりたくないから、と快くこれを受け入れてくれましたから良かったですけど。アイツらとりあえず脅せばいいと思ってるうえに、大抵の場合それが最適解になっているんですから、真面目に考えてるこちらが馬鹿らしくなってきますよ」
「話を聞く限りでは暴君そのものだが、きっと状況によって脅しとそれ以外とを使い分けているのだろうよ。でもなくば最適解をそうたやすく引き出せはすまい。その辺イェルケルも汲んでやらねばな」
「うぐっ、耳が痛いです。明らかに自分より能力が上の相手を配下に従えるというのは、どうにも難しいです。陛下はその辺上手くやっていそうですけど」
「それができねば王なんて仕事はやってられん。イェルケル、立場の違いとそこから生じるやるべきことの違いというものは、自分がきちんと自覚せねば一生わからぬままだぞ。お前はなぁ、そういう所がまだ甘いぞ。あー、お前がイジョラに行くなんて言い出さなければ、私が適当な領地でそういった手法を学べるようしてやったものを」
「陛下はすーぐ私を内政に引っ張り込もうとしますよね。私はっ、武官希望なんですよっ」
「そーれがわからんっ。内政の方が面白いだろう。こんなこと言ったらターヴィたちにどやされるかもしれんが、武の領域とは突き詰めれば壊すことが目的だろう? その生産性の無さは、正直私はあまり好ましいものと思えんのだよなぁ」
「待ってください、それは私も言いたい。あんな机にかじりついて書類をめくってるような仕事、どーこが面白いんですかっ」
「ええい、あの書類の奥に広がる人や土地や作業を見ぬか。自分が工夫し知恵を絞った結果が着実に効果を表していくあの瞬間、整っていく土地、成果を上げていく人材たち、ああ、自分はこのためにこの世に生を受けたのだなと思える充実感を、どーして武官は理解しようとせんのか」
「それを言うんでしたら、戦地にて戦友と共に肩を並べ死地を行く時の、あの照れくさいような誇らしいようなえもいわれぬ感覚を、是非とも陛下にも知ってもらいたいですよ。コイツの隣でなら次の瞬間死んでもいいか、なんて思えるほどの何かがあるんですって」
「む、むむむ、それは、確かに、興味を惹かれる部分は、ある。あるが、うん、お前わかってて言ってるだろ」
「あはははは、まあ、陛下は無理ですね。ていうか絶対やっちゃ駄目ですよ」
「お前っ! そこまで言っておいてその結論か!」
辣腕を謳われる王と国一番の武勲を誇る王弟とはとても思えない会話だ。自分の立場を考えれば、他所では絶対に口にできない本音をまるで躊躇なく吐き出し合っているのだから。
アンセルミもイェルケルも、二人だけの時はどうしてそんな脇の甘い真似ができるのか自問したことがある。
血の繋がった兄弟だから、理想とする目標が似ているから、倫理規範が同じだから、共に母が前王の犠牲者だから、等々色々と思いつくが、アンセルミもイェルケルもこの疑問の結論を出すことを急いだりはしなかった。
ウマが合った。そんな理由一つあればいいんじゃないかと思えたのだ。それだけでこんなにも楽しい時間が過ごせる相手が得られるというのなら、それはとても夢のある話であろうから。
ケネト子爵は寝ていたベッドから勢いよく身を起こす。
全身汗だくで、顔は強張ったまま。荒い息を漏らしていると、隣に寝ていた十歳ほどの少女が気づかわし気にケネトを見上げる。
だが少女は声を掛けることはしない。ケネト子爵がこうやって夜中に目を覚ますのはよくあることで、そういった時に変に気遣ったりすると逆に怒られてしまうからだ。
じっとケネト子爵が落ち着くのを待って、少女はベッドの横のテーブルからタオルを取り、手渡す。
乱暴にこれを受け取ったケネト子爵は、汗を拭いた後少女の手を引きベッドの上に組み伏せる。
少女は思った。今日は子爵様元気みたいで良かった、と。
子爵の寵を受けられた回数に応じて、少女のその日の食事内容は変わることになっている。
一日に二回というのは滅多にないことで、その日の朝食はとても豪勢なものとなっており、少女はとても嬉しそうにこれを口にする。
子爵に引き取られてから、最初のうちは痛いのと恐ろしいので毎日震えていたものだが、言うことを聞いてさえいれば子爵も屋敷の人間も決して少女を無体には扱わないので、過ごし方を覚えた後は少女はとても幸福な時間を過ごせていると思えるようになった。
屋敷には他にも同じ年頃の少女がいる。彼女たちは人によって条件が違っている。寵の回数ではなく、芸を覚えた分だけ食事が良くなる娘もいれば、勉強ができた分だけ食事が良くなる娘もいるし、何をしても絶対良い食事をもらえない娘もいる。最後の娘は本当に可哀そうであるが、それを口にして子爵や屋敷の人の機嫌を損ねるのが怖いので少女は何も言ったことはない。
食事が終わると、少女は屋敷にいる医者のもとへと向かう。
医者は余計なことは何も言わず、淡々と少女の治療を行なう。昨日は回数が多かったせいか、治療も時間がかかっている。この時の、薬独特の匂いと、熱を持った肌に布が当たってひんやりとする瞬間が、少女は大好きであった。怪我をしても治してもらえる、自分が大切にされている、と思えるから。
治療が終わった少女は、部屋から出てそこからは自由時間となる。屋敷の敷地の外に出るのは許されていないが、大きな庭で遊ぶのは許可されているので、友達を誘って木登りをしようと廊下を歩く。
正面から、見たことのない女の子が来た。
少女よりほんの少し年上に見える。子爵がまた新しい娘を連れてきたかと思った。だが、少女はその女の子がとても気になった。
とても綺麗な子だ。だがそれよりも何よりも、その目が印象に残った。
どういう目だろうか、自分でそれを言葉にできず首をかしげる。女の子が目の前に来た時、ようやくわかった。
『ああ、えらそうなんだ』
その偉そうな女の子は、少女の前で足を止めて問うた。
「ケネト子爵はどこにいる?」
少女よりほんの少し年が上、なのにとっても偉そうなのがどこかおかしくて、少女は笑みを見せながら答える。
「今日は二階のお部屋でごはん食べるって」
「そうか、邪魔をしたな」
ケネト子爵は、例えば少女に溺れている時、執務に専念している時は、その恐怖を忘れることができる。
だが、ある時不意に、立っているのも覚束なくなるほどの恐怖が襲ってくる。
長年の盟友であり、誰よりもその恐ろしさを知っていたバルトサール侯爵を、一人の損失も出さず完璧に殺してみせた化け物たち。
バルトサール侯爵の力を熟知していたからこそ、ケネト子爵はカレリア貴族の誰よりも先に第十五騎士団の恐ろしさを認知したのだ。
その後も、この認識を裏付けるような事件が続く。そして彼らがケネト子爵に対し恨みを捨てていないこともわかった。
行動を開始してからの自分をケネト子爵は、まるで生前のバルトサール侯爵が乗り移ったかのようだ、と思った。あの精力的な行動力と先の先を見据え数多の手を打っておく手腕を、憧れと嫉妬交じりの視線でケネト子爵は見ていたものだ。
かつての盟友が死者の国より、お前は生きろと力を貸してくれているようで、そうやって精力的に動ける自分をケネトはとても気に入っていた。
当人が死ぬなりさっさと鞍替えして侯爵の残した親族全てを見捨てた男の考えて良いことではなかろうが、彼はそうした自分に都合の良い話を心の底から信じることで自らの心の平穏を保つことができる男である。
絶対に防げぬ殺し屋なんてものに狙われている自覚がありながら、今まで気も狂わず生活してこられたのはこうした彼の自己保全能力故だろう。
だが、そんな危うい均衡を保っていたケネト子爵の精神は、たった一つ、いつもの光景に加わるだけで脆くも崩れ去ろうとしていた。
「久しいな、ケネト子爵。こうして直接顔を合わせるのは随分と久方ぶりであろう」
子爵は自室にて朝食を取り、そのまま書斎に入り、今日外でする仕事内容を整理しようとしていた。
その書斎のケネト子爵愛用の大椅子に、何度も見た悪夢の象徴、アイリ・フォルシウスが座っていたのだ。
アイリは身分で言うならば騎士でしかなく、子爵の位を持っているケネト子爵からすれば、このような無礼断じて許せるものではないだろう。
だが、アイリもケネト子爵もわかっている。これは、そういう話ではないのだと。
アイリは椅子に腰を深く落とした、まるで戦闘だのを感じさせぬ寛ぎきった姿勢で言う。
「その顔は色々と理解が及んでいる顔だな。結構、結構。面倒なのは私も好かんでな。王都にいた傭兵団だかは、自分の立場がまるで理解できておらぬ愚か者ばかりであったわ。子爵のように、きちんと彼我の戦力差を理解したうえで対応してくれるとこちらとしても快いものだ」
ケネト子爵は言葉を返すことができない。悪夢を何度も見た。だが、朝起きて自分に問えばそれがただの夢であるとわかる内容ばかり。突然枕元に立っているだの、噂をした途端目の前に現れるだのと現実とはとても思えぬ夢を見て怯え震え、そして夢であったかと安堵する。してきた。だが、これは、夢では、ない。
屋敷の誰も騒いではいない。当たり前のいつもの朝に、誰にも気付かれずケネト子爵の書斎の椅子に、アイリ・フォルシウスは堂々と座っているのだ。
そしてこの距離で遭遇してしまえば、もう、どうすることもできない。ケネト子爵が何をするより早く、アイリ・フォルシウスの刃はケネト子爵に届くのだ。
全身が恐怖に硬直したまま、ケネト子爵はアイリをじっと見る。それしか、できない。対するアイリはというと、随分と気安い調子であった。
「いやな、我ら第十五騎士団の総意としては、だ。ケネト子爵は生かしておくべしとなったのだ。これはもう、見事の一言よな。貴様が生きている方が、我らにも、陛下にとっても有用であると証明してみせたのだ。正直、我らに対してそうするのはそれほど難しいことではないと思うが、まさか陛下にとっても有用である、有益である存在にまでなりうるとはな。スティナからは、天晴、の一言をもらっておる」
ケネト子爵の考えていた話とは、何やら違う方向に話が進んでいく。完全に硬直していた表情が、不可解そうな、怪訝そうなものへと変わっていく。
一応聞くが、とアイリは問う。
「ケネト子爵、おぬしはもう我らに敵対する意思は無いのであろう?」
どうやら話をする猶予を与えられたようだ、とわかるとケネト子爵は勢い込んで口を開く。
「も、もちろんですとも! 私は……」
自分がいかに有用か、そしてこれからいかに役立っていくつもりかの展望を語る。第十五騎士団がこの後イジョラに行くつもりであることも掴んでいて、そのための後方支援に関する構想は、聞いているアイリが思わず唸ってしまうほど見事なものであった。
うんうん、と頷くアイリ。
「なあケネト子爵よ。私も今ではもう、それほどお主を恨んではおらぬ。かつては我が人生の全てを賭してでも討ち滅ぼしてやらんと考えていたものだが、時間が経つというのは、こういうことなのであろうな」
「おおっ! お許しいただけるか!?」
「いいや、それでも私はお前を殺そうと思う」
いきなりすぎる話の展開に、その場でつんのめってしまいそうになるケネト子爵。
アイリは昔を懐かしむように目を細める。
「昔はな、お主がどうして生きていられるのか、お主のような下衆をどうして誰も罰さないのか、不思議でならなかったものだ。だがそれは、今回のこれでまあ極端ではあるにしても、私にも理解できたのだよ。治安組織にとって有益な存在であれば、その有益度が害を越えない限り、それがたとえ法を逸脱した行為であろうと認められる、そういう話であろう?」
少し口の端を曲げ、アイリは言葉を続ける。
「納得のいかぬ話ではあるが理解はできる。お主はきっとその害と益の調整が上手いのであろう。さすがに他所の貴族がお主と同じことをすれば、なにがしかの不利益を被ることになろうからな」
まだ年端もいかぬ少女を夜伽の相手として複数侍らせる、なんて真似を何年もし続けておきながら宮廷において悪評の一つも上がらないというのだから、その立ち回りは大したものなのであろう。
「私も、私たちも、お前を積極的に殺す理由は失われた。なあ、ならば、昔、貴様を討ち滅ぼすと決めた私の誓いは、どうなってしまうのだろうな」
椅子より立ち上がるアイリ。その挙動は明確な転換点である。書斎内の空気が、重苦しいものへと変わっていく。
「きっと、私以外にも私がいたのだろうな。貴様の非道にその身を焦がさんほどの憤怒を抱き、復讐を誓い果たせず散っていった私ならぬ私が。そんな者たちの無念は、どうなってしまうのだろうな」
屋敷の内にいる少女の数、六人。それらを全てアイリは確認してあった。
「恐怖に怯え全力で逃げ惑う日々の中にあっても、お前は所業を改めることはなかった。ならばきっと、ここでお前を許せば、また新たな私を生み出すことにもなろう。なあ、ケネト子爵。お前は、どうして自らを改めることができなかったのだ」
ひぃ、と小さく悲鳴を上げケネト子爵は身を翻す。それが無駄であるとわかっていても、この殺意に面と向かっているよりはマシであったのだろう。
部屋に満ちた殺気は失われぬままに、アイリは苦笑してみせた。
「などと偉そうなことを並べ立ててはみたものの。結局のところ……」
走るケネト子爵の脇を、ゆっくりと歩み進み抜ける。
「私は、貴様のような外道がこの世で息をしているのが、気に食わなかっただけなのかもしれないな。我ながら、これではスティナを笑えぬわ」
ごろりと、ケネト子爵の首が床に落ちる。
「後少し時間があれば、貴様を殺せばこちらも致命的なことになるような状況をすら立ち上げられただろうがな。今ならまだ貴様を殺したところで、損失で見るのなら容易く飲み込める程度だ。我らも、陛下もな。まったく、武の領域に生きる者とはまるで別種の、しかし恐るべき相手であったわ」
きっとケネト子爵を殺したことで、損害を被る多数の人間がいることだろう。近いところでいくと、子爵がかこっていた少女たちは尊厳と引き換えに享受していた豊かな生活を失うことになろう。
ただ、アイリはそこに罪悪感を持ったりはしない。彼女たちが豊かな生活を送れないのは、実に公平な話であるのだから。
為すべきは為した。最早この屋敷に用はない。
アイリは部屋を出て廊下を歩く。廊下の窓から外を見ると、少女たちが三人遊んでいるのが見えた。
うちの一人、先程アイリとすれ違った少女が、何やらその時とは違った様子で歩いている。それを見て二人の少女が笑い転げている。
微笑ましい、と思って見ていたが、少し考え、アイリも気づいた。あの少女の歩き方はアイリのそれを真似したものであろうと。
アイリの歩き方をよりいかつい感じに、偉そうな雰囲気にした歩き方である。彼女にはアイリの歩き方はああ見えていたと思うと、アイリは苦笑するしかない。
それでも、それは不快さを伴うものではなく。
ケネト子爵の下、信じられぬようなヒドイ目に遭わされていながら、ああまで子供らしく笑える。そのことがとても、アイリには喜ばしいことだと思えたのだ。
アイリはケネト子爵の屋敷を出る。少しして屋敷から悲鳴が聞こえてきたが無視である。いわゆる体裁とやらはきちんと整えてから来たので。
ただその体裁を整えるのに協力を願ったのはイェルケルのみであったので、帰り道にスティナが待ち構えていたことに少し驚く。
「……む、敢えて言うまでもないと思っておったのだが。気付かれるものだな」
「何年付き合ってると思ってるのよ」
付き合いが長いからこそ、アイリがこれを隠そうとしていたわけではなく、単純に事後承諾で十分だと思っていただけなのもわかっている。
ふん、と鼻を鳴らすアイリ。
腹の内を読まれているというのに不快感はなく、むしろ心地よさを感じてしまうのが、その相手が悪党スティナであることが、ちょっと悔しくて表情を険しくしてみる。
そんな心の機微もまたスティナに読まれていたりするのだが。
「あいっかわらず可愛くないわねぇ。ほら、もうちょっとかわいーくしなさい、かわいく」
そう言ってアイリの頬を指先で掴んでぐいーと伸ばす。こういうことをスティナがする相手は、極々限られている。
「ひゃめろばかもろっ」
頬を引っ張られていたせいで、自分が思ってもみない言葉になってしまい、思わず赤面するアイリ。
「あ、今のはちょっと可愛いかも」
「やかましいわ!」
スティナの手を払って怒鳴る。だがスティナはというとそうやって可愛がりするのが楽しいのか、並んで歩きながら顔を突いたり髪をいじったりしている。
アイリは煩わし気にしながらも、無理に止めたりはしない。
実に気に食わないことながら、スティナにそうされるのはそれほど悪い気はしないのだから。