122.シルヴィの戦争(後編)
シルヴィは驚きを隠せず。カープロが一言怒鳴ると、兵士たちが一斉にシルヴィへと襲い掛かってきた。
時折カープロとそれ以外の者の声が聞こえるのは、彼らが兵士たちに指示を出しているのだろう。
その指示の出し方が苛烈すぎる。
「身体に刃を突き立たせ、その隙に斬れ!」
「三人が並んで飛び込み、一人二人が斬られても残る一人が斬り返せ!」
「人壁を維持できぬとなれば、噴き出す血飛沫で我らを隠せ!」
こんな命令聞く者なぞおるまい、といった内容ばかりであるが、兵士たちは全員が命令に従い馬鹿正直に言われたままに動く。
その戦い方は最早兵士のそれではない。巣穴を攻められた無数の蜂のようで、巣のために文字通り命を盾に遮二無二突っ込んでくる。
とはいえ。シルヴィの矛の前に、身体に刃を突き立てればその身体は千切れ飛び、三人が並んで飛び込んだところで三人まとめて斬り倒され、血飛沫なぞは矛の一閃で容易く霧散する。
ただ全くの無駄ではない。その証拠にシルヴィは兵たちの後ろを走るカープロと弟子二人の位置の把握が難しくなっている。
あくまで難しい、であって位置はわかっているのだが。敵は魔法使い、戦の最中その居場所を見失うなぞあってはならない。
シルヴィが三人を見失っている、と敵が勘違いしてくれればもう少し楽なのだろうが、敵は常に移動を続けつつシルヴィの知覚範囲より逃れようとし続ける。
シルヴィが敵の位置を認識しているかどうか、どうやって判別したものかシルヴィにはわからないのだが、カープロたち三人は三人共が不用意な動きはしてこない。
これは偶然か。確かめるつもりでシルヴィは眼前の兵士の腕を真下から斬り上げる。
腕ごと剣が宙を舞う。腕がくっついたままの剣を飛び上がって片手で掴みつつ、肘から先のみの動きで弟子の一人へと放り投げる。
腕を斬り飛ばす動きからこれを掴んで投擲するまでの時間を極力短くするよう動いたのだが、弟子はシルヴィの動きに完璧に反応していた。
避けるか、と思ったのだが、弟子が詠唱を唱えると生じた不可視の壁により剣は音高く弾かれてしまった。
突然のシルヴィの動きにも、弟子は戸惑った様子はない。自身の位置をシルヴィに見抜かれていることが、彼にとっては意外ではなかったのだ。
これまでの魔法使いたちも兵士を使い捨ての盾にしていたが、この三人はそれをより極端にした形だ。
ここまで行くと戦闘終了までに全ての兵士を殺しきるのが目的なのではとすら思えてくる。
実際、カープロたちにとってこの兵士は全てこの場限りのものであり、残しておいたところで三人に利益は一切ない。
ならばほんの僅かでも勝率を上げるためにできることはなんでもやらせ、戦闘終了までに全て使い潰す方が三人にとっては効率の良いやり方であろう。
そして遂に、三人からの魔法攻撃が始まる。
飛礫に近い。石だか岩だかが殺到する兵士の頭上を越えシルヴィを狙ってくる。当たり前に放物線を描く程度の速度であり、シルヴィがこれに反応するのもそう難しくはない。こういう時、長身故に襲い来る兵士より高い視点でものを見れるのは便利である。
外れた石が兵士に当たる。鎧が砕け兵士がその場に蹲るのが見えたが、可哀想という気にはならなかった。石が当たっていなければこの兵士はシルヴィを斬ろうとしてくるのだからそれも仕方ないことであろう。
普段のシルヴィは、他人が傷つくのを好まない心優しい子だ。
だがこうして戦の最中になると、それが敵であるというのなら、幾ら傷つこうとどれだけヒドイ目に遭おうとさして心は動かない。
傍目には一方的にシルヴィが敵を殺しているだけに見えるが、シルヴィからすれば敵もまた全力をもってシルヴィを殺そうとしており、シルヴィの方が敵を殺せているのはただ単にシルヴィの方が強いからであって、その強さからしてシルヴィは時折隊長に愚痴ってしまうぐらいキツイ鍛錬の賜物である。
どれだけ虐殺に見える戦であろうとも、少なくともシルヴィにとっては公平で公正な基準のもと下された天の裁定である、と思えるのだ。
逃げ惑う盗賊を追いかけ殺して回った時はさすがに心にクルものがあったシルヴィだが、こうした戦においては恥じるべき何物をも持ち合わせてはいない。
人波を薙ぎ払い、人垣を突き崩し、時々邪魔者を蹴り飛ばしつつ、一対多の戦闘を成立させる。
剛勇、剛槍、剛腕を惜しげもなく振るいながら敵兵を蹴散らしつつ、シルヴィは三人の魔法使いの動向に注意を向ける。
ひっきりなしに位置を変えているのはシルヴィによる飛び込みを恐れているからか。剣を防いだあの魔法の壁も、その挙動を見る限り絶対的なものではないとわかる。
『当たった時の音が重かったから。多分、もうちょっと強くすれば抜ける、かな』
強固な壁に剣を叩き込んだ時のことをシルヴィは思い出し、そう考える。この魔法の壁を破れるかどうか、試す機会をなかなか与えられないのは、敵の動きが巧みであるせいだろう。
だが現状、シルヴィが後れを取るような要素はない。一番怖い魔法もシルヴィの反応速度で十分対応可能で、敵兵士の決死の特攻もまた殺されてやるほどではない。
兵士の壁が消えてなくなれば魔法使いが遮蔽とするものも周囲にはなく、おおよそこの敵集団を倒す目星はついた。
カープロは兵士に襲わせ、この恐るべき敵の能力を測った。
土壁を越え中に侵入しただけでも只者ならず、と考えられる相手だ。ましてやこの娘は、嘘か真か土壁を騎馬にて登ってきたと言われている。
そしてその警戒は正しかったとカープロは唸る。
案外にここの兵士たちは鍛えていたので、この勢いならば大抵の者は殺せてしまうだろう、そう思っていたのだが、この娘、シルヴィ・イソラはそれら雲霞の如く押し寄せる兵士たちを藪蚊を払うように容易く薙ぎ払っていく。
思わず魔法を疑ったカープロであるが、魔法が働いている様子は全く見られずこの剛勇は全てこの娘の力によるものだとわかると、先程譲られた素晴らしい騎馬のことも考えるに、或いは土壁を登ったというのも真実では、なんて気になってくる。
このカープロが感じたことを弟子たちはどう見ているか、と視線を向ける。
どちらの弟子も驚愕が顔と動きに出てしまっている。それを未熟とも思うが、最低限この敵の恐ろしさにはきちんと気付いているので及第点としてやる。
カープロが最も恐るべき敵と相対した時のように、極めて慎重な対応を取ると即座にこれに合わせてくる。さすがに今のカープロが直接見ている中では最も優秀な二人だ。
魔法とは才能だ。
生まれ持った魔法の才の大きさが物を言う世界であるが、魔法の種類は多岐に渡り、どの魔法が自分に向いているかを知りえる者は案外に少ないものだ。
故にこそ、画一的な教育ばかりの魔法兵団をカープロは馬鹿にしていたものだが、その最精鋭たるツールサスの剣はといえば、これが驚くべきことに優れた才能をその得意分野に特化させたという魔法使いを伸ばす方向としては、カープロの考える最も正しい選択を選んでいた。
これにはカープロも唸らざるをえない。弟子二人は認めたくないようだが、あの貴重で稀有な才能たちをあそこまで伸ばした魔法兵団の手腕は認めなければならないだろう。
ただそうした例があったとしても、魔法兵団は基本的に画一的に訓練を行うことで多数の魔法使いを同時に効率的に教育運用する、といった大目的に対して手段はブレたりしないので、カープロの理想とする個人に沿った教育とは相反するものであるのだが。
あれは逆に集団の中にあって才能がありすぎて目立ってしまった連中を、まとめて例外と規定した結果仕方なく生まれたものではないか、とカープロは考えている。
そこまで考えると、カープロは苦笑してしまう。
各人の個性をこそ大事にせねばと思うカープロが今回連れている弟子はといえば、どちらもカープロとほぼ才能の方向性が同じで、故に才の伸ばし方も結果出来上がった戦い方も三人がほぼ一緒というまるで魔法兵団のような有様になってしまっている。
逆に魔法兵団に見せつけられたのは個人の極みのようなツールサスの剣だ。なんとも皮肉なものだ、とカープロは思うのだ。
カープロ・ウイモネンは魔法の流派、派閥の一つを率いるほど魔法に優れており、また多数の弟子を抱え彼らの尊敬を勝ち取れるような優秀な人物である。
ことが魔法戦闘に関するものであれば、彼は探究のための労力は惜しまず、だからこそ無理を通してでも嫌っている軍隊に同行するなんて真似までしてきたのだ。魔法に関してならば、嫌う者の才を認める度量も持ち合わせている。
だが、やはり、誰からも認められる優れた者であるが故にこそ、傲慢さは各所に見え隠れしており、自らの得意とする分野以外においてはただの迷惑なクソオヤジでしかない。
戦争とは戦闘の一形態でしかない。戦争もまた戦闘である、ときっとカープロはこの従軍で考えを改める機会を得られたことだろう。少なくともカープロ・ウイモネンという男は、自身の探究するものに対してだけは誠実だ。
ただ今はまだ、戦争と戦闘とは別個のものであると考えているし、魔法兵団に代表される軍隊での魔法使いの育成方法は彼が考える優れた魔法使いを育てる方法とは全く相容れぬもので、これを忌避し唾棄しているのである。
殊更に兵士を使い捨てするような戦い方をするのも、ウイモネン派の、戦闘において手段を選ぶな、という主張をはっきりとした形で明示するといった目的の他に、軍隊への忌避感が表れているのだろう。それで殺される兵士たちはたまったものではないが。
ただもちろんこれは無駄な動きではない。兵士たちの決死の突撃は全て、その後の必殺の成功率を上げるため。そしてその決死の動きによりこの難敵を仕留められれば、逆に最終的な被害は減るだろうとカープロは考えている。
防ぐ、避ける、いずれにしてもこちらの攻撃を無効化するにはこちらの攻撃を認識していなければならない。
その認識を限りなく薄くしてやろう、というのがカープロの立ち回りの基本だ。
兵士の波に姿を隠し、居場所を絶えず移動することで特定を困難にし、その移動の仕方にも工夫を凝らし先読みができぬよう配慮する。
そして、本当の必殺魔法を隠すため、得意の魔法以外の魔法で敵を攻め続けこちらの手を誤解させる。
『よし、かかれい!』
カープロ、そして弟子の二人は三人が同時に、雷の魔法をシルヴィに向けて撃ち放った。
それを油断と呼ぶのは酷であろう。
兵士を使い捨てにするような戦い方、とは言ってもどの道シルヴィと兵士との武力の差を考えれば、こうした死を前提とした戦い方でも取らなければ絶対に勝算など見えてこない。
なればこそそれを不自然とまでは思わないし、そうした兵士を頼りにするのであればこの戦いを邪魔せぬような魔法の使い方をするのも理解できる話。
そして何より敵が巧みであったのは、カープロたちが必殺を狙った瞬間をシルヴィに悟られなかったことだ。
常人では間違いなく死ぬだろう非常識な乱戦を何度か経験しているシルヴィは、乱戦の最中、視界もロクに通らぬ場所にいる相手をすら感じ取る嗅覚のようなものが備わっていた。
どこの戦いでもそうだが、その敵からは目を離してはならないといった強者や全体を統括する指揮官といった存在がいるもので、そうした相手を見逃さぬよう戦い続けた結果備わった能力である。
その力は論理的なものとはとても言い難いものであり、戦を理詰めで考える者であればあるほど、シルヴィのこの能力を見誤る。だが、そんな非常識なシルヴィの能力をカープロは前提にして動いていた。
ここら辺は魔法使いとそうでない戦士の感性の差であろう。魔法使いにとっては視界の通らぬ場所を見る、といった感覚は案外と身近なものでありかつ戦闘では極めて有用とされる魔法なので、魔法を使わず魔法じみたことができると言われれば、これもまた当たり前に警戒するのだ。
三方より、全く同時に雷の魔法がシルヴィを襲う。
雷の魔法の速度は見てから反応するのはほぼ不可能だ。その上、多方から同時にとなればそもそも見ることすら叶わぬ。
雷自体も兵士の壁を貫いてくるもので、その軌跡を視認するなどありえない。
すなわち。放たれた瞬間、シルヴィが反応していなかった段階で最早、この命中を避ける手段は存在しなかったのだ。
三筋の雷撃がシルヴィの身体を貫いた。
それまでどうやっても刃が届かなかった、まるで神秘をすら感じさせるほどの動きが、その瞬間ぴたりと静止する。
死の象徴としか思えぬ手にした矛も、少しの間の後、ぽろりとその手から零れ落ちる。
雷の通り道になっていた兵士は皆が皆、雷の勢いに飛ばされるように前に倒れている。三方から撃ち込まれたシルヴィのみがまだ立ったままであったが、その身体は関節の関係で曲がりやすい前方へと崩れていく。
シルヴィの意識は、真っ白に染まっていた。
染まった、と認識できる白さだ。目が見えなくなっているのだが、暗くなった視界の中に無数の輝きが見え、それが視界いっぱいに広がっていったせいで今はもう真っ白であるのだ。
意識を埋めるのは、やられた、という口惜しさ。ほんの一瞬ではあるが、超高速で兵士たちを突き抜けてきた雷を視認することができていた。
シルヴィとて理解している。威力のある魔法を食らえばどれほど鍛えていようと死ぬだろうと。そんな魔法をまともにもらってしまったということを。
痛みはない。まだ。だが、全身が全く動いてくれない。このほんの僅かの間でも、シルヴィならば二度矛を振るえたはず。なのに身体はまるで言うことを聞いてくれない。
これが死ぬということか、と考えるとシルヴィは恐怖より先に、悔しさで頭が一杯になる。
『油断した、油断した、油断した、油断したっ。撃ってくるのはわかったんだから、すぐに動いていれば避けられたのに。油断、したっ!』
これで終わりというのが悔しくてならない。ここに至るまでシルヴィがどれほど苦しい思いをして鍛えてきたか。それを、証明しきる前に終わってしまうのが悔しくてならない。
これで本当に終わりなのかと自らに問う。
身体が動かない。そんな経験は、これまでに何度もあったではないかと。
その中で最も厳しかった時を、シルヴィは思い出していた。
シルヴィ・イソラは鍛えに鍛えたその身体を、試す機会に恵まれなかった。
一度だけあったシルヴィですら厳しいと思えた戦い、とても恐ろしい思いをした百人の盗賊退治であったが、これにしたところで今から思えばシルヴィの力ならば余裕をもってこなせた戦いであったし、苦戦し恐ろしい思いをしたのはただそれがシルヴィにとって初めての戦であったせいだ。
単騎で百人を斬るなんて無理だろう、と思っていたのもある。実際やってみたら案外いけるものであったが。
むしろ途中からは悲鳴を上げて逃げ惑う盗賊たちの背中を刺して殺していくのがキツかったぐらいだ。非道卑劣な賊であると自分に言い聞かせはしたものの、必死に逃げる彼らが哀れに思えてならなかったものだ。
身体的な辛さであれば、一番であったのはシルヴィが自分の限界を知ろうと山を走った時だ。
鍛錬は大抵の場合、時間的制限からある程度で切り上げるようにしていたのだが、ある時ふと、痛くて動けないところから動いてみたらどうなるんだろう、と思ったのだ。
農作業や牛馬の世話を少し休むと皆に断った後、シルヴィは山に走っていった。
山は良い。平地を走っていては疲れるまでに時間がかかりすぎるのだが、山は飛んだり跳ねたりしなければならない分さっさと身体が疲れてくれる。
一般的には山を走ったとしても飛んだり跳ねたりなんてしないものだが、シルヴィにとって山を走るというのはそういうことなのである。
大体いつもは、山頂まで登って走って下りてきてちょうどぐらいであったのだが、今日は特別である。きちんと仕事を終わらせておいたので、疲れてその場で寝てしまっても誰も文句を言う者もいないだろう。
呼吸も苦しく足もふらつき始めていたが、ここから更に先に行ったらどうなるのだろうと少しわくわくもしていた。
そんな呑気な気分も、山頂までを二往復した辺りで消えてなくなった。
三往復目に入る頃には、もう左右が見えなくなっていた。視野が極端に狭くなっており、走る先である真正面以外の景色が見えない。見えてるのかもしれないが、意識に入ってこない。
この状態では戦闘などとんでもなく、隊長たちにこづかれただけで倒れてしまいそうだ。
だがシルヴィは最初に決めてしまっていた。完全に足が言うことを聞かなくなるまで、足の動く限りはどこまでも走ってみようと。
もうとっくに限界は越えている。そう思えるぐらい苦しいのだが、何故か足はまだまだ動いてくれている。ならきっと、限界ではないのだろう。
途中からもう考えることは、早く限界になれ、ばかりである。痛いのと苦しいのとでロクに物も考えられなくなって、目の端はきらきらと明滅を繰り返すようになって、足を動かしている自覚もないのに勝手に足が動いてくれている気になって、そして何もわからなくなった。
意識が少しずつはっきりとしてきたのは、もう何往復目か自分でもわからなくなっていた頃。唐突に視界が開け、そして、まだ自分は走ってると自覚する。
そこからは長かった。
こんなに走ってもまだ走れるなんて、と自分の底力に感心しつつ、この調子だとどこまで走っても倒れたりしないんじゃないか、と。そしてそれもまた面白い、と笑う。
他の鍛錬と走るのとは、ちょっと楽しさが違う。
風を切って走り、景色が後ろに飛んでいくのは気持ちがよいもので。これを一番堪能できるのは平地を走った時であるが、山を駆け下りる時もまた悪くない。
逆に、走るのはゆっくりになるが着実に前へと進んでいる感のある山登りもこれはこれで良いものだ。
ただシルヴィはずっと気になっていた。走っているのに、足を動かし自分で進んでいるという感覚がない。頭が走ると決めて身体がこれを勝手に実行している、そんな感じである。
そして意識がはっきりしてから半往復目、地獄が蘇ってきた。
もう足だけではない。全身各所、走っているだけなのに何故か腕まで痛くなっている。それだけでなく首の後ろや腰の脇といった意味のわからないところも痛い。
なのに、どうしてか、足は全く止まってくれなかった。
シルヴィも色々考えてはいたのだ。疲れきって足が動かなくなったら、多分つんのめるようにして前に倒れるだろうと。
だがいつまで経ってもそんな時はやってこず、胸の中が破裂しそうになるぐらいの苦しさが何処何処までも続くのみ。
再び意識が混濁しはじめ、自分がどうして走っているのかもわからなくなり、故に、止まらない理由も、どうすれば止まるのかも曖昧になり、ただ走るだけしかせぬ、できぬ存在へと成り下がる。
そこからも長かったのだが、シルヴィの意識に残っているのはただ一言、苦しい、のみ。
鍛錬とは苦痛の積み重ねである。痛みの伴わぬ鍛錬もないではないが、そんな微細な調整など知識の伴わぬシルヴィにできるはずもなく。シルヴィは痛みをこそ鍛錬の秤とする他なかった。
少なくとも、痛くないうちは鍛錬にはなっていないと、シルヴィは考えていたのだ。
そんな鍛錬の日々がシルヴィに無類の苦痛耐性を与えており、だからこそ常人ならばとうに音を上げているような苦しさにも、耐えてしまえているのだ。
もちろんそれはシルヴィにとって良いことばかりではない。シルヴィの身体はとうに限界を超えているというのに、そう身体が信号を発しているというのに、シルヴィは我慢できるからまだいけると勘違いしてしまっているのだ。
このままではシルヴィの身体に致命的な何かが起こっていただろう。だが、シルヴィは幸運にも、目の前のへこみを一つ、見落としてしまった。
足先がそのへこみにつくと、シルヴィの身体は平衡を失い勢い良く前に倒れる。そうなると予想していたシルヴィは、その時は前に手をつけばいい、と考えていたが今のシルヴィはそれすらできぬほどに衰弱している。
顔から地面につっこみ、大きく跳ねた後、二回転して倒れた。
この時が、シルヴィの人生において最も苦しかった時だ。
地面に顔をぶつけたからではない。足を止め地面に寝転がると、それまでの苦しさがそよ風に思えるほどの強烈な痛みがシルヴィの胸を襲ったのだ。
地面に倒れたままで胸をかきむしり、喘ぐようにして顎を突き出し呼吸を求めるも、息を吸おうと吐こうと胸はより苦しくなっていき、苦痛のあまり呼吸を止めてもやはり苦しさは増すばかり。
シルヴィはあまりの苦しさに、これは間違いなく自分は死ぬ、と確信してしまったほどだ。
心の中で皆に助けを求めながら、地面をのたうち回って苦しむ。
どれほどそうしていたことか。増す一方だった苦痛が少しずつ、少しずつではあれど収まる方向に向かい出す。
それでもまだ死ぬ。そう言い切れてしまうほどに苦しかったが、この時点でシルヴィにとっての最も恐るべきことは、死ぬ事ではなくもっと苦しい目に遭うことだったので、一番が落ち着いてくれたおかげで多少なりと心は安らいでくれていた。
だが、人間とは勝手なもので。苦しいのがそれなりに通り過ぎると今度は死ぬのが恐ろしくなってくる。
こんなに痛かったのだから、きっとこのまま死んでしまうのではないのだろうか、と心配になり、誰かを探して周囲を見渡すシルヴィ。もちろん、誰もおらず。かといって助けを呼ぶ力もない。
恐怖にがたがた震えていると、いつの間にかシルヴィは眠ってしまっていた。
目が覚め、そこが自分の部屋でないことと、自分がとんでもない馬鹿をやらかしたことを思い出し、更に寝る前の自らの醜態をも思い出して赤面しながら立ち上がろうとして、身体中を走る筋肉痛に身悶えする。
身体を引きずるようにしながら屋敷に戻ったシルヴィはそこで初めて、屋敷を出てから三日経っていることを知った。
どれだけの時間走ってどれだけの時間寝たのか全くわからない。わからないが、こんな馬鹿なことは二度とするまい、と心に誓ったものだ。
『アレに比べれば! ぜんっぜん! 痛くもないもんっ!』
痛くないんなら動くはず。そう決めつけて足を前に、と強く念じる。
ぶるぶると震えながらであるが右足がゆっくりと前へ、そして動かぬのなら動かすまで、とばかりに込めに込めた力は、どうやら足に伝わってくれていたようで。
右足が大地に着いた瞬間、それはもう地鳴りかと思うほどの大きな大きな音が鳴り響いた。
その音と振動で、シルヴィの意識がはっきりと戻る。
見れば、視界の端にはシルヴィが持っていたものと同型の矛が転がっている。
そこでようやく自分が矛を手放していたことに気付き、武器を落とすなんて醜態を晒した口惜しさに歯噛みする。
よくも、と八つ当たり気味に拾い上げた矛を薙ぐ。魔法の直撃にも膂力は全く失われておらず、兵士の身体が二つに千切れながら高く宙へと舞い上がる。
「馬鹿な! 直撃だぞ!?」
そんな悲鳴を上げたのは、雷の魔法を放った弟子の一人。そしてそれは致命的な失敗であった。
一度完全に魔法使いを見失ってしまっていたシルヴィだが、その位置がわかるなり手にした矛を大きく背中側へと下から上に振り上げる。
そのままの姿勢で、一歩を遠い位置に踏み出すと、足が大きく開かれた関係上、シルヴィの身体は深く下に沈み込む。
手にした矛は背中から下に向かって振り下ろされ、その先端が地面に引っかからぬよう矛は地面と平行に、振り下ろしから真横に振る形へ。
そして、放つ。矛は低く低く地面すれすれをなめるように飛ぶ。あまりの速度と勢いに、通過した後の地面ではその軌跡を追うように砂ぼこりが撒きあがる。
飛び行く矛は、兵士たちの脚の間を抜けていく。途中二人の兵士が足を斬られ転倒するも、矛は全く勢いを失わぬまま、悲鳴を上げた弟子の両足を千切り飛ばす。弟子は両足が失われた衝撃とあまりの出血に驚き恐怖し、そのまま意識を失ってしまった。当たり前であるが、飛来した矛に両足を同時に千切られるような大怪我であり、この気を失った弟子が再び意識を取り戻すことはなかった。
すぐに、飛び上がりながら膝蹴りで前方の敵の顎を砕く。これは同時に、高く飛び上がって遠くを見渡すことで残る二人の魔法使いを探す動きにも繋がっている。
蹴り飛ばされたことで身体が上へと伸びた兵士より、その腰に下げた剣をまっすぐ抜き取り背後に向けて振り下ろす。
カープロの命令に忠実に従っていた兵士の一人で、シルヴィの再起動に真っ先に反応したこの場において最も勘の良い兵士が、縦まっ二つに斬り倒された。
そしてシルヴィは走る。
今足を斬った魔法使いは、魔法の盾を出してはいなかった。低い軌道で不意打ちのように狙ったのはこれを見越してのこと。だがもう通用しないだろう。
投擲であの魔法の盾を抜けるかどうかはシルヴィにも判断がつかないところだ。なら直接斬ってやればいい。それならばきっと抜けるとシルヴィは先程の跳躍で見つけたもう一人の弟子に向かう。
その魔法使いは、ちょうど身を翻そうとしていたところだった。
何故ならば、兵士による人壁は、他ならぬ三人の魔法使いによる雷の魔法によって崩れてしまっていたからだ。そのうえ、残った人壁を抜けてその足元に矛が飛んでくるというのだ、勝機を逸したと見定め逃げに動くのは正しい判断であろう。
だが遅い。シルヴィの剣閃がその背を捉え、一刀にて斬り伏せられる。
残るはカープロ一人。そしてウイモネン派の主張である、戦闘に手段を選ぶな、を最も実践し慣れているカープロは弟子二人よりも先に、逃げを決断し逃走した後であった。
「ありゃ、逃げられちゃった?」
後姿はまだ見える。だが、兵士の壁を突破してそこへと向かうには距離が離れすぎていた。
そんなカープロの首が、シルヴィの方へ向き直る。更にその首は勢い余ったか右を見て再び前を見て、また左を見てシルヴィを見る。
そして、宙を舞っていたその首は、ごとりと大地に落下した。
カープロの胴体がある場所の隣には、熊の毛皮を羽織ったチビが一人。シルヴィにはすぐにわかった。あれはレアであろう。
そのレアは、何やら怒っているように見えた。
心配になってきてみれば、シルヴィの姿はまるで山火事にでも遭ったかのような有様で。
もちろん山火事なんてものではないだろう。敵の魔法でそうなってしまったのだとレアは理解する。
レアはとても怒っていた。
『人の、友達に、何してくれてんの、コイツら』
何してくれたかと言うのならば、よっぽどシルヴィの方がしでかしているのだろうがそんな理屈は知ったことではないのである。
レア・マルヤーナ怒りの鉄剣によって残った兵士たちは軒並み斬り殺されるかと思いきや、兵士たちはもう全員が全員、それまでの捨て身さなど見る影もない有様で後ろも見ずに逃げ出していた。
これには怒り心頭のレアも怪訝そうな顔を隠せず。シルヴィもまたきょとんとした顔で兵士たちを見送っていた。
兵士たちが受けた命令は、三人の魔法使いが逃げるための盾となれ、であった。そう隊長に命じておけば兵士たちはその指示に決して逆らえなくなるのだが、その魔法使いが皆既に死んでおり、命令遂行不可能となった場合は次なる命令が来るまで兵士たち各自の判断で動くことになっている。
ならば、彼らがやることは一つなのである。
敵兵がすっかりいなくなったがらんとした大地の上を、とことことレアはシルヴィに歩み寄る。
にへらっとシルヴィは笑う。
「また、助けられちゃったね」
「……それより、大丈夫なの?」
革鎧だけでなく、中の衣服までも黒く焦げている。だが、大きな外傷は見られない。
しかしシルヴィの動きがひどい。今にも倒れそうなその覚束ない足元を見れば、よほどの目に遭ったのだろうと思えた。
シルヴィの笑い顔は、そのままぐしゃりと潰れて泣き顔に変わった。
「いーたーいーよー」
「んー、よしよし」
常人ならばその一撃で三回は心臓が止まってしまうような雷撃を、三発もまともにもらっておいて痛いで済んでいるのだから本来は御の字なのであろうが、痛いのは痛いし嫌なものは嫌なのである。
本気で辛そうだったので、レアがシルヴィを背負ってあげると言うと、少し躊躇した後でシルヴィは素直に申し出を受けることに。
シルヴィが両腕をレアの肩に投げ出すようにして背中にもたれかかると、身長差からシルヴィは足を引きずることになるのだが、シルヴィほどの大柄な体を背負ってもレアの姿勢は全く崩れることはないので、そのままずるずると足を引きずりながら進んでいく。
「えへへー、らくらくー」
そんなことを言うシルヴィであるが、その身体はかなり脱力しており、やはり怪我が相当にキツイのではと思われた。
レアは再び問う。
「怪我は?」
「いーたーいー」
また今にも泣き出しそうになるシルヴィに、ちょっと面白いかも、とか不謹慎なことを考えながらレアは、一度後退しようねー、と言ってシルヴィをずりずり引きずりながら退却を始めるのだった。