117.激突、ツールサスの剣(アイリ編)
戦闘において頭上を取られるということの不利は、敢えて口にするまでもないことだろう。
アイリもそう考え最大限の警戒と共に、空の大木と、地上の獣とを交互に見る。だが、ふと思った。
『敵が見えないなど、今に始まったことでもないのでは?』
八方全て敵だらけなんていつの戦もそうであった。当然、自分の視界は前にしかなく、視界のない場所の動きは予測をもとに動いていた。
今回はそれが上になっただけの話だ。
『ならば、問題は無い』
アイリは欠片の躊躇も見せず突貫する。
獣使いミエスは舌打ちしつつ巨大熊クマッタウス三世を前に出す。アイリはこれをかわしてさっさと魔法使い本体を狙いに掛かる。
だが。
『っ!?』
巨大熊はただデカイだけの獣ではなかった。その巨体からは考えられぬほどに速い。
危うく踏み込みすぎてしまうところであったが寸前で急制動が間に合い、クマッタウス三世の剛腕は空を切る。
だが、その大振りでもクマッタウス三世は体勢を崩さず。獣ならではの身のこなしですぐに次撃へと繋いでくる。
アイリが左方へと跳躍するのに合わせ、クマッタウス三世はその巨体でのしかかってくる。アイリが飛んですぐだ、こう動いたのは。その反応速度はアイリの知るどの獣とも似ても似つかぬもの。
それを並みの熊の倍の巨体で行なってくるのだからとんでもない話だ。
それでもアイリは捉えられず。するり、と流れるように、クマッタウス三世の脇の下からすり抜けていく。全身で飛び掛かってしまったクマッタウス三世は、さすがにこれはすぐに反応はできない。
だがその時、アイリの頭上から飛礫が降り注ぐ。石とは言ってもその速度は矢の速さであり、当たればもちろん死ぬ。上空高くを飛行する巨大な木に乗ったペッレが魔法を撃ってきたのだ。
アイリはその場でぴんと背筋を伸ばして直立する。上から来る多数の石に対し、そちらへの投影面積を最も小さくするには、まっすぐに立つのが一番である。
周囲の大地を致死の礫が叩く恐ろしい空間の中にあって、アイリは空を見つめたまま。
そして、最後の一発をその場で回転しながら手の平で受け止め、頭上を飛ぶ大木目掛けて投げ返す。
ズズン、という響く音と、上空から男のすっとんきょうな悲鳴が聞こえた。だがあの大木を砕くにはアイリの投げた石は小さすぎたようだ。
「なっ! なんだ今のは!? 石を投げ返したってか!? いや石であんな威力出ねえだろ! 俺の魔法よりすげぇぞ今の!」
アイリは眉根を寄せる。褒めてもらったところで、あの木を叩き落とせないのならば意味がない。
飛行木ペッレの攻撃の間に、態勢を整えたクマッタウス三世が再びアイリに襲い掛かる。
アイリはラノメ山でさんざん熊を狩ってきたからわかる。速いし力強いが、あくまでそれは熊の動きの延長でしかないと。
その身体は熊の骨格であるのだから、動きもこれに準じるのが一番効率的なのだろう。ただそのうえで、熊ならではの動きを戦向けに磨きをかけているのがわかる。
それは対人の訓練を受けた巨大熊ということだ。なんというタチの悪い存在であるか。人間を相手にするのなら、それこそその体重差だけで十分だろうに。
やはりコイツらツールサスの剣とやらは、飛びぬけて戦闘力のある存在を仮想敵に据えている。人一人を殺すにはあまりに過剰な戦力が狙うは、まさにアイリのような者であろう。
それを好ましいと思ってしまう自分がいながらも、そんな自分を度し難いともアイリは思う。
『我ながら、救えぬ愚かさよな』
戦は、勝つためにこそ様々な努力を積み上げてきているのだし、敵が弱ければ弱いほど勝ちやすいのも理解している。
それでも、強敵との己が力を振り絞った戦いを望んでしまう。鍛え磨いたからこそ、その全てを受け止めてくれる存在を求めてしまうもので。
それはまさに、度し難い、としか言いようのない話であろう。
クマッタウス三世は、熊らしい動きの延長で襲い掛かってくるが、時折熊らしからぬ動きも見せる。
頭ではなく肩を前に突き出すようにしながらの体当たりだ。
その雄々しき突進に、熊が巨体であるが故にこそ、挑んでみたくなるのがアイリだ。
両腕を前に突き出し、片足を後ろに引き、すうと息を吸い込む。
その姿勢を見たミエスは驚きに目を見張る。
「はあ?! 本気かお前!」
無論、と心の中で返し、クマッタウス三世の突進を受ける。
アイリの全身はクマッタウス三世の突進にも微動だにしなかった。
それはとても気持ちの悪い光景である。並みの熊の倍の巨躯を持つ大熊が、勢いつけて小柄な少女に飛び込んだというのに、そこに見えない壁でもあるかのように大熊は少女が構えるその場所よりほんの僅かも前に進めないのだ。
その待ち構える姿勢に秘密があるのだろうか。真横からくる力を真下へと向け大地で支える、そんな不可思議なことを成立させてしまうような秘密が。
『所詮は獣か。殿下の剛剣やレアの全身を用いた斬撃の方が余程重いわ。技無き力など、恐るるに足らん』
またこうして熊の巨体がのしかかるような形になっていれば、上空から魔法でこちらを狙うこともできまい。熊もろとも撃ったところで熊には当たるがアイリには当たらないだろう。
今のアイリの体勢は、熊の肩の部分に両手の平を押し付けるような形だ。
ここからアイリはこの大熊を仕留めんと、その場を一歩たりとも動かぬままに動く。
動く、で正しい。実際に外から見た分には全く動いていないように見えても、アイリの筋肉はその人外の膂力ありったけを発揮しているのだ。
ただ両手を押し付けている、そうとしか見えない姿勢のままで、大熊クマッタウス三世の巨体が後方へと吹き飛び転がっていった。
ミエスもペッレも、アイリによる魔法の使用を確信してしまうほどに、それは魔法じみた一撃であった。
大きな熊の身体は上体が後ろに仰け反り、そのまま後方にごろんと転がり、それでもまだ勢い収まらないのか、もう半回分回ったところで横に倒れる。
押し出した様子も、殴り飛ばした様子すら見られなかった。ただ、両手で大熊の巨体を支えていた。そうとしか誰の目にも見えなかった。だが、ミエスもペッレもそこに魔法がないことも見えている。だから迷うのだ。
これは寸勁と呼ばれる技術であり、もちろん魔法なんてものではなくやり方を学び訓練すれば誰でもできる技なのだが、魔法使いであるミエスもペッレもそんな武術の奥義のことなぞ知るはずもない。後、誰にでも出来る技術ではあるが、それには十年単位の訓練が必要であろうし、更に言うなればそこまでやってもこの大きさの熊を吹っ飛ばせる者なぞ極一部にすら居ないであろうが。
転がり倒れた熊の頭部を駆け寄ったアイリが、手にした矛で横薙ぎにぶん殴る。
皮膚が固すぎるせいか刃が刺さらないのだ。いや、アイリがそうあるべしと振るえば斬れはするだろうが、アイリが狙ったのは別のことだ。
いかな獣とて、頭部がありそこには脳が入っている。ならばこれを強烈な一打で揺らしてやれば、人がそうなるように前後不覚の有様となろう。
あまりに強く殴りすぎたせいで、矛が真ん中から曲がってしまった。
アイリはその曲がり具合を見た後、上空に目を向ける。驚愕から立ち直ったらしい上空のペッレが、今まさにアイリに向けて魔法を放とうとしているところだ。
手にした矛を大きく後ろに引き、アイリはこれを、上空目掛けてぶん投げた。
やばい、と慌てて乗っている木の後ろに隠れるペッレ。この飛行する木には山ほどの強化魔法がかけてあり、射撃魔法如きでは傷一つつかない。もちろん、魔法ですらない攻撃なぞ歯牙にもかけぬものである。
これを盾に、上空から魔法を撃ちおろすのが『飛行木ペッレ』の戦い方である。これほど大きな物体を空に飛ばせる魔法使いなぞそうはいない。
ペッレにしたところで得意の木だからこそできるのであって、これほどの質量を空に飛ばすのは容易いことではないのだ。この半分の重さですら、イジョラ魔法兵団に飛ばせる者はいない。
射線が通らなければ絶対に当たらない。石をぶつけて大きくこの木を揺らしたことには驚いたが、それでもこの巨木が傷つくことはなかったのだから、ペッレはこれを盾にする限り無敵であり続けられるだろう。
そう、信じていたからこその油断であった。
アイリの放った矛は上空の飛行木から外れた進路を進んでいた。だがこの進路、明らかにおかしい。
曲がった矛はまっすぐ飛ぶことをせず、空中を弧を描くように飛んでいったのだ。
飛行木の後ろに隠れる形をとってしまうと、ペッレは下を見ることができない。
これを補うために空に視界確保のための魔法の鳥を飛ばしているのだが、この鳥からの視覚が、曲がり迫ってくる矛を捉えた。
「なんだそりゃ!?」
大慌てで身をかわす。あまりに意外過ぎて反応が遅れたペッレのすぐ脇を、矛が突き抜けていく。幸運にも直撃は避けられた。
だがペッレはこれを避けるために大きく動きすぎたせいで、木の上で体勢を崩してしまった。
「あ、やべっ」
なんて言葉と共に、ペッレの身体は飛行木から落下してしまったのだ。
下方よりミエスの悲鳴が聞こえた。
「ペッレ!」
飛行木の飛ぶ高さから落下しては、頑強化の魔法を使ったとしても無事では済むまい。テオドルは城壁上から落ちても平気だったらしいが、あれはテオドルだからだ。あんな真似、他の誰にもできっこない。
だがそれでも、ミエスは祈るようにペッレを見つめる。どんな怪我をしていてもいいから、どうか生きていてくれと。
そしてその落下先に目を向けた時、ミエスは信じられないものをそこに見た。
ペッレの落下するだろう場所に向かって、あのバケモノチビ熊が走っているのだ。とても人間とは思えぬ速さで。
そこまでするか、と驚愕するミエスであったが、バケモノチビ熊ことアイリからすれば当然の備えだ。
つい先ほど、あの飛行する木より高いところから落ちて平気であった男がいたのだから。
ミエスは無理と知りつつ叫ばずにはおれなかった。
「避けろペッレ!」
着地の瞬間すら待たず、アイリの刃は落下してきたペッレの首を斬り飛ばした。
ようやく頭がふらつく状況から復帰したクマッタウス三世がアイリへ突っ込んでくる。今度は、同じ体格の相手にそうするように、自らのありったけを振り絞り全速力で駆けこんできた。
アイリが先程これを斬らず叩いたのは矛を曲げるためであった。
ましてや今は、腰に差していた最も得意な剣を抜いているのだ。既に、クマッタウス三世の動きは見切っていた。
「熊にしてはよくやった方だ、褒めてやるぞ」
斜め前に駆け出したアイリの剣が閃く。
そのまま戦果を確認すらせず走るアイリ。交錯したクマッタウス三世は、空中高くに首を飛ばしながらも数十歩そのまま走り続けていた。
憎悪の目でアイリを睨むミエス。その足元から狼がアイリへと走り出す。
同時に唱えたミエスの術に応え、走る狼の影より一匹、二匹、三匹、と同じ大きさの狼が湧き出てくる。いや、それどころではない、影は膨らみ続け、次々と狼を生み出していく。
あっという間に数十匹にまで膨らんだ狼の群。
「まだまだぁ! てめえは肉の一欠けらも残しゃしねえぞ!」
ミエスの怒声に合わせ、黒い影が大きく膨らむ。だがこれはアイリの気を引くための演出だ。
駆けるアイリの足元に、ミエスは術にて毒蛇を忍ばせていた。毒蛇が跳ねる。
完全に虚を突いた。その自信があったミエスだが、アイリの反射神経はそんなミエスの策略を容易く乗り越えていく。予測ではなく、全くの反射神経のみで飛び掛かる蛇を斬り払う。これでは不意打ちは意味がない。
狼の群に突入する寸前で、意識をそちらに集中している。そんな時であり、誰であろうとその注意は狼の群に引き寄せられるだろうとミエスは確信していたが、アイリ・フォルシウスには一切通用しなかった。
そしてアイリは狼の弱点を突く。
軽やかに大地を蹴ると、アイリの身体は宙を舞う。狼は高々と飛び上がったアイリに対する攻撃の術を持たない。その一跳躍で、アイリはミエスまで飛べる自信があった。
そしてミエスは内心で叫んだ。
『ここが! 最後の勝機!』
ミエスは最後の切り札を切る。
狼との乱戦に入り、そちらに意識が振られたところで音もなく死角より襲わせるつもりだった最後の一手。
空中で身動きが取れないアイリの死角、頭上より一匹の鷹が直上より急降下してきていた。
アイリは空中にて、ブスッとした顔であった。
『空が危険だと言ったのは貴様らであろうに』
既に、アイリにとって魔法を相手にする以上、空は常に注意を向けておくべき対象となっていた。
もちろん空を舞う鷹の姿にも気付いていたし、これが急降下してくる様子も確認してある。
空中で一回転しつつ降下してきた鷹を斬り、二回転目でミエスの頭部を縦に斬り裂いた。
これを防ごうとミエスの懐の子犬がその頭上にまで飛び上がっていたが、アイリの剣撃を防げるはずもなく、共に斬り倒されていた。
綺麗に着地したアイリは狼たちに向け構えるが、術者であるミエスを失ったせいか狼たちは地面に溶けるように消えていった。
僅かに残っていた敵兵が、信じられぬといった顔をしている。
アイリはミエスとペッレの遺体を交互に見て、誰にともなく呟いた。
「さすがに、強かったな。他の魔法使いはもっと強いのであろうか。まったく、世界は広いな」