108.第十五騎士団流、客人の出迎え方
その日、イェルケルの屋敷に一人の若者が訪れた。
名をイルマリ・スオラハティといい、彼はアイリに会いに来たという。
十人以上の従者をぞろぞろと引き連れやってきた彼は、身なりも整っているし、顔立ち体つきも貴族然としたもので、少なくとも見た目で入場を拒否される類の輩ではない。
屋敷の中で執務中であったアイリは客だということで応接間に。イェルケルは使用人にお茶の用意をさせると、後はお好きに、と自分の仕事に戻る。
が、これを目ざとく見つけたスティナとレアに捕まった。
「殿下。アイリの知り合い、それも若い男。これは事件ですわ。ここは一つ私たちでアイリの援護をですね」
「お前、単に面白そうだから覗きたいだけだろ」
「おーじ、おーじっ、違う。そういうのを、ゲスのかんぐりという。私たちはもっと高尚な理由で、アイリを心配してる、うん」
「私はお前らの非常識度の方がよほど心配だよ……」
とはいえ、二人は放っておくと何しでかすかわからないので、仕方なくイェルケルも付き合って応接室の隣の部屋へ。
手慣れた調子でスティナが天井の板を一枚外すと、思ったより大きな声が聞こえてくる。
「よし」
「よしじゃない。全然よろしくない。なんだこれはスティナ」
「天井伝って声が響くって話、殿下聞いたことありません?」
「初めて聞いたぞ。……って待て。もしかしてこちらの声も、か?」
「はい。ですので声は小さく、しーっ、です」
見ると、レアは椅子に座って机の引き出しにあった紙を机の上に広げ、筆を手に何やら書き記す体勢だ。
「レア?」
「じゅーよーな証言は、きちんと記録に残すべき、うん」
「……時々さ、お前らの嫌がらせに注ぐ情熱が理解できない時があるんだが……」
かくして、盗み聞きの態勢は整ったのである。
アイリが慣れた調子で室内の椅子を勧めると、イルマリ・スオラハティは微笑みながら椅子に腰掛け、アイリも彼と体面する形で椅子に座る。
「さて、イルマリ・スオラハティ殿。私に用があるとお聞きしたが」
イルマリは両腕を広げ首をかしげる。
「おいおい、そんな他人行儀な。昔そうであったようにイルマリと呼んでほしいな」
アイリの眉根に皺が寄る。
「……む、イルマリ殿とは以前に面識があったか……スオラハティ家と言えば、昔のフォルシウス家の領地とも遠かったと思うのだが」
「またまた、そういう駆け引きは私には通じないさ、アイリ。子供の頃何度か遊んだこともあったろう、あの頃からアイリはやんちゃだったからなぁ」
アイリの眉間の皺が増える。記憶を引っ張り出そうとしてみるが、自身の子供の頃に他所の貴族と仲が良かった覚えは無い。
むしろ全く話が合わず敬遠していたはずだし、子供の頃から運動能力が異常に高かったアイリとでは、遊ぼうと思っても遊びにすらならなかったはず。
「うーむ、申し訳ない。どうにも覚えておらぬようだ。それはまあそれとして、用事とやらは……」
「本当かい!? それは、寂しいな。とても寂しいよアイリ。是非思い出してほしいところだ。じゃあ、私が送った花束の話は覚えていないかい?」
「は、花束? そのようなもの、もらった覚えは……」
「懐かしいなあ、あの頃は私もイタズラ好きだったからね、花束の中に薔薇を入れていないのに、薔薇の香りの香水をかけてアイリをからかおうとしていたんだよ。それでね……」
イルマリの話は続く。が、アイリには全くこれっぱかしも身に覚えの無い話ばかりだ。
だが、彼のように自信満々に、悪意の欠片も感じさせぬまま話をしているのを見ると、どうにもこれを指摘するのも申し訳なく思えてくるもので。
それでも相手に合わせて嘘を言ったりしないのもアイリであるのだが。
「いや、申し訳ない。色々と聞かせてもらったが全く覚えが無い。興味の持てぬものは覚えるのも難しいと聞いたことがあるが、或いはそういうことやもしれぬ。礼を欠く態度であるとは思うが、まさか嘘をつくわけにもいかぬゆえご理解いただきたく」
これで気を使ってるつもりなのである。アイリには相手を煽るつもりは全く無い。
イルマリも僅かに頬を引きつらせていたが、すぐに気を取り直す。
「ああ、仕方が無いさ。今の君は正に時の人だからね。ただもし良ければこれからの僕は、忘れずに覚えていてくれると嬉しいかな」
「ほう」
アイリの目が興味深げに輝く。
「それはつまり、イルマリ殿を忘れられぬようになる何かを、この私にしでかしてくれるということか? それはそれは、実に楽しみなことだ」
アイリの言葉にイルマリは満面の笑みを見せる。
「もちろんそのつもりさ! ねえアイリ、もし良ければこの後にでも時間を取れないかい? 是非君に紹介したい店があるんだ」
その頃、隣の部屋では。
「あのアホ! なーんでこんな頭の悪い話真面目に聞いてんのよ!」(←一応小声で)
「もしかして、アイリって、鈍い?」(←やはり小声で)
「いやもうほんと、私たちいったい何をしてるんだろうな……」(←できる限りの小声で)
イェルケル、スティナ、レアの三人は顔を見合わせる。
「あの娘、隙なさそうに見えて案外隙だらけだったのね。意外な発見だわ」
「あのまま騙されて、面倒なことになる前に、男の方殺しとく?」
「馬鹿よせやめろ。さすがに金やらの話になったら気付くと思うが……あれきっと、当人口説かれてる自覚無いぞ」
「あー、それありそう。殿下、ここは一つ殿下が部屋に飛び込んで、俺の女に手を出すなって怒鳴ってやれば」
「それはいい、実に楽しそう。是非それで、おーじ、さっ、はやくはやくっ」
「お前楽しそうって言ったよな? もうちょっと隠せそういうのは。後、面倒なこと起こったらとりあえずで私に振るのやめろ」
隣室の三人の心配を他所に、イルマリが行きたい店というのが食事やら衣服やらの店と聞いて、遅ればせながらアイリもイルマリの目的を察することができた。
ソレ、を全く考慮に入れていなかった自分のアホさ加減に頭を抱えながらも、アイリはイルマリに丁寧に断りの言葉を。
「イルマリ殿。そちらの希望はわかった。だが、私は、いや、私に限らず第十五騎士団の皆は、そうした色恋に手を出すつもりはない。何故だかわかるか?」
「あ、アイリ、それは……」
「いつ死ぬかわからんからな、私たちは。そう容易くやられてやるつもりもないが、私たちは、そういう戦い方をする騎士団なのだ。何百何千という兵に少数で突っ込むというのは、常にそうした覚悟を必要とするのだ」
イルマリは口達者で生きてきた男だ。アイリの理屈に対する反論もすぐに思いついたがそれを口にすることはできなかった。
口達者というのは、ただ理屈を並べるのが上手いということではない。相手の感情を読み取る術もまた、優れた話術には必須のものであるのだ。
そのイルマリが積み上げてきた経験が言っていた。ここでアイリに逆らってはならないと。
アイリは反論がないとなると、イルマリに退出を促す。これに逆らわず部屋を出るイルマリに、アイリは一つ付け加えた。
「ああ、そうそう。今後も私の名前を馴れ馴れしく呼び捨てにするつもりであるのなら、その時は充分な覚悟をもってそうすることだな。私が貴様に遠慮せねばならぬ理由なぞどこにもありはせんのだからな」
イルマリは必死に表面を取り繕いつつ、屋敷から逃げ出していった。
屋敷の入り口からこれを見送ったアイリは、つまらん時を過ごしたと不愉快そうな顔で振り返る。
そこには、妙に距離の近いスティナとレアがいた。
スティナはレアの腰に手を回し、二人はぎりぎりまで顔を寄せささやくように語り合う。
「イルマリ殿を、忘れられぬようになる何かを、この私に、しでかしてくれるということか? それはそれは、実に楽しみなことだ」
「もちろんそのつもりさ。ねえアイリ、もし良ければこの後にでも時間を取れないかい? 是非君に紹介したい店があるんだ」
スティナはそう語った後で、レアの胸元に手を伸ばす。
「あれ、ここで胸に手が当たるのはおかしいわね」
「大きさの違いは、さすがに、真似できない。残念、無念っ」
一瞬でアイリはキレた。
「そこへ直れ貴様らあああああああああああ!!」
アイリが怒ったにげろー、と大笑いしながら屋敷中を逃げ回るスティナとレア。
三人とも無駄に身体能力が高いせいで、他所では決して見られないだろう曲芸紛いの派手な動きがそこらで行われることとなるが、屋敷の使用人たちはこれを微笑ましいものでも見るかのように見守りながら仕事を続けていた。
イェルケルは、もう色々と何もかもが面倒くさくなったので放っておくことにした。
次の客人は、レア・マルヤーナを名指しでイェルケルの屋敷を訪れる。
アイリの時と違って、レアは彼女を満面の笑みで迎え入れた。
「シルヴィ! よくきたね!」
「えへへ、お礼しにきたよー」
シルヴィ・イソラは女性の身でありながらイェルケルとほぼ同じ背丈であり、ちびっこのレアからだと見上げる形になるが両者ともそれを気にした風はない。
先日戦の助勢をしてくれたお礼に、シルヴィはレアを訊ねてきたのだ。
背負った袋を下ろして、シルヴィは中から手の平で転がせるぐらい小さな赤い果物を取り出す。
「これ、ウチの領地でとれたの。お礼用にって送ってもらったんだ。たくさんあるからみんなで食べてね」
背負い袋いっぱいにこれが入っている。
季節物であり、今の時期なら絶対においしいとわかっているものなので、レアは嬉々としてこれを受け取る。
せっかく来たんだから、とゆっくり話でもしようと招くレアにシルヴィも頷いてかえすが、そこで計ったかのようにスティナ、そしてアイリとイェルケルの三人が姿を現す。
顔見知りであるスティナは、気安い調子で声をかける。
「久しぶりシルヴィ。レアが世話になったみたいね、ありがと」
レアはじろりとそちらを睨む。
「世話したのは私の方」
「そう? まあ、いいわ。ねえレア。先約は、私よね?」
「シルヴィは、私を訪ねてきた。だから、今日の優先は私」
「へー、そういうこと言うんだぁ」
にらみ合う二人。そこに、いやいやいや、と口を出してくるのはアイリだ。
「ではそちらの二人は二人で好きにやっておれ。おい、シルヴィ・イソラ。我が名はアイリ・フォルシウス。貴様とは是非、槍を合わせたいと考えておった。今日、馬と槍は持ってきているか?」
スティナとレアが同時にアイリを睨みつけるも、アイリは微動だにせず。
そんな緊張感を全く感じ取っていないのか、わかってて無視しているのか、シルヴィはのほほんとした声でかえす。
「あるよー。もしかしたらスティナがまたやりたがるかもーって思って、馬も槍も一番の持ってきたー」
スティナ、アイリ、レアの三人が同時に拳を握り締め言った。
「「「よしっ!」」」
完全に、三人共がやる気になってしまった模様。
こきりと首を鳴らしながらアイリが屋敷の庭に向かって歩き出す。
「大変結構。ではシルヴィ・イソラよ、少し待っておれ」
これに続くスティナ。
「まったく、シルヴィは私のだって言ってるでしょうに……シルヴィ、ちょっと待っててね、先にこの馬鹿共全部張り倒すから」
レアはもらった果物を執事に預けるとこれを追う。
「わーたー、しーをー、たずねてきたのー。だから二人は、すっこんでろー」
イェルケルの屋敷の庭は、立ち木やらが貴族の庭にしては極端に少ないせいで、大きく開けた何もない広場になっている。
貴族的視点からいえば、邸宅としてはありえない殺風景さなのだが、ここでよく運動をしていたイェルケルにとっては必要な場所であり、今はこの開けた場所で、誰がシルヴィとやりあうかの勝負を行なうことになっている。
シルヴィはいきなり殺気に満ち溢れた三人を眺めながら小首をかしげる。
「んー、私も混ざったほうがいい?」
そのすぐ横から、イェルケルがシルヴィに教えてやる。
「王子、イェルケルだ。誰が君と勝負するか決まるまでは、申し訳ないけど少し待っていてもらえるかな。今、うちの執事に軽食を用意させてるから」
「わかったー」
三人より漂う修羅の気配にも、シルヴィはまるで動じた様子はない。
スティナ、アイリ、レアの三人は、それぞれが頂点となるような正三角形を作る位置に立って、互いの挙動を観察する。
いつ、誰が動くか。
こうした時、最も好戦的なのは大抵アイリであるが、不意を打つ動きはスティナが得意で、速さ勝負に賭けたいレアが真っ先に動くこともある。
だが今回は、最初に動いたのはこの三人の誰でもなかった。
スティナの背後より迫る影。スティナ・アルムグレーンをもってしても、その不意打ちには僅かに反応が遅れた。
『んな!?』
『私も! 是非彼女とはやってみたいんでな!』
低く大地を滑るようにスティナの背後に迫ったのは、イェルケルであった。
シルヴィに声をかけることで、自分は今回参戦しない、といった雰囲気を出しておいてからのこの動き。
さしものスティナも読みきれるものではなかろう。
両足を刈り取るような下段蹴りの狙いは、スティナの膝裏である。ここならば力の強さ云々は関係なく体勢を崩せる。
もし、この奇襲蹴りを受けたのがイェルケルであったなら、最早回避もままならずまともにこれをもらっていただろう。
だがしかし、イェルケルが狙うはカレリアの頂点に立つだろう武の化身、スティナ・アルムグレーンである。
スティナは足首の挙動のみで、全身を跳ね上げてみせた。イェルケルの蹴りが空を切る。
『でも、そこじゃ、かわせなくなる』
『レア!?』
イェルケルの蹴りをきっとスティナはかわすだろうと読んでいたレアは、スティナの眼前へと飛び迫っていた。
空中にて左回し蹴り。スティナは避けることもできず腕で受け止める。
その腕を伝う衝撃から、スティナはレアの次の動きを読む。
『二段蹴りね。ほんとっ、もうっ、鬱陶しい!』
最初の蹴りの加重のかかり方から次の蹴りが来ると構えるスティナ。そこにレアの右回し蹴りが襲い掛かる。
わかっていながら、空中であることも手伝って、スティナにはこれを逆腕を上げて受けることしかできない。
こちらは本命だ。スティナの左腕に芯まで響く重苦しい衝撃がのしかかる。
スティナはこの衝撃に押し出されるような形になるも、特にこれに逆らわず、上体を大きく外へと流す。これで距離を取ろうというのだ。
だが、すぐ側にいるのはイェルケルである。
足の長さは第十五騎士団一であり、踏み込みながら足刀を向け右足を突き出すと、スティナはただ身をよじって直撃を避けることしかできない。
脇腹をかすめるように蹴りがあたり、スティナの身体が半回転する。そこで止まったのは着地して大地に踏ん張ることで、勢いに逆らったためである。
二人の猛攻のせいで、スティナをもってすらここまで一切の反撃はさせてもらえなかった。だが、大地に足を付いた今ならば、スティナの全身はいかようにも動きうる。
さあ反撃、と勢い込んだスティナの背筋が凍りつく。
「今日は特別でな。三対一も辞さぬよ」
背後に回りこんだアイリの強烈な拳が、スティナの側頭部を打ち抜いた。
ただの一撃だ。
拳の一撃のみで、スティナは勢い良く大地を飛び転がっていき、倒れたまま動かなくなった。
無類の打たれ強さを誇るスティナとて、アイリ渾身の一打をまともに急所にもらってしまえばこうなるのだ。
アイリは満面の笑みで残る二人にいった。
「さて、スティナさえ黙らせればこちらのもの。まだ、やりますかな」
煽るようにアイリがそう告げると、イェルケルとレアは互いに顔を見合わせた後で頷く。
「いつまでもやられっぱなしと思うなよ」
「今日こそ、泣かす」
良き哉良き哉、と二度頷くアイリ。元よりアイリも全員叩きのめすつもりであるのだ。
庭の端にテーブルと椅子が用意されてあり、そこに客人シルヴィ・イソラは腰掛けていた。
すぐ側には屋敷の老執事が控えている。
テーブルの上にある黒パンにジャムをぬったものに、シルヴィが手を付ける。
口に運ぶと、驚き目を見張った。
「おいしいっ。すごいおいしいよ、これ」
「ありがとうございます」
これといって珍しいことはしていない。バターとジャムとをつけ、火で軽くあぶっただけ。たったそれだけなのに、えもいわれぬ味わいが生じシルヴィの頬がほころぶ。
用意しておいたパンを瞬く間に全て食べてしまったシルヴィは、なりゆきで始まった第十五騎士団最強決定戦に目を向ける。
「ねえ執事さん。みんなどうして無手なの?」
「剣は危ない、だそうです。本気を出したい時はみなさんああやって無手でやりあうのが常となっております」
「あー、訓練とか力試しとかじゃないんなら確かに。いつもこんなことしてるの?」
「最近は少し頻度が増えましたな。やはり、戦がないとなれば力をもてあますのかもしれません。失礼ですが、シルヴィ様は確か、まだ戦の最中であったとお伺いしておりますが」
「うん、本隊は行軍中だよー。一日ぐらいの遅れならすぐ取り返せるから、私だけこっちに来てるの」
そうですか、と微笑みかけたあと空になった皿を見て、老執事はシルヴィに問う。
「おかわりはいかがですか?」
「うんっ!」
イェルケルの手足は長く、間合いの優位は誰を相手にしても常にイェルケルにある。特にレアやアイリに対してはこの優位点は大きい。
速く踏み込みながら、伸び上がるように拳を突き出す。
その一撃は槍の一閃に例えられよう。先程スティナにくらわせたまっすぐに伸びる蹴りと合わせ、この二つの技は無手戦におけるイェルケルの主力武器となる。
速く鋭く、遠くまでを正確に射抜く魔槍の一撃だ。
余計な挙動も必要とせず、僅かな予備動作から放たれるこの拳は、スティナやアイリが相手でも容易く裏を取られる技ではない。
アイリ、懐に潜り込もうとして果たせず。拳の鋭さと、何よりその戻しの速さにより、アイリをもってすら前へと踏み出せなかったのだ。
矢継ぎ早に左拳を放つ。こちらは牽制の意図が強いが、もちろん当たればただでは済まぬ。
間合いの差のせいで、アイリからの攻撃はイェルケルにはまだ届かぬだろう。アイリはしかし、その場で拳を振り上げる。
「っ!?」
イェルケルの突き出した拳が、強引に真下より跳ね上げられた。
霞んで見えるほどの速さで繰り出した拳へ、正確にアイリが拳を合わせたのだ。
アイリの膂力でそうすると、イェルケルの腕すら大きく頭上へと飛ばされてしまう。
だがアイリはそこでイェルケルへ踏み込もうとはせず、真後ろに向けて回し蹴りを放つ。
全く見えない場所からの一撃であったにもかかわらず、レアの回し蹴りはアイリのこれに迎撃されてしまった。
『あいっかわらずっ、後ろにも、目がついてるみたいっ』
戦闘時のアイリの勘の良さはもう、理屈では説明できない領域である。
もちろんアイリ当人にはアイリなりの理由があるのだが、余人にそれを理解することはきっとできないだろう。
それでも、イェルケルとレアの二人で前後から挟むようにして仕掛け続ければ、そう考え二人は必死に攻勢を維持する。
アイリは笑っている。
いつもそうだ。アイリは戦闘が楽しくて仕方が無いのだ。
それも雑兵などではない、ともすればアイリにすら一撃入れてくるような猛者、イェルケルやレアとの戦いはアイリにとって至福にも近い時間となる。
それが故に無駄に受けに回ってしまうのが、今のアイリの付け入るべき隙であろう。
アイリの反撃を許せば、そこから一気に崩されかねない。
なのでイェルケルとレア、二人の攻撃は極力アイリの体勢を崩す、もしくは二人が連続して仕掛け続けられるような戦い方になっていく。
だがそれも、戦闘時間が重なっていくにつれ、動きが単調なものになっていってしまう。
当たり前であろう。アイリをすら封じうる連携が、そう幾つもあるはずがないのだから。
そして動きを読まれれば、当然反撃の余地も生じてくるのだ。
それと気付かず放たれたイェルケルの右拳は、直前にレアが仕掛けた右下段蹴りからの連携であったのだが、これは既に今日一度見せてしまっているものであった。
『崩れおったな!』
この鋭い連携を崩れたと評するのは、カレリア広しと言えどアイリぐらいのものであろう。
イェルケルの拳を、アイリは避けながら同時にレアの襟元へと手を伸ばした。
まずい、そう思った時にはレアは伸びてくるアイリの手を払い落とすべく動いていたが、イェルケルの拳をかわすべくアイリの視線はイェルケルに向いているにもかかわらず、伸ばされたアイリの手はレアの手を払い落としてその襟首を掴みあげる。
イェルケルの連撃やレアの蹴りが飛ぶよりも、アイリが速い。
アイリはレアを片手で掴んだまま、これを大きく振り回したのだ。
襟首を掴まれた状態で振り回されれば当然レアは蹴りどころではなく、また振り回されたレアの足がイェルケルへと叩きつけられたせいで、イェルケルの連撃も途切れてしまう。
ほんの一瞬、レアごと蹴りとばすのを躊躇したせいで、イェルケルはアイリに後れを取る。
アイリはレアを頭上にまで持ち上げつつ振り回し、二周目をイェルケルへと叩き込んだのだ。
人一人分の大きさがある武器だ、それもアイリの膂力で振り回すのなら速度も充分なものがある。
イェルケルはなんとか腕で受け止めようとするも、衝撃に耐えかね大きく飛ばされてしまう。
一方、振り回されているレアであるが、いつまでもやられっぱなしではない。
両腕で同時にアイリの腕を押さえ、身体を捻ってこれを極めようと動く。
「甘いわ!」
が、アイリが先。
アイリはレアがアイリの腕に触れた瞬間、勢い良くレアを放り投げたのだ。
空中を飛ぶレア。
耳元で風切り音が鳴るほどの速さでふっ飛びながらも、レアは空中にて体勢を整えにかかる。
着地さえ失敗しなければ、今、ぶん投げた直後からレア目掛けて走ってきているアイリを迎え撃つことができよう。
だが、レアは視界に映る庭の風景から、今自分がどこにいるのかを把握した瞬間、慌てて体を捻りにかかる。
『マズイッ! ここ、後ろ、木がっ!』
そう、アイリがレアをぶん投げた先には、庭にある数少ない木が立っていたのだ。
レアが体勢を整える間もなく、後頭部と背中が同時に木に叩き付けられる。
心構えはできていたが、身体は受けの体勢になっておらず、衝撃がレアの全身を大きく揺らす。
視界が上下に大きく揺れたせいで、アイリの次の攻撃に対する反応が遅れた。真正面からの拳。
レアは一瞬、死が見えた気がした。
直後襲ってきたアイリの拳は、レアの顔中央に叩き込まれた。
その衝撃はレアの顔を突きぬけ後ろの木へまで至る。
木は、レアの顔の後ろ部分で八方へと破裂した。
その衝撃があまりに強すぎたために、衝撃を受けた場所のみが粉々に砕け後方に飛び散るも、それが一瞬で行なわれたせいで木の砕けなかった上部はまだ空中にまっすぐ残ったまま。
アイリの拳が殴りぬけたために、仰け反ったレアの上体はこの隙間へと。
そして物理な法則に従い木が落下してきて、下の木と上の木とにレアの身体が挟まれてしまった。
もちろんこれもアイリの計算の内。一撃くれた後、更に身動きを封じるためにそうしたのだ。
レアの力ならばこの木を跳ね飛ばして立ち上がることもできるだろうが、悠長にアイリがそれを待つなんてことはない。
レアの顔を片手で掴むと、アイリはレアの全身を木から引きずり外しながら、これを大地に向けて叩き付ける。
後頭部を大地に強打されたレア。大地はアイリが強く踏み出した時のように大きくひび割れへこみ、その中心で、レアは完全にのびてしまっていた。
アイリの背後で、レアを挟んでいた木が大きく崩れ倒れていく。
アイリはレアより手を離し振り返る。
倒れる木がその視界を覆っているも、アイリはにたりと笑みを見せる。
『音を消したのは見事。ですが、木が動いてしまったのはいただけませんなぁ』
アイリの視界から木を挟んだ反対側で、イェルケルが動いていた。
木を目隠しにしつつ、これを蹴って上より襲い掛かるつもりであったのだ。
壁飛びの要領で木を蹴る音を消したイェルケルであったが、木を蹴ったせいで、反動により木が僅かに不自然な倒れ方をしてしまう。
アイリが咎めたのはこれである。空中に飛び上がって落下してくる木を蹴れば木は動くに決まっているのだが、アイリはこれを動かすな、と言ってくるのだ。第十五騎士団の基準がいかに狂っているのかがわかろう。
木の陰より突如現れたイェルケルは既に攻撃態勢から足を伸ばすのみとなっていたのだが、この伸びくる足を悠々とアイリはかわし、イェルケルの顔に拳を打ち込む。
下へと振り下ろす形であったので、イェルケルの身体は大地へと。そして、イェルケルが何をするより先に、アイリはその足を、イェルケルの顔面へと振り下ろす。
足裏で顔を踏みつけられたイェルケル。こちらもレア同様、頭の後ろの大地に放射状に亀裂が走るほどの一撃をもらい、完全に昏倒してしまった。
スティナ、レア、イェルケル、三人を沈めたアイリは、油断無く三人の様子を確認し、動く気配がないとわかると見物しているシルヴィのもとへ向かった。
「ふむ、少々手間取ったか。おい、シルヴィ・イソラ。こちらは終わったから、すぐに支度を……」
アイリの目が細められたのは、シルヴィのありさまを見たせいだ。
「んー、にー」
返事だかなんだかわからない唸り声を発するシルヴィは、椅子に腰掛けたままテーブルに突っ伏して寝ていた。
それもこれ以上ないってぐらい幸せそうな寝顔で。
アイリはシルヴィの側に控える執事に目で問うた。
執事は指先でテーブルの上の空の皿を指差すと、何やらおいしいものでも食べたのだろう、とアイリは納得する。
それ、を全く表情に出さなかったのは、彼が執事として公平であろうと心がけていたせいであろう。
アイリが気付けたのは、耳元をかすめる強い風の音のおかげであった。
『しまっ……』
アイリの背後にはスティナが立っており、後ろから側頭部目掛けてスティナは上段回し蹴りをくれてやったのだ。
その動き全てにおいて気配を消し去っていた一撃は、アイリの勘をすら誤魔化しきり、スティナが命中の直前に隠密動作を解放するまでアイリは全くの無防備であった。
スティナの蹴りが命中すると、アイリの全身は一度強く痙攣する。
だが蹴りにより身体が飛ばされるなんてことはなく、むしろ空中で止めたスティナの足に吸い寄せられるように頭部が動いた後、その全身が崩れ落ちた。
「おかえしよ、ざまーみろっ」
こうして、第何次かもうわからなくなるぐらい行われた第十五騎士団最強決定戦の勝者は、スティナとなったのであった。
シルヴィとスティナの二人は、馬上にあって自在に馬を駆けさせながら槍を振るい合う。
二騎が走り回るにはイェルケルの屋敷の庭はあまりにも狭すぎるが、その狭さもまた戦場の条件の一つと考え、二人は狭いならではの戦い方で戦闘を続ける。
これを仏頂面で見守る、アイリ、イェルケル、レアの三人である。
「おのれスティナめ、まさかあの一撃をもらっておきながら起き上がってくるとは」
「今日こそはって思ったんだがなぁ。あー、もう痛くて泣きそうだ。アイリはほんと、毎度言うけど容赦ってもんがないよな」
「はーなーがー、いたいー。あいりのあほー。あと、あそこまで引っ張って、一発も入れずに、負けるなおーじー」
かなりの痛撃をもらってのびていたはずの三人は、既に回復していてのんびり観戦中である。
シルヴィも食べた黒パンにバターとジャムをぬったものを三人でいただきながらスティナとシルヴィの戦いを見ていると、使用人がアイリにまた客が来たと伝えてきた。
今度は何だ、とアイリが屋敷の入り口に向かうと、やたら焦った顔のまま肩で息をしている男、ヘンリク・フルスティがアイリを待っていた。
彼は王都の警邏を行なっている者で、以前アイリが教会虐殺や傭兵団皆殺しを行った際、その調査を行っていた男だ。
もちろん騎士位を持つ者が充分な理由を持って行なったことであり、それでアイリが罪に問われることはなかったが、そのアイリの情け容赦の無さにヘンリクは大層警戒をしていたものだ。
気になって一緒に来ていたレアは、また男か、と目を輝かせているが、イェルケルは彼が王都の警邏責任者の一人であると知っていたので、いったい何事かと話に耳を傾ける。
ヘンリクは険しい表情でアイリに問う。
「もう殺した後か!?」
「なに?」
「イルマリ・スオラハティを殺したのかと聞いている! お前さんの所に奴が行ったのは調べがついてる! もうアンタはアイツを殺したのか!?」
「いきなり何を言い出すか。アレが私のもとに来たのは事実だが、何故に私がアレを殺さねばならん」
「そりゃ、お前、アイツが来たってことはアンタを口説きにきたんだろ? あの手の軽薄な輩の話なんて聞いて、アンタが黙っているわけないだろうに」
「……いったい私のことを何だと思っておるのだ。癇に障ったのは事実だが、その程度で人を殺したりはせんよ」
「本当かぁ?」
「貴様その顔本気で信じておらんな!? まてまてまてまて、いったいどういうことだ。私は機嫌で人を殺すような道理の通らぬことはしておらんだろうに!」
「いや、そりゃ、そうだが……ほら、アンタなら道理も適当にそれっぽく整えてぶっ殺しにかかるかなーって。何、本気で殺す気無いのか? アイツあれでスオラハティ家期待の世継ぎなんだから、殺されたりしたら相当面倒くさいことになるんだぞ。頼むからアレを襲うなんて止めてくれよな」
「だーからやらんと言っておろうが!」
「むう、なら、いいんだが。いいな、絶対やんなよ。この後でアイツ死んだらアンタのせいにするからな? 頼むぞホント」
くどい、と言ってそっぽを向いたアイリ。苦笑しているイェルケル、そしてレアがヘンリクに問うた。
「アレ、生かしておいても、良いことないんじゃ? 被害者、もういるでしょ」
「今のところは上手く丸め込んでいる。後始末も破綻していないし、嫉妬以外の恨みはそれほど買ってはいないようだ。ま、今回相手を誤ったのは、奴にとっても良い勉強になっただろうよ」
「随分と、味方する」
「邪推すんな。あの程度の馬鹿なら更生可能な範疇なんだよ。スオラハティ家もきちんとしているしな。今は少しタチの悪いのとつるんでいるが、今回の件で懲りたんなら多少は貴族の自覚も出てくるだろ」
「更生。私たちには、縁の無い言葉」
「だれもアンタらにそんなもん期待しちゃいない。少し、真面目な話だ。アンタら、この後どう動くつもりか聞いていいか? 王都に腰を落ち着けるのか?」
レアとアイリはイェルケルに目を向ける。
イェルケルは特に隠すつもりもないので正直に言った。
「イジョラに向かおうと思っている。私たちは少数だしな、隠密、偵察には向いていると思うんだ」
「そう、か。それは誰かに勧められた、とか?」
「いいや、私がそうしたいと申請をあげた。宰相閣下は少し渋ったようだが、申請は通ったよ」
ヘンリクはまじまじとイェルケルを見つめるも、イェルケルは不思議そうに見返してくるのみ。
一つ、小さく嘆息すると、ヘンリクはこの話を切り上げた。立ち去り際、アイリにイルマリを殺さないよう念を押して彼は屋敷を出た。
屋敷の入り口にはヘンリクの部下が二人待っており、屋敷の中で変事が起こったらすぐさま飛び込めるよう待ち構えていた。
幸い、そんな事態にはならず二人はほっと胸をなでおろしていた。
詰め所へと戻る道すがら、部下がヘンリクに問うた。
「どうしてあの方々をそこまで警戒されるのですか? 戦場でも武功第一ですし、闘技場の英雄でもある方ですよ。それに、もし事件を起こしたというのなら、それこそその時動けばいいじゃないですか」
ヘンリクは苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……もし、第十五騎士団が事件を起こしたとして。今のカレリアにこれを咎められる人間は存在しない」
「え?」
「二百人抜きを筆頭に、騎士団傭兵団を一人で潰すような奴が揃ってるんだぞ。どうやってそんなの逮捕しろってんだよ」
「あ、いや、ですが、五人にも満たないですし……王都の衛兵で取り囲めば……」
「千を超える軍にたった四人で突っ込んで勝っちまうんだぞ。王都の衛兵全部かき集めたって捕まえられるわけがない。アイツら捕まえようと思ったら万の軍で取り囲んでそのうえでこちらもかなりの損害を覚悟しなきゃならん。人を一人や二人殺した程度の罪でそこまでしてたら、とてもじゃないがワリに合わん」
法を守らせる立場の彼らからすればとても受け入れ難い話だが、逮捕しようと動いた結果被る損害を考えれば、おいそれとその罪を咎めるなんて真似ができないこともわかる。
「だから、そうなる前に釘刺しに来たんだよ。アイツらにとっても、国に咎められお尋ね者になるのは本意じゃないだろうしな」
部下二人はごくりと唾を飲み込む。この屋敷が国家ですら手に負えぬ猛獣の住処であると理解できたのだ。
ヘンリクは嘆息する。
「見た限りじゃあの王子は人の良い方みたいだがね。それと保有している戦力の大きさは別の話ということだ。本当に連中がイジョラに行ってくれるというのなら、王都の治安を預かる身としてはありがたいことこの上ないな」
事あるごとに愚痴や文句をアイリに言うヘンリクも、別にアイリを嫌っているというわけではない。立場上言わなければならないことを言っているだけで、そこにヘンリクの好悪は介在しない。
むしろ見せてもらった奇跡の剣技に、深い尊敬の念をすら抱いているのだが、それと任務とをきちんと分けて考えられる男なのである。