復讐
「美樹ちゃん!」
後ろから名前を呼ばれ、一瞬にして当時の気持ちが蘇った。
恐る恐る振り向くと、そこにはかつての義母がいた。
・・・
「美樹ちゃんだけが悪いわけじゃないのよ。正史だって悪いし、私だって悪いわ。」
その言葉が一番私を傷つけた。
「○○だけが悪いわけじゃない」という言葉は大抵、ほとんど○○が悪いが、そうさせた理由がほかの人にも少しはあるという○○を救うための言葉であると思う。本当のところは○○が一番悪いというのが大前提の言葉だ。不倫をして相手を妊娠させた正史が一番悪いに決まっている。もし仮に私が出来の悪い妻だったとしても、一番悪いのは何が何でも正史だ。
「正史だけが悪いわけじゃない。美樹ちゃんだって妻として至らない所があった事も悪かったのよ。」といわれるならまだしも。
更に「私だって悪いわ」と、まったく関係のない自分も悪い、みんなが悪いと言うことで正史の罪を薄めようとしているのだ。
「美樹ちゃんだけが悪いわけじゃないのよ」
その言葉に対する私の恨みは深い。
・・・
正史は1人っ子で、義母にとって正史の子供は初孫になる。結婚して初めてのお正月に「子供はいつごろ?何人くらいほしいと思っているの?」と聞かれ「まぁまぁ、焦らないで。まだ新婚三ヶ月なんだ。いずれは孫の顔くらい見せてあげるからさ。」と正史は義母を制していた。
しかし、そのいずれは来なかった。
私と正史のどちらかに子供を作るための欠陥があったというわけではない。むしろ、それすら確認することもなく私達の仲は壊れていった。
・・・
正史が浮気していると分かったのは、出張から戻ったカバンの中の洗濯物を取り出した時だった。名古屋の有名なロールケーキ屋から見知らぬ女性あてに宅配便の送り状控えが、ワイシャツのポケットから出てきた。そのロールケーキは、結婚前から正史が名古屋出張の時にはいつもお土産に買って来てくれていたものだった。小さく畳まれた送り状の差出の店名を見て、ここ2年はロールケーキを食べていないことに気付いた。
これが「女のカン」というやつなのか。
私は、正史が送り状の女と何かあると確信した。
・・・
それからは、今までは何とも思っていなかった事がすべて浮気と結びついていった。
いつもは一泊二日だった出張が、三か月前から二泊になることが増えたこと。どんなに遠い場所のゴルフ接待も、当日早起きして行っていたのに最近では前乗りするようになったこと。
どこぞの大女優のように大きく構え「浮気の一度や二度なんてことないわ」と言える妻でいたかったのだが、私の精神状態はついに限界に達し、最近では毎週のように土曜日の朝から日曜日の夜まで「仕事」と言って出ていく正史にしがみついた。
「全部知ってるの!マリって女の所に行くんでしょう!もう行かないで!」
そう言うと、全身の力が抜け玄関にへたり込んでしまった。正史ははじめ驚いて、その後はとても面倒そうな顔で「なんだ、知ってたんだ。じゃあ話が早いよ。別れてよ。」と言った。
・・・
月曜日の朝早く正史は家に帰ってきた。そのままマリの所に行って帰ってはこないと思っていた。
「さっき親にも電話で話したから」とだけ言い、スーツに着替えるとすぐに会社へいってしまった。
正史が出かけた後、義母からとても慌てた様子で電話があり、話が聞きたいとレストランのランチに呼び出された。
・・・
予約なしでは簡単に入ることが出来ないような、恋人同士がクリスマスディナーをする素敵なレストランのランチのコース。綺麗な料理が次々出てくるが、義母は最初から泣いていて「本当にごめんなさい。あの子がそんな事をしていたなんて、私信じられないわ。」
別れ話や正史の浮気の事ではなく、自分の子育てが間違っていたという後悔と謝罪ばかりだった。
「でも、美樹ちゃんに別れるつもりがんないって聞いて安心したわ。あの子の一時の気の迷いなのよね。浮気がバレて恥ずかしくて意地を張っているのよね。昔からそういうところがあったから、あの子。」そして、「私は何があっても美樹ちゃんの味方よ。あなたと正史の子供を抱くのが私の夢なんだから!」
味方だと言ってくれる、別れることを引き留めてくれる。私はまだその時、義母に感謝していた。義母の力を借りて、なんとか正史の気持ちが戻ってくるのを待とうと思っていた。
それから毎日、正史が出勤した後くらいの時間帯に「正史の様子はどう?」「喧嘩になっていない?」と電話があり、三日に一度は高級レストランでのランチ会合が行われた。
「別れたい」と言い続ける正史と、「頑張れ頑張れ」と応援している義母と、もうどうしてよいのか分からない私の状況は、良くも悪くも何も変わらなかった。
・・・
ところが事態は急変した。
義母からいつものレストランに呼ばれ、いつものランチコースよりも2ランク上のコースが注文され、正史からも聞かされてないことを告げられた。
「正史の相手、妊娠したんですって…」
そしてまたいつものようにハンカチを顔に当ててシクシク泣いている義母をなだめながら、運ばれてきた綺麗な料理をバクバクと食べた。三日に一度、昼から豪勢にランチのフルコースを食べ、必ず一人が泣き始めるという奇妙な2人の客を、この店のバックステージではどんな風に噂をされているのだろう。
相手が妊娠したのなら、私はもう別れるしかないと思った。そんな壁を乗り越えて今後正史と仲良く夫婦を続けられるわけがない。義母が落ち着いたら「もう別れます」と伝えようと思い、それほどお腹がすいていたわけではないのに、出てくる料理を味も分からないまま次々口へ詰め込んでいった。
義母の涙が落ち着き、とっくにデザートと一緒に出てきた紅茶も冷めてしまった。料理には一つも手をつけず、水だけ飲んでいた義母にこれ以上泣かれては面倒だと、出来るだけやんわりと、私も別れを決めたことを伝えようと言葉を選んでいたとき、義母から先に話し始めた。
「美樹ちゃんだけが悪いわけじゃないのよ。正史だって悪いし、私だって悪いわ。」
義母は日本語が弱かったか。それとも本気でそう思っているのか。
「美樹ちゃんだけが悪いわけじゃない」
この件に関して、私のどこが悪かったのか。全ては正史だけが悪いはずだ。
「あなた達に子供ができていればこんな事にはなっていなかったのかもしれないわね。あなたが悪かった一番の点は、すぐに子供を作らなかった事なのかもしれないわね。私の子育ても悪かったのかしら。まさか正史が浮気をした相手に子供を作ってしまうなんて。私、情けないわ。親戚やお友達になんて言ったらいいのかしら。」
この人は結局、自分のことしか考えていない。私の事より、正史の事より、自分を守ることが一番なのだ。いい大学を出ていい会社でバリバリ働く息子が結婚し、夫のリタイヤ後は息子夫婦の家の近くに住み、孫の面倒を見ながらのんびり過ごし、携帯の待ち受けを孫の顔にしてそれを友人に見せて「かわいいわね、幸せね」と言われる生活を作り、守ることが一番なのだ。
「私も別れる方向で考えてみます」と言おうと思っていたが、そう伝えることで義母が息子の不貞という苦しみから解かれ、数か月後には念願の孫を抱ける明るい未来になる。「美樹ちゃんだけが悪いわけじゃない」と言った義母をこの苦しみから解放させるのはまだ早い。
「私、がんばります。相手の子供はどうにかしてもらって、正史さんと別れずに済むように頑張ってみます」
私は義母を置いてレストランを出た。
・・・
正史は家に帰ってきても、相手が妊娠した話は一切してはこなかった。優しいのでも何でもない、正史は気が弱い。別れることで気持ちは変わらないのなら、強行的にでも私に対して別れ話をすすめたり、相手が妊娠した事を話せばいいものを、結局は母親を通さなければ何も話せないのだ。別れを決めた瞬間から、正史の事がどんどん嫌いになっていく。男らしくて頼りがいがあると思って信頼してきた正史を、ただの気弱なマザコン浮気男としか思えない。あの母親から生まれたというのも気持ち悪くすら思う。
今すぐにでも離婚届にサインをして家を出たかったが、それよりも私は、義母を苦しめたかった。
妊娠の話を聞いてから一週間がたった日、義母から連絡があった。いつもの高級レストランではなく、
駅の近くのカフェに呼び出された。
「私もよく考えたのよ。本当は美樹ちゃんと元に戻ってほしいの。美樹ちゃんはとてもいいお嫁さんだったから。でも、こんなことになってしまって本当に申し訳ないし、あの子も美樹ちゃんももう疲れてしまったでしょう。私もこれ以上美樹ちゃんに頑張ってなんて言えないわ。美樹ちゃんがかわいそうで。」
人を顔面から殴りたいと思ったのは初めてだった。もう、この人とレストランやカフェで会うのはこれっきりしたい。二度と顔を見たくない。
最後まで、嫁を思いやる良い姑として遺恨を残さないように終わらせるつもりだ。心置きなく孫を抱く準備をせっせとしているのだ。
「わかりました。別れます。」
私は荷物まとめて、その日の夕方、正史が帰ってくる前に家を出た。
・・・
最悪の離婚から二年、義母の話は友人との間で良い酒のさかなになってた。「高級レストランでの涙の会合」や「美樹ちゃんだけが悪いわけではない」と題した話で、一晩中飲めた。私が家を出た後も、「美樹ちゃんの今後の生活が心配です。夫の会社のつてで就職を紹介することもできます。なにかあったら何でも言ってちょうだいね。正史も反省して、美樹ちゃんとのことは良い思い出だったと言っています。私は美樹ちゃんの味方です」というメールが届き、ついに堪忍袋が爆発した私が「そんな綺麗事言われても、もう他人ですので頼ることはありません。正史さんと結婚した事を後悔しています。」と返事をすると、すぐに正史から電話があり「母は精神的に弱っている、もう酷いことを言わないでやってくれ」と言われ、その話も女子会では大爆笑のネタになっていた。
休日の午後、駅前の百貨店で買い物をした後の帰り道。後ろから「美樹ちゃん!」とよく聞き覚えのある声で呼ばれた。
二年前の何度も通った高級レストランの味も覚えていない料理と風景が一気に蘇った。
「義母だ…」
よく私に声をかけられたものだ。
振り向くと、白髪の増えた義母がこっちに向かって歩いてきていた。
「美樹ちゃん!久しぶりね、元気だった?」
社交辞令でも、私に元気だったかと尋ねられる図太さ。
「ええ」と返事をするのも聞かないうちに「もしよかったら、少しお話しできない?コーヒーでもおごるわ!」と、なかば無理やり近くにあった喫茶店に行くことになった。
もう、話したいことも聞きたいこともなかったが、元義母と偶然会い喫茶店でその後の正史の話を聞いたというのは今後の女子会最大のネタになると思った。
そのネタは、想像以上に面白いものだった。
「あなたにこんなことを言うのも何なんだけれど、正史の相手の女の人ね、スナックの女の人だったのよ。あなたとの離婚が成立したあと、赤ちゃんも生まれるんだから結婚もしなければならないし、一度家に連れてきなさいって言ったのよ。そうしたらその女の人ね、妊娠は嘘だって言って、結局家には来なかったし、正史もその後すぐに別れたみたいだわ。」
離婚してすぐの事だろうから2年程前の出来事なのに、義母の落胆の仕方はまるで昨日の話のようだった。最愛の息子の浮気と離婚と、浮気相手の妊娠の嘘。義母の描いた老後の夢が、次々と崩れていったのだ。
「こんなことになるなら、あの時もう少しあなたに頑張ってもらって、正史とよりを戻してもらった方がどんなに良かったか。」というと、「ねぇ、美樹ちゃんあなた、今はまだ独身よね?」と明らかに意図が見え見えの質問をしてきた。
この人はまだ、自分のことしか考えていない。せめて正史の気持ちも考えられないのだろうか。女子会のネタ作りのために来たはずが、あの頃の義母に対する憎悪の気持がみるみる蘇ってきた。
「私、今は独身ですけど今年中に結婚します。」というと、義母は一瞬落胆しながらも諦めず「お相手はどんな人?良い会社で働いてるの?幸せになれそうなの?」とたたみかけてきた。
もし、相手がそうでもない人なら「じゃあ正史と再婚なさい」と言うのだろう。この人のことは本当に許せない。たとえ今も正史のことを愛していたとしても、正史とだけは結婚しない。
この人を苦しめたい。「孫を抱きたい」なんてもう二度と言えないほどに心を壊してやりたい。私の人生が狂ったのはこの人のせいだ。
「とてもいい人です。子供も可愛がってくれて。あ、私、離婚してから半年後に子供を産みました。正史さんの子供です。男の子です。」
驚いてティーカップを落とす人を初めて生で見た。
義母の目と口はとても大きく開いていた。
「離婚するちょっと前に分かったんですけど、相手の人にだって子供がいるし、お義母さんにももう頑張らなくていいって言われましたし、子供ができたことを言ったらもっと厄介なことになると思って、言わずに別れました。
それに、相手の人に子供を諦めてもらったり、産んで認知して養育費を払い続けて、その存在にヤキモキしながらそれでも夫婦として上手くやっていく自信もなかったので、それなら、たくさん慰謝料を貰って一人で産んで育てていく方が健やかに過ごせると思ったんです。
おかげで、しばらくは仕事もせずに子育てに専念できましたし、最近仕事を始めたら結婚してくれる良い人にも出会えました。
だから、私はとても幸せなんです。心配はいりません。」
「こ、子供の名前は?」
「正樹です。正しいに樹木の樹。」
何度も何度も見たハンカチを取り出して、義母はのどが痙攣するほど泣いた。
「ま・・・さき・・うぅ、うぅ・・・」
「正史は知らないのよね?正樹ちゃんに会いたいわ、良いでしょう?せめてあなたが結婚する前に、私とお父さんと正史と一緒に会わせてくれないかしら?」 義母はヒクヒクしながら身を乗り出して私の手を掴んだ。隣の女性2人組は興味津々でこちらの様子を気にしている。
「すみません、会わせたくないです。」
「お願い、孫の顔を見るのが私の夢だったのよ。正史の子供に会わせてちょうだい。お願いよ。」
義母は私の手を強く強く握り、涙でぐしゃぐしゃになった顔をで私の目を見てきた。
「お義母さんだけが悪いわけじゃないですよ。正史さんも悪いし、私も悪いです。だから、すみませんけど、会わせられません。」
言えた。
「正樹を人に預けているので、そろそろ帰らないと。コーヒーごちそうさまでした。」
そう言って、喫茶店を出た。
孫会いたさについて来ないとも限らないので、小走りで駅とは反対の方向へ向かった。