腐ってもジャスティス‼
ショートショートになります。(3,721字
少しばかり自己主張の激しい香りが、ぼくの鼻腔をくすぐった。
正直この匂いはぼくの嗜好と相反するものだ。初めのうちはそのことを告げて香水のリリーフを要求したものだけれど、人間というやつは変化に敏感であっても、敏感であり続けることはできないらしい。いつの間にかその匂いに抵抗は無くなっていた。それどころか、彼女の存在を知らせてくれるその香りに、愛おしさすら覚え始めたのだから本当に人はいい加減だ。
「ヘイ、彼女」
「ヘイ、彼氏」
彼女はぼくとハイタッチすると、隣の席に腰を下ろした。ぼくらの前には誰が聞いているかも知れない教師が、世界の平和を訴えていた。
「テレビ、見た?」
彼女がアイシャドーをのせた両目を、ぼくに近づけて尋ねた。
「見たよ。王子さまが村の娘の手の甲に、誓いのキスをするんだ」
差し出される彼女の手を、そっと重ねて握りしめた。
ぼくらは白昼夢の下にいた。
彼女と初めて出会ったのは、ぼくがザクロの夢を4つ数えたころだった。
手を取りキスをし抱きしめ合って、気付けば同じ道の上、同じ場所にぼくらはいた。
あのころから何一つして変わらない。いつまでも。そして、これからも。
少し変わったことと言えば、彼女が入学と同時につけ始めた香水の香りくらいだろうか。
久しぶりに彼女の家を訪れた。
相変わらず女の子然とした、可愛らしい部屋だった。
「カップに入ったミルクをどうぞ」
「お構いなくでも受け取ろう」
ぼくらは互いを知っていた。だからずっと傍にいた。
それが嘘だとわかるまでは。
「なんてこった。君の体は腐っているじゃないか」
電気をつけて、ぼくは彼女の上半身を凝視する。
彼女の体は腐っていた。胸の下、下腹部、背中にかけて―――カビが生えたように醜い模様となって変色し、そこから鼻がひん曲がるようなひどい腐臭を発していた。
「ぼくは君を何と呼ぶ。知っているともゾンビのことだ。腐った体を引きずって、動く輩をゾンビというんだ」
「いいえ違うわゾンビじゃないわ。ゾンビは生き物として死んでいる。動く屍。でも私は生きている。生きているけど腐ってもいる。ただそれだけ」
彼女が腐敗した部位を指でこすると、ぽろぽろと体の一部が崩れていく。ちぎれかすが、降り落ちていく。
「別に私だけじゃないのよ。他の何人もの人間だって、私のように腐り始めている。みんなそれを隠しているの」
彼女は衣服を身にまとう。服を着てしまえば、隠してしまえば、それこそ普通の人間と変わりない。その臭気を除けば。
「あなたが知らないだけで、みんなどこかしら腐っているのよ。それは私のように体かもしれないし、心かもしれない。むしろ目に見える分、私の方がましだと思うのだけれど」
彼女はぼくの手を優しく持ち上げる。いつも通りの感触、覚えている温かさ―――そこに嘘偽りはない。故に、この気持ちは嘘ではない。この気持ちは本物である。
「ぼくは腐っていても君を愛することができるだろう。心は有機物ではないから。この思いは決して消えることはないだろう」
「ありがとう。あなたならそう言ってくれると思っていたわ」
ぼくと彼女は抱きしめ合う。互いを真に知り合えたことを喜ぶように。
「近々私たちは決起を起こす。この人間社会に反乱を巻き起こすの。私たちの体より、この世界の方がよっぽど腐っているもの。あなたにも協力してほしい」
「わかった。それが君のためになるならば」
彼女が部屋を後にすると、ぼくは見計らって自分の荷物の元へと向かう。
鞄から拳銃を取り出して、背を向けている彼女の頭部を撃ち抜いた。
勢いよく彼女の体が倒れると、そのまま動かなくなった。赤い血の池に沈むその肉塊を、ぼくはじっと眺めていた。
「さようなら。ぼくは君のことを愛していた。けれど、その腐ったゴミ溜めのような臭いだけは、どうしても許すことができなかったんだよ」
そうして人類と腐った奴らとの腐敗戦争が始まった。
腐敗は伝播する。さながら箱の中のリンゴのように。
腐ったものは処分しなければならない。腐るということは、テーブルの上か、ゴミ箱の中か―――そのどちらに放り込まれるかの裁定基準であるのだ。
世界中に腐敗のパンデミックを起こしてはならない。
すべては世のため人のため。
腐った輩はいざ知らず。
人類討伐、ゴミ滅却。
腐った正義か、腐っても正義か。
ぼくらは審判を受けていたのかもしれない。
ぼくはゴミの処分場に来ていた。
やはりというべきか、あたりは腐臭で溢れていた。
人間というやつは、ただでさえ火葬すれば臭うというのに、元から臭いものを焼くのだからそれはそれはひどいものである。
「中尉」
そうやって階級で呼ぶのは、同じく腐敗討伐軍に所属するぼくの部下であった。
「北部一帯の腐敗分子の掃討は、ほぼ完了したとのことです。中尉には引き続き、処分場の指揮・管理を―――との上からの命令です」
「わかった。引き続き腐りものは見つけ次第即処分せよ。警戒も怠るなよ」
了解を示す敬礼を見送り、ぼくは処分場を後にした。
外に出てみると、やはり周囲はひどい臭いがした。
腐敗の臭いと遺骸の臭い、それらを火にかけて焦がした臭いと火薬の臭い―――そうしたあらゆる臭いがぼくの嗅覚を殺し、腐らせてしまいそうだった。
がれきの上のビルに取りつけられた巨大スクリーン―――そこでは腐敗討伐軍が『人類浄化』を謳い、喧伝する。
『腐敗は生の堕落である。堕落したものは、もはや人とは呼べない。今こそ人類が一丸となって戦うべきだ。これは聖戦である』―――そんな内容の演説を、繰り返し放送していた。
最初はバラバラだった人々も、壊れたカセットテープみたいに同じことを言うようになった。既に腐敗分子が各地で武装蜂起していたこともあり、恐怖に駆り立てられた人々は腐敗討伐軍を支持した。
今や世界中で争いが巻き起こっていた。しかしどこにも戦争や虐殺はなかった。
腐った奴らに人権などない。だから我々がやるのは掃除だ。自分たちも汚れないように、きれいにしているだけなのだ、と。
そうやって積み上げられたプロパガンダは、今度はどんな腐敗を隠そうというのだろうか。
ああ、君の言うとおりだったかもしれない。腐っていたのはこの世界の方なのかもしれない。かつて愛した人の言葉が、今更ながらぼくの耳をつんざいた。
腐りものを排除し、人々を守る―――そんな片割れの正義を振りかざしたところで、胸の内に巣くうむなしさは消えなかった。彼女を手にかけたあの時から。
正しさとは、正義とは、世界とは何か。それを説明するには、ぼくの脳はあまりにちっぽけで、けれど何かが違うと叫ぶ自分を、嘘だとは思えない。
少なくとも、この臭いはぼくにとって耐えがたいものなのだから。
「中尉」
声の方角を向くと、先ほどの部下がぼくの後ろに立っていた。
「どうした?」
ぼくの問いに応えるように、部下は手元の銃を構えた。
「中尉の命令を実行します。腐りものは見つけ次第即処分せよ、と」
ぼくはゆっくりと鼻頭に手を伸ばした。触り慣れない感触と共に、潰れ崩れていくゴミが足元に降り落ちるのを、視界の隅で捉えた。
「なんてこった。腐っているのはぼくの鼻じゃないか」
どうりで臭いが消えないはずだ。そして今まで気付かなかった自分が、ひどく滑稽に思えた。
こうして気付かなかったのは、いつの間にかこの臭いに慣れてしまっていたからだろう。
銃で撃たれて死ぬそのときまで、ぼくは許せなかったはずの臭いにさえ慣れてしまった自分を、ただただ恥じるばかりだった。
「母ちゃん、いい加減このマスク外してもいーい?」
「あんた駄目よ! まだウイルスがそこらを飛んでるかもしれないんだから」
「もう外しちゃったー!」
少年はガスマスクを外すと、けらけらと笑いながら部屋の中を走り回る。
「はあ……、家の中だけよ。外では絶対外しちゃだめだからね」
母親はため息交じりにそう告げる。その視線の先にはテレビの『腐敗誘発ウイルス警報発令中』のテロップが画面下に流れている。番組では地上から一切の腐敗分子は除去され、人類は未曾有のパンデミックに勝利した、と繰り返し述べられていた。
「じゃあ行ってきまーす!」
「こら! ちゃんと着けてから!」
玄関口までついて来て注意する母親を前に、少年は自らガスマスクを装着する。
これでいいでしょ?と言わんばかりに見せつけて、ようやく母親は頷いた。
「今度こそ行ってきまーす」
少年は弾けるように家を出て、学校へと向かって走り出した。
少年は外気と隔絶されたマスク越しに世界を眺める。
道行く人々は皆一様にマスクをつけていた。顔も見えない彼らこそ、腐敗に勝利した誇るべき人類であり、マスクはその勲章だった。
少年にとってマスクは、生まれたときからの習慣に過ぎなかった。
息苦しい、窮屈だ―――そんな言葉と共に外すのは、常に大人の側だった。少年をはじめとする子供たちにとって、それを着けるという行為は生きることそのものであり、そこに苦痛や快楽を覚える余地などなかった。
(でも、少しは便利に思うことだってあるんだ)
少年はマスクの内側で笑いながら、がれきの上を軽快に飛び跳ねていく。
年のわりにどこか不釣り合いな母親の香水―――その臭いを嗅がずに済むくらいには、こいつも役に立つ。