門
氷魚の体を借りて現れたのは、今は亡き親友で、氷魚の兄でもある柘榴だった!
蒿里で、剣の師匠であった、彼女の母に氷魚を託された瑪瑙は、現世への帰還を決意するのだった。
氷魚は、一面、真っ白な砂利の上に佇んでいた。
目の前には、見たこともないような、碧く、静かな海が広がっていた。
「きれい…」
砂利は、白い石英。
柔らかな日射しに、繊細な輝きを放っている。
「戻らないのか?氷魚」
聞き覚えのある、静かな声に、氷魚はふり返った。
「お母さん!?」
「こんな場所で、会うことになるとはな…氷魚、何を迷っている?」
「え?」
氷魚は、瞠目する。
「迷っているんだろう?戻るべきか、ここに留まるか」
氷魚は、小さく頷いた。
よく考えてみると、瑪瑙の村が襲撃されたのも、兄の柘榴が死んだのも、すべて、自分が狙われていたからではなかったか。
「あたしは、お荷物なのよ…いつも『何も知らなかった』で守ってもらってばかり」
「そうか?本当に、そう思うのか?氷魚」
「どうして?」
「では、どうして今ここにいる?お前は、あいつを守ったのだろう?攻撃が、村に及ばぬようにと、戦ったのではなかったか?」
「そう、よ…だけど、だけど、もうイヤ…関係のないヒトたちまで、巻き込んでしまう!あたしなんて、いらないのよっ!このまま目も覚めなきゃいいわっ」
「そんなことを言ってはならない!氷魚、必要のない者など、ありはしない、お前は一人じゃないよ、よく周りを見るんだ。いいね、生きなさい、どんなことがあっても」
「瑪瑙に、瑪瑙に…会いたい!」
氷魚の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちていく。
「そうか、アレを…愛しているんだね」
(氷魚、こんなに…魂が傷だらけになる程まで)
その時、頬にぽつり、と雫が落ちてきた。
雨、だった。
「いいタイミングだ…」
氷魚の母が言ったとき、背後で砂利が鳴った。
「氷魚…やっと、見つけた!」
そこには、ずぶ濡れで立つ瑪瑙と、柘榴がいた。
「兄さん…瑪瑙!!」
氷魚は、勢いよく瑪瑙の胸に飛びつく。
「っとぉ!たく、心配させやがってお前はぁ〜」
「ごめんなさぁい…」
「やーれやれ、見せつけてくれるな…お前たち」
と、氷魚の母。
二人にその会話が聞こえるはずもなく、堂々と恥ずかしげもなく、口づけ合う氷魚と瑪瑙。
「さあ、悠長にしてられない、早く戻らないと」
柘榴は、瑪瑙から氷魚を引き剥がして言った。
「そ、そうだ…急がねぇと、身体が持たねぇんだった!帰るぞ氷魚」
「ど、どうやって!?あたし、帰り方分かンないよ」
「大丈夫、落ちついて…俺が案内するからね」
柔らかく笑って、柘榴が言う。
「瑪瑙、氷魚を頼んだよ…どんなことがあっても、離すんじゃない、しっかり捕まえときな」
氷魚の母は、瑪瑙と氷魚の手を取って、握り合わせてから笑った。
「分かりました、師匠…ありがとうございます」
「いい。早く行け、時間がないのだろう?」
「はい…氷魚、行こう」
瑪瑙は、氷魚の手を引いて歩き出す。
その先には、柘榴が微笑みながら待っていた。
「お母さん!あたし、生きるね!?」
「そうだ、それでいいんだ…幸せになれ、氷魚」
「ありがとうっ!!ありがとう…」
母の姿が、見えなくなっても泣きやまない彼女の肩を、瑪瑙は優しく抱き寄せる。
すると、氷魚は少し落ちついたのか、瑪瑙の肩あたりに頬を寄せた。
「さて、着いた。ここが『門』だよ」
柘榴の声に、顔をあげると、そこは、いつの間にか森の中だった。
森を分断する、大きな川に架かる橋の前に、三人が立っていた。
「すごーい、キレイ…ガラスの橋なんて、初めて見た」
氷魚は、橋から乗り出して、下を覗く。
川の水は、水底の色が、はっきり分かるほどに澄んでいた。
「瑪瑙、妹を…氷魚を頼むよ。君たちには、幸せになってもらいたい」
「柘榴…」
「これで安心できる、君たちなら、定めにも打ち勝つことができるだろう。さぁ行って、橋を渡れば戻れる」
「兄さん!?」
氷魚は、振り向いて兄を呼んだ。
「俺は行けないよ、氷魚。戻る体がないからね…でも、大丈夫だよ。また会えるから」
「ほんと?」
聞く、氷魚の声は涙声になっていた。
「うわわ、大丈夫だよ、本当さ、だから泣かないで…ね?」
「う、うん…」
「じゃあ、また会うその時まで、先に向こうに戻っててくれよ、な?氷魚」
「そだね、分かった…そうする、ね?瑪瑙」
「だな、そんじゃ戻っか」
「うんっ」
涙を拭って氷魚は、瑪瑙と手を繋いでから言った。
さよなら、は言わない、また、必ず会えるのだから。
二人が橋を渡りきると共に、辺りを、白くまばゆい光が包んだ。
光が治まると、柘榴は青く、どこまでも高い空を見あげる。
「俺も、戻るとするかな…」
風が、柔らかくそよぎ、彼の赤く、鮮やかな髪を揺らした。
次に風がそよいだとき、そこに、彼の姿はなかった。
「氷魚、氷魚…」
低く、優しい声が、氷魚の耳朶を擽る。
「ん…」
うす目を開くと、心配そうに覗き込む、瑪瑙がいた。
「大丈夫か?傷、痛むか?」
「平気、だよ…ごめんなさい、あたし、瑪瑙に謝んなきゃね」
「んん?そりゃ、ちと違うんじゃねぇか?」
弱々しく言う彼女の頭を、くしゃり、と撫でて瑪瑙は言った。
「え?なにが…」
氷魚は、ベッドからゆっくり起きて、瑪瑙と向き合う。
「むしろ、こっちが礼を言いたい、お前…村を守ってくれたんだよな?師匠から、話聞いたぜ」
「うん…」
「ありがとな、けどなぁ…それよりも、もっと自分を大切にしろ!もう、自分一人の体じゃねぇんだよっ」
「きゃ!」
氷魚は目を閉じ、身をすくめて小さくなるが、温もりを感じて、おそるおそる目を開けた。
「め、瑪瑙?」
抱き締められていた。
氷魚は、そっと瑪瑙の髪を撫でてやる。
彼は、怒っているのではない、悲しんでいるのだと、氷魚は、心の深部で思った。
「夫婦だろ?俺たち…もっと、頼ってくれよ…なぁ氷魚」
「迷惑、かけたくなかったのよ、村も、やっと落ちついたのに」
「もういい、いいから…勝手にいなくなるんじゃねぇ、無事で、よかった。お前が、何ともなくて、よかった」
「ごめんね、ごめんなさい瑪瑙。でも…あたしたちって、まだ結婚式してないわよ?だからまだ…」
「いらん、ンな細かいことはいい。そういうことにしとけ…事実上、何ら変わりねぇんだからよ」
「まったく、もう…」
二人は、しばらく見つめてから、笑い合った。
「安心したら腹減った…何か食おう、食えるか?氷魚」
「もちろん…あたしもお腹空いちゃった、もう、何日も、何も食べてないような気がしてさ」
「同感だ…」
「あたし、何か作るよ…助けてもらいっ放しだしねっ」
「ばっ、バカっ無理すんじゃねぇっ」
「無理じゃないよー、もう元気。瑪瑙のお陰で」
「足元、ふらついてンだろお前…分かった、分ぁかったから、そんな目で見るなよ。俺も手伝うから、辛くなったら、ちゃんと言うんだぞ?」
「うん、分かったっ」
満面の笑みの彼女に、瑪瑙は、一気に赤面して、頬を掻いた。