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「ロシュ様、そろそろ林を抜けます。私をおろしてください」
馬の走る音が林の中に響き渡る中、エレナは必死にロシュにむけて叫んだ。
自分を背後から力強く抱きしめるロシュを町の人が見れば、噂はあっという間に広まる。
エレナは独身であるが、ロシュは結婚している身。
エレナは己を力強く抱きしめるロシュの腕を必死にはがそうとする。
体中が痛みに悲鳴をあげている。
ロシュの力強い腕のせいで、痛みも増している。
ロシュもその事には気づいていたが、どうしてもエレナの体を離す事はできなかった。
「町の者に見られても気にしない。むしろ俺の愛する者がお前であるとはっきりと知れ渡す良い機会だ。」
そんなロシュの言葉にエレナは抵抗をやめ、驚いたようにロシュを振り返った。
ロシュは真直ぐ前を向いたままで、エレナを見る事はなかったが、エレナはロシュのその瞳を見て、ロシュは嘘をいったのではないと悟る。
「なにを・・仰っているのですか・・っ」
今迄平凡に暮らしてきたエレナ。
初めて受けた拷問の最中でさえも、ロシュが助けに来た際にも、決して泣く事がなかったエレナ。
そんなエレナが初めて涙を見せた。
エレナの涙に気づいたロシュは静かに馬を止め、エレナと視線を合わせる。
「・・・届いた手紙には、お前は拷問を受けている最中にも泣かないと書いてあった。」
ゆっくりと紡がれるロシュの言葉。
ロシュは涙のつたうエレナの頬にそっと包み込むように手を添えた。
「助けにいった時も泣いていなかった。」
エレナはとどまる事のない涙を流し続けた。
「俺はお前の涙を初めて見たよ。」
ロシュは涙を流すエレナの瞳にそっと口づけを落とした。
「ロシュ様っ・・・」
すでに泣き声をあげているエレナ。
「すまなかった。お前は俺の身分や素性を知らないと思ったから、結婚のことについても何も伝えなかった。俺はお前と愛し合っているということだけで満足だった。そのせいでお前につらい思いをさせた。」
「そんなっ、辛い思いなどしておりません」
泣きながら言うエレナにロシュは苦しげに言葉を返した。
「いや、俺が結婚していると思っているお前からしてみれば、自分の事を愛人のように思っていただろう?すまなかった。だが、信じてくれ。俺にとってお前は恋人であり唯一の人だ。」
エレナはそんなロシュの言葉に顔を上げるとロシュの顔を覗き込む。
「唯一・・・?恋人・・・」
戸惑うように紡がれるエレナの言葉にロシュは苦笑をもらす。
「あぁ、俺は結婚をしている事になっているが、妻はいない。・・・だが、そうだな。ちょうどいい。」
途中からロシュは何か思いついたかのように、嬉々とした表情をし、独り言のように言葉を連ねた。
「結婚をしているけれど、奥様はいない・・・?え?ロシュ様?」
そんなロシュの言葉や態度に戸惑うエレナは首をかしげ、ロシュを見る。
「しっかりと前を向きなさい。」
ロシュは戸惑うエレナを放置し、また馬を走らせた。
エレナはいきなり走り出した馬に慌てて前を見る。
そんなエレナの体を先ほどよりは力をゆるめ、エレナの痛む体をいたわりながらも抱きしめているロシュの表情は林に来る前とは打って変わって晴れ晴れとしたものであった。
そしてエレナの体に緊張が走る。
林をぬけ、ギュールに入ったのだ。
「ロシュ様っ、せめて腕をお離し下さいっ」
焦るエレナの言葉は無視しながらロシュはギュールの町をかけぬけた。
血だらけになった第1騎士団の団長が、何故かちょっと機嫌良さそうな顔をして、愛しそうに抱きかかえる娘と共に、ものすごい早さで町をかけぬけている姿を、町の民達はしっかりと見ており、瞬く間に町中の人間が知る出来事となった。
「あれは、あの奥様かい?!今迄みた事がなかったが」
「きっとそうだろうさ!あんなに愛しそうに抱いているんだから!」
「だが、奥様も血だらけだったぞ?何があったんだ?」
町中をとびまわる噂話。
すでにロシュが抱きかかえていたのはあの有名なおとぎ話の奥様だと町中の人間が認識した。
だが、一人だけ。
エレナのことを良く知っているジョバンナだけは違った。
姿を見せないエレナ。心配して家にいってみれば、キッチンの窓が割られていた。
ジョバンナは慌てて王城へと走り状況を説明し、行方不明届けを出した。
だが、瞬時に広がった町中を飛び回る噂の奥様の容貌を聞いたジョバンナはハッとする。
「・・美しい金髪・・・血だらけ?・・・」
ジョバンナはぶつぶつと独り言をつぶやきながらも、何故か自分の予感があたっている気がしてならなかった。
「キッチンの窓が割られて、エレナはいないし、血だらけで団長様と戻って来て、しかも金髪・・・。」
ーーーエレナの言っていた相手があの有名な団長様であったとしたら、確かにエレナの恋は叶う事がないだろうが、噂では愛しそうに抱えていたとなっているし・・んー・・・。ーーー
口に出して独り言をつぶやいたり、心の中でうんうんと唸って考えてみたり、ジョバンナは息子のカールが遠巻きに怯えているのには気づかず、長い間リビングで考え続けるのであった。
エレナはというと必死に自分が誰だかわからないようにと、顔を隠していたが、王城に入る際、そんなエレナの苦労は無駄になった。
ものすごい早さでかけてくる血だらけのロシュの姿に門番達は慌てて門を開く準備をする。
門に衝突するあと一歩というところで、馬の嗎と共にとまったロシュは軽やかに馬から降りる。
門番は門をあけ、馬を引き取ろうとするが、馬に乗った美しいが血だらけの女に気づきぎょっとする。
そしてロシュの言葉や態度にさらに驚く。
「エレナ、降りられるか?手をかせ。」
ロシュは門番の事など気にしないかのように、甘い声音でエレナと呼ばれた馬上の女に声をかける。
ロシュの手をかり、馬から降りたエレナは、自分の足で歩こうとするが、またもやロシュに阻止され軽く抗議の声をあげた。
「ロシュ様!もう本当に大丈夫ですから・・っ」
そんなエレナを遮るようにロシュは優しく微笑みながら門番をさらに仰天させる言葉を囁く。
「エレナ、愛するお前が俺のせいで怪我を負ったのだ。これぐらいして何が悪い。」
エレナもそんなロシュの言葉に驚き抵抗するのを忘れ、呆然と抱きかかえられたまま城へと入るのであった。
はっきりとエレナの名を呼び、愛する者だと告げたロシュ。
エレナはロシュが言っていた「結婚はしているが、妻はいない」という言葉を未だ理解していなかったが、今迄は持つ事ができなかった希望が自分の胸の中で静かに灯るのを感じるのであった。