金脈
趣味砂金採りを初めて題材にしてみました
雨のあとだった。
川は茶色く濁り、水位も高い。
高瀬恒一は、浅瀬にしゃがみ込み、無言でパンを揺らしていた。
隣では息子の悠真が長靴のまま水を蹴っている。
「パパ、カニ!」
「逃がしてやれよ」
「写真だけ!」
悠真は笑いながら石をめくる。
恒一は小さく笑った。
風が冷たい。
山の水の匂いがした。
休日の川遊びなんて、本当は疲れるだけだと思っていた。
だが最近、こういう時間だけは嫌いじゃなかった。
家にいると、何となく息が詰まる。
妻との仲が悪いわけではない。
むしろ穏やかだった。
穏やかすぎるくらいに。
夜は別々に寝ることも増えた。
会話はある。
笑いもある。
でも、何かがずっと止まっていた。
「パパー!」
悠真が川の中で手を振った。
「なんかキラキラしてる!」
恒一は立ち上がり、ゆっくり近づく。
子どもの見つける“宝物”なんて、大抵はガラス片だ。
だが。
悠真の小さな手のひらに乗っていたそれは、妙に重かった。
薄く、鈍い黄色。
恒一は指でつまむ。
沈むような重み。
心臓が、一瞬だけ止まる。
「……すご」
悠真が目を丸くする。
恒一は慌てて笑った。
「ただの金属だろ」
そう言いながら、もう一度それを見る。
川の流れの音だけが、急に大きく聞こえた。
その夜。
恒一はリビングで一人、スマホのライトを点けていた。
テーブルの上に、昼間の小片。
缶ビールはぬるくなっている。
検索画面。
“砂金 本物 見分け方”
“比重”
“金 川”
スクロールする指が止まらない。
後ろで、寝室の扉が少し開いた。
「まだ起きてるの?」
妻の美咲だった。
恒一は反射的にスマホを伏せる。
「ああ……ちょっと」
「また動画?」
「そんな感じ」
美咲は眠そうに笑う。
「明日仕事でしょ」
「うん」
「先寝るね」
扉が閉まる。
恒一は、伏せたスマホをゆっくり戻した。
検索結果の文字が白く光っている。
——自然金。
——高純度。
——旧鉱山流域。
呼吸が浅くなる。
もう一度、小片を指でつまむ。
冷たい。
なのに、妙に熱かった。
次の土曜。
恒一は一人で川へ来ていた。
理由は自分でも分かっていた。
確認だけ。
本当に、ただそれだけ。
悠真には「今日は危ないから」と言った。
雨のあとで増水している。
嘘ではない。
パンに砂を入れる。
揺らす。
黒砂が沈む。
その下に。
また、あった。
昨日より大きい。
恒一の喉が鳴る。
周囲を見る。
誰もいない。
山道の奥で、鳥が鳴いた。
急に怖くなった。
ポケットへ入れる。
さらに掘る。
砂利の下。
岩盤。
その割れ目に、黄色が残っている。
呼吸が止まった。
時間も止まった気がした。
世界から音が消える。
水だけが流れている。
恒一は、その場にしゃがみ込んだまま動けなかった。
恒一は、その日何も採らなかった。
採ろうと思えば採れた。
パンの底に残った金色は、これまでとは明らかに量が違っていた。
だが、触るのが怖かった。
代わりに周囲を見続けた。
山道。
河原。
対岸。
誰か来る気がした。
誰も来ない。
それでも落ち着かなかった。
帰り際、恒一は自分の足跡を川水で消した。
自分でも意味は分からなかった。
家に着くと、庭先で悠真が自転車に乗っていた。
「パパ!」
無邪気な声に、恒一の肩が跳ねる。
悠真が不思議そうに止まった。
「どうしたの?」
「……いや」
恒一は笑おうとした。
頬が引きつる。
「転ぶなよ」
「もう転ばんし」
悠真はまた走り出す。
その後ろ姿を見ながら、恒一は急に吐き気を覚えた。
ポケットの中の重みが気になる。
まるで誰かに見えているみたいだった。
夜。
風呂場で、恒一は採ってきた粒を洗っていた。
換気扇の音。
水滴。
指先に残る金色。
思ったより柔らかい。
本物だ。
その瞬間、嬉しさより先に恐怖が来た。
鏡を見る。
自分の顔が、少しだけ知らない顔に見えた。
「最近さ」
夕食中、美咲が味噌汁を置きながら言った。
「川ばっかだね」
恒一の箸が止まる。
「そうか?」
「なんか楽しそうだけど」
責める口調ではない。
ただの会話。
それなのに、心臓が強く鳴る。
悠真が言う。
「パパ、金探してるんだよ」
恒一の背中に冷たいものが走った。
「……悠真」
「え?」
「変なこと言うな」
声が少し強かった。
悠真が黙る。
美咲も一瞬だけ止まった。
静かな空気。
恒一はすぐ後悔した。
「いや……ごめん」
味噌汁を飲む。
熱さを感じない。
悠真は気まずそうにご飯を食べ始める。
美咲は何も言わなかった。
深夜二時。
恒一は一人で床下収納を開けていた。
懐中電灯の光。
工具箱の奥。
タッパーの中に、ジップ袋を入れる。
その中で、金色が鈍く光った。
たった数日。
それだけなのに。
もう銀行に預ける気はなかった。
警察も嫌だった。
役所はもっと嫌だ。
知られた瞬間に終わる気がした。
蓋を閉める。
その時。
二階で、床が鳴った。
恒一の動きが止まる。
ギシ。
小さな足音。
悠真だ。
トイレかもしれない。
なのに、恒一は息を止めたまま動けなかった。
まるで、 “見つかった” 気がした。
悠真の足音は、そのままトイレで止まった。
水が流れる。
また静かになる。
恒一はようやく息を吐いた。
額に汗が滲んでいる。
床下収納を閉める手が震えていた。
自分が何を怖がっているのか、もう分からなかった。
それから恒一は、毎週川へ通った。
休日だけでは足りなくなった。
仕事帰りにも行く。
夜の川は暗く、冷たい。
ヘッドライトの灯りだけで砂を掘る。
泥に触れていると、時間の感覚が消えた。
金は出続けた。
細い筋のように。
岩盤の裂け目の奥に。
量はまだ少ない。
だが、確信があった。
下にある。
もっと深く。
もっと大量に。
その考えが、一度頭に入ると離れなかった。
会社でミスが増えた。
報告を忘れる。
会話を聞いていない。
同僚の佐原が笑いながら言った。
「最近ぼーっとしてるな」
恒一は固まる。
「……何が?」
「いや、疲れてんのかなって」
普通の会話。
なのに、探られている気がした。
どこかで見られている。
車か。
スマホか。
いや、美咲かもしれない。
帰宅後、恒一は初めて妻のスマホを見た。
寝ている間に。
ロック画面を開こうとして、途中で手が止まる。
何してるんだ。
自分で自分が気持ち悪かった。
だが、川へ行くのはやめられなかった。
秋の終わり。
恒一は河原で、別の掘削跡を見つけた。
新しい。
昨日か今日。
スコップの痕。
泥の崩れ方。
誰かいる。
胸が冷たくなる。
周囲を見回す。
山。
川。
無人。
だが確実に、誰かがここを掘っている。
恒一はその日、一睡もできなかった。
翌週。
河原に軽トラが停まっていた。
老人が一人、川を見ている。
釣り人にも見えた。
ただ立っているだけ。
恒一は車内から動けなかった。
老人がこちらを見る。
目が合った気がした。
恒一はエンジンをかけ、逃げるように帰った。
「最近、本当に変だよ」
ついに美咲が言った。
夜。
リビング。
悠真はもう寝ている。
「何が」
「ずっと誰か疑ってるみたい」
恒一は黙る。
「この前もカーテン何回も見てた」
「……別に」
「ねえ」
美咲の声は静かだった。
「何かあるなら話して」
恒一は言えなかった。
言葉にした瞬間、全部奪われる気がした。
代わりに出たのは、
「放っといてくれ」
だった。
美咲が傷ついた顔をする。
その顔を見て、恒一はさらに苛立った。
自分でも理由は分からなかった。
冬。
恒一は会社を辞めた。
表向きは体調不良。
本当は、川から離れられなくなっていた。
掘削道具が増える。
発電機。
ポンプ。
工具。
山奥に小さな作業小屋まで作った。
金は確実に増えていた。
だが同時に、恐怖も増えていく。
誰かが知っている。
誰かが来る。
その感覚だけが肥大していった。
ある夜。
作業小屋の外で音がした。
人影。
恒一はスコップを掴み、飛び出す。
だが、いたのは鹿だった。
ライトに照らされ、山へ逃げていく。
恒一はその場に立ち尽くす。
気づく。
自分は今、 人を殴ろうとしていた。
その頃には、美咲と悠真は実家へ戻っていた。
理由は聞かなかった。
引き止めもしなかった。
恒一はもう、 家族と向き合うより、 金を守ることを優先していた。
春。
大雨。
山が崩れた。
川が濁流になる。
恒一は夜の山へ向かった。
掘削地点が流される。
それだけは駄目だった。
雨の中、泥に足を取られながら進む。
川は轟音を立てていた。
小屋は半分崩れている。
濁流の中で、機材が流されていく。
恒一は泥まみれになりながらケースを掘り出した。
金だけは抱え込む。
その時。
背後で地面が崩れた。
視界が反転する。
冷たい水。
息ができない。
何度も岩にぶつかる。
暗闇。
轟音。
そこで、意識が切れた。
——数ヶ月後。
高瀬恒一は、生きていた。
町外れの古いアパート。
昼は工場勤務。
無口な中年男。
誰も深く関わらない。
髪には白いものが増えた。
テレビでは、あの土砂崩れのニュースが短く流れた。
山道封鎖。
旧河川立入禁止。
違法掘削の噂。
それだけ。
鉱脈は消えたことになっていた。
美咲と悠真には、匿名で金が届く。
学費。
生活費。
差出人なし。
美咲は薄々気づいていた。
だが、連絡は来ない。
もう何年も。
夏の夜。
恒一は古びた倉庫へ向かう。
シャッターを開ける。
湿った空気。
暗闇。
奥にコンテナ。
南京錠。
開ける。
中には、防湿ケースが積まれている。
一つ開く。
鈍い黄金色。
未精製の金塊。
ケース一杯。
一人生きるには、過剰すぎる量。
恒一は無言で座り込む。
金を見つめる。
何も感じない。
達成感も。
幸福も。
ただ静かに、 金だけがそこにある。
遠くで、 子どもの笑い声が聞こえた気がした。
恒一は顔を上げる。
倉庫の外。
夏の夜風。
もう誰もいない。
それでも彼は、 しばらく動かなかった。
人が壊れるのを書きたいけど難しい




