旅人の青年
咄嗟に上げそうになった悲鳴を、寸手で呑み込む。
今の今まで存在に気づかなかった。
もしや稀にいると聞く人に化ける類の妖だろうか?
いや、違う。気配が妖のそれではないし、妖の社への侵入を結乃が黙って見逃すはずがない。
年若い男だ。
端正な顔面、くたびれた外套を纏っている。
花乃はその男に見覚えがなかった。
しかし、結乃とは知っている仲のようで。
「ああ、寛さん。いらしていたのですね。もっと早くお声がけくださったら良かったのに」
「取り込み中のようだったから。邪魔をしては悪いだろう?」
驚いた。
結乃が当たり前のように花乃以外の人間と言葉を交わしていることに。
男が結乃へ向ける眼差しが、あまりにも優しいことに。
「姉さん、こちら、旅のお方ですよ」
「旅の……?」
「珍しいですよね。こんな辺鄙な村に、帝都から訪れてくださるなんて」
そういえば、ちらりと聞いたような気がする。余所者が来た、厄介だ、と。
閉鎖的な村では余所者は歓迎されないのだ。
別に関心がなかったから忘れていたが、それがこの男なのか。
「どうも。君は、結乃殿の姉上かな」
そう問われ、花乃はムッとした。
いやに親しげに結乃を呼ぶのだなと思ったから。
「妹の名を呼ぶ許しを与えた覚えはなくてよ。あなた、参拝者かしら」
「そうだ。各地を巡礼している最中でこの村へ立ち寄り、ひときわ素敵な巫女に出会ったものだから、ついうっかり通ってしまっていてね」
「……まさか、うちの巫女を掻っ攫うおつもりで?」
「冷遇しているのだろう。仮に俺がそのつもりだとして、何の不利益があるのか教えていただきたい」
巫女の存在がいかに大切か知らない馬鹿でもない限り、本気で言っているわけではないだろう。
どうやら花乃を試そうとしているらしい。
何者なのか知らないが、いけすかない男だ。
「ただの参拝者に巫女を渡すなどできかねます。いくら薄気味悪いと言われる姿をしているとはいえ、その子だけがこの村を護れるのだもの」
「そうか」
寛とやらは満足げに頷いた。
「聞いていた通り、君は、本当に結乃殿を大切にしているのだな」
言葉に詰まる。
なんと返すのが正解か、わからなくて。
「…………あなたには関係ないわ」
そう、誤魔化しにもならない誤魔化しを口にするしかなかった。
◆
「姉さんを驚かせてしまってごめんなさい」
後日。
問い詰めると、結乃は相変わらずふわふわ笑いながら謝った。
「妖退治に出ている時、バッタリと出会ったんです。ちょうど妖に襲われていたので助けて差し上げたのをきっかけに、社へ来ていただくことになりました。つい数日前の話です」
「それで、一目惚れされたの?」
「そんなわけないじゃありませんか。わたし、姉さんのように美しくないのですよ」
「顔は一緒だわ」
正直、油断ならない。
「安心してください、悪い人ではありませんから。信じられないくらい邪気がないんですよ」
邪気とは、悪しきものから放たれるものらしい。
妖だけでなく人の醜い感情も悪しきものに分類される。
高い霊力によってそれが視え、毎日のように間近から浴びざるを得ない結乃を思うと、苦しくなる。
そんな彼女が断言するのだ。
一応心には留め置こう。
「わたしが村の皆様によく思われていないことをあの人は瞬時に見抜かれて。『辛かっただろう、君はこんなところで燻っているべきじゃない』そうおっしゃるんです。まっすぐな瞳で。真剣な声音で」
「だから少し、姉さんのことを話してしまいました」と結乃は続ける。
「姉さんがお優しくしてくださるから、わたしは大丈夫ですよって。わたしはとっくに姉さんに救われているんです」
嘘だった。
すでに救えているというのなら、なぜ今も心を押し殺しているのか、その説明がつかない。
「結乃は、彼のことが気に入った?」
「さあ、どうでしょう」
自分の気持ちがわからないのだろう。
こてんて首を傾げる結乃を見て、花乃は決意する。
――あの男が結乃に近づくに相応しい存在か、確かめなければ。
と。