次期皇帝の婚約者は秀麗な義兄と癒しの妹の恋を密かに応援しています
夕暮れ時、職務を終えて帰ってきた兄上様の部屋の扉を、妹のスイレイが叩く。
扉が開かれ、兄上様がスイレイを自分の部屋に招いた。
学校へ通っていないスイレイは、毎日兄上様から勉強を教わっている。
彼女は言葉が話せない。聴覚障害というわけではなく、幼い頃に誘拐され、戻った時には一言も言葉を発せなくなっていた。可愛そうに、よほど恐ろしい目にあったらしい。
誘拐されたのがスイレイではなく私ならばよかったのに、と今でも思う。
けれどそんなことを思ってみても過去に戻れるはずもなく、救いは彼女がとても明るく優しく育ってくれたということ。
長く伸ばした前髪のせいで表情はほとんど見えないけれど、身振りと口元の表情、それだけで彼女の気持ちは理解できる。
きっとスイレイが前向きなのは、兄上様がいてくれるから。
スイレイは兄上様を慕っているようだ。そしてきっと兄上様のほうも。
兄上様、ことナイゼル兄様は養子で私と妹の本当の兄ではない。
けれど血縁関係が全くないというわけではなく、正確には再従兄妹に当たる。
彼は今23歳。スイレイは15歳。年は離れている。でも、後2、3年もすれば歳の差なんて全く気にならなくなるだろう。
今でもスイレイは3つ年上である私よりもずっと落ち着いていて大人っぽい。
美男美女で、お似合いの2人。日々、2人きりで過ごしていればそういった感情が生まれて当然かと思う。
私は兄上様とスイレイの恋を応援している。
自由に恋愛ができること、そのことに対して、ほんの少しだけ羨ましいと思う気持ちがないわけではないけれど。
そっとその場を離れて別室へと向かう。
侍女のナタリーが、私の後を静々と付いてくる。
次はマナーついての講義だ。
私もまた屋敷で学校とは別に専門の先生から講義や実習を受けている。
私の婚姻相手は生まれた時から決められていた。
『次期皇帝』
その称号が私のお相手。
『誰』ということではない。どなたが皇帝の座に就いても私は皇帝妃。
それは公爵令嬢である私がこの世に生を受けたと同時に決められたこと。
由緒あるユータスト公爵である父上様は宮中で宰相職に当たっている。不服などあろうはずもなかった。
ただ、その『誰』はもう3人目。
最初の次期皇帝、クロエ皇子殿下はわずか7歳で亡くなられた。
私が1歳の時で、生きておられたら現在26歳。病死だったらしい。お顔を存じ上げることすら叶わなかった。
2人目のグレイス皇子殿下は22歳。彼はクロエ皇子殿下が亡くなり、シエル皇太子殿下が生まれるまでの束の間の婚約者。
そして3人目、15歳のシエル皇太子殿下が私の現在の婚約者であるけれど、彼はクロエ皇子殿下と同じで生まれつきお身体が弱く、ベッドに臥せっていることが多かった。
年に1、2度遠くからお見かけするだけ。
温和そうな方、という印象ではある。でもまともに会話をしたことがなく、私はシエル皇太子殿下の人となりをよく知らない。
時に避けられているように感じた。もしかしたらご自分のお身体の具合から、私と親しくならないよう配慮してくださっているのかもしれない。
それに引き換えグレイス皇子殿下は大変積極的で、幼少の頃から何かにつけてお誘いを受けることが多かった。
食事会、お茶会、舞踏会、ご自分のお誕生日会、園遊会、狩猟会の見物まで。それはもう様々。
既に婚約者ではなくなったとはいえ、決して断るような真似はしなかった。
再び彼が私の婚約者になることだってあり得るし、正式に婚姻がなされるまで中立的な立場でいるよう幼い頃から教育を受けてきたのだ。
皇帝陛下の跡目の問題は中々に複雑な事情がある。
亡くなられたクロエ皇子殿下とシエル皇太子殿下がエナレル正妃様のご令息、グレイス皇子殿下が、側室であられるリタ様のご令息だ。
他にも現皇帝陛下には、別の側室の間に儲けた2人の皇子殿下がいらっしゃる。
夕食が終わり、私は自室に戻ろうと席を立った。
スイレイは食後もまた勉学に励むだろう。
兄上様は先に自室に戻っていた。
「スイレイ、頑張ってね」
座ったままの彼女に近づき、そう声をかけると、彼女は横に首を振る。
そして私の手のひらに「おしまい」と書いた。
「今日はもうお勉強は終わり?」
スイレイは頷く。
簡単な単語を伝えてくれるだけで、すんなり会話は成り立つ。
「そうなのね。あ、じゃあ久しぶりにカードゲームでもしない?」
私の提案に、彼女は再び頷く。
「兄上様も誘ってみましょう?」
今度は頷かなかった。
「え? 嫌?」
もしかして兄上様と私が近づくのが嫌なのかもしれない。
そうならば、落ち着いて見えるスイレイも案外子供っぽくて可愛らしい。
つい笑ってしまった。
「スイレイ、大丈夫よ。スイレイから兄上様を奪ったりしないわ。私はずっと兄上様のことは兄上様としか思ってないからね」
スイレイは慌てて立ち上がると、小さく左右に首を振った。
そういうことではない、と伝えたいようだ。
もう、こんなに赤くなって、本当に可愛いったらない。
私は少し背伸びしてスイレイの頭を撫でる。
彼女の髪は美しい銀色。サラサラで、撫で心地は抜群だ。
ただ、立ったままだと構図的に無理がある。
私が小さいということもあるけれど、ここ数年の間にスイレイに身長を追い越されてしまっていた。
私はスイレイの手を引いて兄上様の部屋に向かう。
4度ノックすると、兄上様はゆっくりと扉を開けた。
どうぞと言ってくださればこちらで開けるのに、なんとも細やかな気遣いである。
「兄上様、今、お忙しいですか?」
「センカは本当にスイレイのことが大好きですね」
兄上様は私とスイレイが手を繋いでいるのを確認して、ため息をついた。
まぁ……。
これは、兄上様も嫉妬かしら?
再び締まりなく頬が笑んでしまう。
兄上様は不思議そうに目を細めながら私を眺めた。
「兄上様、久しぶりに3人で遊びませんか?」
「そうですね。まあ、それもよいでしょう。スイレイは?」
「もちろん、スイレイは了解してくれました。カードゲームで勝負しましょう?」
兄上様は頷く。
「この部屋は仕事の書類が散乱していますので、別の部屋でもよいでしょうか」
自室で何か仕事をしていたらしい。彼も父上様同様、宮廷に仕えている。
私たちは広い客室に移動した。
「えへへ、やった!!」
カードゲーム勝負は私の圧勝だった。
「センカ、貴女は皇帝妃になるのですからそんな笑い方をしてはなりません」
兄上様はそう言って眉を顰める。
「だって楽しいし、嬉しいんですもの。それにこんな風に笑うのは兄上様とスイレイの前だけだわ」
「いいえ、なりません。普段の振る舞いが思いもしないところで現れるのです」
スイレイは不然としている兄上様を手で制すと、笑って私の頭を撫でた。
こうなってはどっちが姉でどっちが妹だか分からない。
「ありがとう。スイレイは優しいわね」
私も再びスイレイの頭を撫で返す。
やっぱり美しい彼女の髪に触れているだけで癒される。
もう感謝の気持ちに託けて、こうもっと、思いきりぐりぐりと撫でまわしたいくらいだった。
手を止め、スイレイを見つめる。
改めてスイレイを見ると、彼女は髪が美しいだけでなく、すらりとしていてスタイルがいい。
私は気になっていることを聞いてみた。
「スイレイはいつもふわっとした緩いドレスを着ているけれど、サイズが合ってないんじゃないかしら。可愛いけど、スタイルがいいんだから勿体ないと思うの。次にドレスを作るときにはきちんと身体に沿うように採寸してもらいましょう?」
スイレイは何のリアクションを返すでもなく、俯いている。
え?
私、何か変なことを言ったかしら。
「兄上様もそう思うでしょう?」
「いや、でもまあスイレイの好みもあるでしょうし」
「スイレイは緩い感じのドレスが好みなの?」
私の質問にスイレイは、今度は思いっきり何度も頷く。
「そうなのね。まあ、今のままでも十分可愛いわね。それに、これ以上大人っぽくなられたら私の姉としての威厳もなくなるし」
「何の心配をしているのですか?」
兄上様は更に呆れた声で言った。
「いつまでもスイレイの頼れる姉でいたいのよ……」
ごにょごにょと小声で伝えると、スイレイの口元が緩んでいる。
別にふざけているわけでなく、私は本気でそう思っているのだけれど……。
ゲームが一段落して、ナタリーたちがお茶の用意を始めた。
「後はお二人でどうぞ。私は先に自室に戻ります」
兄上様はそう言って席を立った。
「兄上様、ありがとうございました。お仕事がお忙しいのに付き合っていただいて」
兄上様は首を傾げる。
「先ほど部屋に書類が散乱しているとおっしゃっていたでしょう? お仕事の途中だったのですよね」
私はそう続けた。
「大丈夫ですよ。いい気晴らしになりました。こちらの問題もそろそろ決着がつきそうですし」
「決着?」
「ええ。随分と長い間調べていた宮廷内の問題がようやく解決しそうなのです。きっとセンカがシエル皇太子殿下に会える日も近いでしょう。センカには名ばかりの婚約者で、寂しい思いをさせましたね」
「殿下のお身体の具合は大丈夫なのですか?」
兄上様は笑って頷く。
……良かった。
宮廷の内情に詳しい兄上様が言うのだから間違いはない。
「でも、私……シエル皇太子殿下に嫌われているのではないかしら」
心の奥にあった不安を思わず口にしてしまう。
「どうしてそんなことを?」
兄上様の瞳が大きく開く。
「なんとなくですが、体調のこととは関係なく、殿下に避けられているように思うのです」
「それは、事情があったのです。シエル皇太子殿下はセンカに会える日を楽しみにしておられますよ」
「本当に?」
「ええ」
「嬉しい。私ようやくシエル皇太子殿下ときちんとお話ができるのですね。そしたら、彼にスイレイのことも紹介するわ」
言いながらスイレイの手を取る。
彼女は驚いたように一瞬止まり、そしてほんの少し笑った。
◇◇◇
それからしばらくして、驚くべき話を父上様から聞かされることになった。
皇帝陛下の側室であるリタ様に死罪の極刑、グレイス皇子に国外追放の刑が下ったのである。
リタ様がシエル皇太子殿下に毒を盛った。
しかも1度きりではない。致死量に満たない毒を、彼が幼いころから何度も何度も食事に混入してきた。
そしてシエル皇太子殿下が病弱だと思われたのは、その毒物の影響であった。
これまでに捉えた間者らしき者は、問い詰めると皆、無言のうちに自害した。
数年もの間リタ様が指示した証拠は見つからず、父上様や兄上様は極秘裏で根気強く証拠集めをしていたらしい。
そして調べていくうちに、7歳のときに亡くなられたクロエ皇子殿下もリタ様の指示で毒殺されたのだと判明した。
父上様はクロエ皇子殿下が亡くなられた時からリタ様に疑惑を持っていたらしい。
グレイス皇子は自分の母親がシエル皇太子殿下を殺害しようとしていることには気づいていた。
気づいているのに止めようとはしなかった。
それどころか近年は積極的に協力していたということも発覚した。
この暴かれた真実は、宮廷内だけでなく国中を震撼させた。
これまで長い間、シエル皇太子殿下はお一人でどんなにお辛かったことか、知らなかったとはいえ、何のお力にもなれなかった自分が情けない。
◇◇◇
数週間が経ち、ようやく少し宮中が落ち着いてきたころ、私はシエル皇太子殿下と謁見できることになった。
なんとお声掛けをしたらよいのだろう。
直接殿下の部屋に招かれる。
「ずっとお会いしたかったです。ようやくこうしてきちんとお会いできて嬉しいです」
シエル皇太子殿下は私の瞳を見つめると、そう言って笑った。
懐かしさすら感じさせる優しいお声だった。
「お身体の具合はよろしいのですか?」
私は尋ねた。
「具合が悪いふりをしていただけで、いたって僕は健康です」
「でも……」
はっきりと毒という言葉を口に出すのを躊躇っていると、殿下は察して緩く笑った。
「大丈夫です。ふりだと言ったでしょう。実は出された料理にはこれまで一口も手を付けておりません。料理は全て回収され、一品一品毒が入っているのか、またどれくらいの量でどのような毒であるのか調べてきました。証拠がなければ側室であられるリタ様を表立って疑うことなど許されませんでしたから」
「そうだったのですか。では、今まで食事はどのように?」
「僕には兄上が付けてくださった信用できる侍女がおります。食事はその侍女に用意してもらっておりました」
「兄上?」
「はい。ナイゼル兄上です」
「え?」
「騙していて申し訳ありません。僕はシエル皇太子ではないのです」
彼は肩をすくめる。
そして数秒間が開き、言いにくそうに再び口を開いた。
「僕の名はスイレイ。つまり貴女の弟です」
「……弟?」
何を言っているのだろう。
「スイレイは私の妹の名です」
私はそう返した。
彼は大きく頷き、言葉を続ける。
「すぐに理解できなくて当然ですね。どう説明したらよいでしょうか。僕はスイレイで貴女の弟、貴女は僕の本当の姉です。そして姉上に妹はおりません」
「そんな訳がありません。スイレイは可愛い私の妹です。私たちずっと一緒に暮らしてきたのです」
悲鳴に近い自分の声が震えている。
「姉上がスイレイだと思って一緒に暮らしてきたのはシエル皇太子殿下です。父上がシエル皇太子殿下と数週間先に生まれた赤子の僕を入れ替えました」
「そんなこと!! そんな!! 皇帝陛下やエナレル正妃様はご存知なのですか?」
「勿論です。全ては皇太子殿下のお命を守るため。あの頃、口に出さずともクロエ皇子殿下が何者かに殺されたという疑いを一部の人間は持っておりました。だからこそ僕が影武者に選ばれたのです」
影武者?
「行きましょうか」
「どこへ?」
混乱したまま私はシエル皇太子殿下、いえ、スイレイと名乗る少年の後を付いていく。
長い廊下だ。
もはや私の思考は止まっている。
足取りは途方もなく重く、まるでここではない別世界にでも連れていかれるようだった。
広い部屋に父上様と兄上様が立っていた。
「奥の部屋にシエル皇太子殿下がおられる。挨拶をしなさい」
ただ黙って父上様の言葉に従い、私は奥の部屋へと入る。
椅子に座る人物は男性の正装していたけれど、美しい銀色の髪、そして品のある口元に優しい笑みを湛える、私の知る可愛いスイレイだった。
「スイレイ?」
私は彼女の名を呼ぶ。
スイレイは立ち上がり、懐から小刀を取り出すといきなり自分の長い髪を切った。
現れた美しい切れ長の双方に見つめられる。
「これでもまだ余は女子に見えるか?」
「スイレイ、あなた言葉が……。どうして……」
彼女は言葉が話せない。
話せないはずだった。
「許せ。それも偽りだ。声変わりが来れば男だと分かろう。最初から話せぬほうが都合がよかった」
呆然とスイレイを見つめる。
もはや彼女ではなく私の方が、言葉を発することができずにいる。
「余は次期皇帝、シエル・ナディスタイン。何れ其方の夫となる。センカ、騙していたこと……怒っているか?」
私はゆっくりと左右に首を振る。
怒りの感情はなかった。
この感情は、怒りではない。
それどころか。
それどころか、嬉しい……。
思わぬ形だけれど、こうして叶うことはないと思っていたスイレイの声を聞いている。
そして……。
私は目を閉じ、深呼吸をする。
何のために幼い頃からこれまで次期皇帝妃になるべく教育されてきたのだろう。
動じている場合ではない。
今、目の前におられる方は、私がお支えするたった1人のお方なのだ。
「殿下、殿下の婚約者として改めてご挨拶させていただきます。センカ・ユータストと申します。これまでの無礼な行いや物言い、申し訳ございませんでした」
私は跪き深く頭を下げた。
「センカ、余をナイゼルに嫁がせようとしていたであろう?」
「それは……」
本当のことをつかれ、どう返していいのか分からない。
「ナイゼルは余の教育係であり、有能な従者だ。そもそも男とどうにかなる趣味はない」
「存じ上げなかったこととはいえ、大変失礼いたしました」
「怒ってはおらぬ。揶揄っただけだ。そんなに畏まることはない」
シエル皇太子殿下は可笑しそうに笑った。
もうスイレイには見えない。
見えているのは、魅力的な、私の知らない美丈夫な男の人だった。
「殿下、失礼してよろしいでしょうか?」
パーテーション越しに父上様の声が聞こえる。
「入れ」
皇太子殿下は短く答えて、椅子に座り直した。
父上様、兄上様、弟のスイレイが殿下の前に並ぶ。
「皆、これまで余を支えてくれて感謝する。特にスイレイには長い間苦労をかけた。しかし其方をスイレイと呼ぶのは不思議なものだ。先ほどまで余がそう呼ばれていたのだからな。まるで自分の名を呼んでいるようだ」
「シエル皇太子殿下、勿体ないお言葉痛み入ります。名前については、僕も全く同じ気持ちです」
スイレイは笑って答えた。
「センカ、ようやくシエル皇太子殿下にお会いできましたね」
兄上様が私に視線を送る。
「兄上様、事情が事情とはいえお人が悪いです。父上様もどうしてこのことを私に教えてくださらなかったのですか?」
「お前は真っ直ぐで偽ることができない性格だから、真実を知りながら普通に振る舞うことは難しいだろうと思った。それでは何れクロエ皇子に気取られてしまう。また、優しいお前のことだ。常に命の危険がある弟の心配ばかりしたことだろう。このことは殿下とも相談して決めたことだ。何よりお前に心痛を与えたくはなかった」
父上様は言葉を選びながらそう返した。
自分の性格的なことを言われれば、確かにと納得せざるを得ない。
「そうでしたか。私を思いご配慮を……。けれど、偽ったままだとしてもこれまでせめて殿下、いえ弟のスイレイに会うことはできたと思いますが」
「僕が姉上に婚約者として好かれてしまっては問題です。殿下にも恨まれますし」
「え?」
「兄上から、殿下が姉上にべた惚れだと聞いておりましたので」
言いながら、スイレイは笑っている。
そこでシエル皇太子殿下がわざとらしく咳払いをする。
見回すと、スイレイだけではなく父上様と兄上様の頬も緩んでいた。
ひとまず、本日の謁見はこれにて終了ということとなった。
こうしてシエル皇太子殿下は王宮に戻り、弟のスイレイも我が家に戻った。
ただ、もう妹のスイレイはどこにもいない。
妹だけは二度と戻って来ない。
◇◇◇
それからまた数日が経ち、シエル皇太子殿下は改めて私を王宮に招いてくださった。
人払いをして、今は殿下の部屋に2人きりだ。
「そんな顔をしてどうした。何か心配事でもあるのか?」
シエル皇太子殿下は正面から私を眺めている。
「いえ、何でもありません」
彼はまた私を眺め、突然屈むと私の右手を取った。
そしてそのまま私の手を自分の頭に乗せ、ゆっくり左右に動かす。
「殿下?」
「前より短くはなったが、其方は余の髪に触れるのが好きだったであろう」
「え?」
咄嗟に手を引こうとしたけれど、殿下は私の手を離さなかった。
「殿下、このような失礼な真似」
私は慌てた。
「構わぬ。余も其方にこうされるのが好きだった。ただし2人きりの時だけだ。それと、もう一つ。できれば余を名で呼んでくれ」
「……シエル様?」
「それでよい」
「シエル様は私のことをこれまでずっと姉だとは思っておられなかったのですか?」
「……それはそうだ。物心ついた頃からセンカは余の婚約者であった。まあ、婚約者でなくとも惹かれていたのだが」
「あの、その……あ、本当にシエル様の髪はサラサラですね」
もう髪に触れてはいなかったが、私は恥ずかしくなり話を戻した。
シエル様は大きなソファーに移動し、ソファーを軽く叩く。
「センカ」
座れと言っているらしい。
私が座ると、彼は私の膝に頭を乗せる。
「好きなだけ触れるがいい」
そう言って目を瞑ってしまった。
少年とも青年ともとれる、その髪も瞳も唇も肌も何もかもが綺麗だった。
「シエル様、無防備すぎます。本当に好きに触れてよいのですか?」
シエル様は軽く頷き「其方にだけは許す」と言った。
しばらく彼の髪に触れていた。
それから決心したようにシエル様はソファーから立ち上がり、私を自分のほうに向かせた。
「余は、婚姻後に側室を持たぬ。もう争いごとはたくさんだ。哀しいことに本当の兄弟でも裏切りや諍いは起こる。子ができたら乳母に任せず2人で子供たちを愛情深く育てよう」
次期皇帝とはいえ、さすがにそれは15歳の、本来まだ子供である彼が言うようなセリフではなかった。
若くして人の心の醜さを知ってしまったがゆえ、そのような考えに至ったのだろう。
「センカ、これからは偽りのない余を見せる。余のことはこれからゆっくりと知ってゆけばよい」
「はい。ですがシエル様を独り占めするなんて恐れ多いことです」
「何を言う。余だって其方を独り占めするのだ。平等であろう」
「けれど歴代の皇帝陛下に側室がおられない例はありません」
「余は其方がいれば十分だ。どうか遠慮せずに独り占めしてほしい」
シエル様は真っ直ぐに私を見つめている。
「……分りました。シエル様の仰せのままに」
私が了承すると、シエル様は嬉しそうに微笑んだ。
その優しい笑みは彼が妹のスイレイだったころと何も変わらない。
関係が変わろうと、これからもきっと彼を愛してゆけるだろうと思った。
私はシエル様が優しい方だということをとうの昔に知っている。
傍で生涯、シエル様だけを支えます。
心の中で呟き、私は彼に精一杯の笑みを返した。
私はもう『次期皇帝』の婚約者ではない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。