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第7話 聖なる湖

初夏を迎えた青々とした森を歩く。

聖なる湖まではエルナの家から一刻程度歩いたところにあり、程なくしてきらきらと日の光を反射する美しい湖に辿り着いた。純白にも見える、美しいシルエットの水鳥が数羽、優雅に水面に浮かんでいる。他にも茶色や緑の頭の水鳥の群れが集団で漂い、時折潜っては上がってきて、頭を振って水滴を弾き飛ばしている。


木製の水桶は全部で四つ。エルナは水の汲みやすい場所を選び、湖の淵に両膝をついた。そして、胸の前で手を組んで目を瞑る。聖なる湖から水を汲むときは必ず、水の神バサエルに祈りを捧げ、その許しを得てからだ。以前、祖母の言いつけを忘れ、そのまま汲んで持って帰った水は、聖水ではなかった。それ以降は、忘れず祈りを捧げている。エルナの組んだ手をほのかに白い光が包んだ。目を瞑るエルナはそれに気がつかない。


エルナは水桶を掴み、八分目くらいの水を汲む。水桶を交換し、その作業を四回繰り返す。草むらの上に聖水を入れた四つの水桶が並んだ。

その近くの草むらでクロミツが背中を伸ばして寝転がり日向ぼっこしている。チャチャは飛んでいく黄色い蝶々を追いかけて遊んでおり、マシロは近くの木に止まって、青い小鳥と話をしているようだ。それまでエルナが水を汲む姿を座り込んで、黙って見つめていたヴィルフリートはおもむろに立ち上がった。


「そろそろ出番かな?」


彼の黒い髪がさらさらと風に弄ばれ、綺麗な瑠璃色がよく見えた。


「重いですよ?」


ヴィルフリートは軽く笑った。


「これでも腕力には自信がある。一滴も零さず、運ばせてもらうよ」


ヴィルフリートが水桶の取っ手に手を掛けようとしたその時、慌てたようにマシロが飛んできて、エルナの肩に止まった。


「エルナ! 見たそうよ! 村で、銀髪の!」


エルナははっとした。急いで、肩のマシロを手に乗せて、その顔を食い入るように見つめる。


「いつ⁉」


「今朝方、村の道を歩いているのを見たらしいわ! 銀髪で、青い目だったって」


マシロが木の上の青い鳥に視線を走らせると、青い鳥は返事をするように甲高い声で鳴いた。エルナは鼓動が早鐘を打つのを感じていた。自然と手が震え、目は村の方へと向かう。村までの最短距離を頭で辿る。ヴィーかもしれない。ついに十一年前の約束を果たしに、村へ来たのかもしれない。早く確かめに行かないと。はやる胸を何とか抑えながら、さっと聖水で満たした水桶に目を落とす。


「すぐ行かなきゃ……でも」


このまま水桶を放っておくわけにはいかない。放置しておけば、塵や虫が落ちて、汚れてしまう。だからといって戻すわけにもいかない。今まで一度だって、汲んだ水を湖に流したことはないのだ。それが禁止されたことなのか、どういう影響が出るのかなど、エルザは教えてくれなかったが、直感的に良くないことのような気がするのだ。しばし逡巡するエルナを、ヴィルフリートが不思議そうに見つめる。


「どうしたの?」


いつのまにか蝶々に逃げられたチャチャがヴィルフリートの足元に移動している。


「エルナには探している人がいるんだ。それが銀髪に青い目の男の子で。エルナは村の外に出られないから、村にそれらしき容姿の人が来ると、必ず見に行くんだ」


「毎回、スカだけどな」


クロミツが四つ足で立ち上がり、弓のようなかたちで伸びをする。


「へえ……銀髪、の男の子か」


ヴィルフリートは目を細め、そのあと何気なく自分の黒い髪を指に絡めた。


「そう、オレとお前とは正反対の見事な銀髪らしい」


黒猫のクロミツが後ろ足で首元を掻く。


「目の色は、ヴィルフリートさんと同じ青だけどね」


チャチャヴィルフリートの顔を見上げた。


「私……」


急いで家に運ぼう。それから、走って村に向かえば良い。きっと間に合う。そう心に決めたとき、


「クロミツくんかチャチャくん、水桶の見張りを頼めるかい?」


ヴィルフリートが屈んで、クロミツとチャチャを交互に見つめる。


「え?」


「うん、いいよ」


驚いたようなクロミツと、快く引き受けたチャチャを見て満足げに頷き、ヴィルフリートは立ち上がって、エルナの手を取った。


「任せた。エルナ、急ごう。居ても立ってもいられないって顔をしている。見ている僕までそんな気にさせられてしまうよ」


エルナは掴まれた手をそっと外そうとしたが、ヴィルフリートは逃すまいと力を込める。


「あの、ヴィルフリートさん。でも、このまま放置できないんです! 虫が落ちたりして汚れてしまうので」


ヴィルフリートはエルナから手を離し、考えるように顎に手を当ててから、水桶を見下ろす。

「そうか……蓋みたいなものが必要なわけだね」


そして、懐から銀色の指輪を取り出し、右手の薬指に嵌めた。銀の指輪は光を反射し、きらりと輝く。よく見ると、小さな青い石が埋め込まれていた。どうして突然指輪を嵌めたのかわからず、小首を傾げると、ヴィルフリートは水桶に向かって右手を伸ばした。


「『高潔なる水の神バサエルよ、我に力をお与えください——清き水の守り手よ、全ての穢れからこのものを守り給え』」


瞬間、ヴィルフリートの伸ばした手の前に、光を放つ青い魔法陣が出現した。そこから水のベールが溢れ出し、水桶を覆う。わずかに波打ち、波紋を広げるそれは、水で作り上げた布のようでも、壁のようでもあった。とても不思議な光景に、エルナは時を忘れて見入った。


「これは……?」


「水の魔法だ。本来はこういう使い方をするものではないのだけど、ことは急を要するわけだし。エルナの一大事だ。許されるよね?」


ヴィルフリートは悪戯っ子のような顔で、くすっと笑った。


「ヴィルフリートさんは魔法が使えるんですね?」


水のベールなどというものを初めて見た。村にも魔法を使える者はいるが、こんな珍しい魔法にはなかなかお目に掛かれないだろう。


(ヴィルフリートさんって、何者なんだろう)


淀みなく唱えられた詠唱は、まるで歌のように美しかった。しばし、惚けたように、風で作り出される波紋に見とれていると、


「さあ、急ごう。エルナ」


ヴィルフリートの声で我に返る。彼を見上げると、にこっと微笑まれた。綺麗な顔に、心臓が跳ねる。エルナはさっと顔を背けた。


(とにかくこれで聖水の問題は解決したんだよね)


聖水は守られている。見張りもクロミツとチャチャが引き受けてくれた。これで、心置きなくヴィーを探しに行ける。


「クロミツ、チャチャ、お願いね」


「仕方ねぇな」


「了解!」


エルナは村への最短距離を頭に浮かべて、走り出そうとした。が、ヴィルフリートの手がエルナの手を取った。驚いて振り返ると、ヴィルフリートは魅惑的な微笑みを浮かべている。


「あの……」


「こうすれば、はぐれないよね?」


「繋がなくても、はぐれませんよ⁉ そんなに入り組んだ道ではありませんしっ……」


ヴィルフリートの大きな手から逃れようと、エルナはさりげなく手を引っ込めようとしたが、彼の手の力がそれを阻止する。


「これでは走りにくいですっ‼ 放してくださいっ!」


「大丈夫。君の速度に合わせるから」


どうあっても放す気はないらしい。ここで押し問答していても時間の無駄だ。エルナは諦めて嘆息し、ヴィルフリートと手を繋いだまま、村へ通じる最短距離を選んで走り出した。正直、走りにくいことこの上ない。しかも、ヴィルフリートの手の大きさや温かさを意識せずにはいられないのだ。本来、ヴィーのことで頭がいっぱいなはずなのに。


胸がどきどきする。それが、ヴィーに会えるかもしれないという期待からなのか、ヴィルフリートに手を繋がれているせいなのか、走っているから起こる現象なのか、自分でもわからないまま、ただひたすらに走る。男性と手を繋ぐなんてことは、思い返してもヴィーと繋いだ一度きりしかない。その大事な思い出に、今回の記憶が上書きされてしまうような気がして、エルナの心に不安が過る。自分が大切な男の子は、ヴィーただ一人。そうでなければならないのに。


「エルナ、少し足を緩めて! 飛ばされちゃうわ」


肩で必死に掴まっていたマシロに懇願され、エルナはわずかに速度を落とした。


(とにかく、今は急がないと! ヴィーに会えるかもしれないんだから!)


そう強く言い聞かせて、ヴィルフリートの手の感触を無理矢理頭から追い払いつつ、エルナは村に急いだ。



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