第6話 いつもと違う朝食
開け放たれた窓からは柔らかな光が差し込んできて、小さな部屋の中を隅々まで照らしてくれていた。火にかけた鍋から白い湯気と、食欲をそそる香りが立ち上る。エルナは台所に立ち、リンゴの皮をナイフで剥いていた。くるくるくると赤い皮が垂れ下がるのを、足元のクロミツがじっと見つめていて、マシロは窓辺に置かれた止まり木にちょこんとまり、庭の木々で囀る小鳥と会話を楽しんでいる。チャチャはというと、玄関に敷かれた楕円形の敷物の上にでんと横になって目を瞑っていた。
いつもと変わらない日常の風景——のはずだった。だが、今日はそこに非日常を身に纏ったような黒髪の青年が食卓につき、エルナの後ろ姿を眺めている。その瑠璃色の瞳には甘やかな光を湛え、一挙手一投足をも見逃すまいと、じっとエルナの背中に視線を注いでいるのだ。
「エルナ、僕に手伝えることはない?」
エルナは振り返らずに、首を振る。リンゴの皮が全て繋がったまままな板に落ちた。
「大丈夫です。ヴィルフリートさんは病み上がりみたいなものなんですから、大人しく座っていてください」
ヴィルフリートを洞窟で見つけたのは昨日のことだ。当初は村で別れるはずだったのだが、記憶がない、帰る場所がわからないと言われては、放っておくわけにもいかず、エルナは小さな森の家に彼を連れてきた。彼が言うには、覚えているのはヴィルフリートという名と、クリスタルの茨に絡めとられる直前の記憶だけ。それ以外のことは一切覚えていないという。ただ、実際のところ、エルナはこの記憶喪失を疑っていた。記憶喪失の割には、彼の態度は落ち着きを払っているし、記憶がない焦りのようなものを一切感じられない。ただ、何かしらの事情があるのだろうというのは推測されるので、その嘘には目を瞑っておくことにしたのだ。あいにく、小さな家とはいっても部屋数はそれなりにある。今は、客間をヴィルフリートに使ってもらっていた。
昨夜判明したことだが、ヴィルフリートが茨に囚われ、眠り始めてから、どうやら半年は経過しているようだった。半年も飲まず食わずであったという事実に、血の気が引いた。それゆえに、エルナはヴィルフリートを病人扱いすることにしたのだ。
「君は本当に優しいね。森で拾った得体のしれない男を、こんなにも労わってくれるのだから」
ヴィルフリートは感激したように目を潤ませる。クロミツがそれを横目で見て、けっと吐き捨てた。
「大げさすぎて反吐が出るぜ」
「クロミツ、口が悪いわよ」
嗜めるようにマシロが羽をばたつかせると、チャチャはのそりと体を起こし、大きな欠伸混じりに言う。
「感情表現が豊かな人なんだよ、クロミツ」
そんな一羽と二匹の会話を苦笑しながら聞き流し、鍋の火を止め、木の皿に湯気の立つキノコと豆のスープをついだ。大きめの皿を二つ、一回り小さな皿を二つ、とびきり小さなコップを一つ、食卓に並べる。食卓には、香り立つ熱々スープと、切り分けたリンゴ、籠に入ったパン、焼いたベーコンと目玉焼き、ベビーリーフのサラダが並んだ。
エルナの前にはヴィルフリート、卓の上にマシロ。エルナの右隣にはクロミツ。ヴィルフリートの左隣にはチャチャが腰を下ろしている。
エルナは胸の前で手を組んで目を瞑り、神に祈りを捧げる。食事の前に行う簡単な挨拶だ。
妖精動物たちは軽く頭を下げる。ヴィルフリートは少し不思議そうにそれを見ていたが、エルナを真似て指を絡めて目を瞑った。祈りが終わると、エルナは組んでいた手をほどき、今度は手のひら同士をぴたっと合わせ、
「いただきます」
と元気よく言い、そのあとに続いて妖精動物たちも口々に「いただきます」と声を合わせる。食事が始まると、チャチャは目の色を変えて焼いたベーコンにがじがじと齧り付き、クロミツは湯気の立つスープにふうふうと息を吹きかけ必死に冷まし、マシロはリンゴをひとかけ自分用のお皿に移し、つんつんと啄む。それぞれの出す音が食卓に響き渡った。
ヴィルフリートは木の匙でスープを口に運びながら、面白そうに一羽と二匹の食事の様子を眺めている。
「賑やかな食卓だね」
「煩いってことか?」
クロミツがギロっとヴィルフリートを睨む。
「違うよ。楽しいってことさ、クロミツくん」
微笑むヴィルフリートを無視して、クロミツはスープに息を吹きかける。
「それならよかったわね、クロミツ」
マシロがいじわるな声を出すので、チャチャがすかさずフォローを入れる。
「ボクも賑やかな食卓って好きだな」
エルナはちらっと食事をするヴィルフリートを見る。白い頬にわずかだが赤みが差し、食事を運ぶ手も淀みがない。半年間眠りについていた人とは思われないほど、健康体に見える。エルナは内心、安堵した。どういった魔法なのかはわからないが、眠りから覚めたヴィルフリートには今のところ何の問題も見られない。このまま普通に生活を送っているうちに、記憶も戻ってくるだろう。きっと半年もの長い間眠っていたせいで、頭がまだ正常の状態ではないのだ。もっとも、本当に記憶喪失だとすればの話だが。
「エルナ、どうかした?」
視線に気が付いたのか、ヴィルフリートがエルナを見つめて、小首を傾げる。黒い髪がさらりと揺れて彼の白い頬に掛かった。その仕草に、思わずどきりとする。
「いいえ! 何でも!」
エルナは急いでリンゴを引っ掴み、口に入れた。
「エルナ、今日はどうすんだ? 素材集め」
クロミツがスープを冷ますのを諦めて、カリカリのベーコンを齧りながらエルナを見やる。
「そうだなぁ……洞窟に行くのは昨日の今日で気が引けるし……」
結局、昨日は鉱石一つ集めることができなかったが、採掘に行くのは気が進まない。また何かしらの事件に巻き込まれたら堪ったものではないからだ。無論、人間を拾うなどということがそう起こることではないのはわかってはいるが、念には念を入れるべきだろう。
「そうだ、聖なる湖に行こう」
エルナがぴんと人差し指を立てると、クロミツは黒い耳を折って項垂れた。
「ということは、重い水を運ぶのか……」
マシロが不機嫌そうにクロミツをつつく。
「クロミツは運ばないでしょう?」
「そうだよ。マシロもクロミツも運んだ試しがないじゃないか。僕だけだよ? 桶の水、運ぶの」
チャチャは不満げにそう言ってむくれた。
「そんなこと言って、家に着くころには半分以上は溢してるだろ?」
クロミツに指摘され、チャチャは抗議の声を上げる。
「仕方ないだろ? 蓋がないんだもの!」
聖なる泉は、文字通り聖なる水を抱いた大きな湖である。アムシャー作りにはかかせない聖水を手に入れる場所。森の中にあるので、いつも水桶を抱えて湖まで行き、そこで汲んでから家に戻る。地味だが重労働だ。
「それなら、僕が水桶を運ぼう。両手で一つずつは持てるよ」
ヴィルフリートがにこにこしてエルナを見た。
「え、でも……」
ヴィルフリートを病人として遇しようとしていたエルナは即座に断ろうとしたが、彼のきらきらした笑顔に、言葉が詰まる。
「君は僕を病み上がりだと言ってくれたけれど、僕は健康そのものだと思うんだよ。半年眠っていたのは、病気というより、むしろ静養していたと考えれば、元気なのも頷ける。今は動きたくて仕方がないんだ。この僕を、労働力と考えてくれないかい? 君の為に働く、君だけの労働力だと」
「労働力だなんて……」
さりげなくエルナだけの労働力だと言ったのは聞き流して、エルナはマシロやクロミツ、チャチャと顔を合わせた。
「まあ、いいんじゃないの? 本人は元気だって言ってるんだし」
クロミツはベーコンの最後の一切れを飲み込んだ。
「そうね。水桶を運ぶくらい、大人の男性には訳ないわ」
とマシロ。
「うん。僕もフォローするよ!」
チャチャは任せてと言うように、顔を上げた。
「じゃあ、お願いします」
エルナが頭を下げると、ヴィルフリートは嬉しそうに頷いた。