第39話 チャチャ
ヴィルフリートに支えられるようして離宮の広間に戻ると、そこには睨み合うクロミツとチャチャがいた。マシロは椅子の背凭れにとまり、その様子を嘴をつっこもうかと迷いながらも見守っている。どうやら、チャチャが見つかったらしい。エルナはほっと息をつきながらも、いつもとは違う喧嘩の空気に、眉根を寄せた。
「お前、何か隠してるだろ?」
チャチャはびくりと体を揺らし、首をぶんぶんと振った。
「ない! 何も隠してなんかいないよ‼ 僕は何も知らない! 何にもだ‼」
いつもの穏やかな彼らしくない剣幕だ。
「おいおい、過剰反応だろう。ますます怪しいぞ」
クロミツが半分茶化すように言うと、チャチャは噛みつかんばかりの勢いで、黒猫を睨みつけ、グルルルと歯を剥き出した。
「知らないって言ってるだろ! 怪しいなんて言うな! 馬鹿猫‼」
茶色い犬から発される、聞き慣れない暴言に、クロミツははじめ、きょとんとしていたが、やがてその意味が呑み込めると、表情を険しくして、上半身を屈め、爪を立てる。
「お前、おかしいぞ」
「そ、そうよ! どうしたっていうの、チャチャ‼ あなたらしくないわ。馬鹿猫なんて……確かに、クロミツは馬鹿みたいに見えるけど、でもっ」
「マシロは黙っとけ。……おい、チャチャ。オレも正直に話したんだ。お前も隠してることがあんなら、今のうちに吐き出しておけよ?」
緊迫した空気に、エルナは傍観を止め、クロミツとチャチャの間に割って入った。
右手をクロミツの背中に、左手をチャチャの頭の上に置こうとしたが、チャチャはさっと後ずさり、エルナの手から逃れた。行き場を失った左手が空を掴む。それは、初めての拒絶だった。エルナは目を見張り、きゅっと胸が痛むのを感じながら、全方位に敵意を振りまくチャチャに細めた目を向ける。
「チャチャ……どうしたの? 大丈夫だから、怯えないで?」
再び手を伸ばすが、彼はふいっと顔を背けた。だが、先程までの勢いは既に失われており、耳が垂れ、心なしかしゅんと縮こまっている。
「エルナ……それに、クロミツに、マシロ。ごめん……ボクね、行かなくちゃいけないんだ。だから、お別れなんだ」
「お別れ……?」
エルナはチャチャの言葉を反芻するように繰り返す。
チャチャはまっすぐエルナを見つめ、寂しそうに瞬きした。
「帰るんだ、ボクの居場所に」
ぽつりと呟いた声音は、どこか空虚で、それでいて喜びも混じっていた。
「君を派遣した、誰かのもとに?」
ヴィルフリートがつかつかとエルナの隣にやってきて、チャチャを見下ろした。その眼光はやや冷ややかで、エルナは思わずゾクリとする。
「派遣?」
クロミツが冷たい顔のヴィルフリートと、頭を屈めて彼を睨みつけるチャチャを交互に見やり、最後に不穏な空気に怯えるマシロと目を合わせた。
「チャチャくん、君はエルナのことを君の雇い主に伝えに行くつもりなんだろう? 彼女の髪は銀色だったと。銀糸の髪を持ち、翠玉の瞳を持つという伝説の〈翠玉姫〉だったと」
ヴィルフリートは、威嚇の姿勢を崩さない茶色い犬に近づいた。チャチャは唸り声をあげるものの、ヴィルフリートの放つ殺気めいた空気に、怯んだのか、後ずさりしている。
「ヴィルフリートさん、どういうことですか?」
エルナが問うも、ヴィルフリートは背を向けたまま、手を挙げてそれを制し、
「君は戻るつもりか? エルナを危険にさらすために?」
チャチャに問い続ける。
「雇い主なんかじゃない。ボクの家族だ‼」
チャチャは怯えながらも、強い調子で吠える。
「大事な家族だ‼」
「エルナは? 君にとって、エルナやマシロさん、クロミツくんは家族じゃないのかい? ずっと一緒に暮らして来たのに?」
はっとしたようにチャチャは息を呑みこみ、ややしてから目を細め、喘ぎながら言葉を吐き出す。
「ボクは……ボクはっ……」
途方にくれたような目を、マシロ、クロミツに向けた後、最後にエルナを見つめた。その瞳がゆらりと揺れる。
「……家族だよ? 口うるさいマシロも、面倒くさがりのクロミツも……いつも明るくて優しいエルナも、大事な——ボクの家族だ」
ヴィルフリートは片膝をついて屈みこみ、震えるチャチャの背中を優しく撫でた。
「そうだ。君が過ごしてきた長い年月はかけがえのないものだよ。君はエルナを危険な目に遭わせたくないはずだ。そうだろう? 少し時間をくれないか? 僕たちには話し合いが必要だよ。その上で、何が最善の策か考えようじゃないか。君と、君の家族が傷つかずに済む素晴らしい策を」
彼の声音がひどく優しく、安心させるような響きを持っていたので、チャチャは素直に頷いて、銀髪の青年をまっすぐ見上げた。
「わかったよ、ヴィルフリートさん。ボク、あなたの言う通りにする」
「よし、良い子だ」
ヴィルフリートは微笑みを浮かべ、チャチャの頭を撫でてから、さっと立ち上がり、振り向いた。
「さて、エルナ。どうやら、また説明しなくてはならないことが増えたみたいだ」
銀色の頭に手を当て、ヴィルフリートは少しいたずらっぽく笑った。