第34話 回想
濃紺の夜空に、星々が輝く夜。肌を切るように冷たい風が吹き、思わず体を縮こまらせてしまう。吸い込む空気は体まで冷やしていく。ヴィルフリートは闇に紛れながら、森を歩く。右手の薬指に嵌めた指輪は懐へしまった。自分は人間の世界で生きる。水の民の力を封じ込めた指輪を使うわけにはいかない。
このときはまだ迷っていた。
このまま、少女の元へ行き、そのまま人間世界に留まるか。
もしくは、少女の気持ちを確かめ、「彼女と共に生きる為、ファーミュラーから出ます」と女王に宣言するか。
どちらにしろ、彼女の元へ急がなくてはならない。
「エルナ……」
愛しい少女の名前がつい口に出る。
ずっと会いたかった。水の鳥スイレンの目を通してではなく、この手で、この腕で、彼女を感じたい。そう思っていた。その衝動は、自分では抑えきれないほど熱く、強く、もう限界まで来ていた。十一年という歳月が、ヴィルフリートを少年から青年へと変貌させ、その内に秘める恋心もまた、燃え上がる炎のように巨大化していたのだった。身を焦がすほどのその情熱は、水の国の涼やかな空気では消し止めることはできなかった。しばし、その炎に身を委ねていると、さっと自分を取り囲む者の気配を感じた。しかもそれは一人や二人ではない。ヴィルフリートは身を屈め、腰に手を当てる。だが、彼は剣を携えてはいなかった。なるべくかの地でもらったものは残していきたかったのだ。
(浅はかだったかな)
自嘲気味に笑い、ヴィルフリートは背筋を伸ばして、暗闇に目を凝らす。
「何者だ!」
気配に向かって声を張り上げる。
が、息を殺すように彼の周りを囲む者たちは、一切口を開かない。
ヴィルフリートは両手を上げ、降参の意を表す。
「僕は丸腰だ。金目のものも持っていない。襲っても何も益はないぞ」
おそらく盗賊だろうと、そう言い放つが、彼らは動く気配がない。ヴィルフリートは目を眇めた。
「何か言ったらどうだ」
たったひとり、闇に紛れて頭からすっぽりローブを纏った者が木の陰から姿を現した。
「我らが忌むべき養われっ子よ」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィルフリートの顔が強張った。盗賊ではない。水の国の民だ。
「何の用だ」
ヴィルフリートの声が冷たく響き渡る。
「あなたが邪魔なのですよ」
進み出た男の言葉が合図だったのだか、周りを取り囲んでいた十数人の者たちも一斉に躍り出てきて、両手を突き出し、口の中でもごもごと魔法を詠唱する。とたん、十数の青く輝く魔法陣が出現し、ヴィルフリートを取り囲む。ヴィルフリートも咄嗟に、
「『高潔なる水の神バサエルよ、我に力をお与えください——清き水の守り手よ、全ての穢れから我を守り給え』」
と防御魔法を唱える。が、最初に進み出た男が、ローブの下に唯一見える口元に怪しげな笑みを浮かべ、素早く腰から二本の枝を編んだような木製の杖を取り出し、どんっと地面に突き刺した。その刹那、地面に黒い渦が生まれ、それが影のように伸び、ヴィルフリートの足元に絡みついた。影は瞬く間にヴィルフリートに体中に絡みつき、果てはぐるぐるに縛り上げてしまった。
「な、にッ……⁉」
防御魔法が跳ね返すことのできなかった、どす黒い魔法に、手も足も出ないでいると、男がつかつかと歩み寄って来た。
「あなたは深い眠りにつくのです。永遠に。この魔法を解くのは容易ではない。奇跡が重なりもしないかぎり、あなたが再び目を覚ますことはない。おやすみなさい、そして、さようなら」
巻きついた黒い影がヴィルフリートをぎりぎりと締め上げる。ついに立っていられなくなり、地面にどうっと倒れ込んだ。すると、なぜか人の手から離れた後も地面に突き刺さったままの杖の先から、絶えることなく黒い影が靄のように彼のもとに這うように寄って来る。まるで意志のある生き物のように。蠢く黒い影を睨みつけ、ヴィルフリートは奥歯を噛みしめた。どうにか体を動かそうと転がるが、影はそれでも彼の元へ迷うことなくやって来る。ローブの男の愉し気な高笑いが聞こえた。
(魔法ももう少し鍛錬すべきだったか……)
今更考えても仕方ない考えが頭を過る。
(エルナ……会いたい)
黒い影がと飛び掛かるようにヴィルフリートの顔を覆った。視界が真っ暗になる。むせかえるような煙の臭いがして、息苦しい。
(君に会いたい……エルナ……)
意識が遠のく。深緑色の瞳が浮かぶ。優しく微笑む少女の顔が。その頬に手を伸ばしたい。そっと触れたい。うすれゆく意識の中、ただひたすらに願った。彼女に会いたいと。