第14話 旅立ち
「そろそろ、そのペンダントを預かってもいい?」
ぬかるむ村の道を歩きながら、隣を歩くヴィルフリートが手を差し出してきた。エルナが頷いて、首にかけていたペンダントを両手で外し、その手に乗せると、ヴィルフレートは大事そうに握り締めてから、懐の内隠しに仕舞い込んだ。村人たちが、物珍しそうに一行を眺め、時折声を掛けてくる。エルナは風船帽の鍔をぐっと下に引っ張り、目元を隠して、彼らに応える。
「エルナ、どこか行くのかい?」
「ええ、街に」
「そこのあんちゃんたちは?」
「親戚なの」
「へえ、こんな男前の親戚がいたのかい!」
平然と嘘をつくのは心苦しいが、本当のことを話す必要もない。
「気を付けて行っといで!」
そんなさりげないやり取りに、少しだけ胸が詰まる。村を出るのは兼ねてからの望みではあったが、不安がないわけではないし、一抹の淋しさも感じる。
すっかり雨雲の姿は消え、今は雲一つない青空が広がっている。日差しのせいか、朝の涼しかった空気が嘘のように肌が汗ばんだ。
ローラントは、ぬかるみを嫌がったクロミツを肩に乗せ、チャチャは赤子のように抱きかかえている。渋々ながら妖精動物の面倒をきっちりと引き受けてくれているのが何だか不思議だった。不思議といえば、彼もまたヴィルフリートと同様に〈妖精の瞳〉を恐れていないようで、エルナは内心ほっとしていた。
「ローラントさん、重くないですか?」
「そんなには。暑いけど」
ローラントは黒いローブを羽織っていて、ただでさえ熱いのだ。毛のある動物が密着していればさらに体温は上がるはず。
「クロミツ、チャチャ。晴れて、地面も乾き始めてるし、そろそろ自分で歩いたら?」
「まだべちゃべちゃじゃねぇか。嫌だね」
「ボクも汚れたくないなぁ。だってこの先すぐ洗えるとは限らないじゃない?」
黒猫のクロミツも茶色い巻き毛の犬チャチャも全く下りる素振りを見せない。
「あなたたち、そんな意気地のないことでどうするのよ! この先旅に出るのよ! 野宿するかもしれないのよ! こんなぬかるみが何よ! 男でしょ!」
マシロが叱りつけるように叫ぶと、
「お前だってその白い毛を汚すきねぇだろ。そもそも地べたを歩かない奴に言われたくねぇな」
「そうだよ。マシロだって、絶対泥の中なんて入らないでしょう。いっつも、エルナの肩だからね。男の子とか女の子とか、そんなの関係ないよ。嫌なものは嫌なんだ」
と二匹に言われ、マシロはむくれて黙り込む。
そんな会話を聞いていたヴィルフリートは愉しそうに笑った。
「愉快な旅になりそうだね」
それから若干尊大な態度で、ローラントに声を掛ける。
「さて、ローラント、馬車に乗りたいんだが」
ローラントはわかったというように頷いて、チャチャをヴィルフリートに、クロミツをエルナに押し付けると、さっと歩いて行ってしまった。そしてしばらくすると戻って来て、
「エルバンの街まで行く荷馬車を見つけた。それに乗せてもらうことになったぞ」
と先に立って案内してくれる。どうやら面倒見の良い人らしい。
荷馬車は贅沢にも二頭立てだった。栗毛の馬が二頭、出発のときを待っている。ローラントは初老の商人に前金を払い、荷馬車に乗り込むよう指示した。
初めての馬車にエルナが戸惑っていると、突然ふわりと体が宙に浮いた。
(えっ……⁉)
「羽のように軽い。まるで翼を持つ天使のようだ」
すぐ真上から声がして、自分がヴィルフリートに抱きかかえられていることを知る。
「あ、え、その、ヴィ、ヴィルフリートさんっ!」
突然のことに驚いていたが、次第に羞恥が勝って来る。
ヴィルフリートはエルナの抗議の声を無視して、少しの間抱えたエルナの重さを味わっているようだったが、ややしてから優しく荷馬車に乗せた。
満足そうなヴィルフリートの顔を、エルナは頬を朱に染めて見つめる。
(もうっ! ヴィルフリートさんったら‼)
しばらくの間、荷馬車は村の中の細い道を進んだ。
次第に民家がまばらになり、ついに村の門が見えて来た。あっさりと門を抜け、幅の広い道に出る。道の両側には広々とした草原が広がり、のどかな風景がどこまでも続いている。
(いよいよだ)
エルナは緊張で体を堅くした。膝の上に乗せた両手をぎゅっと握ると、その手を包むように大きな手が乗せられた。はっとして隣を見れば、ヴィルフリートが励ますように微笑んでいる。瑠璃色の瞳がとても優しい。
「大丈夫、心配いらない」
マシロはエルナの頬に体を寄せ、ふわふわの柔らかい羽を擦り付ける。クロミツとチャチャも寄り添うようにエルナの両脇を固めた。大丈夫だよというように。みんなの気遣いが温かくて、エルナはふっと表情を緩めた。
「ところで、懐に入れてるそれは?」
ローラントがヴィルフリートに、自分の胸のあたりを叩いて見せると、ヴィルフリートは鷹揚に頷き、口角を上げる。
「古い魔法のかかったペンダントだよ」
「で、今暴れてるようなんだが……大丈夫なのか?」
わずかに心配そうな声音で問い、ローラントは眉根を寄せた。
「僕を誰だと思ってるんだ。こんなの子猫に甘噛みされたようなものだよ」
相手がたじろぐぐらいの微笑みをたたえ、ヴィルフリートは身じろぎ一つせず座っている。エルナははっとして、余裕の笑みを浮かべるヴィルフリートを見た。
「もしかして……もしかしなくても、ペンダントが作用してるんですか⁉ そうですよね、私全く考えていませんでした。ペンダントの魔法は、持っている人に作用するってことですよね⁉」
かつて経験した気持ち悪さや気絶した時のことを思い出し、さーっと血の気が引く。今それを自分の代わりに、ヴィルフリートが引き受けているのだ。エルナはよくよくヴィルフリートの顔色を窺う。少しでも苦痛で歪んでいないか、どこかしら変化がないかと。
その視線にヴィルフリートは虚を突かれたような顔をしたが、やがて柔らかい表情に変わり、今までエルナの手に添えていた手を、エルナの頭に乗せた。
「心配してくれるのは嬉しい。だけど、大丈夫だから、そんな顔しないで。僕は君の笑顔が見たい。笑顔を見せて、エルナ。そうしたら、どんな苦痛や不安もたちまちに消えてしまうから」
ヴィルフリートの言葉が心にすーっと入り込んで来て、エルナはただ彼に見入っていたが、やがてはっとして顔を逸らし、顔を赤らめた。
「わあ、またやってるぜ……」
クロミツがケッと吐き捨てる。
「まてまてまて! まさか、俺がいない間、こんなことが繰り返されてると言うんじゃないよな⁉」
ローラントは目元を両手で覆い隠し、指の間からちらっとこちらを窺っている。
「え? ヴィルフリートさんって、もともとこういう人じゃないの?」
チャチャが驚いたように目を丸くする。
その場に居づらくなったマシロがチャチャの頭の上に飛んで行った。
「こういう人って……いや、俺はこいつがこんな歯の浮くような台詞を吐くのは初めて見たぞ……やめてくれ、人前で。そういうのは、ふたりきりのときにするものだろう」
顔を覆ったまま、ぎこちない動作で逃げるように荷馬車の隅に移動して、ヴィルフリートとエルナから距離をとったローラントは、恥ずかしげもなく甘い言葉を口にする友人をねめつける。
「もうやめてくれよ! 俺はお前のそんな姿を間近で見たくないぞ!」
びしっと人さし指を向け、ヴィルフリートに宣言する。その指はわずかに震えていた。
ヴィルフリートは感情の読み取れない顔でローラントを見つめ返し、やれやれというように首を振って軽く息を吐いたあと、エルナに優し気な目を向けた。
「エルナ、本当に心配はいらないよ。この石が暴れるのもわずかな間にしか過ぎない。そのうち、距離に耐えられなくなり、親の石が割れる。そうしたら、魔法の効力は完全に失われるんだ。……心配されるのはやぶさかではないのだけどね」
ヴィルフリートはいたずらっぽく目を光らせてから、軽く笑った。