明日の結婚式がとっても楽しみ
奥森香奈美は、目の前の式場をじっと見ていた。
夏の暑さが消えて、秋の涼しさが感じられる。十月。快晴の空は、夕焼けでオレンジに染まっている。
白い結婚式場の建物は、夕日で綺麗に彩られていた。
明日は結婚式。
香奈美の口の端が、かすかに上がった。ゆったりとしたワンピースの上から、軽くお腹を撫でた。
香奈美の小柄な体では、あまり目立たない。でも、確かに膨らんできているお腹。
お腹の中にいるのは、新郎である三原裕也の子供だ。彼の髪の毛を使って出産前DNA鑑定までしたのだから、間違いない。何より、彼以外に、父親の心当たりなどない。
香奈美と裕也の出会いは、合コンだった。一年半前。職場の同僚に誘われて行った合コン。男女五人ずつ。
合コンに参加した男性の中で、裕也はひときわ目立っていた。細身の長身。スタイルがいい。顔もいい。おまけに、社交的で人当たりがよく、話が面白かった。
最初に座った席で、香奈美は裕也と向かい合わせになった。すぐに彼と打ち解けた。
二次会でカラオケに行ったとき、トイレで席を外した。化粧を少し直して、自分達の個室に戻ろうとした。
トイレの前で、裕也が待っていた。
彼は直球で口説いてきた。
「連絡先、教えてよ。最初に話したときから、ずっと可愛いなって思ってたんだ」
軽い人だな。香奈美の中で、裕也の評価は落ちた。それでも、連絡先を教えるくらいなら。電話番号と、チャットのIDを交換した。
次の週に、デートをしてみた。二人きり。でも、最初のデートでどうにかなるつもりなどなかった。
少しお酒が入ったところで、裕也は、どこか寂しそうに言った。
「実は俺、彼女と別れたばかりなんだ」
裕也の話によると、彼の元彼女は、かなりの遊び人だったそうだ。裕也と付き合いながら、平気で他の男と遊ぶ。しかも、二人っきりで。朝帰りなんかも度々あったという。
若い男女が朝まで一緒で、何もないはずがない。
「それでも俺は、あいつとの結婚を考えていたんだ」
だから、なかなか別れられなかった。いつか、自分だけを見てくれる。結婚したら、こんな男遊びもやめてくれる。そんなふうに思い、信じていたらしい。
でも、そんな裕也の気持ちは、裏切られた。
「彼女の部屋に行ったら、男と二人っきりで。しかも、裸で。もう、限界だったんだ」
そう吐露する裕也は、悲しそうだった。
「ごめんな、香奈美さん。俺、実は、早くあいつのことを忘れたくて、合コンに参加したんだ。それで、香奈美さんと打ち解けた気がして、今日誘ったんだ」
合コンのときに下がった裕也の評価は、また上昇した。香奈美は、慰めるように彼の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だよ。世の中、そんな女ばっかりじゃないよ。少なくとも私は、そんなことしないよ」
香奈美は今まで、三人の男と付き合ったことがある。二十四年生きてきて、三人と付き合って、浮気は一度もしたことがない。
「そう言ってくれると、少し救われるかも」
裕也は少し寂しそうに、でも嬉しそうに笑っていた。
終電の時間を過ぎてしまったが、彼がホテルに誘ってくることはなかった。
「遅くなってごめん」
そう言いながら、タクシーに乗せてくれた。タクシー代まで出してくれた。
軽そうに見えたけど、誠実な人なんだ。香奈美はこの時点で、裕也に対してかなりの好感を持っていた。
次の週もデートをして。さらに次の週もデートをして。
四回目のデートで、告白された。
「俺と付き合ってくれる? 俺、結婚願望強くてさ。だから、結婚前提で」
静かに、香奈美は頷いた。
「はい」
香奈美は結婚願望が強いわけではない。だが、結婚するのが嫌というわけでもない。将来を考えた付き合いをするなら、誠実な人と。そんなふうに思っていた。
裕也は、そんな香奈美の希望に合っている気がした。
付き合いは順調と言えた。毎週末、裕也は、一人暮しをしている香奈美の家に来た。香奈美の作った料理を「旨い」と言って食べていた。
裕也の家には行ったことがなかった。彼は実家住まいだそうだ。
夜になると、当たり前のようにセックスをした。
「俺、できるだけ早く結婚して、子供ほしいんだ」
そんな願望を語る彼は、一切避妊をしなかった。
付き合って一年ほどが経った頃。香奈美は妊娠した。一切避妊をしていなかったので、当たり前と言えば当たり前だ。
妊娠を告げたとき、裕也は喜んでくれた。
「じゃあ、結婚式の準備をしないとな。式とこれからの生活のために、ガンガン残業して、いっぱい稼がないとな」
その日から、裕也は夜遅くに連絡をしてくるようになった。
「残業してたら、こんな時間になってさ」
電話の向こうから、車の走る音や、周囲の人々の声が聞こえていた。仕事帰りの、疲れた裕也の姿が思い浮かんだ。
「こんな時間までお疲れ様。頑張って。でも、体は壊さないようにね」
自分との結婚のために、裕也はこんなにも頑張ってくれている。そう思うと、幸せだった。
裕也は毎日残業し、いつも忙しいせい。当然のごとく、香奈美の家に来る頻度は格段に減った。
香奈美の妊娠が二ヶ月目に入る頃には、三週間に一回程度。
香奈美の妊娠が三ヶ月目に入る頃には、一ヶ月に一回程度。
香奈美の妊娠が四ヶ月目に入る頃には、前にいつ会ったかも忘れてしまった。
連絡を取り合う頻度も、だんだん少なくなってきていた。
「忙しくて、全然会えなくてごめんな。でも、結婚の準備は進めてるから。今度、両親に挨拶しような」
裕也の寂しそうな声を聞いて。
「香奈美は大事な体なんだから、俺が頑張りたいんだ」
気遣いの言葉を口にする彼を信じて。
香奈美は、少しずつ膨らんできている腹を抱えて、仕事を続けていた。
あるとき、職場の昼休み中に、同僚に声を掛けられた。裕也と出会った合コンに誘ってきた同僚。
「合コンに来てた三原さんって、覚えてる?」
聞かれて、香奈美は即座に頷いた。三原裕也。忘れるはずがない。彼の子を妊娠しているのだから。もうすぐ結婚するのだから。
「あの人、私の従姉妹の友達なんだけど、今度結婚するんだって」
裕也はもう、結婚することを周囲に言っているんだ。しばらく会っていない間にそこまで話を進めていたことに、香奈美は少なからず驚いた。仕事も忙しかっただろうに。
「なんか腹立つよね。あの人、結婚相手ともう三年も付き合ってるんだって。彼女がいるのに合コンに来てたんだよ? しかも、彼女いるなんて言ってなかったし」
同僚の、非難するような声。口調。言葉。
香奈美は一瞬、彼女の言葉の意味が理解できなかった。
三年も付き合ってる? 私達、まだ、付き合って一年半も経ってないよ?
……え? ……え?
同僚に、裕也の結婚相手の名前を聞いてみた。彼女は知らないと言ったが、次の日までに確認してくれた。
奥森香奈美、という名前ではない。それだけは確かだった。自分とはまったく違う名前だった。
すぐに、香奈美は裕也に連絡をした。同僚から聞いた話を伝えると、即座に電話を切られた。
架け直したら、話中音が聞こえた。着信拒否。
他の連絡ツールも、ブロックされていた。
ようやく、香奈美は気付いた。遊ばれたんだ、と。結婚を語られて、一途なフリをされて。騙されて、捨てられたのだ。
お腹の子供は、もう二十二週目に入っている。堕ろすこともできない。
日に日に大きくなる、香奈美のお腹。
育ってゆく、裕也との子供。
香奈美以外の女と結婚する、この子の父親。
プツンッと、香奈美の頭の中で音が聞こえた。
その日から、香奈美は裕也の情報を集めた。貯金の大半を使って、興信所を雇った。彼の結婚式場や相手のことを調べた。部屋に残っていた彼の髪の毛を探し出して、出産前DNA鑑定もした。
──そして明日は、裕也の結婚式。
香奈美は、口の端を上げた。
裕也。あなたの奥さん、綺麗な人だね。
もう三年も付き合ってるんだってね。
奥さんのお腹にも、赤ちゃんがいるんだってね。私と同じだね。
やっぱり、奥さんから妊娠を伝えられたときも、万歳の絵文字を返信したの?
裕也とのチャットのやり取りは、残っている限りプリントアウトした。大量にコピーも取った。妊娠を伝えたとき、万歳の絵文字が返信されてきた。
DNA鑑定書も、大量にコピーを取った。
当たり前だが、香奈美は、裕也の結婚式に招待されていない。
でも、そんなこと、どうでもいい。
楽しみね、裕也。
明日の結婚式、とっても楽しみね。
香奈美の家には、裕也との関係を物語る物がたくさん用意されている。
明日は大荷物だ。
大荷物を持って、この式場に来よう。
香奈美の笑顔。笑みの形で細められた目は、どこか正気を失っていた。瞳は、狂気の色に染まっていた。微笑む口元は、自棄に満ちていた。
香奈美は、再び自分のお腹をさすった。
「明日、パパはどんな顔するんだろうね」
見る者の背筋を凍らせるような、微笑み。
「結婚式、とっても楽しみだね」
裕也の人生が大きく変わる、明日の結婚式が……。
夕日は、まるで舞台のように香奈美を照らしていた。
口先だけは誠実なクソ野郎はどこにでもいるというお話。