魔女と王弟殿下と、ときどき猫
2/22猫の日なので。
「――あ、ヤバイ。失敗した」
ポンッ。
「ニャー……」
室内に破裂音が鳴ったと同時に、白い煙がもくもくと立ち上がり、その中から鳴き声と共に一匹の黒猫が現れた。
否、魔法の失敗で黒猫になってしまった、魔女ベアトリスだ。
(あ、材料を一つ間違えている……。こんな初歩的なミスをするなんて、王国専属魔女の名折れだわ)
ベアトリスは自分の変化した尻尾を揺らしながら、心の中でぼやいた。
人間のときは緩やかに波打っていた黒髪は、黒い毛並みへと変化している。
(そもそも王国専属魔女に、つれない飼い猫と仲良くなりたいなんて、そんなくだらない魔法薬を頼む貴族が悪いのよ。こうなったら代金をせしめてやるわ!)
ベアトリスの頭の中で魔法薬の代金がどんどん引き上げられていく。
そう、ベアトリスは魔法を使う魔女だ。
それも、王国専属魔女という肩書を持っている。
しかし彼女が先ほど作ろうとして失敗したのは、国の依頼とは何の関係もない、金持ちの貴族からの個人的依頼――それもつれない飼い猫と仲良くなりたい魔法薬だ。
それが失敗して、ベアトリス自ら猫になってしまった。
だが試作段階の魔法薬だったので効力は短いため、時間と共に解けるのを待てば良いだけだから慌てる必要はなく、ベアトリスは猫の小さな口であくびをする余裕もあった。
ベアトリスは王国専属魔女という大層な肩書を持っているが、大多数の魔女に共通する自由奔放で気まぐれという気質だ。
「……ニャ」
しかし、ふとあることを思い出して、揺らしていた尻尾を垂れ下がらせた。
(まずい……。今日はあのくそ真面目な王弟との交流会なのに、猫になっちゃってどうするのよ……)
すっかり忘れていた予定を思い出して、先ほど魔法に失敗したときよりも焦りが込み上げる。
ベアトリスが心の中でくそ真面目な王弟と呼んだ人物は、その呼び名の通りこの国の王の実弟クロードのことで、現国王にはまだ子どもがいないので王位継承権第一位という地位を持つ人物で、さらにいえばベアトリスの婚約者だ。
しかし、ベアトリスは一癖も二癖もある王とは割と気が合うが、その弟であるクロードとは絶望的なほど合わない。
何が合わないかというと、くそ真面目なところだ。
(まずいわ……。逃げようかしら……)
あのくそ真面目な男に、本来の仕事である国からの依頼以外の、貴族からの個人的依頼を引き受け、さらに失敗して猫になったなど知られたら呆れながらくどくどと説教をされるに決まっている。
貴族からの個人依頼を受けたのは、完全にベアトリスの小遣い稼ぎだからだ。
そもそも、ベアトリスはクロードとの交流会に乗り気ではない。
この婚約は王が取りまとめたものだが、どうせ魔女を国に繋ぎ留めたいだけの政略結婚だと分かっているからだ。
そうでなければあの真面目な王弟が、正反対な性格のベアトリスと婚約なんてするはずがない。
毎回盛り上がらない交流会という名のお茶会でも、特に会話らしい会話もなくお茶を飲むだけという冷めたものだ。
ベアトリスが珍しく気を使って話題を持ちかけてみたが、表情一つ変えず相槌だけ返されて以来、ひたすらお茶を飲んでお菓子を食べることに集中している。
おかげで少し太った。
つまり、ベアトリスは婚約者であるクロードのことが好きではない。
猫の姿で行くわけにもいかないし、ドタキャンしかないと思っていたとき――。
「――ベアトリス。約束の時間はとうに過ぎているぞ」
抑揚のない声が扉の向こうから届き、思わず黒い尻尾がぼわっと膨らんだ。
声の主は今まさに考えていた、くそ真面目な婚約者こと、王弟クロードだ。
ベアトリスの仕事場は城内の一角にあるので、クロードがこの場所まで来るのはおかしなことではないし、時間に厳しい男だから痺れを切らしたのだろうと予想がつく。
気の短い男はモテないだろうと、ベアトリスは心の中で悪態をついた。
もっとも、クロードは見た目だけで言えば非常に見目麗しい。
しかし男は顔じゃない、会話の一つもない結婚生活なんてしたくない、などと思っている内に扉の向こうから声が続いた。
「開けるぞ――……いないのか。まったく、逃げるほど茶会が嫌なのか」
扉を開いたのは、エメラルドのように美しい緑色の瞳が印象的な、背の高い人物。
ベアトリスの婚約者である王弟クロードだ。
真面目を張り付けたような厳しい表情のまま、人気のない部屋を見回して深いため息を吐いている。
(いやいや、逃げてはいない。逃げようかと考えてはいたけれど)
ベアトリスは心の中でそう思うが、猫の姿では言葉も通じないだろうから口を閉ざしておいた。
クロードは人影のない部屋になぜかいる一匹の猫に目を留めた。
「猫など飼っていたのか……?」
涼やかな目元を細めながら見つめ、手を伸ばすとそのまま猫を抱き上げた。
「ニャッ!?」
クロードは猫を抱き上げただけだが、その中身はベアトリスだ。
いきなり体が浮き上がり驚いていると、背中を撫でられた。
「飼い主と同じ黒色だな」
クロードの手が丁寧に猫の毛並みを撫でている。
一方、ベアトリスは腕の中で固まるしかなかった。
(この男、猫が好きだったの……?)
猫好きだったなんて知らなかった。
というより、何も知らない。
婚約者でありながら、クロードのことで知っていることは現国王の弟で、くそ真面目で面白みがないということくらいだ。
動物、ましてや小動物を可愛がる姿なんて想像できなかったが、意外にも猫の黒い毛並みを撫でる手はとても丁寧で、そして心地よかった。
(まあ、撫でさせてあげても良いけど)
何となく、この気の合わない婚約者に勝った気分になって、ベアトリスはクロードの手に頬をすり寄せた。
クロードは指先で猫の顎を撫でながら、小さく呟いた。
「……やはり、兄に無理を言って婚約を結ぶべきではなかったのだろうか」
(ん?)
撫でられながら、ベアトリスは首を傾げた。
クロードに兄など一人しかいない、この国の王だ。
無理を言ってとは、どういう意味だろうか。
そんな疑問が頭の中を巡る中、クロードの手は優しく猫の毛並みを撫で続けた。
「猫なら撫でることもできるのに、好きな相手では髪に触れることさえできない意気地なしなど、彼女は嫌いだろうな……」
語尾はため息となって消えていく。
室内に無音が落ち、ややあってクロードは猫の体を近くの椅子の上に下ろした。
「飼い主が戻って来るまで、きちんと部屋の中にいるんだぞ」
ゆっくりと優しい手つきで椅子の上に下ろすと、クロードは部屋から出て行った。
足音が遠ざかって、完全に聞こえなくなった静かな部屋の中。
ポンッ。
再び破裂音と共に白煙が上がると、椅子の上にいたのは一匹の黒猫――ではなくて黒髪の人影だった。
ベアトリスは、椅子の上で膝を抱えながら顔を上げられずにいた。
「え……、政略結婚じゃなかったの……?」
頭が混乱している。
てっきり王命で決められた婚約で、互いに意に沿わないものだと思っていた。
だからいつも不愛想で、交流会だって盛り上がらないと、そう思っていたのに。
「好きな相手って、私のこと……? 髪に、触れる……」
まだ撫でる手の温もりが残っている。
ベアトリスは思いのほか優しかった大きな手を思い出した瞬間、自身の緩やかに波打つ黒髪をかき集めて顔を覆った。
その合間から覗く、真っ赤に染まった頬。
熱はしばらく引きそうになかった――。
――それから、ベアトリスは失敗ではなく自ら猫の姿になってみたり、クロードに毛並みを撫でて貰ったり、勘の良い王に知られてからかわれたり、そんなベアトリスと王のやり取りを見たクロードが妙な勘違いをしてひと騒動起こるのは、もう少しあとの話。
最初はただの真面目な美形でしたが、気づけば残念なイケメンになっていました。そんな残念なイケメンにころっと絆された自由奔放な魔女です。
読んで頂きありがとうございました!