第8話 -そこは人間同士の戦場、決して足を踏み入れてはならない場所-
冗談みたいなやりとりも、遥か昔。そう思った。
ヒリついた空気が肌に染みる。勝負の熱はまさに業火、獣の顎門に噛み付かれる寸前のおぞましき悪寒。一歩足を踏み入れただけで、俺達は立ち止まっていた。何秒経った? たった今入室したばかりにも、もう永劫過ぎたようにも思える。
ほとんどの奴らは俺達なんて見ていない。ギャンブルの真っ最中であり、盤面を、卓を、手札を、相手の面構えを、勝負の趨勢を、そういったものにしか目を向けていない。
だが、勝負をしていない連中もいた。場を伺い、相手を見定め、マウントを奪い、いかに容赦なく叩きのめすか? そんな数名の視線が俺達に突き刺さった。
――おいおい、間抜けな子猫がやってきたぜ?
幻聴だ。だが、餓えた肉食獣が迫ってくる。
「んー? お二人さん、ここは初めて? おねーさんが優しく手ほどきしてあげようか?」
「い、いや俺は――」
「ふぉふぉ、お若いの、この老いぼれの相手をしてくれんかの?」
「にゃにゃ……」
「ずりーぜ、爺さん、そんな奴らよりオレと――」
その異質な雰囲気に呑まれかけていた俺達だったが。
「こらこら、彼らは私の知り合いなんだ。あんまり虐めないでくれないかな?」
「あ、先生のお知り合い!? 悪かったわね、さよならー」慌てて逃げ出す女と、
「ふぉふぉふぉ」そっと離れていった老人と、
「マジすみませんでした! オレそんなつもりじゃ――」チャラそうな男は平謝り。
そんな人達の中から現れたのは、俺のよく知る相手だった。
「え? 九十九先生?」
「知り合いかにゃ?」
「ああ、俺の通ってる学校でボランティアの教師をしてる――」
「世界史担当のツクモだ、よろしくね。ネコミミのお嬢さん」
「にゃ、助けてくれてありがとにゃ」
「どう致しまして。あまりこんな夜遅くに遊び歩くものじゃないよ?」
一難去ってまた一難。苦手な奴に遭っちまった。
「学生デートならもうちょっと健全な所に――」
「いや、こいつとはそういう間柄じゃないですって!」
「おや、そうなのかい? まぁ、今のご時世、堅苦しいことを言うつもりはないよ?」
「そうだにゃ、こいつガチのシスコンだから有り得ないにゃ」
「おい? なんでそうなる!?」
「おや、信一君には姉か妹がいたのかい?」
「最近姉ができたにゃ。禁断の関係だから放っておいてあげて欲しいにゃ」
「そうか……人に歴史ありという、まぁ頑張りたまえ」
「何を頑張れと!?」
「怪我した姉を背負って数キロの道のりを歩いたあの姿には涙を禁じ得なかったにゃ」
「おま、そん時はぐーすか寝てただろ!? 勝手な想像で――」
「なるほど、背負って歩いたこと自体は否定しないのか……なるほど」
「だから納得しないでくださいって!?」
ああもう、どうしてこうなった?
「それで今日はやっていくのかな? それとも様子見かな?」
「いや、今日の所は様子見のつもりで……」
「ここ、ルーレットはないのかにゃ?」
「前は腕利きの女性ディーラーがいたんだが……最近は場を設けてはいないようだね」
「にゃ……それじゃ、様子見かにゃー」
「まぁ、そう身構えなくても、賭け代は1万ぐらいからある。高くても精々が50万、100万越えの大勝負なんて滅多にない。ここに来る実力があるなら、そう恐れるものでもないさ」
みおはともかく、俺は勝った経緯がアレだから当てにならない。むしろ、運頼みの勝負の方がまだ勝算がありそうだ。
「将棋や囲碁は勝てる気しないしなぁ……麻雀もできなくはないけど、ここの連中相手じゃ話にならねぇだろうし……」
上達する頃には手持ちの資金が尽きてそうだ。
「ルールが単純で分かりやすい所で言うと……オセロや五目並べ、テキサスホールデム、ポーカー辺りかな」
「まぁ、先生とポーカーだけはやりたくないけどな」
なにせこの鉄面皮である。手札の読み合いで勝てる気はしない。
「はは、まぁ一番自信のあるゲームではあるね。青天井の勝負を受けてもいい、と思うぐらいには」
青天井。上限なしのギャンブルを受けるなんて大した自信――ん? 足りないのは300万。暗算して……ああ、ほぼ勝てる方法はあるか。6連敗さえしなければ、という。
だが、リスクは高いか?
でも他のギャンブルでちまちまと……いつかはトータルで勝ちを重ねることができるようになれるか? それまでにどれだけの損失を背負えばいい?
2億もの元手があったとしても、たった300万増やすことがこうも難しい。最近のライツ相場の右肩上がり具合からして、悠長に事を構えたくない。
「にゃ? シンくん何か企んでるにゃ?」
「……やろうか、センセ。青天井のポーカー勝負」
そして、引き返せない戦いの幕を、自ら切って落としたのだった。