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第24話 -飛び去る光よ、汝に一杯の酒を勧めよう。その1-

 恐縮ながら、読者諸賢の皆様に申し上げます。


 この物語をより深く楽しんで頂く為に、無粋なことは控えたいと常々思っております。

 なので、なるべく小声でお伝えしたいと思っております……。


 この物語はフィクションです。

 登場する人物・団体・国家・企業・政治・思想・主義・信条・宗教・経済理論・通貨・事件・歴史・世界大戦・その他名称などは全て架空であり、実在のものとは一切関係ございません。

 努々、誤解されることなきよう、謹んでお願い申し上げます。大騒ぎして知り合いに相談とかしちゃいけませんよ?


 また、私事で大変恐縮ですが、先日いきつけの喫茶店でエルサルバドルの珈琲豆を購入し、自分で淹れて楽しみました。

 それはパッカマラ種という、パカス種とマラゴジペ種の掛け合わせた、エルサルバドル生まれの品種です。

 繊細で優しい味わいは、とても美味しかったです。……と、物語とは無関係ながらお伝えさせて頂きます。


 それでは、ほんの未来の物語を、お楽しみ頂けると幸いです。

 その日の夜。

 あの後、学園長はマイフェアレディへの自己紹介もそこそこに、お土産を置いて去っていきましたね。貰い物のチーズのお裾分けでした。

 たまに悪ふざけが過ぎますけど、一番できた大人というか……というのも、サクラはワイン、コーヘイはビール(普段は発泡酒)、オレはバーボンウイスキーが好み……まぁ、こいつらと飲み交わす内に好みになった、が正しいっすかね? それはともかく、どれにも合うつまみを、開発が一段落した日に持ってくるのは流石でしたね。通好みのブルーチーズみたいな癖の強いのは敢えて外して持ってきたみたいでしたし。


 軽やかなエレベーターの到着音から数秒。


「はーい、できたよー」


 コーヘイがマイフェアレディを連れて、チーズのスライス盛り合わせと、クラッカーに様々なものを乗せたカナッペを持ってきました。野菜・ローストビーフやチーズとかが載ってて、華やかでしたね。

 あー、説明しておくと、地下の台所で調理して、地上研究所で食べるのは割と普段からよくやってました。オレは地下の閉塞感を、コーヘイは豪華さを敬遠してた感じっすね。

 昼間は応接用に使っているテーブルを、仕事終わりの夜に皆で囲って飲み会の流れはこの後も度々開催してましたね。


「幾つかはマイが手伝ってくれたんだけど……」

「……これとこれと、あとこれもかしら? あと、スライスはここからここまで?」

「お母様、その通りです。……どうしてお分かりになったのですか?」

「綺麗で揺らぎがなかったからよ。驚くほど上手だけれど、標準偏差は……2ミリぐらいあると区別が付かなかったかもしれないわね?」

「……暗に僕が下手だってことかな……?」

「何言ってるのよ、食感や味に変化があった方が楽しめるわ。市販の量産品と区別が付かない手作りでは、つまらないでしょう?」

「……なるほど。この身体に飲食の機能は付いていないので、非常に参考になります」


 とか何とか。この後1ヶ月ぐらい、マイフェアレディはコーヘイっぽい調理に挑戦し続けるんすけど……最後までサクラは正しく見分け続けましたね。まぁその頃には相当な料理上手になってました。あくまでオレ達の味覚を基準にした学習なんで、一流のシェフとは言えないでしょうけど。ただ、インターネットに常時接続できる関係上、アップされたレシピや料理動画諸々から学習しまくってたのでレパートリーの豊富さに関しては人間には不可能なレベルまで到達していましたね。


「……そういえば、例の事件はMMTショックと呼ばれるようになったわね」

「あ、そうらしいっすね……ああ、そういや結局MMTってなんなんすか?」

「……私も興味があります。インターネット上の情報を精査してみましたが、どうにも理解できません」


 ちらとサクラはコーヘイに視線を送る。心得たとばかりに、あるいは諦めの吐息よりも速やかに、説明を引き受けた。

 ホワイトボードを引っ張ってきて、黒マジックを手に取る。MMTとは、とタイトルを銘打った。


「まず、MMT(モダンマネーセオリー)……異端の経済学、とも言われる経済理論について」

「異端、っすか?」

「そうだね。内容は実に挑戦的で、刺激的で、センセーショナルなものだ。2010年代末から米国のSNS上などでも盛んに議論されていた。……恐らく、マイが調べたのはそう言ったデータじゃないかな?」

「ええ。詳しく調べるほど分からなくなってしまいました」

「MMTを一通り理解せずに、一部を拡大解釈した自称MMT賛成派の意見に反論が行われる状態を延々繰り返してしまったために、結果誰も本来のMMTをよく分かっていない……MMTという言葉だけが一人歩きしてしまっている……もし本気で調べたいなら、理論を打ち立てた学者さんの論文なり著作なりを、丁寧に批判的に読むことを勧めるよ」

「そんなに妙なことになってるんすか?」

「あー、喩えが妥当かは分からないが、旧教派(カトリック)がイスラム教について語った本を、仏教徒(ブッディスト)が読んだとして、ちゃんとイスラム教について理解できると思うかな?」

「ああ、確かにそりゃ無理そうっすね」


 話す側にも聞く側にも偏見を抱えてたら、そりゃ理解できる訳ないっすね。


「まず、MMTの出発点から。政府は国債を発行することで、どれだけでも支出できる」

「どれだけでも? それって、国債に買い手が付くんすか?」

「無担保コール翌日物の金利誘導目標の達成のために――と言うと、説明がややこしくなりすぎるので、ここでは省略。銀行が全て買うから問題ない、と理解してくれ」


 そこで、物言いたげなサクラに気付くコーヘイ。


「恐らく言いたいことは山ほどあるだろうから、後でまとめて、ね」

「……分かったわ」

「さて、だからといって、事ある毎に無遠慮に支出しまくれば当然、通貨は信用を失い、極度のインフレを起こす……じゃあ、どんな支出なら問題ないのだろう? と考えたのがMMTだ」

「んー……どんな? えー……っと、どれだけでも支出して良い、理由……?」

「はい、時間切れ。というわけで罰ゲームだね。サクラ、これでケントの腕を縛って貰えるかな?」


 手拭いを受け取ったサクラは、オレの右肩の辺りをぎゅっと縛り付けたっす。腕力はそんなないんで、痛くはなかったんすけど……。


「おーっと、ケントの腕に血が流れなくなってしまった! このままだと腕が痺れて、まともに動かせないぞ! 更に放っておいたら、腕が壊死しちゃうかもしれない! 大変だ! さぁどうする!?」

「……なんすか、その三文芝居……そりゃ、タオルを解いたらいいんじゃないっすか?」

「そう、それがMMTの結論なんだ」

「え? どういうことっすか?」

「ケントが国家全体、縛られた右腕が失業者だと思ってくれ。縛られた腕をそのままにして国家が健康を損なうぐらいなら、タオルを解いてちゃんと血を流してやればいい」


 コーヘイは腕の縛りを解く。


「そして、流れている血液はお金の喩えだ。今、これを解いたことによって、流れている血液の量は増えたはずだ。さて、ケントはそれによって、高血圧で苦しむことになるだろうか?」

「そんな訳ないじゃないっすか」

「その通りだ。血が流れていないところに、血が流れたところで高血圧にはならないし、むしろ健康になる。同じように失業者を全員雇ったところで、インフレは起こらないし、むしろ国家として健全だ」

「あっ」


 オレの中で、米国の「金を刷ってでも雇った」話とMMTがようやく繋がったっす。


「政府は無限の支払い能力を持つ。それにより、就業保障プログラムを実施し、ほどほどの金額で雇用する。実際に雇用するわけだから、お題目とならず、最低賃金として有効に機能する。そうやって失業者がほとんどいなくなれば、国家の人材は余すところなく有効活用され、国は活力を取り戻す……これがMMTが掲げた筋書(シナリオ)なんだ」

「……それでは何故、米国はMMTショックを引き起こしたのですか?」


 一旦納得してしまったオレを尻目に、マイフェアレディの疑問に答えるコーヘイ。

 彼は窓側にある水槽に近づいていった。


「さて、このアクアリウムを見て欲しい……泳いでいる熱帯魚が国民で、水はお金だと思ってくれ。……この下に吸水ノズルがあって、ここから水を汲み上げ、外のポンプで空気を含ませた後、上から水槽に流し込む。ぐるぐると水が循環してるわけだ」


 色鮮やかな魚が群れていたり、1匹で泳いでいたり。ちょろちょろと流れる音が癒し。


「でも、1週間も放っておくと、藻が繁殖して、ノズルが目詰まりを起こしてしまう。やがてポンプが機能しなくなって、熱帯魚は死んでしまう。さぁ困った、どうしよう?」


 コーヘイは週に1回、水槽の掃除が習慣になっていましたね。知る限り1度もサボったことがなく……マメな男でした。


「MMTではこう考えてしまった……そんなまだるっこしいポンプなんて使ってないで、外の池から水を汲んできて水槽に入れればいいんじゃないか? とね」

「それでは、水が水槽から溢れてしまうのではないですか?」

「そうならないように、水を捨てる排水溝の仕組みを整えておかなきゃならなかったんだけれど……MMTはその辺の考察が甘かったんだね。結果として溢れかえって、熱帯魚が水槽から飛び出してしまう大惨事になった訳だ」


 コーヘイは言葉を切って、ビールを口に含む。


「ポンプは政府の喩えだよ。皆は節税を覚え、徐々に税金は取りにくくなっていく。その度に増税なり手間を掛けて、税金を取れるようにする……それって熱帯魚にとってはストレスだよね? 集めた税金を適切に振り分け、ばらまき……それを繰り返す。これに異を唱えたMMTもね、余所の池から水を汲んでくる、というアイディア自体は良かったんだ。注ぐ水は、必ずしも汲んだ水である必要なんてないんだから。空気も栄養も満点の水を無尽蔵に用意できる、池に目を向けた事は正しい。ただ、それに見合うだけの排水の仕組みを示せなかっただけでね」

「失業者の雇用のために支払われた米ドルは、生活費として一旦企業に流れ、法人税として国家に償還……回収されるのではないのですか?」

「GAFAを始めとした、米国が誇る巨大な多国籍企業は、節税のプロフェッショナルだよ? ……ついでに言えば、20年ほど前に起きたシェールガス革命の影響も大きいね。大量のロボットを動かすための電力を、米国は自国で賄えた……もしそうでなかったら、米ドルが国外に流出し……MMTショックはもっと早く、小規模なもので済んだだろうね」

「あー……経済が混乱した、のは分かるっすよ? ただなんで、各州が中国や日本、イギリス、フランス、ドイツ、インド……色んなところに買われるなんて事態になったっすか?」

「米国内の問題で言えば、人種差別に関わるセンシティブな問題……黒人の(Black)命を(Lives)粗末にするな(Matter)運動のような人種の対立。そして、経済格差を筆頭にして、教育格差、医療格差……超格差社会によって国民のまとまりを欠いてしまったこと……」

「……お父様? 経済格差は、MMTの就業保障プログラムによって解決したのではないのですか?」

「経済格差というと、貧困層の問題をイメージしがちだが……富裕層が凄まじく資産を抱えていることを忘れてはいけないよ。他国の富裕層に比べ、米国の富裕層は桁が違う。過去10年の長者番付、国籍別の割合推移を見れば明らかだと思う。去年の世界一は、7000億ドルを超えていたんだよ?」

「じゃあ、米国外はどうだったんすか?」

「まずは、2016年の大統領選辺りから悪化し続けた米中対立が根本にあるだろうね。あと、先も挙げた格差問題。グローバル化の流れの中で、格差は伝染病のような振る舞いを見せるんだ」

「……どういうことでしょうか?」

「米国の富裕層が桁違いってのはさっき話したろう? じゃあ、その富裕層は自身が所有する企業の拡大のためなら、優秀な人材を非常に高い給与で雇うことができる。他国の人材であれ、優秀であれば引き抜きにかかる……となれば、他国としては対抗せざるを得ないだろう? すると、他国でも優秀な人材は並外れた給料で雇わなくてはならなくなり、一般労働者は割を食う。結果として格差が広まるわけだ。これは日本も例外じゃなかった。自動車会社とそこの外国人最高経営責任者(CEO)がトラブルになって、逮捕からの国外逃亡事件が有名だね。もっとも、彼は米国人ではないけれど。米国は経営学も盛んで、グローバル経営には外国人CEOが必要だと訴えている……一見正しいようだが、グローバル企業と認められるために、米国基準の給与を払わされる他国の企業からすれば、堪ったものではないのは想像が付くだろう?」

「それも氷山の一角ということでしょうか?」

「高度人材と呼ばれる人は、経営者に限らず全般的にそういう傾向があるね。世界有数の大国、かつ格差の大きい国……米国と中国がツートップだ。両国が人材獲得競争で張り合い続けた結果、双方どちらも、世界中から嫌われ、孤立してしまう。さぁ困った、どうしよう?」

「……張り合うのを止めたら良いのではないでしょうか? 例えば、米国と中国で同盟を結ぶといったような」

「それはオレ的にはありえないと言いたいっすけどね……」

「中国は一帯一路……シルクロード経済圏構想を掲げている。人民元を国際準備通貨にして……まぁ要するに、人民元を世界的によく使われる通貨にして、中国を起点とする経済圏を作ろうとしている。その障害となる対中包囲網を喰い破り、米中の対立に終止符を打つ為に――」

「よーし、じゃあアナタ、質問ね?」

「うぐっ……お手柔らかに……」


 質問で話を途切れさせたのは、サクラでした。良い調子で話してたのに、珍しいっすねーなんて思ってたんすけど……。


「まず、一帯一路の範囲に米国は含まれていないわね? 対中包囲網と言っても、何故米国から切り崩すのかしら? 例えば、インドを打ち倒した方が一帯一路は進むのではないの?」

「えっ……? うーん、切り崩せそうな所から優先したんじゃないのかい?」

「一帯一路の目的と手段を逆に考えているから、説得力が弱くなるのよ?」

「どういうことだい?」

「一帯一路の目的は人民元を世界的によく使われる通貨にすることであって、シルクロード経済圏構想はついでの手段に過ぎないということよ」

「ええっ!? いやいや、中華思想の観点からして、中国中心の通商路を開発するのは中国人にとって本懐ではないのか?」

「少なくとも中国のトップはそんなことは考えていないでしょうね。シルクロード経済圏を確立するのが目的なら、無関係な米国と対立する理由がないもの。あと、格差の伝染や人材獲得競争も事実……だけど、話を小さくまとめすぎてしまっているわ。この問題はもっと根の深い話よ?」

「お母様?」

「それじゃ、マイに質問ね。米国や中国が対立して――と言うけれど、そもそも国家とは何かしら?」

「……モンテビデオ条約の第1条にある、永続的住民、明確な領域、政府、他国と関係を取り結ぶ能力、その4要件を満たすもののことではないでしょうか?」

「国際法上は確かにそうね。でも、経済的にはどうかしら?」

「経済的に、ですか?」

「例えば、こんな国家を知っているかしら? 永続的な住民は1人もおらず、領域は明確でなく、政府も存在しない。でも他国と関係を取り結ぶ能力だけは持っている。それは何だと思う?」

「え? ええと……?」

「桜、それは随分と意地悪なクイズだよ……?」

「お、流石ね。それじゃアナタ、答えは何かしら?」

「ビットコイン……帝国、と敢えて付け加えようか?」

「ビットコインっていうとあれっすか? ブロックチェーンがどうのこうのっていう……?」

「そうね。ただ、ブロックチェーン技術自体はお札の偽造防止、透かしのようなものだから、そこにこだわりすぎると全体像が見えなくなるわね。本質はむしろ採掘(マイニング)よ」

「ええと、ビットコインを始めとした仮想通貨、暗号資産は、その決済を承認するために大量の計算をこなす必要があるんだ。それをマイニングといって、その計算をこなすことで決済手数料のビットコインが手に入る仕組みになってる」

「それがどう繋がるんすか?」

「ビットコイン帝国は、決済手数料を税金だと考えることで、ビットコインという通貨の提供だけを行うヴァーチャル国家とみなせるのよ。住民も領域も政府もないけれど、日本円やユーロ、人民元と関係を取り結ぶことができるでしょう? 取引所でね」


 冗談めかして薄く笑うサクラ。一体彼女には、何が見えてたんすかね?


「かつて世界では、お金を払うために、金貨を用い、黄金(きん)は貴重すぎるからと補助貨幣……銀貨や銅貨や鉄貨などを使用し、金貨がすり減ると困るから黄金と交換できる紙幣を併用した。金貨本位制と金地金(きんじがね)金本位制ね。これが狭い意味での金本位制。その後は?」

「2度の世界大戦で国家間の金の流通が難しい時期があって、また戦費支払いのためにほとんどの国で黄金が足りなくなってしまった。とはいえ、黄金が消失したわけじゃない……唯一、黄金の備蓄が充分だった米国がドルと黄金の引き替えを可能とし、各国はドルとの交換を通じて間接的に金と交換できるようになった。いわゆる金為替(きんかわせ)本位制……これを含めたのが広い意味での金本位制、第2次大戦後にできた米ドル中心の世界の体制をブレトン・ウッズ体制と呼ぶ」

「でも、そのルールだと、米国から黄金が流出し続けて、いつかなくなってしまうわね?」

「そういうことだね。第2次ニクソンショック……1971年にその体制は崩壊した。その後は管理通貨制度と言われる仕組みだ。現在の通貨のほとんどは、各国の政策によって管理されていて、黄金による裏付けは基本的に存在しない」

「えっと? それじゃ、なんでお金に価値があるんすか?」

「例えば日本円なら、日本人が日本政府に税金を払う為に必要とするだろう? それ以外の通貨での支払いは一切認められない。だから日本円は日本人にとって必須であり、価値はゼロにはならない。日本人が頑張って働いて、日本の財・サービスを日本円と引き替える……その需要と供給で価値が決まる。……まぁ、空気に値段が付かないように、お金の供給が多すぎる場合、逆に需要が少なすぎる……つまり徴税の仕組みが機能しなくなった場合、今回の米ドルみたいなことになるんだけど」

「うぐ……そうっすか……」

「税の支払いを認める唯一の貨幣だから価値を持つ……表券主義という考え方。租税が貨幣を動かすとして、MMTが再評価して一気に注目されるようになった。そもそもMMTの別名が新表券主義と言うぐらいだ。税金の大切さはMMTの根幹の1つだろうに、理論と現実のズレが広がり続けたのは、とても残念だったな……」

「まぁ、やっちゃったものは仕方ないわね」


 サクラは肩を竦め、あっさり片付けたっす。ひでぇ。


「ところでアナタ、管理通貨制度って変だと思わない?」

「え? ……それは政策が許せばどれだけでもお金が刷れるとかそういう?」

「ああ、違う違う。そうじゃなくて……言葉通りよ。通貨を管理する制度をちゃんと実現できてるの?」

「? ええと……?」

「例えば、アナタの財布に現金が15102円入っていることを、政府や税務署は管理できてるのかしら?」

「え? ちょ、なんで知って……、うわマジだ、端数までぴったり!?」

「なんなら紙幣と硬貨の枚数も当てましょうか? ……さて、1971年に金本位制が崩壊して管理通貨制度になったと言われている。金本位制が崩れたのは確かにそう。けれど、管理通貨制度は実現できていない……今はその移り変わりの時期じゃないかしら?」

「例えば、米国や中国、インドのようにキャッシュレス化が進んでいれば、僕の財布の中身までしっかり管理されているはずで……日本のようにキャッシュレス化に出遅れている国がある以上、まだ移行しきっていない……ということかい?」

「それもあるし……まぁ、私だってMMTがインフレ対策や税金の重要性について最もよく考えられた理論であることは認める――嫌いだけど。あの不誠実さに無性に腹が立つ……っ!」

「ほら、桜」


 コーヘイはミネラルウォーターをコップに注ぎ、サクラに渡していました。細波立ったワイングラスは一旦置き、一息に乾す。大きく息を吐いた。この飲み会はマイフェアレディが始動したお祝いも兼ねていて、怒りと共に呑み込むには惜しすぎるワインだったんでしょうね。


「うん、ありがとう」

「……あー。余計かと思うっすけど。どうしてそうもMMTを嫌うんすか?」

「……世界は数学(せいじつさ)によって支えられている。キャッシュレス社会という、通貨を管理するための社会基盤はできつつあった。MMTはその社会基盤を運用する方策を示せるポテンシャルはあったのよ? でも、センセーショナルな表現を多用し、民衆は、政治家は、一部の文言だけを拡大解釈してしまった。誰もがMMTを語りながら、誰もがMMTを理解していない歪な状況に陥った。MMTは人間に誠実に向き合うべきだったのに。人間は、社会の最小構成要素なのに……結局、理論と現実のズレを極大化させ、第3の危機を招いてしまった……」


 よく分からなかったので、コーヘイに耳打ち。


「……あの、危機って何すか?」

「固定の設備投資が盛んだった産業革命が終わった頃に、生産手段の可塑性(マリアビリティ)などを前提にした新古典派経済学ができてしまい、最終的に1929年の世界大恐慌の発生を止められず、原因もすぐには分からなかったというのが経済学の第1の危機。1970年代の反ケインズ主義から80年代始めの米国の経済施策レーガノミクス……軍事費の増大と大幅減税、規制緩和で投資促進、ドル高誘導によるインフレ抑制……世界にインフレを輸出したと言われるほどの経常赤字を叩き出して世界経済を不安定にさせたのが第2の危機。この一見矛盾する政策を、当時でさえ異端と言われていた反ケインズ経済学で強引にこじつけたもの……ああ、確かに……MMTショックが起きたこの状況は、今後、経済学第3の危機と呼ばれるようになるのかもしれない……」


 次のサクラの言葉は、今のオレ達からして、ぞっとする先見性だったっすね。


「いえ、ひょっとしたら……これが第三次世界大戦なのかもしれないわね」

「桜?」

「管理通貨制度を推し進めると、通貨の発行権と国家がイコールで結べるようになる。米ドル、ユーロ、日本円、UKポンド、人民元、付け加えるなら中国に対抗するように経済大国化しつつあるインドルピー。そしてヴァーチャル国家ビットコイン帝国。これらが覇権を奪い合う時代が、もうとっくに来ているんじゃないかしら」

「……桜、とっくに……ってどういうことだい?」

「中国の一帯一路政策。アナタが人体に喩えたMMTの仕組み……血の流れが止まって腕が痺れているのなら、縛りを解けばいいのよね?」

「あ、ああ。そう言ったね」

「じゃあ、一帯一路の範囲に含まれる発展途上国を失業者、痺れた腕と考えれば、そこに血液……人民元を流したとしてもインフレは起こらないわね?」

「えっ……? あっ」


 サクラはホワイトボードを全て消し、通貨と数字を書き込んでいく。


「米ドルが60、ユーロが20、日本円とポンドが5ずつ。人民元と豪ドルとカナダドルが2ずつ。その他4。MMTショック以前の、外貨準備の比率はおよそこのぐらい」


 百分率に従って、世界の流通する通貨の割合を並べる。ホワボの右側は大きく不自然に開けられていた。


「一帯一路は、中国からヨーロッパに向かう経路上にある、発展途上国という未開拓分野(ブルーオーシャン)に目を付けた。途上国の成長余地は全世界でこれぐらいかしらね……?」


 空白に大きく書き足す。『(発展途上国・MAX400? ※全世界が先進国並に発展した場合)』


「中国は一帯一路で、発展途上国に国際準備として、できれば法定通貨として人民元を使って貰えれば、この……400は無理にしても、100で充分。米国を差し置いて世界の頂点に立てる。そうなれば、人民元の通用する範囲にある人材(ヒト)でも資源(モノ)でも……人民元(カネ)で買える。人民元は、中国政府だけが発行できる。まさに中国にとっては理想の世界ができあがるわけね……でも、2021年に大事件が起きた」

「エルサルバドルの、ビットコイン法定通貨化だね?」

「そう、ビットコイン帝国が台頭し始めた最初の事例。場所としては一帯一路とは何の関係もない中央アメリカの小さな国、エルサルバドル共和国がビットコインを法定通貨にしたことで、基軸通貨の発行に関わる先進国政府は衝撃を受けた。最も過激な反応を示したのは、中国だったわね? 即座にビットコイン関連事業を全面禁止した。理由は、自分達がやろうとしていた発展途上国に対するシェア拡大を、あろうことかヴァーチャル国家が横取りした! これを座して待てば、人民元はビットコインに追いつかれ、追い抜かれたが最後、シェア拡大のチャンスを逃し、世界の頂点に立つのは永遠に不可能になってしまう!」

「それが、中国の想定した最悪のシナリオだと?」

「ビットコイン帝国には、住民も領域も政府もない。故にABC兵器も通用しない……核ミサイルでインターネットを壊せる訳がないんだから。ただ……エルサルバドルの事例は中国にヒントも与えた。エルサルバドルで米ドルをビットコインに入れ替えることが可能なら……」

「アメリカで米ドルを人民元に入れ替えれば良い……そういうことっすか?」

「そうね。発展途上国への進出は棚上げして、まず米ドルのシェア60を奪い、法定通貨のナンバーワンになることを優先、地力を強くしてから、発展途上国におけるビットコインとのシェア争いをするつもりなのでしょうね。……もっとも、その辺りの事情はどの国も想定した上で、アメリカを分割してしまった。軍事兵器も、無用の長物になるでしょう。物理的に破壊してしまったら、シェアも消失して奪うことができなくなるのだから。各国共通の敵、ビットコイン帝国の防衛力が無限大である以上、シェアの消失を招く大量破壊兵器の利用は自殺行為でしかないわ」


 サクラは残るワインで口を軽く湿らせ、結論に至る。


「それは想像上の数(虚数i)を仮定することで、数論をより深く理解できるように。想像上の国家、ビットコイン帝国の存在を仮定することで、世界はかくも簡単に説明できる。これが、第三次世界大戦――人類史上初の知性による大戦争の幕開けよ」


 その悪い冗談みたいな現実を呑み込もうと、オレはグラスの酒に手を伸ばした。

 同時、ばしゃりと――コーヘイが、缶ビールを倒してしまう。その手は震えていた。


「お父様?」


 マイフェアレディがタオルを片手に、コーヘイの元へ。


「ああ、ありがとう、マイ」

「……アナタ、怖いの?」

「ああ、すまない、格好悪いな……僕は……普通(ぼく)には、この世界が恐ろしいんだ……」


 コーヘイは、現実から目を逸らすように、ぎゅっと目をつぶる。しかし、その心は、現実から……第三次世界大戦から、逸らすことができないようだった。


「かつて黄金が世界共通の価値を持っていた時代は、やがて、金の不足から世界的な不況レジームに陥った。100年も前にケインズが金本位制を未開時代の遺物と切り捨て、1世紀かけてようやくここまで来たんだ、僕達は! ビットコインは黄金と同じ、悪意はなくとも、善意もない。こんな不毛な争いが続けば、どこの国家だって社会福祉――善意に予算を振り向けることができなくなる! 人工知能が普及して9割が職を失おうとする時代に、AIを所有する資本家や、AIに勝てる高度人材しか生きていけないようなルールを敷く意味が、どの国が勝っても誰も生き残れなくなるような戦争をする意味が、一体どこにあるって言うんだっ!?」


「……なぁ、コーヘイ。オレ達じゃ駄目っすかね?」

「ケント?」

「9割なんてケチなこと言わねーっすよ? 10割。高度人材? 何それ美味しいの? 人類なんざ、1人残らず、みーんな! 失職させてやるっすよ。オレはそのつもりで、マイフェアレディの製作に関わってるつもりっすけど? あーでも、そうっすね、やっぱ金融の話はオレにはよく分かんねーっす。だからサクラ。そっちは任せるっすよ?」

「あっはっは、私を誰だと思ってるのよ? そうね、要するに……善意を振りまく世界政府を買えるだけの金があればいいんでしょう? 総資産をあと2桁増やせば良いだけなんて、楽勝じゃない。優しい普通(アナタ)の代わりに、普通(アナタ)をいじめる資本家共(わるいやつら)を懲らしめるぐらい、朝飯前なんだから!」


 第三次世界大戦を、この3人で勝ち抜こう。

 盃を交わしながら、オレ達はそんな約束をした。

不審者「よーし、小難しい話はここまで! 乾杯っす!」

普通人「乾杯!」

億万兆「かんぱーい♪」


~そして朝方へ~


不審者:(ぐでーん)へんじがない。ただのしかばねのようだ。

普通人:(zzZ……)こーへいはぐうぐうねむっている

億万兆:(くぴくぴ♪)え? 4本目だけど?


BB>『アルコール濃度と分解能の違いが、戦力の決定的差ではないということを……いや無理でしょ、だからウイスキーのイッキは止めろとあれほど!』


 次回、『飛び去る光よ、汝に一杯の酒を勧めよう。その2』追憶の光は、甘く、優しく、苦く、そして痛い。


 続きが気になる方、早く読みたい!って思ってくれた方いらっしゃいましたら、


 最新話のあとがき下のところから、評価を頂けると作者のテンションが上がります。是非よろしくm(_ _)m

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