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心の故郷

作者: 大沢慎

「なんでサボっちまったのかなー」

 海に沈む夕日を眺めながら車内で一人つぶやく。数年ぶりの平日自主休暇はそれなりに楽しめたものの、仕事をサボってしまった後ろめたさが尾を引きずっていた。

 別に仕事が嫌いなわけではないし、プライベートも三か月後に結婚を控え順風満帆だ。

 それでもふとした衝動で仕事をサボってしまったのは自身でも分からないような心のわだかまりやストレスがあったのかもしれない。サボってドライブしたところでそれが癒されたかどうかと聞かれると、それもまた知る由もないのだけれど。

 友人からメールで「今夜ラーメンでもどう?」と誘いがあったが無視することにした。俺はラーメンが好きではないし、それを言うとラーメン狂の友人は俺を非国民扱いするからだ。

 餃子定食にしようと決めたところで海岸線を後にし山道を抜けることにした。この道は多分走ったことがないが市街に抜けるには早いはずだ。


 数十分もしないうちに道に迷ったことに気付く。

 山間の中に現れた小さな盆地。田畑の合間を縫って進みながら引き返すか否か迷っているうちに車両進入禁止の柵にぶつかったのでUターンする羽目になった。

 バックギアに入れて切り返そうと下がったところで大きな衝撃を感じ一気に目の前が真っ暗に……もとい、目の前は夕日に染まった薄紫の空一色となった。

 対峙しなければならない現実と向き合う心の準備を必死に整え、シートベルトを外して車外に這い出る。

 田んぼのあぜ道で空を仰いだ社用車の小さなトヨタ。俺はここ数年で一番の大きなため息をついてその場にうな垂れた。

 私用で使っても良いとのことで毎日乗って帰っていた社用車。よりにもよって仕事をサボった日のドライブ先で田んぼに落とすだなんて……。

 どう言い訳する? クビか? 婚約破棄か? また派遣社員でその日暮らしの生活? 沢山の嫌なイメージが頭の中で渦巻くのを全部後回しにして、今出来ることを考える。

 ……付き合いのある車屋にレッカーしてもらうしかないな。会社には素直に謝ってあとは神のみぞ知る、だ。

 住所表示のありそうなものを探しながら携帯電話を開くと飛び込んでくる圏外の文字。逃げるように目を瞑りもう一度開けるも電波状況に変化があるわけもなかった。

 歩くしかないか。電波が繋がるとこまで行って電話してレッカーしてもらって明日会社に謝って。なんだ、電波が繋がるとこまで歩く手間が増えただけじゃないか。


 俺は勇んで車両進入禁止の柵を乗り越え歩き始めた。

 夕日は山にその身を潜め、オレンジ色に染まった空には紫色の雲が細くたなびいている。東の空からは徐々に藍色の闇が近づいてきていた。ひっそりと佇む水田からはしっかりと根を下ろした……これは米だろうか、その芽が明日の陽気を待ちわびているように見えた。

 少し涼しさが出てきた風は自然の豊潤な香りを運び、山々に茂る木々の葉を揺らし、水田に波紋を残していく。吐いた分のため息と入れ替えるように俺は大きな深呼吸をした。可笑しなことに、なんだかすがすがしい。

 遠くの民家では法事でもあったのか沢山の車が大きな家を囲んで駐車している。家の中からは沢山の人の笑い声が聞こえてくるような気がした。

「結構なことだ」

 牧歌的な風景に強引に笑みを浮かべて歩き出すと一人の少女が自転車でやってきて、車両進入禁止の柵の前に駐輪したと思ったら俺の隣について歩き始めた。

「あっちじゃないのかい?」

 遠くの民家を指差す俺に対して彼女は「いえ、良いんです」とうつむき加減に答えた。

 眼鏡にそばかす、おさげにセーラー服。明らかに浮いたビビットなピンクの季節はずれのセーター。如何にも田舎の女の子といった風貌だが、都会で働く俺には凄く新鮮に見える。けして美人とは言えないが純朴そうな雰囲気は好印象だった。

 彼女と共に歩くことは何故かとても自然なことで、俺は今日あった出来事なんかをつらつらと話し、彼女はたまに目を合わせるものの大体うつむき加減に相槌を打った。


 背の低い木が生い茂る砂利道を歩く頃には沈んだ夕日がそのまま朝日となって山際から今度は昇り始める。それもまた、何故かとても自然なことで違和感を感じることはない。

 少し打ち解けて笑みがこぼれるようになった彼女に俺は遅ればせながら自己紹介をすることにした。

「あーそうそう、遅くなって悪かったけど俺、金田慎って言うんだ。君は?」

「あ、あの……さ、さえき……佐伯カスタムって言います」

 一層うつむき加減で如何にも言いたくないといった風な彼女。あまりにも突拍子もなく不思議な名前に俺は耳を疑ってしまった。

 さえき……カスタム? カスタムって名前だよな。カスタムカスタム……。

 不思議なことに繰り返していると目の前の佐伯カスタムはその名前と雰囲気がピタリと一致してくる。彼女はごく自然に佐伯カスタムであって佐伯カスタム以外あり得ないような気さえしてきた。

「変わった名前だけど良い名前だね。カスタムか、何か佐伯『改』みたいな印象を受けるけどカスタムと改って全然違うよな。俺も慎って名前だけど名乗るとよく『慎だけ?』って言われる。慎一とか慎太郎もありだけど慎と慎一、慎と慎太郎は全然違うんだよな、それと一緒だ」

 自分でも何を言っているか分からないが佐伯カスタムはそれを聞いて「そうだね」と笑顔を返してくれた。


 背の低い木が茂る砂利道を抜けると大きな海が姿を現し、その先には一人の男の子が待っていた。印象的に彼は緑。天然パーマを短髪で揃えて如何にも元気そうな感じだ。

「よう!」と彼は俺と佐伯カスタムに挨拶し、一緒に白い砂浜を歩き始める。太陽は徐々に高度を上げうららかな朝の陽気を取り戻していった。

 潮風の匂いと程良い湿気が陽光を纏って気持ちが良い。陽の光に煌く真っ青な海の上で二匹のカモメが歌を世界に届けて回る。俺はその様子をしばらく見送っていた。

 どこからかセミの合唱が聞こえ、打ち寄せる穏やかな波音と相まって夏の優雅なハーモニーを奏でる。白い砂浜には三人の足跡が連綿と続き、時折拾い上げる貝殻は見たこともないくらい美しかった。

 俺はついつい裸足になってジーンズの裾をまくし上げた。太陽を浴びた砂の熱が直に足に伝わってくるとじわり滲む汗。佐伯カスタムも真似をしてローファーを脱ぐと、可愛らしい小さな白い足が見えた。

 緑の彼は社交的でよく話しかけてくれる。佐伯カスタムとは仲が良いらしく時折俺にはよく分からない日常的な会話をしているが、俺が会話に入れないの配慮して頻繁に話題を振ってくれた。

「良い場所だ、ずっと海を眺めていたい」

 俺がそう言うと緑の彼は「まだまだ、これからだよ」と得意げに先を進む。

 

 しばらくすると白い砂浜は岩場に行きついた。そこではまた一人の男の子が立っていて、佐伯カスタムはその男の子に駆け寄り何やら楽しそうに話している。

 男の子の印象は青。緑の彼とは対照的でちょっと内気な感じだ。髪の毛も直毛で育ちの良さそうな髪型に綺麗にカットされていた。この男の子もまた、いつも佐伯カスタムと緑の彼と一緒にいるらしい。そういう雰囲気が伝わってきた。

「次は秘密の湖だ!」

 緑の彼はそう言うと二人に駆け寄り、三人は岩場の隙間から洞窟へと入っていく。俺も慌ててそれに続いた。

 天然の岩場の階段を腰を屈めながら降りついた先は、ドーム状の洞窟の中にひっそりと佇む湖。

 気温は打って変って涼しく、日の光がどこからか入ってくるのか洞窟内は明るく緑が生い茂っていた。湖の水は驚くほど透明で覗きこむと底に沈むの美しい岩や水中植物の緑、泳ぐ魚が鮮明に見える。水面に映る色はエメラルドグリーンやコバルトブルー、どこからか反射した新芽の瑞々しい緑、ルビーのように輝く深い赤……。

「……すげえ。こんな場所がこの世にあんのかよ……」

 ついつい漏れる俺の感嘆の声に青の男の子は嬉しそうに照れ笑いを浮かべ、緑の彼は自慢げに口角を上げた。どうやら『ここ』は『青の男の子の場所』らしい。

「私練習したんだよ!」

 佐伯カスタムはそう言うと、湖に浮かぶ丸太を繋げただけの通路と呼べないような通路を軽やかに進み始めた。

「上手になったなー、佐伯さん」

 青の男の子は感心したように佐伯カスタムに続く。驚いたことに青の男の子はその弱々しい見た目に反して佐伯カスタム以上に素早く丸太を飛び越えて行った。

「うへー、佐伯すっげえなー!」

 緑の彼は極まりが悪そうに眉を潜めた。

「な、なぁ、俺もここ渡るのか?」

 何となくそんな気がしたから緑の彼に尋ねてみると、彼は仲間を見つけたという風な目で「先に行って良いぜ」と促してきた。マジかよ……。


 元々外で遊ぶのが好きだった俺は昔からこういう遊びは好きだったし得意だった。一〇代の頃は鳶職をやっていてバランス感覚にも自信があった。

 しかし水上に無造作に浮かぶ丸太はバランスが悪くとてもじゃないが佐伯カスタムや青の男の子みたいなスピードでは渡れない。緑の彼もこの通路は苦手らしく俺と四苦八苦しながら進んでいた。

 足元から視線をずらせば透きとおる水。赤や青の美しい魚が深いところを優雅に泳いでいる。時々休みながら緑の彼と他愛もない会話を交わしていた。

「いつも三人一緒にいるのかい?」

 俺が先に丸太から飛ぶ。同じ丸太に乗るとバランスが悪いから一個おきに飛ぶようになった。

「そうだね、いつも三人だよ。一人一人の時間はあるけど」

 緑の彼は俺がさっき乗っていた丸太に飛び乗る。

「ここは良いね。自然が本当に綺麗だし時間の流れがゆっくりだ」

 次の丸太に飛び乗る。遠くでは岸に着いた佐伯カスタムと青の男の子が大きな木の根に腰を降ろしていた。まだまだ先は長い。

 緑の彼が俺に続く。決して俺は先を急がない。

「確かにここは良い。でもここもいつまでもあるわけじゃないしいつでもあるわけじゃない」

 いつまでもあるわけじゃないしいつでもあるわけじゃない。どういう意味だろう。

「自己紹介が遅れた、俺は金田慎。君は?」

 ついつい自己紹介が遅れてしまうのは悪い癖だ。緑の彼は丸太を一本挟んで俺の目を見ている。

「俺の名前は大きな森。職業は……この先で巨大な森をしているんだ」

 彼はしっかりと名乗ると丸太に飛び乗った。

「大きな森。良い名前だね、よろしく」

 大きな森は笑顔で「ああ」と答えた。


 ようやく岸に着く手前で一箇所だけ間隔が広く開いた丸太があった。岸では佐伯カスタムと青の男の子が見守っている。二人はこれを飛び越えたんだろうか?

 大きな森は一つ後ろの丸太で「ビビってんの?」と悪戯な笑みを浮かべて背中を押す。

 おいおい……この距離ほんとに飛べるのか?

 推定三メートル超。水深不明、結構深い。せっかくここまで落ちずに来たんだから絶対に落ちたくない。

 三メートルというと走り幅跳びで言えば飛べない距離ではない。きっと飛べる。ただ、実際に目にする距離は凄く遠く見えて、飛べるという気持ちを削いでくる。

 何でこんなにも遠く見えるんだろうか。本当に飛べるんだろうか。諦めて泳いじゃった方が落ちるより良いんじゃないか?

 佐伯カスタムが通った声で声援を送る。彼女は飛んだ。

 青の男の子も照れながら応援を送ってくれる。あの男の子ですら飛んだ。

 大きな森が後ろで腕を組んで待っている。彼は飛べるんだろうか。飛ぶだろう。

 飛ぶしかない。飛んでやりたい。俺は意を決して、丸太いっぱいに助走を取って飛んだ。

 徐々に近づく丸太。俺は予想に反して五十センチほど余裕をもって着地し、思いっきりガッツポーズをした。

「っしゃあぁー! 飛んだぜ!」

 残る数本の丸太を走って飛び越え、拍手と歓声を上げる佐伯カスタムと青の男の子とハイタッチを交わす。

「くっそー……全然余裕じゃねえかよ……」

 大きな森は不満をこぼしながら何度か勢いをつけ、飛んだ。

 ギリギリで着地をすると残る丸太を慎重に飛び、俺達三人とハイタッチを交わす。

 何だこれ、すっげー楽しい! こんなドキドキしたの久しぶりだ。

「さ、次は俺の番だぜ?」

 大きな森は大きな木の根を上り、その裏にある巨大な森へと続く通路を歩き始めた。俺達はそれに続く。


 巨大な森は沢山の木々で太陽の光が遮られ薄暗かった。柔らかい土を踏んで歩く度に肥沃な土の香りが漂い、時折聞こえる鳥の声が一層森に深みを与えていた。

 四人は森の間の道を歩く。もはや辺りは木の壁のようで林道から逸れる心配もない。上を見上げると高々とそびえ立つ木々がどこまでも通路を避けている。不思議な空間だ。

 三人は本当に仲が良いらしく絆も固そうだ。誰か一人が欠けてはこの関係は維持出来ないかもしれない。

 俺にもそう思える友人がいるだろうか、そう思ってくれる友人がいるだろうか。分からない。けれど、今まで以上に友人や家族を大切にしていこうという気持ちになれた。

「あんたがいないと、俺たちもダメなんだぜ?」

 大きな森はそう言ってくれた。別の会話をしていた佐伯カスタムと青の男の子もそれに頷く。

「ありがとう」

 目頭が熱くなるのを感じたから一人先を急いだ。


 森は一層その深さを増して薄暗くなり、高く伸びた木も天井の高度を徐々に下げて圧迫感を強めた。

 木の密度は増し、木々の壁はより強固なものへと変わる。辺りは静まりかえり全ての音は俺たちのとこまで届かない。

 足音はすぐに木の壁に吸収され反響しないため、静謐さは増す一方だ。空気の密度もより濃いものとなり、森の凝縮された匂いは若干の息苦しさを感じた。

 四人は喋ることなく黙々と歩き続けた。

 道は次第に腰を折らなければ進めぬ高さまでになり、足元は木の根が張り巡らされていく。

 いつしか上り始めた道は徐々にその勾配をきつくして、俺達は人一人通れるくらいの小さな木の通路をなんとかよじ登る格好になった。

「もうすぐだ」

 先頭の大きな森はそう言って四人を励ました。

 徐々に息は上がるものの濃密な森の空気が息苦しさを強める。

 皆頑張っている、そう思って俺も気合いを入れ直した。


 ようやく穴のような通路を抜けた先は綺麗な木張りの廊下だった。光はほとんどなく薄暗い。

 大きな森に促されて先に進むと五段ほどの木の階段の上に赤い扉があった。

 俺は階段を上り赤い扉の前に立つ。

 そこでハッと気付いた。

 ——俺、前にもここに来たことあるじゃん——

 遠い昔、何度もここに来ては三人と時間を共にし帰って行った。過去の記憶は端々まで鮮明と思い出された。

 小さな頃は三人が凄く大人に見えた。

 同い年になった頃、学校の恋愛話なんかで盛り上がった。

 二十歳を迎えた頃には三人に社会の厳しさを偉そうに説いたこともあったな。苦笑してしまう。

 海で貝殻を集めたこともあったし、砂浜で砂遊びをしたこともあった。

 夜に来た時は満点の星空。一面に煌く星空を飽きも足りずに見ていると数々の流れ星を見ることが出来た。

 湖で泳いだこともあった。丸太を渡れないような小さな頃はボートに乗って湖を渡ったんだ。

 季節はいつも、何故か夏だった。

 昔からずっとここは変わっていない。昔からずっと三人は変わっていない。

 俺……大人になったんだな。変わったんだな。色んな物の見方が変わった。社会で必死に生きて、辛い経験して、大人になろうって、いっぱい我慢して……。

 沢山妥協してきたかもしれない。もっと昔は純粋だった。それが良いことなのか悪いことなのかは分からない。

 でも……生きていくためには矛盾を内包していかなければいけなかった。世の中は矛盾で満ち溢れていて、理不尽ばっかりで、辛いことも悲しいことも沢山あって、それは仕方がないから耐えるしかなくて。仕方がない、仕方がないって……。

「いいんだよ、君は変わっても私たちは変わらない。君には変わらずに帰る場所がある」

 佐伯カスタムが言う。

 俺、情けない。なんでこんな汚い大人なんかに。昔こうはなるまいと思っていた大人になってきているじゃないか。

「だからここがあるんだよ。誰もが持っている心の故郷。また辛くなったらいつでもおいで、僕たちは君を待っているから」

 青の男の子が言う。ごめんな、いつも君の名前を聞き忘れる。自己紹介が遅くなるのはずっと変わらない悪い癖なんだ。

 もっとピュアで生きていたかった。小さな頃のように真っ直ぐに物事を見て行きたかった。そう、君たちのように。

「さあ、時間だ」

 大きな森が肩を叩く。いつもありがとう。次、いつになるか分からないけどまた楽しく会話に入れてくれ。

「じゃあ、俺いってくる。また、会いに来るから」

 大粒の涙を流しながら俺は赤い扉を開けた。

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