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彼(ヒト)の見る世界


大西家が用意するだけのことはあって、私たちの下宿は翔が言っていた通り庭が広く、南向きで日当たりがいい。今日その庭で干したたくさんの真っ白な洗濯物は、まるで運動会の応援旗のように、ひらひらはためいて私の帰りを歓迎した。

翔と別れてからバスに揺られること十分。ようやく下宿に着いた私はその光景を見ながら、まだレストランで彼に言われたことを引きずっていた。

私は、大西翔の何に惹かれたのか。

彼が普通の感覚からしたら魅力的であることは重々承知だ。でもそれだけではどうしても納得できず、私はあれからずっと、彼との思い出を振り返っては、どこかにそのヒントがないか探している。そうしなければいけない気がした。例え不可抗力で彼の恋人になったとしても、それを続けている以上、どうして彼に惹きこまれたのか、どうして彼と一緒にいられるのか、その答えを自分で見つけなければならない気がした。

翔との思い出自体は、高校三年の時から数えれば二年分もある。だが一年分の彼とのメールは全て末梢してしまったし、大学生になってからは、逆にいろいろありすぎて覚えていられなかった。手がかりになりそうなものが、もし大学生になってからの生活の中にあるならば、高校生の私は何のために彼と付き合っていたのかということになる。やはり理由があるとすれば高校時代だろう。

私は、下宿に何か高校の思い出となったものが残ってはいないだろうかと、いくつもある部屋の中を探ってみることにした。まずリビングを、次にキッチン、私に割り当てられている部屋を、最後に何もないであろうと思いつつも客間を、きっかけを求めて隅々までチェックした。しかし、やはりというべきなのか、大学から住み始めた下宿には、ここ一年間の生活の断片こそあれ、高校時代を思い出すものは何一つとして見つからなかった。結局帰ってきてから数時間かけてやったことと言えば、部屋を調べがてら、ところどころに見受けられる部屋の埃や塵を掃き掃除したくらいだった。

探し疲れたので再びリビングに戻り、お湯を沸かして一人でコーヒーを飲んだ。時計を見ると、時刻は既に午後四時を回っていた。久しぶりに集中して物事に取り組んだだけに、少し肩が凝った。もうほとんど何もする気力がなかった。だが未だに自分と翔がなぜ一緒にいるのかということが気になって仕方がなかった。探すだけ探して八方ふさがりだ、もういい加減諦めてもいいんじゃないかとさえ思えてきたが、その矢先、まだ下宿内で探していない場所があることに気付いた。

それは翔の部屋だった。そこは、出来る限り入らないでほしい、と言われていたので、私は今まで、ほとんど存在しないものとして意識の外に放り出していたのだった。そのせいですっかり忘れていたが、彼の部屋にあるものを、未だかつて見たことがなかった。あの部屋には、一体何があるのだろうか。

思い立ってから私はコーヒーを一飲みにし、カップをキッチンの流し台に放置した。翔の部屋の前に到達すると、ドアノブに鍵がないことを確認し、ゆっくり扉を開いた。

中は予想に反して何の変哲もない普通の部屋だった。勉強用と思しき机と椅子が一組と、いつも翔が寝ているだろうシングルベッド、それに二つの本棚があるくらいだった。あまり使っていなかったからか、部屋の壁面には黄ばみ一つ見当たらない。確かに居候の身である私の部屋より美しくはあるが、入って欲しくないという理由は、私よりいい部屋を宛がわれているから、というわけではないだろう。

他人の部屋を詮索する時に起こる少しばかりの罪悪感を抑えつつ、私は部屋に入って何か気になるものはないか探してみた。ずらりと並んだ法学系の参考書が私を監視しているような気さえしたが、あえてそれも無視した。本の中やベッドサイドなども隈なく探した。たぶん翔が部屋に入るな、と言った理由は、ベッド下から見つかったいくつかの成人向け雑誌のためだろうが、別段それに関しては何の興味も湧かなかった。男性とは得てしてそういう生き物であることは、中学の保健体育の授業で聞かされていたし、半裸の女性を眺めてニヤついているくらいなら可愛いものだ。

だが最後にあさった翔の勉強机の中から、思いもよらないものが出てきた。

「これは……」

それは写真のアルバムだった。特別な装丁がしてあるわけでもなく、写真屋に行けば普通に買い求めることができる安っぽい代物だった。表紙部分の青い印刷がところどころ禿げており、他の全てがきちんと並んでいる翔の部屋の中では、一際異様な存在感を放っていた。

開いてみると、一ページ目の一番上の段に、修学旅行の自由行動で撮った集合写真が入れてあった。通行人にでも撮ってもらったらしく、大西翔と私以外はもう名前も思い出せないが、班のメンバー六人全員が映っていた。右側には私を含めた女子三人。仲の良い二人はピースをして、笑顔でこちらを見つめている。私はと言うと、無理矢理仏頂面の口を釣り上げて笑みにしたような顔。本人は頑張っているつもりなのだろうが、全然笑っているように見えない。左側には男子三人が固まっている。知り合いだろうと思われる二人の男子は嬉しいような恥ずかしいような複雑な表情で大西翔を囲んでもたついていた。大西翔は、いつも通りの無駄に明るく爽やかな笑みでカメラを直視している。背景を全て切り抜けば、証明写真と言っても通じそうだ。

ひどく不格好な昔の自分を見せられて、なぜ翔はこんなものをまだ持っているのだろうと思ったが、彼にしてみればこれが私との最初の出会いなので取っておくのは当然か、と思い直した。それより私はまだ何かこの写真に引っかかるものを感じていた。そして暫くその場に立ち尽くして、数分、じっと写真を凝視した。そして、思い当った。

修学旅行、笑み、彼との出会い。そうだった。私は大西翔に惹かれた理由を忘れていたわけじゃなかった。日常的に起こる出来事が多すぎて、それを思い出す機会がなかっただけだったのだ。本当はずっと覚えていた。彼に惹かれた理由を、本当はずっと覚えていた。


確信的な理由を掴んだ私は、その日の翔の帰りをずっと待っていた。

翔の部屋から出た後、夜気に冷やされると困るだろう、と思って庭の洗濯物を取り込んだ。あの重いバスタオルも、何とか地面につけずに回収することができた。洗濯物は水を飛ばした分いくらか軽くはなっていたが、それでも量が量なので持ち運びにはかなり時間を要したし、畳んでクローゼットの中に仕舞うのにも苦労した。それらが全部終わったのは午後七時くらいで、直後に夕食の準備を始めなくてはならなかった。

だが夕食を作り終え、それを一人で食べ終え、それからさらに風呂に入り終わっても、翔は一向に帰ってこなかった。時刻はもう午後十時を回ろうとしていた。ここまで遅くなるなら、几帳面な彼のことだから連絡の一本くらい来てもいいはずだが、それすらなかった。仕方がないから私の方から連絡をしてみたが、どうやら携帯電話の電源を落としているらしく繋がらなかった。翔の部屋の机の中に置いてあったプロフィール帳を頼りに大学の同級生に順に尋ねてみても、レポートについての話し合いは三十分くらいで終わったから、今帰宅していないのはおかしい、という情報しか得られなかった。

これは何かあったのだろう、と思った。不安が先行して、良からぬ想像ばかりが次々に脳裏を掠める。どれか一つの予想が当たらぬことを祈りながら、今夜一晩待って帰ってこないなら、警察にでも届け出ようか、とさえ思った。待っている間、私はテレビさえつけなかった。静かにぼんやりと彼の帰りを待とう、と決めたのだった。


午後十一時を少し過ぎたころだった。リビングで体をソファーにもたれてまどろんでいた私の耳に、聞き慣れた車のエンジン音が飛び込んできた。私はすぐに身を起して玄関に向かった。それは確かに翔の車の音だった。ようやく帰ってきたのだ、と思い、こんな思いで今まで翔の帰りを心待ちにしたことがあっただろうか、これじゃあまるで主人の帰りを待つ飼い犬だ、と自嘲した。しかし不思議なことにあまり腹立たしくはなかった。

「お帰り。ずいぶん遅いじゃない」

扉が開く瞬間に、すぐにいつもの調子を装って、あまり感情を込めないように言った。外からは、確かに大西翔が入って来た。

「……ああ」

だが彼は俯き加減でこちらを見もせず、そう呟いただけだった。茫然自失、いつもの大西翔からは想像がつかないほど、今の彼にはその言葉がよく似合っていた。翔は無言のまま靴を脱ぎ、頭を垂れたまま、リビングに向かった。私もその後を追う。

「何か食べた?」

「いや」

「一応、電子レンジの中に夕食あるけど」

「……食べたくない」

毎日三食きっちり同じ時間に食事をするのに、珍しい。そもそも、理由も説明せずこんな時間まで外にいて、それで食事すら取っていないなんて、どうかしている。

「……大丈夫?」

思わずそんな言葉が口をついて出る。今まで彼を思いやった言葉をかけたことなどなかったが、今回ばかりは少し事情が違う。ずっと俯いたままの大西翔なんて、見たことがなかった。何かあったなら、お互いに言いあっていたのに、今更隠し事なんて水臭い。

絶対に何かあった。私には言うのを躊躇われるほどの、何かが。

「鳴海」

翔は私が声をかけて数秒後、リビングの扉の前でごく自然に足を止め、振り返った。私は息を飲んだ。今、彼も私も、重大な出来事に向き合っていた。

その時に見えた、大西翔の顔。

いつもの曖昧な顔でもなく、気障ったらしい笑みでもなく、恋人を見つめるときのうっとりとした表情でもない、大西翔の本当の素顔。

断崖絶壁から人を平気で突き落とせるような悪魔を飼っているかのような、そうかと思えば、ただ無意味に広いだけのブラックホールを宿しているようにも見える、ひどくどす黒い感情を内包した、眼球が突出しそうなほどの笑み。

私は、その本当の大西翔に、再び対面した。この顔だ、と思った。私が彼に惹かれたのは、他の誰にも理解できない、この笑みのためだった。修学旅行、彼との出会い、笑み。そのキーワードが頭の中でごちゃごちゃに混ざりあい、初めて彼に会ったときから、私は彼に惹かれていたのだと、やっと気付いたのだ。

「君は、俺の、どこに惹かれたんだい」

その顔のまま、翔は私に尋ねた。私は背筋に何かぞくぞくするものを感じた。本物の彼、見せかけではない彼と、今私は対話をしているのだ。昼間された質問と同じだったが、今なら答えられる。今だったら、私は確信的な答えを、翔に言うことができる。

無意識にかいていた手の汗を、ぬぐう。

「私は」

大きく息を吸い込む。

「私は、あなたの、その目の裏にいる、黒く潰れた不完全な感情が、好き」

やっと、言いきった。

ずっと覚えていた。初対面の彼の中で唯一今まで印象に強い部分。価値観の崩壊を迎えた時に、彼が見せる唯一の顔。完全と言われた人間の、それでも絶対に完全にはなりきれない、大西翔の本当の顔。

私はそれが愛しかった。

翔は私の告白を聞いて、「ああ……」と呟いた。ゆっくりと息を吐き、何を思ったのか、私の髪に力なく触れた。それから酷く疲れた表情を、元の端正な顔に浮かべた。彼の頭が、私の小さな肩に乗せられ、少しどぎまぎしたが、そのうっすらと見える首筋をなでながら、私は翔の次の言葉を待った。


「……子供を、轢いたんだよ」

少ししてから、翔はかろうじて聞こえる声で、そう言った。私は言葉に迷って「そう」と相槌を打った。

翔が今まであったことを話し終わるのには膨大な時間がかかった。話し合いが終わり車で帰宅する途中で、公園から子供が飛び出してきたこと。咄嗟にブレーキを踏んだがギリギリで間に合わなかったこと。子供の母親がそれを見ており、血まみれでぐったり倒れる我が子を抱いて、泣き叫んでいたこと。自分には救急車を呼ぶことしかできなかったこと。警察に呼ばれて、事故の状況を何度も説明したこと。取り調べ中に子供が息を引き取ったのを知らされたこと。その瞬間に、今までの何もかもが頭から消え去り、その他の取り調べは、何も覚えていないこと。子供の両親を訪ねに行ったときに「あんたに殺されたんだ」と罵倒されても、何も言い返せなかったこと。自分が代わりに死ねたらどんなにいいだろうかと思ったこと。そして前科者の自分と一緒にいたら、大島鳴海が不幸になるのではないかと考えたこと。

粛々と語られる事実一つ一つを、私は「そう」と返して聞いていた。寧ろそれしか言えなかった。今まで父親の背中を追って順風満帆な人生を送り、裁判官を目指してきた彼が、私の話を聞いて免許を取った車で人を轢き殺した。言うなれば彼に免許を取らせた私も、その子供を轢き殺したようなものだ。いや寧ろ、私にこそ非はある。翔は私に言われなければ、車の免許なんて取ろうともしなかったはずなのだから。

一通り話し終わったところで、翔は先ほど、何も言わずに変な話題で切り出したことを詫びた。しかしそれは、自分が犯罪者になったとしても一緒にいたいと思うかどうか、ということを確かめるためであったらしい。金や親の地位といったものと答えたら何も明かさずに去り、ルックスや性格と答えたらもっと他にいい人もいるよ、と強がって去るつもりだった。何に惹かれていたとしても、最早自分の魅力など犯した罪に比べれば取るに足らない。それでも最後に、私が何を思って今まで付き合っていたのか知りたかったし、正直手を差し伸べてくれるのではないかという一抹の期待を抱いてもおり、私にその問いの答えを求めたのだった。

「俺は」

虚ろな瞳が私を見ていた。

「俺は、やはり、君と共にありたい」

その漆黒の瞳の奥にいる、何かが私に呼び掛ける。

俺は神じゃない。俺は悪魔じゃない。

俺は不完全で、未完成で、何もかもを受け入れるにはちっぽけ過ぎる、ただの人間にすぎないのだ、と。

そしてそう訴える瞳の奥の何かが、彼を構成している全てのちっぽけな人間の瞳が、大西翔の認識そのものが、他の何にも代え難く、誰よりも美しいのだ、と私は思った。

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