暮らし向き
卒業式の日に、何人もの女の子から「大学生になったら付き合ってくれないか」と告白され、その度に謝らなくてはならなかった。
受験が終わったあとの春休み。二人で翔の家近くの川辺に散歩に出掛けた時、大西翔の伝説にまた新たな一ページが加わったことを、私は本人の口から聞かされた。
その時何と謝ったのか、と私が問うと、父親の知り合いで予てから付き合ってほしいと頼まれていた人がその大学にいるのだ、とこれまたありもしないことをその場ででっちあげた、と翔は言った。毎度毎度、よくそんな大西翔だったらありえそうな話を作れるものだ。皆が信じてしまうのも無理はない。
私たち二人が合格した大学には、同じ高校の同級生は他に誰もいなかった。高校のホームページに毎年の大学別合格者数が発表されるのだが、そこには現役浪人に関わらず、男子一、女子一という数字が記されているだけだった。
翔は、母親の会社は弟に任せ、父親のような裁判官を目指すつもりだと言って、法学部に入った。裁判官になるためには司法試験の合格が不可欠だ。それは確かに本人の努力の域ではあるが、実際の合格率は全体の一%にも満たないため、出来る限りその勉強に集中できるような環境を整えるべきだと父親に教わった。翔はその言葉に従って、大学も司法試験に直結する勉強ができるところを選んだ。足りないと感じたら、専門学校にでもロースクールにでも行って勉強する、と見ている方が滅入るような強烈な熱意を持っていた。
一方私はというと、翔の勧めで同じ大学を目指すことになり、運良く工学部に入ることができた。文系の翔と理系の私が同じ学校に入ることができたのは、この大学が総合大学でありながら文系(しかも主に法学)に特化していたためだ。確かに一般的に偏差値の高い大学ではあるが、その中でも法学部は群を抜いて難しい、らしい。工学部はというと、英語が少し出来なくても数学で挽回できれば受かるくらいだ。入試の得点は返ってこないので実際はわからないが、多分私もそのパターンだった。
歩き疲れたので二人で土手に座り、少し休憩することにした。話に夢中になっていて気付かなかったが、結構歩いたらしく、日はもう沈みかけていた。受験で暫くプライベートな話をしていなかったため、話のネタは一向に尽きなかった。そうして話しているうちに、ふと翔は私に尋ねた。
「そうだ。鳴海はこれから、どうやって大学に行く?」
「どうやってって」
急に聞かれたものだから少し返答に困った。大学までは、私の家から電車とバスを乗り継いで、およそ二時間かかる。
「電車じゃないの。かなり遠いけど」
「やっぱりそうか」
翔は待ってましたとばかりに話を切り出す。
「実は大学の近くにうちの別荘があるんだ。庭も結構広いし、南向きだから日当たりもなかなかいい。大学受かったら父さんにそこを貸してもらう予定だったんだが、よかったら君も一緒にどうだい?」
「別荘」
そんなものまで持っているのか、というのが最初の感想だった。確か、高校の時、翔は車で三十分ほど送り迎えをしてもらっていたと聞いた。となれば、それはおそらく自宅からだったのだろう。大西家の財力は底知れない。
「それは助かるけど、下宿は親が何て言うかわからない」
何しろ私も一応女子だ。男子と一つ屋根の下で暮らすとなれば、金は助かっても他にもいろいろと問題も発生してくることだろう。
「それもそうか」
「相談はしてみるけどね。でもいいの? 勝手にそんなことしちゃって」
翔は、ああ、と短く答えた。
「俺もそうなった場合はもちろん連絡するけど、誰と居ようが、誰を雇おうが、基本的には俺の自由みたいだから」
金は父さんか母さん持ちで、税金も家賃も生活費も勝手にそこから落ちるって聞いたし、大丈夫だろう、と言う。
「それに、正直そろそろあの家を出てもいいんじゃないかと思うんだ」
そう言うと、翔は川の向こう側を見るように目を細めた。私には、その理由はよくわからなかった。ただ、そう言った翔の横顔は夕日に照らされているためか、顔半分が明るく、もう半分が陰りを帯びていて、それがひどく危うげな何かを映していた。
私は一瞬その表情に見とれて言葉を返し忘れるところだったが、「そう思うんなら、そうなんじゃないの」と何とか相槌を打つことができた。少し体も休まったと思ったので、その場で伸びをする具合に立ちあがって、翔とまた歩き出した。
大西翔と私が付き合っていることは、私が彼の恋人になったと知った日に、親に報告していた。そのため、大西家の別荘に下宿してもいいかどうかを尋ねるのも簡単だった。
親は多少心配していたが、そうしてもらえるならそうしてもらった方がいい、という結論を、私が話を持ってきたその日のうちに出した。実際、大学に通うとなると時間がかかるし、下宿をさせれば金がかかるだろうとのことで、どうすればいいか迷っていたらしい。
どうやら両親は、私以外の女の子が言い寄ってきても見向きもしないことや、私と付き合い始めてからの約束を徹底的に守るといった翔の真摯な態度が気に入ったらしく、それだけ堅実的な人なら娘を預けても大丈夫だと判断したようだった。付き合っていた一年のうちに、翔の家族や本人の性格についてもいろいろ話していたので、それで余計に安心できたのかもしれない。
翌日、翔の携帯に下宿の話が許可されたという旨のメールを送ると、彼は相当嬉しかったのか、送信して三十秒もしないうちに、よかった! という返信をよこした。さっそく父親に相談して、下宿の準備をすませるから、何か別荘について知りたいことがあったら遠慮なく言ってくれ、とも書いていた。