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彼と過ごす日常

 長さ一・五メートルの物干し竿に引っかけられた洗濯物の一群に、春の穏やかな光が降り注ぐ。丈の短いTシャツや股上の浅いジーンズ、フリルのついた花柄のワンピース。わずかな長さの棒に並べられたそれらに反射された陽光は、照り返された直後にはほんの少し黄色みを帯びて見えるが、すぐに認識可能な色を超越してただ白っぽいだけの、あるいは透明なだけの色に変化をして拡散し、不特定の形となって目に侵入してくる。

 四月の天気は、ここ一週間ほど快晴でありながらあまり気温が上がり過ぎず、すごしやすい日が続いている。五月も近づいた今日とてその例外ではない。青く澄んだ空には雲ひとつ見当たらず、輪郭のはっきりした白く小さな太陽がちょうど頭の真上にあるのみだ。こうした日和を受けては、南向きのリビングの正面の庭で洗濯物をする私の手も自然と軽やかなものとなる。竹の皮で編まれたバスケットの、濡れた衣服から漂うシャボンの香りは、休日の正午ごろ、決まって一人で、それらを干している私の鼻孔を優しく慰撫する。水を含んで重くなった洗濯物を外まで運び出すのに上がった息も、そうした淡い香りの空気で深呼吸をすればたちまち元通り。春においてはこのシャボンの香りに乗せて、庭でそれぞれ咲き誇る花々の芳香も味わうことができるから、普段は退屈になりがちのこんな作業でさえ、ちょっとした楽しみになっている。

 そんなことを考えながら、私は籠から一枚一枚服を取り出してハンガーにかけ、物干し竿に吊るしていた。

昨日、フリースの下に着たアンダーシャツに、一昨日着たブラウス。洗濯機を回す際に使った柔軟剤の効果で程よく弾力を持ったスカートは、皺を残さないようにきちんと叩いてピンチハンガーにかける。そうして一時間ほど作業をこなしていくと、最後に私の体を余すことなく覆い隠せるだけの面積を持つバスタオルが、バスケットの底に残った。

「あ」と思った。

これを地面に付けないように高く持ち上げ、広い幅を取って物干しにかければよい、のであるが、生憎私にはこれが最も大変な作業なのである。何しろ私は身長一五〇センチあまり。物干し竿に洗濯物を掛けるときでさえ、身長が足らないために少し背伸びをしなくてはならない具合なのだ。元来、無理そうだと思ったことは最後に回す性質である私は、洗濯物を干す際、必ず最後にはこのようにバスタオルを残す。

何も出来ずに突っ立っているわけにもいかないので、タオルを一度半分に折りたたみ、出来た隙間に両腕を肘の辺りまで通して思い切り背伸びをする。裏側をつまむようにして指でしっかり持って、それを端の方から順に物干し竿を跨がせる。「順に」というのは、一回で完全に半分を干すことが出来ないため、まずは右のほうを、次に左のほうをくぐらせてバランスをとり、最後に真ん中を逆の側から引っ張る、という工程を経なければならないからである。

水を含んだバスタオルをずるずると引きずるようにまず右側を物干し竿に引っ掛けた。気を引き締めないとバランスを崩してバスタオルが地面に落ちてしまいかねないので、私の意識は必然的に自分より高い場所にある物干し竿と、それにだらしなくかけられているタオルの右端に集中する。綿を掴んでいるかのような少々おぼつかない感覚で反対側からタオルの隅を引っ張ると、洗濯物と接触した部分がするすると音を立て、全面積のほぼ三分の一を、うまく物干しに吊るすことができた。

第一段階は無事終了。思わずため息が漏れる。

同じ調子で今度は左側に手を伸ばす。右側を引っ掛けると、タオルの重さは自然と物干しのほうにかかるため、左側を乗せるのは少し楽になる。腕の力を抜き、タオルの右側を物干しの下から軽く押さえながら、左右の重さが心持均等になるように生地を均す。皺を作ってしまうと後で戻すのが面倒なので、出来る限り真っ直ぐにしようと心がけつつ、バレリーナがするような爪先立ちでちょこちょこ移動していく。

目を普段使っているときよりもはるかに上に向け、腕も足も伸ばせるだけ伸ばす。首が上に常時向いているせいで若干肩が痛むが、集中力が切れてしまえばバスタオルは落ちる。痛かろうが苦しかろうが、じっと耐えて作業を進めなくては、今日の洗濯物は終わらない。

と、そうして集中するように促していたさなか、私は不意に視界の端にあるものを捉えた。

それは外壁に貼りついた固まった泥のようなものであった。普段窓を開け閉めするときに、部屋から同じ場所が見えていたはずだが、なぜか今まで私はその泥の塊のようなものには気付かなかった。それは湿っぽい屋根の陰に隠れるようにしてひっそりとそこにあり、それ自体がまるで何か忌まわしいものであるかのように、不気味な陰を落としていた。

はて、あそこにあるものは一体なんだろう。

意識がふとそちらへ向いたほんの一瞬、私はバスタオルと格闘している自分を忘れてしまった。そしてその一瞬の間に手を緩めてしまっていた。「しまった」と思ったが、もうそのときにはすでに遅く、バスタオルは再びずるずる音を立てながら地面に落下しようとしていた。

私は何となく目を瞑ってしまった。その時どこかから「あ」と声が漏れた――

瞬く間にバスタオルは地面に急降下し、せっかく洗った布地は砂にまみれてもう一度洗いなおす羽目になる、はずだった。しかし私が目を開いたとき、タオルは不思議なことに地面ではなく、目の前に突然現れた男の手の上にあった。

「大丈夫?」

 彼は何でもないように視線をタオルに送りながらそう言った。

 私よりも二十センチ以上高いであろう背丈。頭を小ざっぱりと短く切り揃え、横から見ても見事に整った顔のパーツの配置。Yシャツをラフに着こなし、ハイブランドの青いジーンズを穿いた姿形は、どこかのファッション雑誌のモデルではと思うほどの完成された統一感をそこに有している。捲りあげられたYシャツの袖から伸びる腕は、あまり日に当たっていないためなのか白く細いが、先ほど反射神経の鈍さゆえに私が落としてしまったバスタオルをくるくると容易に巻きとるだけの力強さを持っている。

「……よく、取れたね」

 そう言いつつ、タオルを回収し終わって腰を伸ばしたその人物、大西翔と視線を合わせる。彼は「まあ」と曖昧に笑って言葉を続けた。

「ちょうど玄関から出てきたら君がバスタオルに悪戦苦闘していたからさ。絶対落とすだろうと思って見てたんだけど」

 案の定、落としたから、洗い直しになる前に助けてあげようと思って。目だけ笑いを浮かべたまま、翔はそんな風に述べる。

「見てたの?」

「あれ、気付かなかった?」

 気付かなかった。集中していたせいだろうか。必死になっている自分を見られたことが、何となく恥ずかしい。

「見てたなら言ってくれればいいのに」

「言ったら、それはそれでタオル落としそうだったし」

 それもそうだ。どうも彼にはかなわない。私は何も言わずにただ笑みを浮かべた。

「はい」

 翔が持っていたバスタオルを私に手渡す。洗剤の香りのしみ込んだそれは、陽光の熱を吸収したためか、湿っていても少し温かった。私は受け取ったそれを、今度は翔と協力して干しにかかった。しかし言うまでもなく、私よりも遥かに身長の高い翔は、あっという間にほぼ独力でそれを干し終えてしまった。


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