3.0
原初のゴブリンであるナノは、ただ逃げていた。
神様の世界で見つめるうち、人間を愛おしく思っていたナノには人間を攻撃するなど考えられなかった。
しかし、人間は違う。人間は排他せんと、ゴブリンというゴブリンを追い立てた。ゴブリンであるナノは魔法が使えたが、「人間に攻撃する」という概念がナノの中に存在しないため、人間に反撃するという思想がなかった。やってもせいぜい防御だ。
しかし防ぐばかりでは何にもならない。魔法を使うために消費する魔力がただただすり減っていくばかりだ。
故に、ナノは逃げた。人間の目の届かない場所へ、手の届かない場所へ。短い足で全力疾走した。
元々人間になるはずだったため、感覚機能は同じだ。走りすぎると、やがて足が痛み、自然と歩みも遅くなる。
人間とゴブリンとでは足の長さが違う。疲れたナノの足に人間が追いつくことは容易だった。
防御もしながら来たため、魔力も直に底をつく。そして体力も限界だ。この状態で人間に見つかったらひとたまりもないだろう。
ナノは神様の世界で人間を見、ゴブリンとして長く生き続けたから知っている。人間が如何に、自分より弱い者に対してどれほど愚かしく、残虐になるかを。
ああ、私はもうこれまでだ。醜いゴブリンと罵られ、謗られ、果てにはなぶられて死ぬのだ。
自分は一切人間には危害を加えていないというのに!
ただ、醜いというだけで!
ただそれだけで、命を落とすのだ──
己の境遇を嘆きながらも、ナノは成す術もないため、その運命を受け入れることにした。
抵抗しなくなったゴブリンを取り囲み、人間たちが各々に武器を構える。
人間の暴力を振るうときの浅ましい愉悦を見たくないばかりに、ナノは俯き、その青く美しい瞳を閉ざした。
そのときである。
「限りなき光の解放を! リュミエール!!」
光の魔法が放たれた。俯いて目を瞑っていたナノは影響を受けなかったが、他の者たちは眩まされ、目を押さえて唸る者が多数出た。
その状況にナノがきょとんとしていると、人間のものではない、ごつごつがさがさした手がナノの腕を引いた。未だ唸る人間の合間を縫って、ナノを人垣の外へ導いてくれる。とてとてと走る歩幅はほとんど同じ。そこでナノは、その手の先の存在が、同じゴブリンであることに気づいた。
「あのっ、貴方は?」
「それは、逃げきってから。できるだけ人から遠ざかるんだ」
そのゴブリンの言葉に力づけられ、ナノは限界の足に鞭打って走った。せっかく見えた生き延びる希望だ。そう簡単に捨てられやしない。
走って、走って、走って。
人間の姿が見えない高原にまできた。さすがにそろそろきつくなってきたナノは、息を切らしながら、ゴブリンの手を引っ張った。ゴブリンは振り向き、ナノの様子と辺り一帯を見て、「一休みしようか」と告げた。
高原の中故、身を隠す場所もないが辺りに人間の気配はない。随分と走ったはずだから、そうすぐに先程の連中がついてくることはないだろう、とナノはようやくほっと一息吐いた。
落ち着いたところで、ナノは自分をここまで逃がしてくれた人物を見やる。彼はやはり、ゴブリンだった。人間より短い手足、表皮の色も緑色で気味悪く、ごつごつがさがさとしている。見紛うことなきゴブリンだ。ただ、普通のゴブリンにしては先程の光の魔法は強力だったように感じる。
「貴方は一体……」
「僕はカル。ちょうど人間から逃げていたところなんだ」
人間から逃げるためだけに魔法を使うため、先の目眩ましの術を開発してからは、魔力が有り余っているらしい。
「確かにさっきの光の魔法はすごかったわ。よく思いついたわね」
それにしたって、光の魔法が使えるゴブリンとは珍しい、と思ったが、ナノは黙っていた。
光の魔法は人間の間では神様の魔法だと謳われているから。もしかしたら、あの魔法が使えるというだけで追われているかもしれない。
しかも、光の魔法を使える者はゴブリンの間でも滅多に聞かないほどだ。魔法についての知識はあるゴブリンだが、何故習得できないかまではわからない。その仕組みはそれこそ神のみぞ知るところなのだろう。
ゴブリンも人間になるはずだった者。人間と同じように感情を持ち合わせている。例えば、恨めしいとか、妬ましいとか。……このゴブリンはゴブリンからも追われているのかもしれない。
訳ありな中、何故自分を助けてくれたのだろう、とナノが不思議に思って彼を見つめていると、気づいたカルがほんわりと──人間には不気味に見えるかもしれないが、口角を上げて笑った。
「君は、ただ逃げているだけだったみたいだから」
どうやら、予想の通り、彼は他のゴブリンにも苦労をかけられているらしい。言葉の裏に含まれた意味を咀嚼し、ナノは表情を曇らせた。
それを見たカルが困ったように人間で言う眉の辺りをひそめる。
「そんな顔をしないでおくれよ。僕は大丈夫だから」
「でも……」
「僕はね、人間とゆくゆくは仲良くなりたいんだ。だから、人間に危害を与えないゴブリンには手を差し伸べているんだよ」
カルの言うそれは理想論だった。本来ゴブリンは人間になるはずだったのだから、人間と手を取り合うのが理想のはずだ。けれど、人間の差別により心に傷を負った多くのゴブリンたちは人間に怒りや憎しみを抱き、戦乱を起こしてしまった。
その戦乱がいつ終わるかは知れない。けれど、ごくわずかでも、人間に歩み寄ろうとするゴブリンが必要だとナノはかねてより考えていた。
世界中を駆け回って探したが、ゴブリンのほとんどはもう人間への憎しみに囚われて聞く耳を持たなかった。希望はないとナノは諦めかけていた。
そこに現れた、カルという存在。閉ざされた闇の中に射す一筋の光のようにナノには思えた。
「貴方のようなゴブリンを探していました。いつか、平穏が訪れたとき、共に人間を尋ねましょう?」
「もしかして、君も人間と手を取り合いたいのか?」
「ええ」
頷くと、カルは嬉しそうに笑った。
ナノに手を差し出して言う。
「いつか、この戦乱が止むまで、一緒に逃げ続けよう」
「ええ」
ナノは迷いなく、カルの手を取った。固い握手が二人の間に交わされた。
かくして、二人での逃避行が始まったのである。