1.8
人間から手を取り合って必死に逃げる二人のゴブリン。進化も何もしていないゴブリンが逃げ惑っていた。そこに人間への害意はない。あるのは生きたいという思いだけ。
その純朴な思いを、神様は聞き届けることにした。
この二人には、争いのない、平和な世界を。
神様はそう願って、二人のゴブリンの行く先に人間の気が向かないようにと世界を動かした。
けれど、何もかもが思い通りに行くことはない。何かしらの代償はつきもの。そしてこの神様は得てしてその代償というものから逃れられない運命にあるようだった。
何が起きたかというと、人間とゴブリンの戦争である。二人のゴブリンを逃がすことに意識を集中したあまり、人間とゴブリン自体の争いの種を見逃すこととなってしまったのだ。
けれど、神様に選ばれた二人のゴブリンはその争いから遠いところで長閑に過ごすことができた。これは紛うことなき神様の功績である。
奇しくも、二人のゴブリンが逃げ延びた場所は原初のゴブリン──二人の片割れで女の子であるナノが産み落とされた湖だった。
森の中の湖は静かで平穏だ。だが時折、森の外から喧騒が聞こえる。人間とゴブリンが争っている声だ。
「神の御名を唱える不埒者めが! 生かしてはおけぬ!」
「自らの一方的な思想で我らを差別する貴様らの方がよほどだわ。ここで蹴散らしてくれよう」
森は神様の庇護にあるため、戦場になることはなかったが、そんな争う声がちらほらと聞こえて、原初のゴブリンであるナノは不安を募らせる。
「どちらも同じ神様の御手によって産み出されたものであるのに……」
そう、原初のゴブリンであるからこそ、彼女は誰よりも深く知っていた。神様の過ちと言えようことを。けれど、ナノには神様を責める気など一切起きない。産み出してくれたことに感謝さえしている。
それは、ナノが出来上がる直前の人間だったからだろう。ナノはあと少しだけ形を整えれば、美しい人間として生まれるはずだったのである。その澄んだ青い瞳が何よりの証明だろう。醜いとされるゴブリンの中で、原初のゴブリンである彼女だけが、その美しい瞳を保っていた。
彼女は完成の間際に、神様の傍らにあったのだ。神様がうたた寝をする傍ら、少しでも神様の理想に近づけるようにと、彼女は人間というものについて勉強していた。
人間は人間から生まれる。その将来の形は神様が定めたもの、つまりは粘土のように捏ねて成形した形がその人間の大人になった姿となる。人間が子どもを宿すのは、神様がその人間の将来の形を完成させたそのときだ。
けれど、この神様は少々おっちょこちょいだった。作りかけの人間を落としてしまったことからも察せられるだろう。
人間は女性がその腹に子どもを宿すことで生まれる。だが、子どもの全てが無事世界に生を受けるわけではない。
人間は流れる、という言葉を使うそれは、神様のおっちょこちょいで起こることだった。
そう、神様は時々、完成した人形を様々な形で壊してしまうのだ。
時折紛れで欠陥児として生を受ける者もあるが、大半は見る影もなく壊れるため、流れてしまう。
女性として生を受ける予定だったナノはその悲しみと苦しみを受ける覚悟を決めていた。
子どもが流れてしまった女性の中には嘆き悲しみ、発狂する者もあれば、死を選ぶ者もあり、果てには神を呪う者さえある。
それらを勉強したナノは、譬、生まれたときに記憶がまっさらになるとしても、覚悟だけは携えておこうと考えたのだ。
神様は自分に生を与えてくれた恩人なのだから、その行いに報いる生き方をしよう、と。
譬、どんな苦難が待ち構えようと、神を呪ったり、神からもらった命を粗末にするような行いをしたりしないと固く誓っていたのだ。
神様が完全でないことも、ナノのこの思考に影響を与えたのだろう。神様に作られた人間もまた、不完全な生き物で、不完全な者同士、親近感が湧いていたのかもしれない。
それにナノは、神様が長年かけ、丹精込めて作った逸作となる予定だったのだ。神様と共にいる時間は長かった。
故に、神様への思い入れは深いのだろう。
完成間際、うたた寝をしていた神様に払い落とされたときは、一瞬だが、絶望した。自分は流されてしまうのか、と思った。
しかし、何という偶然か、ナノは形を崩すことなく、世界に降り立った。降り立った、というには些か地面に叩きつけられた衝撃は強かったが。
けれどナノはこの森を歩いて、人間と出会って、当初の予定とは違うにしろ、世界に生を受けられたことに感謝した。
流される命もある中で、生を受けられたのだ。──歪な形ではあったが。
人間に差別され、惑い逃げることとなった今も、神への感謝は尽きない。数奇ではあるが、神様が示した新たなる運命の可能性の礎となったのだ。自分が。
ナノはそれを誇りに思っている。
だが、ゴブリンとして生を受けることとなった全員が全員、ナノのように清らかな思想を持っているわけではない。人間に差別されたことにより、心を痛めたもの、その痛みが怒りや憎しみに転化したものの方が遥かに多かった。
ゴブリンという異形の存在を受け入れるには、人間は不完全だった。未熟な心、ゴブリンとは噛み合わない知識。それがゴブリンと人間との間に生まれた大きな溝となる。
また、人間に追い詰められたゴブリンに神様が進化という啓示を与えてしまったことも、溝を深める一助となった。
進化により力を得たゴブリンは人間の脅威として認識されるようになってしまったのだ。それが現在人間の掲げる「ゴブリン殲滅」という旗印になっている。
湖の畔。時折聞こえる人間とゴブリンが憎しみ合う声に、ナノは怯えと悲しみを表す。
「本当なら、家族として手を取り合って生きていたかもしれない者同士なのに、どうして争ってしまうの? 戦ってしまうの?」
ナノは静かにその綺麗な青い瞳から涙をこぼした。その雫はナノと似た色を映す湖面をほろりと揺らした。
共に逃げてきた男のゴブリン──カルは告げる。
「戦いは避けられないことだよ。人間の中には排他的思想があるのだから、醜く、とても人間には見えない僕たちを差別してしまうのは当たり前なんだ」
悲しいことに、人間は人間同士でさえ、憎しみ合い、争い合うことがある。
その心理がゴブリンにも当てはまってしまったのだ。
「今は静かに、争いが終わるのを待とう」
「そうね」
まだ悲しみに彩られてはいたが、ナノは懸命に笑った。
ナノもカルもまだ、人間とゴブリンはわかり合えると信じていたのだ。