9.6
ゴブリンは元々、人間として生まれるはずだったものだ。故に、その性質は人間に近い。
容姿は不完全なまま落ちたため、変化することはないが、例えば、老衰する。人間と争って生き延びたゴブリンなどいないため、人間がそれを知ることはなかったが。
この世に生まれ落ちてから、何年が経っただろう、とナノは故郷とも言える空を見上げた。空の向こうには、まさしく生みの親である神様が今も新しい生命の製作に励んでいることだろう。最近は誤ってゴブリンを生み出したりなんかしていないだろうか、なんて考えた。
ゴブリンであるナノは人間の使う暦を知らない。ざっくり、日が昇って沈むまでが一日で、それが三十ほど繰り返されたら一月かな、と考えている。
緑の棺は花で満たされていた。花の本数だけ、カルが亡くなってから日が経った。数えることは久しくしていない。千を三回ほど数えた辺りで頭の中がこんがらがって、数えるのをやめたのだ。一年は三百といくばくか、と数えていたため、十年は経過していることはわかる。
年を経るごとに、ナノも花を育むために培った魔法の熟練度が上がり、花以外のことにも応用できるようになっていた。
例えば風魔法。人間の間には「風の噂」という言葉がある。光の結界によって外界と隔絶されたこの森では、その風の噂で外の様子を知るようにしていた。ナノの魔法には悪意など微塵もないため、風魔法は自由に森の内外を行き来し、ナノに外の情報をくれた。
ここ数年、ゴブリンの殲滅が完全完了してから、人間同士の争いも徐々に収まっていき、世界は平和へと歩み始めている。どうやら、光魔法使いの少年は宣言通り浄化の魔法を使い、人々の心を穏やかな優しいものへと導いているようだ。時間はかかっているものの、良い傾向だと思う。
戦争がなくなれば、神様が心を痛めることも少なくなるだろう。そのことにナノは安堵していた。
それに、少年の浄化の魔法が効いているのなら、もう自分に仇成す者も現れないだろう、と考えた。順風満帆に事が進んでいると考えていいだろう。──今日も平和な風の噂を聞いて、ナノはほっと息を吐く。
風の噂を確認して、ナノの一日は始まる。気合いを入れるように、いつからか、膝小僧をぱしっと叩いて立ち上がるようになった。自分の足に喝を入れるように。いつからか、そうしないと立てないようになっていた。──老衰の兆候である。
人間は膝などの関節部に軟骨を持っている。その軟骨が膝などを曲げる際にかかる負担を軽減しているわけだが、軟骨は時を経るごとにすり減っていく。それがやがて小さくなることで骨同士が触れ合い、軟骨の代わりに骨を削っていくことにより、関節部の稼働が難しくなっていくのだ。人間でも一般的な老衰の表れである。
人間はそれを防ぐために様々なものを食べ、予防策を取っているわけだが、人間世界から離れて暮らすナノは、ゴブリンという不完全性から、作物を摂取して体の老衰を補うということをしなかったため、普通に老衰をしていくことになった。つまり、足腰が弱くなっていったのだ。
それでも、痛みに悲鳴一つ上げることなく、ナノは日課の花摘みを続けた。足は痛い。けれど、カルのためを想えば、どうということはなかった。
けれどナノは同時、ゴブリンである自分も人間と同様、いつか死に至ることを察していた。そのときがいつ来るかはわからない。けれど、歩けなくなるまで、花畑から棺への行き来をやめるつもりはなかった。それは誓いであったからだ。カルに助けられてばかりで、結局何の恩も返せなかった。その恩返しのつもりで、ナノはカルの棺に花を供えていた。最後まで添い遂げる。それがナノにできるカルへのせめてもの恩返しだ。
ヒマワリを供えたその日、ナノは久しぶりに棺の中のカルに語りかけた。
「カル、久しぶりね。ここにヒマワリを添えるのは」
ヒマワリは何かと時期を逃し、ここ数年供えられずにいた。確か、ヒマワリはカルの好きだった花だ。どこであっても太陽を見つめ続けるそのひたむきさが好きなのだ、と彼は生前言っていた。その姿から「貴方だけを見つめる」という言葉がついていた気がする。もし、カルが生きていたのなら、ナノが最も届けたい言葉だ。
ナノは十数年経っても、カルだけを想い続けていたから。その人の命の灯火がもう吹き消されていようとも。
「ねぇ、カル」
誰もいない森で、ナノは空想の中でカルに語りかける。
「この森にもね、この棺と似たような、再生の能力があるの。木の枝を折っても見る間に元通りになるし、昔、人間が放った火で燃えたはずの木も、何事もなかったかのように存在しているわ」
最初は、ただの再生だと思った。光魔法は浄化の他に回復をもたらす。回復とはすなわち再生だ。
森が生きて回復しているのだと最初は思っていた。だが、回復が自然治癒より遥かに速い。そう、永遠の魔法にかかったように。
「私は、思うの。今、命が栄えているように見えるこの森も、本当はあのときに死んでいたんじゃないかって」
あのとき──それは、十数年前、人間がこの森に火を放ち、ナノとカルを追い詰め、カルの命を奪ったあの日。
あれから見に行ってみたが、焼けた跡はどこにも残っていなかった。ただ、焼けたのであろう部位は、光に包まれていた。
モクレンの枝を手折ったときもそうだが、もしかして、それは手折った花だけではなく、残された茎や枝、木をもの命を絶つ行為だったのだとしたら。
それだと、森そのものに再生能力がついていることと辻褄が合うのではないか?
「この森は、既に死んでいる。死んで永遠を手に入れている。もし、そうだとしたら……」
俯き加減のナノの元を一陣の風が吹き去る。ナノの少ない髪を微かに揺らした。
ナノは物憂げな空色の瞳を上げる。
一度深く息を吸い込み、それから吐き出すように言い放つ。
「この森で生きているのは、私一人だけ、ということなのでしょうか……」
十数年を過ぎて、辿り着いた答え。それは一言で言い表すならば「孤独」だった。
ナノは悲しげに目を細め、少し涙に潤んだ声で告げる。
「贅沢な悩みですよね。最初に望んでいた平穏を手に入れられたというのに、私は……」
ひとりが、さびしいなんて。
滲んだ声は誰に届くこともない。ただ水面に緩やかな波紋を作るだけ。
ナノは今一度空を見上げた。暗い色の雲が覆い、ぽつりと雨滴がナノの頬を伝った。