7.2
ナノは少年と一緒にしばし箱の前で呆然としていた。超常的な現象に頭がついていかなかったのだ。
「これは一体……」
ナノが箱を撫でる。その蓋を軽く持ち上げると、その中には安らかな眠りに就いたようなカルの姿がある。白い清潔感のある中に、緑色の見てくれの悪いゴブリン。だが、永き眠りに就いたその面差しは穏やかでナノは泣きそうになる。
少年はそれを見ながら考える。
「……神様からの、祝福、でしょうか」
「神様から……?」
少年の言葉にナノは顔を上げる。神様からの祝福だとしたら、何故今なのだろうか。
「今更祝福なんて……!」
ナノは天を仰ぎ、嘆く。その声を神様は聞いているのだろうか。
代わりのように少年が告げる。
「今まで、人間に見つからなかったことすら奇跡のようなものですよ」
「……え?」
少年はナノに語って聞かせた。この森の外がいかにゴブリン排斥主義となり、どれだけのゴブリンが犠牲となったかを。
ここの他の森には既に火が放たれていて、住処を失ったゴブリンたちは復讐に打って出るも、返り討ちに遭って悉く殲滅されたという。
この森は最後だった。カルとナノのいるこの森が最後だったことが、果たしてただの偶然と言えるだろうか。
「森という森を焼き尽くした人間がここを選ばなかったのは、ただただカルさんや貴女の運がよかった、だけではないと思います。カルさんは光魔法の結界を使っていたようですが、それは森にではなく、もっと向こうの方でしょう?」
少年の問いかけにナノは頷く。確かに、カルは光魔法の結界を向こうの花畑に展開していた。森にまで拡張できないか相談したのだが、カルの魔法にも限界があり、あの花畑を守るのが精一杯だった。
カルの結界が消えた気配はない。死んでも魔法が残るという現象は少なからず確認されている。特に強い想念によって成された魔法ならば。それを人間は時に呪いと呼ぶが……カルの結界にはそんな禍々しい呼び名は似合わないだろう。カルの意志は「守りたい」というところにあるのだから。
「僕の結界にも当然、限界があります。ただ、先天的に完璧に近い人間とそこから遠いゴブリンとでは魔法を使うための魔力の量には雲泥の差があります。よって、作れる結界の大きさにも大きな違いが出るはずなんです。これは感覚でしか言えないんですが……カルさんは本来、同じ光魔法でも僕の半分ほどの大きさの結界しか張れないはずなんです。それがあちらの結界は……僕の普段張る結界と相違ない。カルさんが神様の特別製だから、と言われてしまうとそれまでですが、貴女から聞いたカルさんの様子からすると、カルさんの能力は普通のゴブリンとあまり変わりないと見て間違いないと思います」
となると、何故ゴブリンであるカルが、人間と同じくらいの結界を張ることができたのかという疑問にぶち当たる。
「……それが、神様の祝福と?」
ナノはそう問いかけた。今の流れからすると、少年はカルが人間と同等の能力を得られたのは神様からの祝福のおかげということになる。
「でも、私とカルは時々結界の張られていない場所に来ていたわ。そのときは何故見つからなかったのかしら?」
「それが貴女に与えられた祝福なのではないですか?」
ナノがその空色を見開く。ぎょろりと落ちそうなくらいに見開かれたそれは、やはり美しかった。
「森に出てきても、今まで偶然、人間に遭遇せずに済んだ。今まで偶然、人間にこの森を目につけられなかった。……偶然、矢に当たらなかった」
最後の一言に、ひう、とナノは息を呑む。仕方ないだろう。自分が偶然矢に当たらなかった故に、カルが矢を受けて死んだとも取れるのだから。
それに、まだ偶然はある。例えば、神様からの祝福を得ても、人間の心を浄化できなかったカルが、偶然、最後の魔法でだけ、浄化を成功させたこと。
「そして今、成された、僕の実力以上の結界に超常現象。これも偶然……にしてはできすぎていると思いませんか?」
偶然は重なりすぎると必然になる。人間の誰かが言った言葉を原初のゴブリンであるナノも知っていた。確かに、少年の言わんとする通り、ナノの周りでは偶然が重なりすぎていた。
これはもう、偶然ではない。だとすれば必然。だが、偶然を重ねるというのは意図してできることではない。
「人間は良い偶然が重なりすぎることをこうも言います。『神の思し召し』と」
故に、少年は神様からの祝福と考えたわけだ。
「貴女が与えられた祝福はおそらく『幸運』とか『強運』とかいった類のものなのではないでしょうか」
「強運……」
言われてみると、そんな気もする。ここに逃げ延びるまで無事でいられたのも、カルと強運があったからかもしれない。
「でも、強運が他人に作用するの?」
「貴女に拘わることだから、作用したんじゃないですか?」
「私に拘わること?」
ナノが首を傾げると、少年は問い返す。
「貴女はこれから、どうするんですか?」
……そうだ。
カルの死や少年の存在に気を取られて忘れていたが、ナノはこれから一人、身の振り方を決めなくてはいけないのだ。少年が人間の全てを浄化し、ゴブリン排斥思想をなくすまで、ナノは外に出ることはできない。
けれど、一人で森で生きて、一体何になるというのだろう。光魔法の結界を張ってもらったから安全とはいえ、死滅しているかもしれないゴブリンという種として、生き残る意味はあるのだろうか。自己繁殖もできないというのに。
生き延びる意味なんて、あるのだろうか。──カルがいないのに。
ナノはカルの入った緑色の箱を見、涙を浮かべた。自分に生きる意味や価値はあるのかと問う。カルはきっと、ナノに生きてほしいと、生きていたなら微笑んだことだろう。だが、そのカルは死んでしまった。ナノは一人で生きることに希望を見出だせなかった。
「わた、しは……」
答えは出ない。静かにがさがさの肌を涙が零れ落ちた。
少年は緑色の箱に軽く手を当てたり、中をもう一度改めたりしている。中にはカルが入っているだけ。
少年がふとこぼした。
「棺みたいですね」
棺。人間が死んだ人間を入れて弔う箱のことを指すらしいことは、ナノも知っていた。
人間は神様への敬意を表し、何かしら棺に装飾をしたり、しなかったりするらしいが、確かに死んだ者を納めているという点において、この箱は棺のようだった。
「これが神様がカルさんに与えた最後の祝福なのかもしれません。……貴女は、どうするんですか?」
「どうって……」
カルは死んでしまった。その事実はもう覆しようがない。棺が何よりそれを物語っている。
だが、少年は首を横に振った。
「人間の世界の文化ではですね、死者も丁重に扱うのですよ。そのために棺に納めたり、墓を立てたりするのです。そして、棺を花で飾り、墓には花を手向けたりして、死者を忘れないようにするのです」
「花を……死者を忘れない、ために……」
ナノは涙を流したまま、繰り返した。少年の口にした言葉が、徐々にナノの中で形を成していく。
まだ、自分にはできることがある。
そう気づいたナノは涙を払った。それから、決然とした目で告げる。
「私は、カルのためにこれから毎日花を手向けるわ」